スピード――速さは全てを解決する――スピード――速さは全てを解決する――


スピード――速さは全てを解決する――

午前5時20分起床。浅草はくもり。最近、あたしに起きていることは、なにをやるにも時間がかかる、ということだ。歩くのも遅くなり、喋ることも、タイピングも、何をやるにしても時間がかかる。人を前にしての(別に前にしていなくてもいいのだが)判断や、メモを取るスピードも、そしてこのブログを書くことさえ時間がかかってしょうがない。

だけど、この時間が掛かることははたして悪い事なのだろうか、と思う(単に楽天的なだけかもしれないが)。

一方、早いな、と感じることもある。それは時の流れだ。1日が、1週間が、1ヶ月が、1年が風の様に早く流れる。しかし、速い、これだけで全てを解決するスポーツがある。それはボクシングだ。スピードスターが活躍する場面を考えて欲しい。例えば、現WBO世界スーパーフェザー級王座の「ワシル・ロマチェンコ」がこれにあたる(だろう)。

でも、ロマチェンコも何時かは衰える。しかし、その衰えるスピードは遅いに違いない。あたしが速いと感じている時間は、彼(ロマチェンコ)の中では(たぶん)ことごとく遅いのだ。

とりあえずはこの巨大な動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つとこが一つの方法になるかもしれない。」(川俣正:『アートレス』:p45)。これはあたしの中では、(ある時期までは)非常に重要なフレーズだった(今でもだが)。しかし、ある時期から「とりあえずはこの巨大な動きの中で流れて、それ以上のスピードで流れていくこと諦めることで、独自性を消すことが一つの方法になるかもしれない」、と思っているのも確かだ。

「それ以上のスピードで流れていくことで独自性を保つこと」、と「それ以上のスピードで流れていくこと諦めること」のどちらが良い選択なのかが分からないのだ。年を取る毎に、どんどん己の行動は遅くなり、考えは益々複雑怪奇になってゆく。もっと単純に生きていけたらと思うのだが、この複雑さが、あたし達の若い頃、年寄りの言葉を聞いては、訳が分からなかったものなのかもしれない。

それは「骰子一擲」と何処かでオーバラップする。「骰子一擲」は偶然性の否定だが、それは同時に必然性の否定だ。「スピード――速さは全てを解決する――」と若い頃は信じていた。でも、「スピード――速さは全てを解決しない――」もまた「ある」のじゃないのかな、と思う今日この頃なのである。