浅草警察署を富士公園から見る浅草警察署を富士公園から見る


場末、浅草警察署

午前4時50分起床。浅草は晴れ。先に書いたように「都市のすきま」とは「古木、寺社、場末」であった。その「古木」の説明の為に「浅草寺の神木・いちょう」の写真を撮りに行った話を先に書いたが(勿論2月11日の小さな勉強会の為にだ)、もう一つの「寺社」は「浅草寺」でいいとして、それじゃ「場末」は何処にしようかと考えていた。気分的には「ニュー王将」をそこに押し込もうとも思っていたのだが、「古木」を撮って帰る途中、富士公園から見る「浅草警察署」が眼に掛かった。その時ピンと来たのだ。そうだ、ここも浅草寺の後戸、「場末」だと。

「場末」は「寺社」同様、ニュータウンのデザインにはまずないものであり、近づくのもちょっと恐くて、薄暗くていかがわしい場所である。鬱屈した不良たちが溜まり場にし、ある日突然「蒸発」し来歴を削除した中年が身をかがめているかと思えば、年増の「立ちんぼう」が電柱の陰で客を待つ。そんな都市の〈闇〉を形成している。こんな処は一昔前なら浅草中そうだったと云ってもよいのだし、正に山谷はそうだった。勿論アジールとしての「場末」でもあった。

そもそもあたしが浅草の住んだ大きな理由はそれなのだ。さまざまな人が生きている「街」としての浅草である。アジールとしての浅草である。サラリーマンも、自営業者も、金持ちも、貧乏人も、警察官も、おわれる立場の人も、外国人も、見るからに不思議な人も、正にニュータウンのデザインのは最初から描かれていない人達が大勢いたのだ。

そんな街である。しかし20年も経てば浅草も近代化が進むのだろう。街の中で見かけた不思議な人々の数少なくなり、青い家も墨田川の河川敷からだいぶ消えてしまった。しかしそれでも「浅草警察署」には様々な人の生き様がある。まるで「場末」のようにである。

都市のすきま~使用予定のPPTより

浅草警察署
東京都台東区浅草4丁目47-11