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『格差社会論はウソである』 増田悦佐を読む。

『格差社会論はウソである』

格差社会論はウソである

増田悦佐(著)
2009年3月11日
PHP研究所
1800円+税


午前5時起床。浅草はくもり。『日本文明・世界最強の秘密』の増田悦佐さんの最新作『格差社会論はウソである』を読んでいる。投資会社の偉い人はやめちゃったみたいだけれど、相変わらずむずかしいオヤジぶりを発揮しているのは何よりだなと思う。

増田さんと浅草で呑んだのはいつだったっけ、と過去記事※1を読み返せば、蘇るのは一緒に呑んでいてけっして楽しいオヤジではなかったことで、ベルギービールを呑ませてくれるという約束もどこかに消えてしまっていたことを思い出す。

けれどあたしは、日本文明が世界最強だろうが最弱だろうが、ただ「街的」が機能すればいい人なので、総論賛成各論反対みたいに話はあわない方が多い。なのであたしが〈他者〉と酒を飲む醍醐味だと思っている「解釈は、貸借を満たすために、快速でなければなりません。」(@ジャック・ラカン)も機能不全気味なのである。※1

ベルギービールはともかくも、あたしは増田さんのいうことは分かるつもりでいる。けれど増田さんの快速にあたしの解釈はいつでも遅れ気味なのである。

それはこの本でもそうであって、それが総論賛成各論反対のようになってしまうのは、じつはどうでもいいことでしかないのだが、思考のやり方の違い、ある結論へ読者を導くプロセスへの違和感のようなものかと思う。

増田さんは『格差社会論はウソである』と正面切って闘う人だから当然に思想を使う。その思想を要約しているのはこんなところか。

日本という国は本当に知的エリートと大衆とのあいだにの知的能力格差が小さい国だと分かる。生活水準、文化的環境、政治的コネといったもので、大衆に圧倒的な格差をつけた特権階級は存在しない。

したがって、日本は、絵に描いたような悪党が社会全体を牛耳っている国でもない。それはとてもよいことだが、同時に今の日本が抱えている問題を解説すのは、なかなか、一筋縄ではいかないということも意味する。絵に描いたような悪党をこてんぱんにやっつければ、「あとはみんな仲良く幸せに暮らしましたとさ」というわけにはいかないからだ。(p239)

そして付け加えるなら「世界中で日本人だけが現代史ポストモダンヒストリーを生きている」(p372~)ということだろう。この日本人のポストモダンぶりについては、あたしもこう書いている。

日本的な「象徴の貧困」

さらに、スティグレールのいう「みんな」とは、日本語でいえば「世間」のことであり、「社会」ではないだろう。

であれば、私たち日本人は、「世間」が象徴界にあることには、慣れっこなのである。

それは確かに「象徴の貧困」だし、近代化先進国から見れば、個の未成熟であり、社会の未成熟であり、近代化の未熟でしかない。

しかしそこで生きる「われわれ」は、西欧の近代化とは違った、長い産業化の歴史(過去把持)を持つことで、「象徴の貧困」における生き方にミーム的に適応してきた。

それは、西欧の「象徴の貧困」に対して、ある種のヒントを提示できるように思える。

つまり今という時代は、日本人的なバイロジック(雑種性)にとっては、ある意味有利な環境なのである――私はそういう意味で、日本的なものを再評価しているに過ぎない。※2

ボロメオの結び目つまりあたし的にいえば、増田さんの主張は「象徴の貧困」※2の肯定なのである。

「象徴の貧困」でいいのだ、といっているのである。

象徴界に知的エリートどころかあらゆる権威が居座ることを嫌うのである。

そんなものが象徴界になくとも、立派にやってきた時代が日本にはあった(ある)じゃないのかといっているのである。

ある意味、象徴界は緩い(貧困)方がいいことを認めているのである。

増田さんのテクストは、これが仮説のようにあって、この仮説を反証するためにデータを使い、証明をしていくプロセスなのだ。その証明のプロセスは快速なので、あたしは振り落とされる。

ときどき入る余計なはなしには、ますますついていけなかったりしているのだが※3、あたしは「今という時代は、日本人的なバイロジック(雑種性)にとっては、ある意味有利な環境なのである」ことは認めている。

けれど象徴界が「みんな」の感情であることをを嫌っている。それはコントロール社会になりやすいからで、逆に象徴界にヘンなものが居座ることになりかねない危惧からだ。※4

だからそこに「街的」(中景)を持ち込もうとしている。それも「種に溶けない個」としての個人を主体にしたもので、だからといってそれがナイーブな自己責任でもないというわけのわからなさであることはご存じのとおり?※5

増田さんは、直接的には、象徴界になにが居座るかという思考はしないので、こういう思考をしてしまうあたしは、増田さんの快速には遅れてしまうのである。しかし世の中はあたしのような思考をする人は少ないだろうから、この本を読む多くの人たちには解釈は快速なんだろうと思う(たぶん)。

だから増田さんには、もっともっとガンガンといって欲しいと思うし、扱い注意のオヤジぶりをガンガンと発揮していただきたい。しかしそのガンガンが誰に対してのものなのかは面倒なところであって、おまえだよ、といってもらえるならうれしいのだけれど、どうやらそうでもないことは、先にも書いた。※6 それはこの本のような、啓蒙の書がもつ宿命かもしれない。

※注記

  1. 増田悦佐さんと浅草で飲む。 参照
  2. 象徴の貧困。(ベルナール・スティグレール) 参照
  3. 今回は個人に対する批判が多いなと思う。それは知的エリートを批判することで、読者にカタルシス的な快楽を与えようとするサービスかもしれないが、どう読んでも「ちゃんと理解していないでしょう」的な部分が多く、データを裏付けに反証を試みる増田スタイルには合わないとあたしは感じた。
  4. それを「正解の思い込み」とあたしは呼んできたわけで、増田さんのいっている 『格差社会論はウソである』も正解の思い込みの否定である。増田さんはその「正解の思い込み」を自らのテクストで覆そうとしているのだと思う。だからデータ主義なのであし、それしか手段がないともいえる。
  5. 自己責任とは「なにが起きても他人(ひと)のせい」のことである。 参照
  6. だからあたしは、この本を沢山の人たちに読んでいただきたい、と思う。けれど小泉-竹中路線(つまりなんだかよくわからない構造改革)をなんだかわからないママに支持してきた方々がこの本を読むということはあるのか、とも考えてしまう。仮に読んだとしても、なるほどなあと思うのだろうか。 自分が信じてきたものが何かヘンだなと思うのだろうか。書かれていることが意味不明であればそれを理解できるように勉強しようとするのであろうか。それはあんまり期待できないだろうなと思う。なぜならこの本は(非常に読みやすいものなのだけれども)、構造改革が好きな人たちにはなんだかわからないことばかり書かれているに違いないからだ。わからないモノに出合ったとき、99%の人たちはそれを無視する。わからないモノに出合ったとき、自らそれをわかるようにしようとする人は、きわめて希な人なのである。あたしはそれは仕方がないことだと思う。けれどその円環(わからないものをわからないままにしておくこと)に、どこかでひねりを加えなければ(つまりキアスム)、人は成長しないのもたしかだろう。 from 『大転換―脱成長社会へ』 佐伯啓思を読む。

Comments [3]

No.1

お邪魔します。

これはまたおそろしく情緒的なタイトルですね。
文字通り読めば格差社会論なるものはただの「ひとつ」しかなく、しかもそれは判断や認識の「間違い」ではなく意図的な「ウソ」である、ということになります。
これを著者のこころの問題として解くと、「倫理」に対しておそろしく幼稚な人物像が浮かび上がる。
内容は読んでのお楽しみですが、たぶん......面白いのだろうけど眉唾物の芸能タレント本としての面白さ.......だったらなをのこと読んでみようかなとも思いますがね。(笑)

ただ、さまざまな格差社会論はその論の背景にある現実社会現象からの必然的な要請によって立ち現れてきたものであるのに対して、格差社会論批判は論に対する論であるにすぎませんから、いかなるデーターを駆使しようが論理を立てようが、その論はリアルな現実とは何の関係もないものであるとわたしは思っています。つまり、それはインテリによる何かの戯れではあるとしても、真面目ではありませんね。不真面目はいまの大人を彩る幼児性のさいたるものですが、困ったものです。

No.2

>イカフライさん
コメントありがとうございます。

この本は「格差社会論はウソであるはウソである」でもいいような内容なので、タイトルはもうひとひねりあってもよかったかと思います。

格差社会論というよりは、知識人もどき批判として読める本かと思います。ただそのとき著者である増田さんの立ち位置は、自ら批判の対象としている知識人もどきかも知れず、その危うさをデータ多用で打ち消そうとされているように思えます。苦労のあとが見えます。

今回は、この本を執筆されている頃に、(この本のことを)聞かされていた縁があり、購入して感想を書かなくてはならないと勝手に思ったのでしたが、読んでみると、その内容の多岐性に理解が追いつきませんでした。なので無理矢理あたしの土俵で感想を書いてみた(理解を試みた)次第です。

No.3

今朝買ってきて読みました。
増田悦佐さんに心からお詫びをしなければなりませんね。
わたしが思っていたとおり山本直純風な感じの文体や思想内容ではありましたが、増田さんの言説の根拠とする哲学がちゃんとリアルな自身の生活に根付いていることが確認できたので安心して読めました。
もっともわたしはグラフや統計はダメです。そこは深いところですからちゃんと読もうとすると時間がいくらあっても足りません。グラフや統計というのはそういうものです。
ただ、増田さんの労働についての哲学は正当なものだと思いました。内田樹のいかがわしい労働哲学を揶揄しているところでは思わず膝を打ちました。
そもそも少年時代、子供が最初に「労働」と出会うのは内田樹のいうように家事手伝いや炊事の手伝いなんかではない。それは増田さんのいうように労働を一種の苦役だけに限定しすぎている。子供が労働と無意識に出会うのは自分の体験からいえば「欠如」からでした。1960年代に子供だった大人だったらだれでも覚えがあるでしょう。針金を曲げて輪ゴム鉄砲を作ったり、メンコに油を塗って重く硬くしたり、紙で大相撲を作ったり、自分たちだけで使える紙幣をつくったり、とにかく欠如から作ることを覚え、増田さんのいう「労働の創造性」を学んだ。
これは今だろうと昔だろうと様相が違うだけで子供にとっては普遍的な労働との出会い方ですよ。内田樹は欲望に「欠如」を抱えた子供時代を経験したことがあるのだろうか? そういう経験がないから労働とは苦役だけだと思い込み、昔の子供はお使いや家の掃除をして「労働」を学んだが今の子供は消費しか知らないなどというバカげたことをいっているのではないか。増田さんの批判はたんに論理ではなく生活に根を生やしていることがこの一点だけからも了解できました。あとは安心して読み直すだけでした。


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