夕方、かっぱ橋本通りで開催されている下町七夕まつりにでかける。お目当てはおわら風の盆だ。この踊りは、昨年のこのイベントで初めてみたのだが、その静かで凜とした様式に、あたしはしびれまくっている。こんなにいかした踊りもちょっとないだろう。(河内音頭もステキだけれど)。
この踊りは、いったい誰との会話なのだろうか。誰のために踊っているのだろうか、と。
それは祭りであることで、「先祖のため」であるだろう。
それは「村落共同体」の精神的基軸であり、柳田国男が言った「家」であり、先祖信仰でしかないかもしれない。(つまり日本の近代化が、うまく利用しながら否定しようとしたものだ)。
しかし(この踊りの歴史は知らないけれども、たぶん)、江戸、明治、大正、昭和、そして平成と(国の保護もなく)生き延びた先祖の祭りであることで、国家を持ち出す必要もないパトリを、あたしはこの踊りに感じてしまう。
それは、日本の近代化を否定してきたものとは言わないけれど、近代化のプロセスのあらゆる触手が及び届かなかったモノ(底辺)というか、深い次元が基底にある。(たぶん)そのことであたしは、(この踊りは)「私」のために踊っている、と感じてしまう。
と、その途端、この踊りは、ほんとうは「おわら=大笑い」なのだけれど、「かなしい」踊りとなるのだ。あー。
《「かなしい」とは「欠如」のことですね。それを「根源的欠如」などというつもりはありませんし、それはただ「かなしい」のだと思います。自分の過去の記憶と関わっている、すぐ身近にある過去を振り返つた瞬間に涙が出てくような「かなしい」でしょう。》(「街的」が見えない人は「かなしい」が足りないのだ。 from 140B劇場-浅草・岸和田往復書簡)
Comments [2]
No.1こまっちゃんさん
いつも楽しく拝見しております。
ずっとずっと住みたいと思っていた浅草に、短い間ながら住んでおりましたが、諸事情で泣く泣く引っ越しました。
日本を離れた地ですが、ももちさんのぶろぐを観て、日本の風にこころ癒されています。
No.2ももちさん
>こまっちゃん
海外赴任ですか?
おつかれさまです。
今度日本に帰って来られるときには、是非一緒に飲みましょう。