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2019年03月03日|お知らせ


2006年07月12日(水) 

長野県知事選挙。

午前5時起床。浅草はくもり。

昨日、「テポドンですか?」に、らいちゃんさんからコメントを頂いて、長野県知事選挙は間もなくなのだ、と改めて気づかされた。それ位、長野県の動向は東京では話題にもなっていない。勿論、「桃組」には長野県の方もおり、情勢は聞かされていたが、その詳細を知ることはなかったわけだ。今朝は早起きして、長野県知事選挙情報に目を通していた。

田中康夫はトリックスターである

信濃毎日新聞社が行った世論調査では、いつの間にか、田中知事の支持率がかなり回復していた――私は昨年、田中知事の低い支持率をみて、次の選挙に彼は出馬しないだろう、と考えていた――。

田中康夫氏は、民主主義の隙をつくポピュリストでしかない、と云うのが私の田中知事評である。それ以上でもそれ以下でもなく、政治家としての彼を語るのは、この言葉だけで十分であって、つまり彼はこれで自滅するだろう、と考えていた。しかし、なにが彼の支持率を上げたのだろうか。らいちゃんさんの云うように、『守旧派にみたてて正義と悪手法で…』が機能しはじめたのだろうか――であれば、対立候補を擁立した段階で、反田中陣営は失敗してしまっているのかもしれない――。

私はかつて、「ミーム・コントローラー」と田中知事を呼んでいたが、彼が、日本人的な象徴界の空洞を、マーケティングのように、うまく取り込むことに長けた人物であることは間違いないだろう。

ポピュリズムとは、「普通の人々」と「エリート」、「善玉」と「悪玉」、「味方」と「敵」の二元論を前提として、リーダーが「普通の人々」の一員であることを強調すると同時に、「普通の人々」の側に立って彼らをリードし「敵」に向かって戦いを挑む「ヒーロー」の役割を演じてみせる、「劇場型」政治スタイルである。(国末憲人:『ポピュリズムに蝕まれるフランス』:p14)

つまり民主主義は、ハイパーインダストリアル時代において――「民衆なき民主主義」と「民主主義なき民衆」の乖離を生み出すことで――、「ヒーロー」を待望するような装置と化する。

それを精神分析用語で「転移」と呼んでもよいかとも思うが、田中知事は、その方法に忠実に、『守旧派にみたてて正義と悪手法で…』を単純なキアスムとして使ってくるだろう。それに対して、対立候補は、この短い選挙期間に、何をトリックスターに持ち込めるのだろうか。

06061301.jpg

ポピュリズム

長野県の知事を選ぶのは、長野県民でしかないのは当然だが、長野県民が「民衆なき民主主義」――簡単に云ってしまえば、民主主義に忠実な行政が、民主主義に忠実であるが故に、民衆を見失い、民主主義を形骸化してしまう――のような今の県政では、「私」の生活は少しもよくならない、として、その原因を過去五年の田中県政に捉えるのか、それとも守旧派――これも今やつくられたイメージでしかないだろうが――こそが「民衆なき民主主義」の元凶なのであり、田中県政はそれを是正している途上なのだ、と考えるか、で結果は全く違ってくる――つまり今回の選挙は、長野県と云う行政のシステムへの評価でもある――。

その判断基準を、田中氏も対立候補も提示してくる――それが「象徴」なのである――。それを判断するのが選挙だ、と云うことができるだろうが、長野県民――に限らず――が、「民主主義なき民衆」――つまり「象徴の貧困」であり、民主主義に絶望した人々であり、考えない人々である――ならば、この戦況はポピュリストの狙い通りとしかならないだろう。 選挙はマーケティング化され、小さな自己意識の周辺に集まってくる前対象の奪い合いになる。つまり問題は県民の「意識」と「判断」なのだ、と私は思う。

長野県民は、ポピュリズムに踊らされることなく、冷静に考え投票していただきい、としか私は云えない。しかしそのような判断ができる社会カテゴリは、よほど想定‐外のことでも起きない限り、おそらくは絶滅の一途をたどっているのかもしれない(スティグレールの言葉を借用)、と云う危惧を、私は隠しきれないでいるのも確かだ。 (編集中)

060807追記: 「田中康夫氏の落選」

参考

06071200.jpgポピュリズムに蝕まれるフランス

国末憲人(著)

2005年11月4日
草思社




投稿者 momo : 2006年07月12日 08:29 : Newer : Older

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