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2007年01月12日(金) 

「バラバラ」ということ。

午前8時45分起床。浅草はくもり。

大衆が自ら行動する時は、彼らはただ一つの方法によって行動するのみである。それは私刑(リンチ)であり、彼らはそれ以外の方法をもっていない。……また大衆が勝利を収めている今日、暴力もまたその勝利をほしいままにし、暴力が唯一の手段、唯一の教義となっていることはなおさら驚くにはあたらないのである。(オルテガ・イ・ガセット:『大衆の反逆』:p165)

大衆の反逆

大衆の反逆

オルテガ・イ・ガセット(著)
神吉敬三(訳)
1995年6月7日
筑摩書房
924円(税込)

この引用を、最近のバラバラと名のつく事件に当てはめることは間違っている。

オルテガのいっていることは、社会システムのことであり、対個人的な心的システムにあてはめて考えるべきものではないだろう。

しかし、それが心的システムにあてはまってしまうことこそが問題なのだと思う。

これらの事件の当事者には、問題解決手段として法律や社会的規範は機能していない。

かといって当事者が野蛮人であるわけはない――日本という近代化された?社会で育った、どちらかといえば現代社会の「勝ち組」の方々であり、それなりの社会性はもっておられたであろう。

ただ、家族という、今という時代の最後の中景――個人の自明性を支える空間(最小単位のパトリ)は機能していないように思える。

ゆえに彼らは、オルテガのいう大衆として、ただ一つの方法によって行動する――つまり私刑(リンチ)である。

ではなぜそうのだろうか。

たぶん、家族を取り込む、中景(パトリ)が機能していないから、と書くことはできる。

虐待、あるいは夫婦間暴力を含む家庭内暴力の最大の特徴は、「他者の目の前では起こらない」ことだ。
(斉藤環:『家族の痕跡』:p171)

つまり〈他者〉の不在をいうことはできる。

人を殺してはならないという価値規範は〈他者〉=社会性にある。

「なぜ人を殺してはならないのか」

「ならぬものはならぬ」のである。

この「ならぬものはならぬ」を自明性という。

しかしなぜそれが家族において機能しなかったのだろうか。

社会的な価値規範はエディプス期以降に「教育」によって形成される。しかしそれ以前の問題としての、さまざまな自明性、すなわち「就労の義務」をはじめとする義務感、「盗み」「殺し」などの悪といった領域については、プレ・エディパルな二者関係において形成されるのではないだろうか。(斉藤環:『家族の痕跡』:p173)

個人の自明性を支える空間(最小単位のパトリ)としての家族は機能していないのだろうか。

たぶん機能していない――しかし家族はある。

私は家族があるからこそ、(自明性が)機能しなかったのだと考えている――「人を殺してはならない」という自明性を機能させなかったのも、また家族なのだと思う。

だとすれば、 バラバラと名のつく事件(に限らず、家族殺し)は、再生産されるだけだろう。

かといって家族は簡単に解体できるシステムではない。

だとすれば、今回のような非常事態に逃げ込める、家族以外のアジール――避難場所は必要なのではないだろうか――私が子供のころ、酒乱だった爺さんが暴れると、婆さんは近所の何処かへ非難していた。(笑)

それが中景(ご近所)であって悪いことはないだろう。

それはリアルな、もっとも身近な〈他者〉としてだが……それは絶滅危惧種であることもたしかで……。

バラバラと名のつく事件(に限らず、家族殺し)は、再生産されるだけなのだろうか。

そしてバラバラということ……。

わからない。

家族の痕跡―いちばん最後に残るもの

斉藤環(著)
2006年1月10日
筑摩書房

Tags: 家族 , 斎藤環

投稿者 momo : 2007年01月12日 11:55 : Newer : Older

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