5月15日空知建設業協会IT講習会―プレゼンテーション研修会資料。

午前7時10分起床。札幌は晴れ。5月15日、空知建設業協会IT講習会―プレゼンテーション研修会の資料をアップロードした。(再生のみでダウンロードはできません)。

今回は、photocinemaで作成した2つのプレゼンテーションを例示している。テーマは、どちらも、「僕は三船のかしわ鍋が好きです。」である。(再生時には、音がでますのでご注意ください)。

機械的な創造性

例示した2つプレゼンテーションは、同じ画像データを使っている。違うのは音楽と編集モードだけであり、それを機械任せでつくったものだ。つまり、photocinema は創造性の機械化を具現化してしまっている――このようなプレゼンテーションなら、ものの1分もあればできてしまう。

ここでは、私の創造性など必要もなく、「Picasaのコラージュ――機械的なブリコラージュの時代の創造性について。」でも触れたように、必要なのはデータ――つまり、写真と音楽だけである。(しかしその音楽も私のものではない)。

これは、レヴィ=ストロースの言葉を借りるなら、機械的なブリコラージュであって、それは器用仕事のことだけれども、そんな(本来)人間的な創造性さえ、今は、機械的なマッシュアップで機能代替されてしまう――「その気」さえあれば、誰もが、あるレベルのコラージュを創造できる――。(だから必要なのは技術ではなく「その気」なのだけれどもね)。(引用:「Picasaのコラージュ――機械的なブリコラージュの時代の創造性について。」)

つまり、私の創造性なんて何にも機能してはいない、にもかかわらず、実際に話して説明するよりも、ちゃんとしたプレゼンテーションができてしまったりするわけだ。

データベースモデル(東浩紀) 創造性

つまり、ここでもData as the intel inside しかないのである。

Data as the intel inside

こんなことが簡単にできてしまう時代なのである。こんな時代に、私たちは、何をもって想像(創造)性といえるのだろうな、と思うのだが――やはり最後は、データ、Data as the intel inside でしかない――。(データのないところからは何も生まれやしない)。つまり私達は、as the intel inside であるために、如何にデータを(自らに)集積できるのか、なのである。

しかしそれさえ、「観察すること、言語化すること、バルネラブルに表現すること……よって、つながること 」でしかないのであって、例えばイントラネットの「現場状況報告」とか「ブログ」とかね、「Mobiusの1/2×2モデル」的にそういうことを「存在することの習慣」として繰り返してきた人にはかなわないってことだろう。(「考えるIT化」っていうのは、そのために私が考え出した方法でしかないわけだ。) (引用:「Picasaのコラージュ――機械的なブリコラージュの時代の創造性について。」)

エクリチュール

そして例示した2つのプレゼンテーションは、同じ画像データを使っているにもかかわらず、印象が全く違うものとなっている、かと思う。

それをコントロールしているのは「音楽」であり、それはエクリチュールにおける書き出しのようなもので――「私は……」、「僕は……」、「俺は……」、「我輩は猫である」等によってエクリチュールが印象付けされてしまうように、音楽は、この表徴の、受け手による印象をコントロールしてしまう。

つまり、音楽も私のものではない、のだけれども、私たちの間にある、経験の共有性のようなものが、「音楽」を媒介にしている部分があることで、音楽は「見えない規制」となり、受け手をコントロールする。

それを別にネガティブに考える必要は、(今の時代は)もうないのだろう、と思う。プレゼンテーションの作り手(情報の発信者)は、それを楽しむように、試行を繰り返し、受け手は、それをシュミラークルとして楽しむ。つまり、ここでもData as the intel inside しかないのである。私たちが今やれることは、そんなに多くはないのである。