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2007年02月10日(土) 

どうしたら賃金は上がるのだろうか。

午前7時30分起床。浅草はくもり。

昨日書いた「個人消費が伸びないこと。」に対して、ひできさんからトラックバックをいただいていた。

ありがとうございます。

HPO:機密日誌|先日電車に乗っていたときの会話

「これからきっと賃金があがりますよ。私も小さな会社の社長なのですが、たぶんもうこの春から賃金をあげないと人がついてこないでしょう。」

確かにひできさんの言うことは一理ある。ただ問題は、その上昇した賃金を価格転嫁できるのだろうか、ということだと(私は)思う。

とくに公共事業の場合に。

業界によっては派遣社員の正社員化は進んでいる。「NIKKEI NET|パートの数、5年ぶり低水準・06年1205万人、2年ぶりマイナス

それは特に、対人関係の仕事(スーパー、アパレル、保険)で顕著であることを何処かで目にしたが忘れてしまった。m(__)m

ユーザーとの接続がアナログな業界においては、顧客の存在(収穫逓増モデルでいうシェアの確保・拡大)を優先するのであれば、顧客と接するという最も重要な職種に(一般的には)会社(仕事)に対する忠誠心の少ない(と思われる)非正規社員を置くことは、対顧客サービスの低下を招き、長い目でみれば、顧客の減少につながる可能性が高い。

たぶんそのことは、多くの企業もわかってはいたはずだが、背に腹は変えられない状況から、非正規社員を多用する戦略をとらざるを得なかったのだろうと思う――リストラ戦略。

しかしここにきて、それが改善の方向に向かっているのなら、それはよいことだと(私は)思う。

しかし「Biz-Plus|求人動向も景気「踊り場」シグナルを発信(上野泰也)」がいうように、求人動向は、景気が後退とまでは言わずとも、少なくとも「踊り場」局面にさしかかっているというシグナルを発信しているのではないだろうか。

特に中小企業の場合、その感は強い。

これに対して、中小企業の景況感を示す景況判断指数は、12月に49.1となり、「好転」「悪化」の分岐点である50を下回った(図表2参照)。景況判断指数は05年9月に14カ月ぶりに50台に回復したが、06年7月以降は50をはさんだ一進一退が続いている。売上高が堅調に増加し、雇用・設備の不足感が強いにもかかわらず、中小企業の景況感は一向に改善が進んでいない。「Biz-Plus|価格転嫁難しく、中小景況感は足踏み(商工中金調査部):下の図も」

図表2.景況判断指数の推移

その要因の分析等は、上記の引用したサイトを読んでいただければと思うが、短期的には(中小企業においては現在)、人件費のコストアップを価格に転嫁することが難しいということに尽きてしまうだろう。

労務費(給料)を含めた原材料費は、大企業のそれに引きずられるように上昇している。しかしグローバル化によるフラット化は、中小がそれを売価に転嫁するのが難し状況をつくりだしている。

「これからきっと賃金があがりますよ。私も小さな会社の社長なのですが、たぶんもうこの春から賃金をあげないと人がついてこないでしょう。」

確かにそうしないと優秀な人材は集まらないのだろうが、問題はそれを価格に転嫁できるかということなのだと思う。

特に建設業界の場合、「ゼネコン自滅―泥沼化するダンピング合戦」のように、大手さえも売価を下げてきているわけで――公共事業でさえ、予定価格を下回るようなダンピングが行われている。

それが正常価格ならば問題はないが、決してそんなことはなく、例えば役所の積算単価が、作業員1日8000円程度であるならば、この作業員の月収は20万円程度になってしまうだろう。 

つまり、ここは単純に考えてよいわけで、従業員の正規雇用と賃金アップのためには、その原資が必要でなのであり、それは端的に言えば適正な「売価」である――なにが適正なのかという議論は置いておく。とりあえずは従業員が食えて消費に貢献できるぐらいということで理解しておこう。

公取委も、低価格入札でゼネコン大手など数十社調査したことは先に書いたが、多くの地方の公共事業事業では、これから低価格入札が本格化するだろうと(私は)考えている――談合に過剰反応することで導入が進む一本競争入札がそれを加速してしまうことで、地方の疲弊はますます加速するように(私は)思う。

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投稿者 momo : 2007年02月10日 17:33 : Newer : Older

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コメント

ありがとうございます。

あのぉ、あんまりこれは書きたくないのですが、下の方から価格転嫁は進んでいます。また、建設会社は国際競争に晒されずらいかなりピュアに国内産業です。他の代替が非常に難しいです。

一番書きたくないのが、型枠大工の賃金なのですが、ま、一言で言ってばかみたいに上昇していて、バブル期なみになっています。コンパネなどの価格上昇では説明できないところまで来ています。

「バブル期は型枠大工の若いあんちゃんがポルシェで現場のりつけてましたからねぇ」

というのが、現実になりつつあります。真剣に土木の会社で食べていけないのなら、型枠大工に転業してはどうでしょうか?この前ちょっと型枠大工のコスト計算していて、建設会社やっているのがばからしくなって職を変えようかと真剣に思ったくらいです。

これ、ホント。

投稿者 ひでき : 2007年02月10日 20:21

>ひできさん

コメントありがとうございます。

型枠大工が高いというと、バブル期を思い出しますね。あの頃は5万円/1日なんていうことがありました。

それを引き上げたのは東京なのですが、地方では人手不足でたいへんでした。

それから造作大工が型枠に行ってしまって、造作大工もいなくてたいへんだったり……。

それと似たような状況を感じますね。
東京を中心とした都市部では、マンションbubbleみたいなものでしょうから。

この賃金上昇圧力は下方からと言うよりは上方からのものだと思います。上げているのは型枠大工ではないでしょう。

需要が供給を上回ってしまっているだけです。

現在、人件費を含めた原材料費は上昇を続けていています―グローバル化の影響も含めてなのですが、大手の製造業はそれを販売価格に転嫁できているようなのです。

しかし中小建設業―特に地方の公共事業だと、全くそれが反映できていないのはなぜだろうか、というのが私の疑問です。

反映されないばかりか、下降圧力が強いのであって、今現在でさえ、予定価格が実勢価格を反映していないのですが、これからナイーブな競争が激化することで、それが加速することを懸念しています。

みんな東京へ出て型枠屋になっても、工事はできないのですよ。土木の場合は特に。よい土工がいなくなってしまっています。

投稿者 momo : 2007年02月12日 13:43

ももちさん、

失礼なことを申し上げております。

本来のももちさんのご主張と相容れないのだと真剣に思います。やはり、これは経済学みたいな話になってしまうのだろうなと予感しておりました。

たまたま最近ブログ界隈で議論になっている山形さんの記事にこんなくだりがありました。


バブル期には、コンクリートの型枠職人がビジネスクラスの飛行機で日本各地の現場を行き来していたんだよ。

http://d.hatena.ne.jp/wlj-Friday/20070211/p1

お前は引用しかできないのか、と言われそうですが、更に極東ブログの議論のこの議論もももちさんの経済への考え方に近いものを感じました。


さらに言えば、生産性として議論されているネタは、実は高度資本主義社会においては、それが消費によって逆に規定されていることにも、現代の視点では気づくことができるだろう。生産性向上といった議論は現実には消費の関数に過ぎない。では、「消費とは、欲望とは何か」というとき、その消費される対象は物ではなく、使役快楽としてのサービスになっている。ネタとして言えば、おそらく経済学の根幹に誤りがあるのだろう。一個のリンゴの価値は、もやは、それを取るための労働に依存するのではなく、美少女が取りに行くか、オッサンが取りに行くか、機械で採集するか、の差異である。

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2007/02/post_6cbc.html

そして、今回の景気の議論で言えば、地方で消費が盛り上がらないというのは、地方に消費を盛り上げるモノ、商品が存在しないからではないでしょうか?土木でも、建設でも、地方で売れるものはあるのだと私は信じます。そして、それはきっと「そこに住みたい!」と思う人の気持ちに必ずかかわっているのだと思います。

投稿者 ひでき : 2007年02月13日 17:39

>ひできさん

コメントありがとうございます。

私は元々が限定経済学の出なので、経済の話は好きです。(笑)

ただ引用を待つまでもなく、限定経済学の限界を感じ、その欠点を指摘してきたつもりです。

つまり
>地方に消費を盛り上げるモノ、商品が存在しないからではないでしょうか?
に気が付かれればよいのだと思うのです。

それは(今や)地方には、限定経済学でいう商品が(あまり―ほとんど)存在していないということです。

それは開発主義がもたらした結果のようなものでもあるのですが(ここではそれには触れません)。

では、地方において、商品は如何に生まれ得るのか、ということを考えてきました。

私の主張(仮説)は、商品は、純粋贈与と贈与の交叉に生まれる純生産が経済(交換)と接続したときに、商品に転換する、というものです。

つまり、地方に限定経済学的なもの(交換)を押し付けるだけでは、そもそも商品の素である純生産は生まれ得ないのではないか、ということです。

それはパトリの護持の問題であると思うのですが、ではなぜそれは壊れてしまっているのか、ということでもあります。

投稿者 momo : 2007年02月13日 18:40

そうですね、すごく同意します。

たとえば、昨日小布施へ行ってきました。

栗かのことか、栗おこわとか、お酒とかいろいろ小売の商品はありましたが、間違いなくナンバーワンの商品は、小布施という街自体です。そして、それは、ごく少数のこころある方たちが、北斎館を開くとか、HOPE計画にまじめにとりくむとか、さまざまな試みによって形成されたのだと信じます。

あー、どっかで写真公開したいです。

投稿者 ひでき : 2007年02月13日 20:14

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