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2019年03月03日|お知らせ


2006年11月14日(火) 

岩見沢まで「空虚な中心」@ロラン・バルトを考えてきた。

午前4時45分起床。浅草は晴れ。岩見沢着午前11時。岩見沢はくもり。

  • 浅草 6:26 都営浅草線エアポート快特 泉岳寺 6:42
  • 泉岳寺 6:43 京急本線・空港線エアポート快特 羽田空港(京急) 7:01
  • 羽田空港(京急) 7:01 徒歩 羽田空港第2ビル 7:06

今日はこの予定通りの移動であって、浅草に住んではじめて京急を使って羽田空港まで移動してみた。それはたいして意味はなくて、風景をかえてみたかっただけであり、海馬に少しは刺激を与えようとしたわけだ。おかげさまで、晴れ渡った関東平野、品川のあたりからは、白く化粧した富士山をみることができた。

搭乗するANA53便は8時丁度の出発なので、ANAのsignetで煙草を呑みながら、珈琲と、トマトジュースと人参ジュースをハイブリッドさせたものを呑みながら、時間調整をした。

ANA53便は追い風をうけて順調にフライト。この記述の殆どは機内で書いたものであって、つまり暇だったのである。暇だとはいっても、本当は暇ではなく、これからはじまる「空知建協:地域再生セミナー」での山岸俊男先生との対談内容は定まらず、20分の基調講演についても、どうも不安がある。

そんな不安は、不安として書いてしまえばよい、というのが私のやり方で、機内でそれを(意図的に)発露させていたわけだ。以下はその発露である。

空虚な中心

今回持参した本は、ロラン・バルトの『表徴の帝国』一冊であって、じつはこれが今回の講演の要である。それは「中心-都市 空虚の中心」であり、つまり

四角形の、網状の都市(たとえばロスアンジェルス)は、深い不快感を生むといわれている。こういう都市は、わたしたちのなかにある都市についての一つの曼荼羅感覚(セネステジア)、つまりそこへ行き、そこから帰ってくる一つの中心、そこを夢み、そこへおもむきそこから取ってかえす、一口にそこでおのれを発見する一つの完全な場所をいっさいの都市空間が内部にもっているとする感情、これを傷つけるのである。(ロラン・バルト:『表徴の帝国』:p52)

であり、「ロスアンジェルス」を「札幌」や「岩見沢」と置き換え、しかし

わたしの語ろうとしている都市(東京)は、次のような貴重な逆説、《いかにもこの都市は中心をもっている。だが、その中心は空虚である》という逆説を示してくれる。…しかしその中心そのものは、なんらかの力を放射するためにそこにあるのではなく、都市いっさいの動きに空虚な中心点を与えて、動きの循環に永久の迂回を強制するために、そこにあるのである。このようにして、空虚な主体にそって、[非現実的で]創造的な世界が迂回してはまた方向を変えながら、循環しつつ広がっているのである。(ロラン・バルト:『表徴の帝国』:p54)

の、「東京」を「浅草」に換え、「中心」を皇居ではなく「浅草寺」に換えて、バルトのいう空虚な中心を持つ街として、私のパトリである浅草について語ろうとしている――ご存知のように、これは「浅草寺の子宮的構造」という得意根多だ。

しかしこの根多で、山岸俊男先生と接点をもとうとするなら、浅草は人情が残っている街だといわれてはいるが、じつは利己的な街なのである。利己的であるが故に、自己複製子(遺伝子・ミーム)的に利他的なのである、というところにオチを求めなくてはならないだろう。その流れがいまいち不安なのである。

表徴の帝国

表徴の帝国

ロラン・バルト(著)
宗 左近(訳)
1996年11月7日
筑摩書房
1000円+税

投稿者 momo : 2006年11月14日 11:25 : Newer : Older

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