ZEROLOTTE ノンシュガーチョコレート ZERO


LOTTE ノンシュガーチョコレート ZERO

午前5時30分起床。浅草は晴れ。昨日はバレンタインデーで、あたしは家人から「LOTTE ノンシュガーチョコレート ZERO」を10個貰ったのだ。このチョコレートは糖質制限食なぞを食べているあたしが、唯一胸を張って食べられるチョコレートなのであるが、なにもこの日だけ貰っているのではなく、週に1回は家人が買ってきてくれる。でもバレンタインデーの10個纏めてはさすがに気持ちがいいし、気前の良さが全面に出ている。

日本のバレンタインデーは、既に日本の年中行事である。あたしは「贈与」を説明するときにはこの習慣を使わせてもらっているが、こんなにわかりやすい「贈与」も他にない。なにしろ2月14日にチョコレートをもらったら最後、それが義理チョコであろうがなんであろうが、1ヵ月後には「お返し」をしなくてはならない、という「しばり」を負うのである。それは法律ではなく、法令遵守でもなく、ましてやコンプライアンスでもないのだ。贈与は「貸し借り」という「しばり」なのだが、この「しばり」、うちの場合は直ぐにゆるくなる、というオチががついているのだわ。

贈与の原理

  1. 贈り物はモノではない。モノを媒介にして、人と人との間を人格的ななにかが移動しているようである。
  2. 相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなわれなければならない。
  3. モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている。そこに交換価値の思考が入り込んでくるのを、デリケートに排除することによって、贈与ははじめて可能になる。価値をつけられないもの(神仏からいただいたもの、めったに行けない外国のおみやげなどは最高である)、あまりに独特すぎて他と比較でぎないもの(自分の母親が身につけていた指輪を、恋人に贈る場合)などが、贈り物としては最高のジャンルに属する。

交換の原理

  1. 商品はモノである。つまり、そこにはそれをつくった人や前に所有していた人の人格や憾情などは、含まれていないのが原則である。
  2. ほぼ同じ価値をもつとみなされるモノ同士が、交換される。商品の売り手は、自分が相手に手渡したモノの価値を承知していて、それを買った人から相当な価値がこちらに戻ってくることを、当然のこととしている。
  3. モノの価値は確定的であろうとつとめている。その価値は計算可能なものに設定されているのでなけれぽならない。

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