しかし、この考え方に対しては反論もあります。例えば、このようなものが代表でしょう。紹介するのは、私が主催するメーリングリストに投稿された意見のやりとりからの抜粋です。最初の問題提起はこうです。
]]> この意見に対して、他のメーリングリスト参加者からの意見は次のようなものでした。イントラネットは、零細企業に必要か?
たしかに現場は、家から3Km以内にあり、イントラネットを組んでまでデータを共有する必要はありません。会社に戻ってLANで十分可能です。
意見1
イントラを組む組まないの問題に関しまして少し! 私の会社のように零細企業は職員が毎日ネットにつなぐ事が情報を取得する訓練となると思います。そして何より大きな理由として思考の広がりを育てる意味でイントラが有効だと考えます。私がほぼ日で更新しているHPは、弊社の職員の思考に全く影響いたしません。弊社の職員が、自由に思考を広げる事の出来る代物ではないのです。
なので、取り敢えず安上がりなイントラを社内で使い職員のメモ帳や質問箱のように使っております(使用者たったの5人)。毎日、顔を合わせていますが、職員達は、自分の考えをイントラネットに書き込む際、順序だてて物事を考えられるので言葉で出てこない細かな表現が分析しながら表せると申しております。
私は、それだけでもイントラの持つ意味があるのだと考えています。データーの共有は、その後の付属品として考えられた方が良いのではないでしょうか。イントラは使う人の意思で思いもよらぬ使い方があるようです。思いもよらぬ使い方を見つける! その様な事が考えられる思考を育てる事が大事なのだと考えます。
意見2
弊社は超零細企業です。でもイントラは構築しています。最初は、発注者に入って頂いてコミュニケーションを図ろうと考え構築しました。でも、いざ入って頂くと慣れないせいもあったのかも知れませんが殆ど書き込みをして貰えませんでした。なので、今は入っていません。(入って頂きたくても仕事がありません)イントラを使っているうちに解ったのですが、イントラは社員教育にはもってこいの道具です。だとしたら、LANで充分ではないかと思いますよね。でも弊社は下請業者・CMnetの方・建設産業に携わっていない人・方向性は同じで情熱のある人などにも入って貰い意見を頂いています。今は素人で信用の置ける人をもう少し入って貰いたいと考えています。そして、自分達では見えないことを探したり勉強したりしています。
意見3
目的と方法論の問題だけじゃないですかね? LANとかイントラとか「形」はどっちでもいいんですよ、きっと。
受注者側の視点で見れば、「自社の良いミームを市民社会になすりつける」という作業ができるのであれば、LAN+インターネットでもイントラでもどっちでもいいでしょう? 目的さえ明確になっていればある意味で「手段」はどうでもいいことだと私は最近考えています。
しかし、そういう観点からみるとどうしたってやりやすいのはイントラネットですね。もともと、そういう「ユーザーインターフェース」がありますから。LAN+インターネットだけでやろうとするとちょっと辛いかもしれません。あら、いってることが違っちゃうかな?(笑)
そうですね、地域住民・納税者・場合によっては発注官庁さんと協力にコミットメントしてゆき、地場に本当に必要な会社になってゆくためには「ミームの培養地」としてのイントラネットは必要不可欠かもしれません。
ただ、インターネット・イントラネットだけでは足りない・・・ということですね。ミームの醸成・散布という作業過程で発見しえた、問題点やら改善策やらコミットメント手法をアナログな活動で実施してゆくという「行動・アクション」が必要になります。
と、いうことで私の現状の結論としては規模の大小にかかわらず、イントラネットはあったほうがいい。ということになってしまいますね。(笑) LAN+インターネットだけでは、やはりちょっと足りないんです。
意見4
私は零細企業だからこそ必要だと思います。といいいますのは、大手建設企業は、お金を出してITを扱える人員を雇用することが出来ます。零細企業は、簡単に専門技術者を雇用できるでしょうか?
答えは「NO」です。ならば、イントラを導入し、自分たちで訓練するしかないのです。私はこう思います。弊社は会社から、500mの現場でも現場の現況をイントラ内に掲載していますが、これをすることにより社内での周知徹底をはかります。プロジェクターで現場説明をするのと同じで、イントラに掲載した写真で現場の状況を説明し、みんなで対策を講じています。
今まで、私1人が頭の中で情報を管理していましたが、イントラでの現場状況掲載により、私自身の頭の中を見せる事が出来るようになり、プラス、横着といわれてしまうかもしれませんが、技術者を現場に連れて行き現場説明をするような重複した無駄な作業を排除することができました。
また、何よりも頼もしいのは皆が朝出勤一番はパソコンの電源を入れて情報収集するということです。今まで、情報を貰うばかりだった方達が、自らが情報を収集するようになった事が嬉しいです。結果、私は楽になりました。LANはどれかのPCが電源を切ってしまいますと、電源の入っていないPCの情報を収集出来ないです。弊社も、過去8年間LANを組んでいましたが、ファイルのやりとりということでは十分ですが、文書管理だけで、情報は管理できない苦悩がありました。それを解決したのが、イントラネットでしたよ。(笑)
つまりは、イントラネットを旧来の効率化と合理化の情報化文脈でとらえるのか、それとも、もっとイマジネーションをふくらませて考えることが出来るのか、ということです。IT化を予想可能な時代の効率化や合理化の道具として考えることをやめない限り、IT化はいつまでも閉塞したままだ、ということです。この理解にはどうしても〈中小建設業が売っているものとは、自社の「技術のミーム」である〉ということ、〈IT化が扱う「情報」とは「ミーム」のことである〉ということ、さらには、〈インターネットとはミームが獲得した新しいプール(プール)である〉という文脈を理解する必要があるのですが、これも実践の中でしか身につかないものなのです。
私は、このイントラネットの活用を中心とした中小建設業IT化のポイントを、次の三つにまとめています。
では、この三つのポイントそれぞれについての考察を進めることで、「現場の情報化」のコツを理解していくことにしましょう。
]]>現場を含めたネットワーク、つまり現場での活用を最優先としたネットワーク構築において、最も有効な答えはイントラネットです。イントラネットは、インターネットの技術を社内的に活用したものであり、当然にインターネットとシームレスな関係を持つものです。
]]> イントラネットの活用のメリットは、第一に全社員レベルでの情報リテラシイの向上を促すことです。イントラネットの基本操作は、マウスのクリックだけを前提としたものです。これは、コンピュータ初心者にも容易に操作できることを第一に考えられたシステムということができます。つまり、イントラネットの成功を目標としたIT化の取り組みは、今までのコンピュータに触るのも嫌だった社員の情報リテラシイ向上にも大変有効に機能することになります。「正解の思い込み」による情報化でよく見かけるのは、全社員レベルでの情報リテラシイの蓄積が不十分なままに、操作的に難しい業務処理アプリケーションを導入することによる失敗です。何事にも順序があるように、IT化の助走段階では、イントラネットのような初心者にも敷居の低いシステムで全社員レベルのコンピュータ操作技能を向上させることが肝要なのです。ひとり一台のコンピュータとは、すべての社員がコンピュータを容易に操作できることを意味しなくてはなりません。十分に訓練をしないでフルマラソンを完走することなど最初から無理であるように、IT化においても、十分なコンピュータの操作訓練は必要不可欠です。イントラネットは、その導入段階での訓練を最小限の時間と費用で実現できるものです。業務処理のためのアプリケーションの導入は、この後でも決して遅くはありません。
もし、業務処理がどうしてもしたいということであれば、現在のイントラネットは、その代表的な機能である電子メール、Webベースの電子掲示板は当然のこととして、文書やデータの共有も比較的簡単に実現可能となっています。遠隔現場からの工事状況報告は、デジタル写真と電子メールや電子会議室を活用すればいとも簡単に実現可能であり、わざわざ現場まで出かけなくとも、現場を可視的に確認することぐらいは可能となります。ISOにおける文書管理の問題も、イントラネットを用いれば、ドキュメントをデジタルデータ化することで版の管理の効率化も期待できることでしょう。
つまり、建設業における業務のほとんどはイントラネットの延長上に考えることが可能となるということです。むしろ、そうならないことには、「現場のIT化」を至上とする中小建設業のIT化では意味のないものになってしまいます。視点は常に「現場のIT化」なのです。このことは「CALS/EC」における現場での対応も、この普段の社内イントラネットの活用の延長上にあるということを意味しています。特段「CALS/EC対応」などと大上段に構える必要はありません。普段、社内イントラネットを活用することで「CALS/EC」が要求する程度の情報リテラシイであれば十分に身につくということです。逆にいえば、「公共工事という産業」がこのような情報リテラシイももてずに「CALS/EC」などといったところで、それは絵に描いた餅にしかなれないことを意味しています。
そしてなによりも重要なことは、〈イントラネットは自社のミームのプールである〉ということです。このことはミームが問題発見ツール、つまり「ポチ」であることを理解していれば、イントラネットは、ミームという眼鏡を通して、自社の問題がどこにあるのかを見つけ出すツールになりえることを意味しています。じつをいえば、企業経営にイントラネットが与えてくれる最大のメリットはこのことなのです。
このように、私のIT化コンサルテーションのコアは、例外なくイントラネットの運用にあります。私たちはすでに、自らの商品が自社の技術のミームであり、インターネットがミームのプールであることを知っています。そして、その技術を組織内的に応用したイントラネットとは自社のミームのプールであること、そしてミームは問題発見のツールであることが理解できたはずです。このふたつこそが、イントラネットをIT化の中心におく最大の理由なのです。
]]>現場の機能とIT化の関係を考察していくと、現場はテレワーク実践の場であることに気が付きます。従来から考えられてきた「情報化」が前提とする勤労に関する考え方は、決まった勤務地に出向き、限定されたその場所で仕事をする一般オフィス勤務が前提です。これが本社事務所中心の「情報化」の考え方を支えてきたのです。しかし今日では、建設業以外においても、特定の場所に限定されずに働く様々なワークスタイルが出現しています。それは一般にテレワークと呼ばれていますが、これを実現化しているものがITでしかありません。
]]> テレワークというワークスタイルを実施するには、企業と個人との間でいくつかの前提条件が必要となっています。それらは、権限委譲、自己管理、成果主義というものです。権限委譲は上司がある程度部下に仕事のプロセスに幅を持たせることです。さもなければ離れた場所(現場)で仕事をすることはできません。また、上司が安心して仕事を任せられる部下とは、自己管理ができる、つまり自律的社員であることを意味します。でなければ現場を任せることなどとてもできそうにはありません。そして、常に上司と部下が顔を会わせられない分、仕事の成果の評価も変わらざるをえないことになります。つまり、成果で評価を行っていくなどの方法が必要となるわけです。
このような条件が整ってこそ、テレワークという新しいワークスタイルを実施できるのですが、建設業における現場とは、元来特定の場所に限定されずに働くワークスタイルのことですし、上記で指摘される前提条件は、現場の存在を前提とした建設業の分散型組織形態においては、当たり前のことにしか過ぎません。つまり、「現場のIT化」には、このテレワークという、一般的には新しいが、建設業にとっては当り前のワークスタイルを生み出し、そしてそれを支えている技術であるITを活用すればよい事に気付かれるはずです。つまりそれが、インターネットであり、イントラネットなのです。
現場で使えるITとは、インターネットに代表される、シンプルかつ自由なネットワークです。つまり、同一事務所内での利用を前提にしたネットワークでは、遠隔地に散在する現場間のコミュニケーションの実現は不可能なのです。そのようなものは「現場のIT化」を主眼とした中小建設業のIT化には基本的に向いていないことが理解できるでしょう。
先ほどの、日中、人影少ない本社事務所に、あるじのいないパソコンが整然と並んでいる光景を思い浮かべてください。これは、ひとり一台のコンピュータ環境を構築しているにもかかわらず、コンピュータを使える場所を本社事務所に限定してしまっているため、システムの有効活用が出来ていない典型的な事例でしかないのです。そして、このようなシステムを構築してしまうとき、そこには決まって「現場」への視点が欠如しているのです。これは環境と原理を無視した制度・慣行の導入でしかありません。
]]>中小建設業の経営において、最も大切なものでありながら最も軽視されてきたものに「コミュニケーション」があります。その多くは、経営層と社員、社員と社員、本社と現場のコミュニケーションの欠如です。しかしコミュニケーションがない、という経営はありえませんし、経営とは円滑なコミュニケーションから成立できるものでしかありません。
]]> 「現場のIT化」がいうのは、まず全ての社員によるコミュニケーションを、IT化の最初の目的のひとつとする、ということです。建設業では、現場が分散して存在しているという地理的な問題が必ず存在するために、全ての社員が顔を付き合わせてコミュニケーションをおこなうという機会は持ちにくいのが特徴ですし、また経営者やマネージャーが全ての現場を訪れてつねに状況を把握することも困難です。その為、比較的小さな組織体でも、社員間のコミュニケーションや、組織横断的なコラボレーションは意外と欠如しています。しかし、長い間コミュニケーションやコラボレーションが、中小建設業の経営においてさほど重要視されなかったように思えるのは、それを無視してきたからではなく、そもそも分散型組織形態というコミュニケーションやコラボレーションが難しい環境で仕事をしているからです。「現場のIT化」がいうインターネットやイントラネットの必要性は、そのような「環境」の存在と、〈現場で稼ぐから建設業〉という「原理」の当然の乗数でしかないのです。そして大切なことは次の事実です。
〈コミュニケーションがないところでミームが育成されるはずもない〉
]]>中小建設業の最も基本的な原理原則は〈建設業は現場で稼ぐから建設業〉というものです。ですから「中小建設業のIT化」の特徴は、建設業には「現場」存在するという原理原則によって特徴づけられます。このあまりにも当たり前の原理原則を忘れているところに、「中小建設業のIT化」が地に足の着かないものになっている原因があります。つまり「正解の思い込み」に陥っているのです。
]]> 私は、現場の存在を省みない情報化が「中小建設業のIT化」を遅らせている最大の原因であると指摘しています。本社事務所にコンピューターを揃え、ローカル・エリア・ネットワーク(LAN)を張り巡らし、ひとり一台のコンピュータを揃え、基幹系(勘定系)のシステムに大きな投資をして満足されている経家者を沢山知っていますが、このような事務所には、日中、あるじ不在のコンピュータが寂しく並んでいるだけです。それは失敗事例でしかありません。中小建設業の場合、多くの社員は社外(現場)が仕事場です。本社事務所にパソコンを揃えたところで、それは使えないものでしかありません。IT化に熱心だといわれる企業でも、このような使えないシステムを作って自己満足していることはよくあることです。
これでは、本社事務所と現場との間に見えない壁を作ってしまうようなものですし、せっかくのひとり一台のパソコン導入も、現場で働く方々にとっては「残業促進システム」にしか思えないでしょう。(現場で働く方々は本社事務所に戻ってパソコンを使うしかありません)。
「現場のIT化」からみれば、それらは自閉症気味の自己満足でしかありません。皆さんの会社では、現場で働いている社員と、社内におられる社員とでは、どちらの数が多いでしょう。中小建設業では、当然に現場で働いておられる方々の方が多いはずです。建設業において、利益とコア・コンピタンスを生み出す場とは常に現場であるはずです。仮に本社事務所で稼いでいるという会社があれば、それは「不良不適格業者」でしかありません。
〈中小建設業のIT化の実践の場は現場である〉
ということを忘れてはなりません。これは、現場は顧客(市民社会)との最大の接点であることを考えれば、あまりにも当然のことです。それは本社外に存在する現場を取りこんだネットワークこそが「中小建設業のIT化」には必要だということです。そこにインターネットやイントラネットの必要性は生まれます。
現場は、「現場代理人」という言葉に表されるように、現場への権限委譲を前提としたシステムで運営されています。このことは、必然的に、
〈建設業は分散型組織形態を形成している〉
ということなのですが、それは企業規模の大小とは関係ありません。中小建設業は等しく皆、分散型組織なのです。
本社事務所以外に仕事の場があるという意味で、建設業における分散型組織形態は、本来IT化向きなのです。しかしインターネットやイントラネットのような分散型組織形態を前提としたITの技術を活用しないことには、全社をトータルに結ぶネットワークの構築は難しいのです。
]]>では、ちょっと具体的なはなしに入りましょう。現在、企業ベースの私のコンサルテーションでは次のふたつを当然の前提としています。それは、
IT化の目的は、自社の「技術のミーム」、それも「消費のミーム」との間でその関係の編集作業ができるようなミームの創造です。残念ながら、ひとり一台のパソコンとイントラネットが導入されただけで、自然発生的にそのような「技術のミーム」が生まれ育つほどIT化はシステマテックではないのです。
では、これらふたつ前提の必要性についての理解をはじめましょう。まず共通していえることは、IT化におけるパソコン(パーソナル・コンピュータ PC)の存在意義です。それはコンピュータは計算機ではなく、ミームという自己複製子が表出させた、つまりミームが作り出したコミュニケーション・ツールだということです。
IT化において、自らが自由に使えるパソコンがないことは、ミーム・ヴィークルを失うこと、コミュニケーションのツールを失うこと、そして大げさにいえば言葉を失うことに相当します。IT化ではひとり一台のパソコンを準備することは当然のことでしかありません。
そして、建設業の原理原則である〈建設業は現場が存在するから建設業である〉という大前提に立てば、「中小建設業のIT化」には、現場を含む全社を結ぶネットワークが必要となります。現場をIT化から疎外することは「中小建設業のIT化」では絶対にやってはいけないことです。
現場をIT化の円環に組み込むシステム、それが「イントラネット」なのです。イントラネットはインターネットがそうであるように、これもまた(自社の)ミーム・プールです。このイントラネットを活用した現場も含めた自社のネットワーク化を、私は「現場のIT化」と呼んでいます。
]]>これまでの「IT化=環境×原理」の理解を前提に、まずは個々の企業でのIT化について考えてみましょう。これまでの議論をもってしても「なぜIT化が必要なのか」という疑問はぬぐえてはいないでしょう。私は、この疑問に対する答えを、かつて次のように書いたことがあります。
なぜなら、これらの答えは、公共建設市場でマーケット・メカニズム(市場原理)が機能することを前提としいるからです。正直にいえば、この答えを書いた当時の私は、短略的な市場原理信仰者でしかありませんでした。ですから「IT化はなぜ遅れたのか」で触れた「市場のルールによるIT化の阻害」が、公共建設市場のマーケット・メカニズム化で解決がつくことを前提としていたのです。
しかし、この前提はふたつの意味で誤りだったと考えています。ひとつは、これまでの議論でも明らかなように、公共建設市場は「マーケット・ソリューション」側に振れてはいますが、それがどうも「いんちきくさい」ということです。
本書では、自治体がおこなう制限付き一般競争入札を、「似非マーケット・ソリューション」と批判的に呼んでいますが、公共事業への短絡的な市場原理の導入は、「マーケット・メカニズム」をかなりゆがんだ方向にねじ曲げているだけで、とても自由主義経とはいえません。
お役所仕事を市場化することは、本来内部の力で行うべき改革が内部の力ではできないからで、外部の力(市場のシステム)の導入は「発注者」の改革のためのものです。しかし「似非マーケット・ソリューション」は「発注者」自らは自分のことは棚に上げてしまいます。ですから、そのようなねじ曲げられたマーケット・メカニズムが機能する公共建設市場では、先の①~③をIT化をもって実現しようとしても不可能です。
そしてふたつ目はさらに本質的なものなのですが、そもそも公共建設市場に「マーケット・ソリューション」を持ちこむことが絶対の問題解決策なのかという疑問です。それは中小建設業の終焉を意味するだけのものでしょう。
今の中小建設業に、真正であれ似非であれ「マーケット・ソリューション」に対応できる経営力や技術力を持った企業はほとんど存在しません。つまり「金魚論」は未だに機能しています。自ら餌を捕ることを前提とした環境には適応できていのなら、市場のやみくもなマーケット・メカニズム化は、中小建設業の淘汰の原因としかなりません。
一番の原因は、(真正であれ似非であれ)「公共工事という問題」での「マーケット・ソリューション」には、中小建設業の経営努力を評価する仕組みが制度的に組み込まれていないからです。
「マーケット・ソリューション」はその市場への参入者に対して、グローバルな効率性や合理性を最優先に求めます。しかし、中小建設業が生きる「公共工事という産業」の効率性や合理性は、ローカルであることで発揮されるものです。
ですから、マーケット・メカニズムを単純に絶対化するような公共建設市場では、ローカルである中小建設業の存在事態が、たいして意味を持たなくなってしまいます。
大手でできるものを中小に回すのは、非合理であり非効率であるとなります。そのような市場では、IT化に限らず、どのような経営努力も、結局は無駄なものでしかありません。
本書のいう「中小建設業のIT化」が、このような認識を基底にしていることは、これまでの議論でも明らかでしょう、しかし、この認識はIT化の"あきらめ”を意味してはいません。経営努力がたいして認められないのは、あくまでも(グローバルな)「マーケット・ソリューション」の文脈では、という注釈がつきます。
つまり、公共建設市場において「中小建設業のIT化」が、経営戦略となり、技術と経営に優れた建設企業実現のための道具であるには、「マーケット・ソリューション」の文脈から、その視点を一度はずしてみる必要があるります。本書は、それが「コミュニティ・ソリューション」への視点だというのです。
それは〈IT化を効率化や合理化の道具として考えることをやめてみなさい〉ということです。
IT化が中小建設業になんらかのメリットをもたらすとすれば、まず〈中小建設業が売っているものとは、自社の「技術のミーム」(信頼)である〉という理解が必要です。
そして〈IT化が扱う「情報」とは「ミーム」のことである〉ということを理解し、さらには〈インターネットとはミームが獲得した新しいプール(培地)である〉という文脈を理解することでしか、私たちはIT化のメリットを享受することはないでしょう。
つまり、IT化を自らの経営ツールにできるとすれば、IT化が「消費のミーム」との間に、「ソーシャル・キャピタル」の編集を可能とする自社の「技術のミーム」を育て上げる取り組みであること意外に、「中小建設業のIT化」が立脚する足場をみつけるのは困難だということです。
こう書くと、早速自社のホームページを立ち上げ、「技術のミーム」を広めようと考える方がたくさんいるはずですが、それはたいして効果はないでしょう。なぜなら、そもそも公共工事に対する「消費のミーム」とコミットメント関係を持てるような「技術のミーム」を、中小建設業は持っていないからです。
これは、先に示した〈公共工事という産業にはコア・コンピタンスがない〉という指摘と同じことをいっています。つまり、多くの中小建設業はインターネット上で売るものなどなにも持ち合わせてはいないのです。
つまり「中小建設業のIT化」とは、市民社会(顧客)に対して伝えたい、自社の「技術のミーム」(コア・コンピタンス)を創りだす作業である〉ことを意味しています。そして同時進行的に、自社の「技術のミーム」と顧客の持つ「消費のミーム」とのコミットメント関係の編集をしていく相互作用、つまり「ソーシャル・キャピタル」の編集を図っていく基盤をつくることなのです。
そんなことは別にIT化でなくともできるだろう、という反論はあるでしょう。たしかに、地域社会に根ざした中小建設業の行う〈「消費のミーム」と関係性の編集は、リアルスペース、つまり身体性を伴った現実社会で行われる〉には違いありません。ただ、IT化で得たものを、その編集の足場にできることで、私はIT化の必要性をいうのです。
それは〈インターネットとはミームが獲得した新しいプールである〉という言葉に収斂されます。つまり自社の「技術のミーム」が増殖するには、IT化は有効でこそあれ、不要なものではないということです。
これが本書のいう「中小建設業のIT化」の考え方です。それでは、そのためには何からはじめたらいいのかというのが、次からの考察です。
]]>市場をミーム論から見ることで、「公共工事ダメダメミーム」は、中小建設業にとってさらに厳しいものとなり、そのスピードは益々加速していることが理解できたかと思います。ここで恐れるのは、一旦均衡してしまった状況を元に戻すことは、非常な困難を伴う(たぶん不可能でしょう)ことです。
]]> このような状況に、(中小建設業界が)相も変わらず貝のように口を閉ざしたままであるのなら、状況はさらに悪化するだけでしょうし、「発注者」は、公共の領域に「マーケット・ソリューション」を持ち込むことが精一杯になるだけです。これはスパイラル的に中小建設業の環境を悪化させるだけでしょう。私たちは、他力本願で、公共工事を「よし」とする「救世主」の出現を望むしかないのでしょうか。しかし「公共工事という問題」は既に、ひとりのヒーローの出現で解決できるものではありません。この問題に他力本願は期待できません。
今、「公共工事という産業」が行うべきは、自らが行う〈公共工事に対する信頼の再構築〉でしかありませんが、それにはまず、「公共工事という産業」を構成している全ての構成員(発注者、政治、中小建設業)が、〈自らが変化することでしか問題は解決しない〉ことに気づかなくてはなりません。
その気付きがなければ、動き出す力も沸いてこないでしょうし、環境は永遠に好転することもないでしょう。「公共工事という産業」が自ら環境を救えるとすれば、自ら動き出し、自ら変化するしかありません。その行動の相互作用に、環境は好転への可能性を残すのです。それは、ミームという眼鏡を通すことで知り得た可能性です。
「公共工事ダメダメミーム」は、「公共工事という産業」の「技術のミーム」との相互作用で形成されたものです。私たちは、自ら行動が「公共工事ダメダメミーム」の成長に加担してきたことを忘れてはなりません。
公共建設市場は、「金魚論」がいうように、環境依存型の市場です。それは今後もたいしてかわらないでしょう。であれば(依存しなくてはならない環境なら)、その環境にはたらきかけることを忘れてはならないのです。その第一歩が自らの精神文化の変化です。
つまりこの「変化」は、ナイーブな「消費のミーム」への迎合を意味してはいません。本書のいう「IT化」(を通した変化)とは、インターネット社会、つまり「今という時代」に、中小建設業、そして「公共工事という産業」が、市民社会との関係の中で、自らの存在位置の編集作業ができる「精神文化」を自らのものにすることです。
そのことで「コミュニティ・ソリューション」という問題解決方法は機能しはじめますし、市民社会との「ソーシャル・キャピタル」の蓄積と関係の編集を目指すことも可能となるでしょう。
「IT化」とは、その「変革」の精神的な基盤として、私が「コミュニティ・ソリューション」の中枢にあると考える「インターネットの精神文化」に、自らを開放(コミット)することでしかありません。
つまり、本書が行ってきた議論を寅さん風にいうなら、「信頼をなくしちゃおしまいよ!」なのですが、「インターネットの精神文化」には「安心のシステム」にはない「信頼」の秘密があります。
「公共工事という産業」は、長い間「信頼」意識せず「安心」で維持できた稀有な産業であることで――それは、偶然それが許される時代環境(開発主義)があったからですが――、信頼の構築が、とびっきりへたくそなのです。
本書の意図とは、「公共工事という産業」の信頼を、市民社会とどうしたら構築できるのかを、「IT化」の文脈、つまりは「コミュニティ・ソリューション」の文脈で考えてみましょう、というものであって、それ以上でも以下でもありません。
「公共工事という産業」の「IT化」を語る時、私は「コミュニティ・ソリューション」の可能性という文脈でのみその可能性を信じることができます。〈「公共工事という問題」の前では、技術論的なIT化など、なんの役にも立ちはしない〉のです。
本書が、「中小建設業」や「公共建設市場」の仕組みを『「わからない」という方法』で考えてきたのは、公共工事の良し悪しを判断するためではありません。ただ中小建設業が「今という時代」に、そして「これからの時代」に、生き延びる術(すべ)を見つけようとしただけのことです。
そして問題は、「安心のシステム」の硬直性にありました。それが「公共工事という産業」の特徴であるのは、戦後の開発主義の裏側で進められた配分重視の経済政策への、「公共事業という産業」からのミーム適応の結果なのです。
それは公共工事における請負契約の内容が、一方的に発注者に有利になっている片務性――請負制度は請負「うけまけ」と呼ばれている――や、参入に際して不確実性が存在する市場環境へのミーム適応の結果だと(ミーム進化的に)考えればよいのです。
つまり、環境が「安心のシステム」の必要性を生み出したのであって、であれば、環境が変化すれば、我々も変化すればよいのだけのことなのです。
自らが変化することで環境にはたらきかける。そのことでしか私は私を救えないのがミーム進化です。その働きかける環境は「インターネット社会」を観察することで見えてきたことなのです。
最初に指摘したように、ミームは、ここ掘れワンワンの「ポチ」にすぎません。問題発見のツールにはなりますが問題解決はできません。本書がなにがしかの問題点を指摘しているとすれば、それはミームが「ここ掘れワンワン」と教えてくれたものです。しかし気づいただけでは何も変わりません。つまり気づいたのなら、今度は動き出すしかありません。
]]>私たちは、既存の権威がすでに機能しなくなりつつあることを知っています。アカウンタビリティやパブリック・インボルブメント(PI:政策形成の段階で人々の意見を吸い上げようとするために、人々に意思表明の場を提供する試み)が、昨今の公共工事でいわれている背景には、市民社会という公共工事に対する「消費のミーム」の主の台頭と同時に、「既存の権威」の崩壊という問題があります。それは「ヒエラルキー・ソリューション」の崩壊のはじまり、といってもいいでしょう。
]]> 「今という時代」は、学歴や、職業や、資格や、たとえば中小建設業の場合、経審や建設業許可やISO云々(つまり「技術のミーム」であり「能力」の信頼を担保するもの)、そういうもので自らが「品質保証済みの人材」であることをプリンシパル(市民社会)に対して証明することが限界に達している時代なのです。それはなによりもメタ情報としての「信頼」、「ソーシャル・キャピタル」が形成されていないからです。「ソーシャル・キャピタル」をアローの言葉を借りて表現すれば、《それらは目に見えない制度であって、実は、倫理や道徳の原則である》となるのですが、既存の権威の崩壊という現実こそが、倫理や道徳の原則としての「ソーシャル・キャピタル」が、今後の公共事業にとっても、ますます重要となることを意味しています。
「公共工事パッシング」と呼ばれる社会的な心象は「消費のミーム」です。それは「ソーシャル・キャピタル」の欠如の文脈で形成され、主流のミームとなってきたものですが、つまり「公共工事という産業」が、市民社会との「ソーシャル・キャピタル」の蓄積を怠ってきたツケが、「公共工事ダメダメミーム」の重低音には流れているのです。それは、エージェント(ここでは発注者だけではなく「公共工事という産業」の構成員、つまり、発注者、政治、建設業界)が自ら生み出したものでしかありません。
つまり、ここでも「相互作用」は機能しています。「公共工事ダメダメミーム」は、消費者がかってに作り出したものではなく、消費、技術双方のミームが相互作用的につくり出してきたのです。ですから「公共工事という産業」が、旧来からの「技術のミーム」や「安心の担保」にこだわればこだわるほど、「公共工事ダメダメミーム」という「消費のミーム」は相互作用的にその勢力を大きくするだけなのです。
]]>結局、公共工事に対する「消費のミーム」とは、「発注者」と市民社会との関係で簡単に変化するような曖昧なものでしかありません。ここではそれを、「プリンシパル・エージェント問題」(省略して「エージェント問題」)として考えてみましょう。
]]> エージェント(代理人)とは、依頼者(プリンシパル)に代わって依頼者のために働く人のことですが、「今という時代」の「発注者」(政治家もですね)は、有権者(納税者・国民・市民社会)の代理人として存在している、という認識でいいでしょう。つまり、公共工事が信頼を構築できないでいるのは、この「エージェント問題」が問われているのです。「発注者」である「官」が、公共建設市場における唯一の「消費のミーム」の持ち主として機能し、かつ市民社会が認める正当な代理者であれば、「発注者」の「意図に対する信頼」は市民社会の「消費のミーム」の中に織り込み済みであることで、「公共工事という問題」はたいした問題ではありません。
「発注者」が、市民社会の代理人として、第三者からの調達で職務を履行しょうとするとき、その調達行為が、市民社会からの信頼の上に成り立っているなら、公共工事の信頼の問題は起こりようもないのです。しかし今問われているのは「発注者」の信頼です。そのことで「エージェント問題」としての「発注者」のあり方が、問題として表面化しているのが「今という時代」なのです。
エージェントは依頼者の利益を代表すると同時に、自分自身の利益も考えて行動します。したがって、二人の間の利益が一致しない場合には、エージェントは自分の利益を重視して、依頼者に不利益を与えてしまう可能性があります。これをどうやって避けるかというのが、「エージェント問題」の本質です。(山岸,2002,p125)
つまり、公共工事の依頼者(プリンシパル)が市民社会であるなら、エージェントとしての「発注者」(お役所)は、正しく市民社会の利益を考えているのか、という問題がクローズアップされます。山岸によれば、この「エージェント問題」の典型的な解決策が江戸時代における「目付制度」であり、イギリスのパブリックスクールの教育だというのです。
「エージェント問題」は、「エージェント問題を生まない品質保証済みの人材」に対する大きな需要を生み出します。(山岸,2002,p126)
そうであれば(そうであることは間違いありませんが)、公共工事の依頼者としての市民社会は、その代理人としての「発注者」が「品質保証済みの人材」であることをどのような方法で認識するのか、という問題を提起していることになります。
結論からいえば、発注者は、自らが「品質保証済みの人材」であることを証明する術を持ってはいません。正確には「なくしてしまった」といったほうがよいかもしれませんが、それは「公務員」という、かつてはあった権威の崩壊を意味しています。
市民社会に対する「発注者」の「意図に対する信頼」は、自らが「公務員」である、という社会的身分に一任されているだけなのです。そして問題は、その社会的身分の失墜です。それは「今のという時代」に、従来の権威的なモノサシがたいして機能しなくなっていることを意味しています。つまり「ヒエラルキー・ソリューション」が絶対の問題解決策であった時代は、もはや終わろうとしているのです。
]]>本書はすでに、公共工事に対する最大の「消費のミーム」の持ち主は市民社会である、と指摘していますが、ここでは基本に立ち返り、公共建設市場を構成する「技術のミーム」と「消費のミーム」の確認から、この市場の本当の買い手(顧客)を確認しておきましょう。
]]> ここで公共工事の「消費のミーム」にこだわるのは、「公共工事の顧客は誰なのか」を本気で意識してほしいことと(顧客を知らないのであれば商売ができるわけもありません)、思考のあきらめ、たとえば「既存のヒエラルキー・ソリューションとマーケット・ソリューションのどっちを択肢しても、もはや中小建設業は救えない」という思考の閉塞こそが、「公共工事ダメダメミーム」をつくりあげていることに気付いていただきたいからです。先に概観したように、公共工事の「技術のミーム」とは、建設業許可、技術職員、経審、営業年数、ISO9000's・14001の認証取得等々(お役所さんから言われたモノ)に収斂してしまっています。
これらは、能力に対する信頼を形成しようとしてはいますが、それは受注者が「発注者」である国や自治体(以下「発注者」と呼びます)へ、自らの能力の信頼情報を提供することが第一の役割です。そして二義的に市民社会に対する「発注者」のアカウンタビリティ(説明責任という「意図に対する信頼」)を担保しようとしています。
つまりこれは、公共事業の「技術のミーム」で、市民社会に対する「発注者」のアカウンタビリティを担保することが、二義的な役割で十分であった時代(それが開発主義の時代)の残像です。
開発主義の政策目標は、国土の均等ある発展というスローガンに基づく「配分」なのですから、発注者は公共工事複合体の一員として、工事量の十分な提供を背景に、「発注者」が発信元である(誰でもできることが前提の)「能力に対する信頼」を担保する「技術のミーム」で、中小建設業という「産業」を束ねることができました。そうしなくては、地場経済の活性化も地域雇用の確保も達成できなかったのですから、それは開発主義的な大義名分として機能できたのです。
しかし「今という時代」では、多くの受注者(中小建設業)が(未だに)顧客(つまり「消費のミーム」の主としての買い手)だと理解している「発注者」は、市民社会に対しては、サービスの提供者としての「売り手」の立場にあります。
つまり、市民社会が公共サービスの「買い手」としての立場を鮮明にしているのが「今という時代」=インターネット社会の特徴なのですが、この「発注者」が持つ市民社会向けの「売り手としての意識」と、中小建設業への「買い手としての意識」にはトレード・オフの関係があります。
(A)公共工事において、「発注者」が市民社会へのサービス提供者としての「売り手としての意識」を大きくすれば、彼らは市民社会のエージェントとしふるまいます。つまり公共工事でさえ(市民社会に代わって)「モノを買う」視点を大きくし、市民社会との「意図に対する信頼」を構築しようとします。このことは、市民社会の「消費のミーム」が「発注者」の「技術のミーム」を規定することを意味します。つまり、「発注者」の「技術のミーム」は、市民社会の「消費のミーム」をより反映するものとなり、「発注者」が市民社会の代弁者(代理人)として中小建設業の「技術のミーム」を形成することになります。
(B)逆に市民社会へのサービスの提供者としての「売り手としての意識」が小さい時には、「発注者」の立場は、何らかの「安心のシステム」が担保していることを意味しています。この場合、自らの意図を市民社会に対して証明する必要がありませんから、「発注者」は「お役所的」に振舞うということができます。そして中小建設業に対しては「公共工事という産業の構成員」として振舞い、発注者の持つ「技術のミーム」は≒中小建設業の「技術のミーム」となります。これが(A)と決定的に違うのは、その「技術のミーム」が市民社会の「消費のミーム」を反映させる必要がないことです。
これを市民社会側から見れば、
(A')市民社会がサービスの「買い手としての意識」を強くすれば、発注者は「売り手としての意識」を大きくせざるを得ない。よって(A)が成立する。
(B')市民社会にサービスの「買い手としての意識」が弱ければ、発注者は「お役所的」に振舞う。つまり「売り手の意識」は小さい。よって(B)が成立する。
これを相手の「意図に対する信頼」の担保という観点からみればこうなるでしょう。
(A'')「発注者」の市民社会に対する「売り手としての意識」が大の場合、「発注者」の「意図の信頼」を担保するのは、市民社会の持つ「消費のミーム」に規定される度合いが高くなる。その「意図の信頼」を担保するものを「発注者」自らが持ち得ない場合、発注者が自ら持っている「意図の信頼」を証明する方法以外のモノ(例えばISO等の外部制度)に、自らの「意図の信頼」の担保を依存する傾向が強くなる。
(B'')逆に「売り手の意識」が小さければ(お役所的に振舞うことができるのであれば)、「意図の信頼」の担保に対する〈他者〉依存は小さい。
たとえば、小泉政権における反公共事業(公共事業予算の縮減を"よし"とする)という時代の空気(エートス)は、今まで行われてきた"景気対策のため"といわれる公共投資が財政赤字を膨らませ続け、そしてそれが景気回復につながらなかった(五十嵐敬喜の指摘,『市民の憲法』,早川書房,2002年,p209-212)という国民(それも都市部)からの機会費用・取引費用の問題意識を背景に構築されてきたものです。
これは強烈な「公共工事ダメダメミーム」ですが、このような状況下では、市民社会へのサービスの原資そのものが緊縮してしまうことで、市民社会が「サービスの買い手としての意識」を強くします。そのことで「発注者」は、市民社会に対して(サービスの)「売り手としての意識」(納税の対価としての公共サービス)を大きくせざるを得ませんし、中小建設業に対しては、公共工事という産業の構成員の一員というよりも、市民社会の代理人として「買い手としての意識」(サービスを買う)を強くせざるを得ないのです。
ここに、昨今「発注者」に対していわれる「モノをつくるから買うへの発注者視点の変化」があります。この視点変化が強調される背景には、(市民社会からみた)機会費用・取引費用の問題が存在しているのですが、しかし、いくら視点を変えたところで、肝心の「買う能力」が不足していたり、発注者が「公共工事という問題」から自らを切り離す、つまり自らの保身が最優先なら、短絡的な「似非マーケット・ソリューション」が繰り返されるだけでしょう。
「発注者」が市民社会に対して、「意図に対する信頼」を構築する必要から(A'')の状況は生まれます。昨今は、市民社会が「マーケット・ソリューション」を「よし」とする「消費のミーム」を持つために、公共工事がマーケット・メカニズムを導入せざるをえない状況へと押し流されています。
市民社会がマーケット・ソリューションを優先する風潮から、民間技術力の導入を大義名分にした「性能規定発注方式」の採用や、制限付き一般競争入札が導入されている状況を私たちは目のあたりにしているわけですが、公共建設市場のIT化のシンボル的存在である「CALS/EC」にしても、それがCALSである限り、本来はこの文脈で機能するものでしかありません。
かなりややこしい話をしてきましたが、「発注者」に内在する相反する性格(「売り手としての意識」と「買い手としての意識」)の二極間の振れ具合によって、公共建設市場の性格(市場規模や市場が持つ目的)は簡単に揺れ動くのです。そして、受注者としての中小建設業の「技術のミーム」は、この市場の性格の振れ具合によって左右されます。
「今という時代」の「消費のミーム」は、市民社会がサービスの「買い手としての意識」を強くしている方向に振れています。「発注者」は市民社会にはサービスの「売り手としての意識」を大きくせざるを得ません。よって(A)が成立してしまうのです。つまり 〈公共工事の顧客は市民社会である〉ことが理解できるはずです。
この発注者の意識の振れは、初期値が100/0というような極端なものではないでしょうが、これも頻度依存的な行動によって相補均衡が成立するとなれば、変化は一挙に極に振れるものだと理解しておかなくてはなりません。さらにここで注目すべきは、自治体という不可思議な発注機能の存在です。彼らはまるで主義主張がないかのように振舞います。
それは、彼らもまた信頼のない社会で、なにかしらの安心に頼る存在でしかないからですが、ここでは先に紹介した友人からのメールを思いだしてほしいと思います。
ただ、ここでいえることは、公共工事の実施主体である「発注者」、そして中小建設業が、「今という時代」で生きるために選択できる象限(居場所)とは、インターネット社会の第Ⅱ象限である、コミュニティを指向したところでしかない、ということです。
]]>「マーケット・ソリューション」の台頭は、中小建設業に「安心」を提供してきた集団主義的社会の組織原理が、機会費用の増大で高く付き過ぎる、と多くの国民が感じるところから始まっていることは確かです。そうしてこう繰り返しているのです。
「世の中、飼い慣らされた金魚ばかりだから餌がたくさん必要になって国の財布はすっからかん、挙句の果てに借金までしなくちゃならない」。
]]> ここでいう機会費用が高いという心象は、公共工事という「共有地」のステークホルダーとしての市民社会が持ち始めた「消費のミーム」のひとつですが、この心象は、地場型公共工事複合体(公共工事という産業)の崩壊を意味します。なぜなら、これに一番敏感なのが発注者という「公共工事という産業」のメンバーだからです。ここでは、私の友人からのメールを紹介しましょう。
最近、業界の方々とはなしをしていると、決まって話題になるのが発注者責任です。官庁技術者が役所の内部で信頼を失い、事務方が入札・契約システムの主導権を握り、企業の専門性や技術力が個々の入札行為に反映されていないとの不満が広がっています。
この問題の背景には
①役所はもう技術力がない。
②経営事項審査や競争資格審査は欠陥だらけで玉石混交の業者が交じっている
という実態にふたをした、自治体の保身的な姿勢にあります。でも、中には「技術と経営に優れた建設企業を残していくために、事務方とけんかしながら議論している」という腹の座った官庁技術者もいます。(本当に少ないけど…みんな退職金がパーになることだけを恐れている)
自らが「公共工事という産業」のメンバーであり続けることで、自治体の職員が自らの退職金を無にしてしまう可能性が高まることは、(「公共工事という産業」のメンバーであることで)取引費用や機会費用が増大する(損をする)ことを意味します。だとすれば、それを回避するのは当然のことです。
それは昨今の首長選挙でも顕著でしょう。今や、多くの自治体の首長は「公共工事という産業」を後援者として選挙を戦うことは、機会費用(構成員としての仲間以外からのたくさんの票を失うこと)を大きくするだけである、と考えているのでしょう。
発注者である自治体は、きわめて利己的に、市民社会の持っている「消費のミーム」に敏感になります。ただしそれさえも「官僚は自ら所属する組織の予算と権限を最大化する」というスティグリッツの法則の文脈においてですから、市民社会が「公共工事という産業」への「意図の信頼」を持てなければ、つまり、発注者が自らの意図の信頼を、従来型の指名競争入札制度を通じて市民社会に対して証明することができなければ、発注者は、このシステムを維持したときの取引費用や機会費用を考え始めます(つまり保身)。
「談合の結果入札価格は高くなり、それが納税者に不利益をもたらす」というような、まことしやかな言論が繰り返され、結果、発注者は「公共工事という産業」とその問題から自らを切り離します。そこでは、市民社会に迎合する形で、自己保身を目的とした制限付き一般競争入札のような「似非マーケット・ソリューション」がまかり通ります。
本来、「談合」が法的に違法だとされるのは、それが独禁法でいうカルテル行為のひとつであり、販売者が自由に競争した結果、需要と共有の関係を反映した価格が決まるような自由主義経済システムのあり方に反するからです。入札価格が高くなることが理由ではないのですが、そのような核心的な議論はお構いなしのなのが「公共工事ダメダメミーム」の特徴です。そんな「公共工事ダメダメミーム」は、気まぐれのようなものでしかありません。(ミームは自己複製子であるので、気まぐれは当然といえば当然なのですが)。
しかし、このような「マーケット・ソリューション」への傾向が大きければ大きいほど、中小建設業を取り巻く環境は、本来の自由主義経済システムでの競争とは呼べないような、むしろ統制経済システムでの「指値制度」のような、カッコ付きの「競争」を下敷きにした不毛なものとなってしまうことは避けられません。
これは、先に「対極のルールの失敗」で指摘したように、開発主義の残像上でのふたつのソリューション(問題解決策)がおこなわれることの限界なのです。
今までの経済学が考え出したふたつのルールである「ヒエラルキー・ソリューション」と「マーケット・ソリューション」のどちらにしても、それがいつでも「お役人」が仕切る、という前提がある限り、このふたつの対極のルールは、(結局どっちに振れても)中小建設業には淘汰の原因ぐらいにしかなれません。つまり中小建設業はここで万事休すなのです。
このような公共工事に対する「消費のミーム」である「公共工事ダメダメミーム」を形成する「ミーム・コア」は、新聞やテレビなどのマスメディアを媒体に大量に社会に流され続けることで、しっかりとミーム淘汰を生き抜き、そして主流のミームと呼べるものとなってしまいました。
このミームの特徴は、「マーケット・メカニズム」といカビ臭い問題解決方法が、インターネット社会でも、G軸(グローバルな方向性)でいわれるグローバリゼーション(というよりも「アメリカニズム」)がいう、新古典主義的な経済理論と同じように扱われることで、その正当性を主張し、時代の「振れ」には逆行しないことなのです。だから主流になれたのであり、強力な力を持っています。
インターネット社会においてさえ、本来「コミュニティ指向」(第Ⅱ象限)の存在でしかない市民社会や自治体が、このようなグローバル指向に寄った問題解決方法しか選択できないとすれば、彼ら(市民社会)がいる社会(つまり日本という国)もまた「ソーシャル・キャピタル」を生み出せない悲しい空間でしかありません。山岸俊夫のいうとおり、「安心の崩壊」の問題とは、なにも公共事業だけの問題ではなく、現在の日本社会が直面する「安心の崩壊」の問題でしかないようです。
こうして「公共工事という問題」の根源は、とても中小建設業が自らの手で解決できるものではなくなってしまっています。そして、打開の糸口はさらに見えなくなってしまっているのです。つまり〈「ヒエラルキー・ソリューション」と「マーケット・ソリューション」というふたつの社会的選択肢には、もはや中小建設業を救える道はない〉ように思えます。
私自身は、このふたつの問題解決方法が、中小建設業の抱える問題解決の糸口を示してくれるものではない、と言い切れますが、社会的な問題解決方法としてのこのふたつのすべて否定しているわけではありません。ただ「公共工事という問題」においては、「コミュニティ・ソリューション」という問題解決方法をベースにすべきだろう、というのです。
]]>さて、「公共工事という産業」を維持してきた「安心のシステム」とでも呼べるものをどのように解釈するにせよ、このシステムは、仕事量という環境パラメータの増減によって、いとも簡単に機能できたりできなくなったりすることは明らかです。つまり、「全員に行渡る仕事がある」という環境では、この行動原理は機能しますが、「全員に行渡る仕事がない」という環境では機能することはできません。なぜなら、この「安心のシステム」の構成員が自ら忠実な構成員足ろうと思えるのは、構成員として満足できる仕事の配分を受けることが可能な状態(もしくはそう思える状態)が継続されている場合にしかありえないからです。
]]> このように「安心のシステム」が機能できない環境(仕事がない)をつくりだすことで、「公共工事という問題」を解決しようとする方法が「似非マーケット・ソリューション」だといってもいいでしょう。この仕事量という環境パラメータは、なによりも強力に機能します。それは、私が「本来の意味」という「談合」ばかりでなく、官製談合のような、裏ヒエラルキー・ソリューションが支配する市場をも簡単に崩壊させるものです。それは第一に「仕事がない」という環境をつくりだしている、公共工事の財源の枯渇という根源が、すでに「ヒエラルキー・ソリューション」の影響が及ぶところにはないからです。
そして第二には、仕事量を減らそうとする「公共工事ダメダメミーム」の持ち主が、公共工事を「共有地」と考える市民社会や地域社会であるからです。
これらが「今という時代」(インターネット社会)に市場という環境をつくり出しているものなのです。仕事量の縮減は、裏であれ表であれ、公共工事における「ヒエラルキー・ソリューション」が機能できなくなることを意味します。
このような変化を支えるものが、まず、「ヒエラルキー・ソリューション」の衰退とそれに歩調をあわせるように表出する、「マーケット・ソリューション」側への時代の振り子の触れです(グローバルへの方向性)。
そしてインターネット社会の特徴ともいえる、市民社会や地域社会いう公共工事を「共有地」と考えるステークホルダーの台頭は、「今という時代」の振り子がC軸(コミュニティへの方向性)へも振れていることを意味しています。インターネット社会は、これらふたつの方向性の共存を容認してしまえる社会なのです。
つまり、「今という時代」に「公共工事という産業」が直面している様々な問題は、この「マーケット・ソリューション」という、いささかカビ臭いけれども、かえってそれが新鮮味を持っているリバイバル・ソングのような問題解決方法の復活と、「インターネット社会」という新しい時代が浮かび上がらせたコミュニティへの方向性、つまり市民社会という「公共工事産業」に対する「消費のミーム」の持ち主の台頭という、ふたつの現象が絡み合っていることで、強力な力を発揮しているのです。
このことは、中小建設業の今後のあり方について、さらに厄介な問題が存在することを示しています。それは、市民社会という公共工事最大の消費のミームの持ち主が「マーケット・ソリューション」という問題解決方法を選択してしまっている、という問題です。
「インターネット社会」では、コミュニティへの方向性を持つ「第Ⅱ象限」に足場を持つ市民社会であれば、「コミュニティ・ソリューション」を問題解決方法に基盤にすべきなのに、グローバル指向の特徴である「マーケット・ソリューション」を支持する方が多いのです。これは市民社会が、「公共工事という産業」の「安心の担保」の崩壊を優先している結果だ、と考えることができるでしょう。
市民社会は、「公共工事という産業」を、「これはなんかヘンだ、信用ならない」とぼんやりとと感じているようです。このぼんやりとした感覚こそが、「今という時代」に公共工事に対する「消費のミーム」形成の重低音として流れ複製されているでミーム・コアなのです。
この感覚が「消費のミーム」なのです。このミームは、公共工事に対するさまざまな批判的意見の複合体なのですが、「公共工事という産業」を否定する方向でベクトルを重ねあわせ、より複製しやすい、わかりやすい、つまり強力な伝播力を持ったミームとなってしまっています。このミームを、私は「公共工事ダメダメミーム」と呼んでいるのです。
市民社会と「公共工事という産業」の間には深い溝があるようです。この溝が深まれば深まるほどに、「公共工事ダメダメミーム」という「消費のミーム」は、公共工事そのものばかりか、「公共工事という産業」の構成員である中小建設業を否定し始めます。
そしてこの「消費のミーム」は、「マーケット・ソリューション」を「よし」とするミームを内在することによって、問題解決方法選択の振り子を「ヒエラルキー・ソリューション」の対極へと振れさせる原動力になってしまっています。結局、この「振れ」をつくり出しているのは、市民社会と「公共事業という産業」との関係性の希薄さ、つまり、「ソーシャル・キャピタル」の欠如のためだ、と私は考えるのです。
「公共工事という産業」に限らず、日本が産業化の中で失ってしまった「ソーシャル・キャピタル」の蓄積は、市民社会をして、あらゆる問題解決方法を「ヒエラルキー・ソリューション」と「マーケット・ソリューション」という両極でしか考えられない状況をつくり出しているようです。
これはわが国が明治以降の産業化の中で、市民社会という概念そのものを無視してきた結果なのでしょうが、「今という時代」に(インターネット社会の必然として)突然台頭することとなった市民社会が、「ヒエラルキー・ソリューション」の腐敗とその限界を見たとき、「マーケット・ソリューション」を選択してしまうのもしかたがないことかもしれません。
彼らもまた、「今という時代」に、自らの存在位置を確認できていないのです。しかしこのことが、発注者をして「似非マーケット・ソリューション」に走らせている原因であることも間違いのないところなのです。
「公共工事という産業」を棲家にする「地場型公共工事複合体」の存続には、なによりも「仕事がある」環境が必要なのです。かつては自らが増殖するにも十分な仕事量の確保さえ、この集団自らが可能とした時代があったかもしれませんが、「今という時代」の仕事量という環境パラメータの方向性は、「縮減」でしかありませんし、仕事量という環境パラメータを「公共工事という産業」自らが操作することは、もはやほとんど不可能なことでしかありません。
それは開発主義的政策が、数々の既得権益産業を道連れに本格的な終焉を迎えようとしていることを意味しています。これに対して、仕事量の縮減という環境でさえ、強力な「安心の担保」を持った少数の構成員だけが、より強力な内集団ひいき原理を持って旧来のシステムを維持しようとするだけだ、という反論があるかもしれませんが、しかし、そのような組織の存在さえ困難になることはすでに自明の理でしかないでしょう 。
]]>本書では、「安心の担保」に依存した権限と統制力による秩序の維持方法を、「ヒエラルキー・ソリューション」とみなした議論を行っていますが、官製談合などは、正確には「(裏)ヒエラルキー・ソリューション」とでも呼んだ方がよいかもしれません。
]]> ヒエラルキー・ソリューションの表/裏は、まさに一体なのです。政治家や自治体の首長でさえ、選挙ともなれば、堂々と中央とのパイプの太さを自らの売り物にし、国の予算を地元にもってくることを、第一の公約とする時代が長く続いていたことがそれを象徴しています。つい最近まで(今でも)このようなやり方が民主的に(選挙という手段で)支持され続けてきたのです。そもそも信頼をベースにできない不確実性に満ちた社会での問題解決方法のひとつが、権限と統制力を持つ第三者が統制する仕組みである「ヒエラルキー・ソリューション」です。これは、「共有地の悲劇」(コモンズの悲劇)というモデルの強権的解決方法のひとつでもあります。
「共有地の悲劇」とは、集団のメンバー全員がそれぞれ自発的に協力的な行動をとれば、すべてのメンバーにとってはよい結果になることは分かっているのに、個々のメンバーそれぞれが自分にとって合理的な行動をとろうとすると、結果としてだれもが不利な状態がもたらされるという、ひとつの典型的な社会状況を表したものです。そのような社会的な状況において、権限と統制力を持つ第三者が統制する仕組みが「ヒエラルキー・ソリューション」なのです。
この形態だけを見れば、官製談合さえも、「共有地の悲劇」が生み出した「ヒエラルキー・ソリューション」である、といえるかもしれません。しかし、この議論も底の浅いものです。公共工事が、「本来誰の共有地なのだろうか」という疑問が首をもたげた途端、この正当性は簡単に崩れてしまいます。
では、公共工事は、誰の「共有地」なのでしょうか。本書では、「公共工事という産業」という言葉をなんの断りもなく使用してきましたが、この言葉は、今までの公共工事が、「地場型公共工事複合体」(地場だけはありえないが)を構成する、政治家、行政(発注者)、建設業の「共有地」であったことを意味しています。
公共建設市場という意味での公共工事が、「公共事業という産業」の共有地であることは今後も変わらないでしょう。しかし、私たちは「市場」という言葉がたいして意味を持たない「公共工事」という共有地の存続に、大きな発言権を持った新しいメンバーが加わってきたことを感じているはずです。それが「市民社会」や「地域社会」という公共工事に対する真の「消費のミーム」の持ち主であることは、今までの議論でも明らかでしょう。
]]>「配分のルール」に依存した公共建設市場において、所属団体や、OBさんの有無や、政治的な活動とかが、あたかも広義の技術のミームのように機能しているとすれば(現実には機能し続けてきたのですが)、それはこの市場が「内集団ひいき原理」によって維持されてきた集団主義的性質をもった市場であることを自ら証明してるだけでしかありません。
]]> 所属団体とか、OBさんの有無とか、政治的な活動とかは、内集団ひいき原理の働く集団で自らがその構成員であるための「安心の担保」なのです。それらは、第一義的には集団主義社会の構成員である証(あかし)として機能します。しかし、この横並び意識の強い、人とちがったことをしない、という「自己隠蔽傾向」の強い集団で、自らが集団の構成員であることを維持しながら、「よそ」よりも少しでも優位に多く仕事を確保しようとすれば、結局は人とちがった行動をしなくてはなりません。つまり、この集団の中でも「よそ」と同じことをして、配分を待っているだけでは、自らの受注優位は確保できないのです。ただ、その「よそと違った行動」が掟破りにならないようにする必要はあります。そこで、「安心の担保」の提供者と自らとの関係を深めることによって、集団内での競争優位性確立を図ることになります。この「安心の担保」の提供者と自らとの関係の深さは、そのちがった行動の安全性を保証しながら、なんらかの差別化された特典を自らに提供するような機能も果たす効果を期待されることになります。つまり、ここでは、集団内での優位性確保の競争がおこなわれることになり、その基準は「安心の担保」の提供者と自らのとの関係の深さによって決まる、ということです。
「配分のルール」という「ヒエラルキー・ソリューション」が機能する公共建設市場では、権限と統制力を持つ第三者、つまり「安心の担保」の提供者への「意図に対する信頼」の依存度(つながりの深さ)によって、競争優位性が決まる、というような市場環境が生まれます。それが個々の企業をして「安心の担保」を「コア・コンピタンス」にように思わせているのです。ですから、「安心の担保」は、業界内では他社との差別化の要因として機能してきたのです。
たとえば「天の声」と呼ばれるものがあります※。天の声が機能するような状況があるとすれば、この「内集団ひいき原理」の働く集団の構成員には、「天の声」の主が含まれている、ということでしかありません。私が本来の「談合」とは違うと批判している「官製談合」も、「安心の担保」の文脈で機能しているに過ぎません。
つまり、公共建設市場の「配分のルール」という「ヒエラルキー・ソリューション」は、中小建設業、政治家、地方自治体を構成員とする「内集団ひいきの原理に従って集団内部で人々が協力し合っている集団主義社会」(以下、「地場型公共工事集複合体」と呼びます)のルールでしかなくなってしまっていることで、「公共工事ダメダメミームにさらされているのです。さらに付け加えれば、このルールの最大の欠点は、この「安心の保証」のシステムが、市民社会とのコミットメント関係の形成においては、全く逆の機能、つまり、信頼の崩壊の原因としてしか機能していない、ということなのです。
※「天の声」
流行語部門・銅賞
受賞者:受賞対象者が拘留中のため保留
政・官・業の腐敗構造はますます深刻化している。1993年は“談合”によるゼネコン汚職が問題化した。自治体の公共事業を、業者間の談合で入札企業を決めていたというもので、この際、地方首長の意向を「天の声」と呼称していたという。本来の用法と異なり、隠語として「天の声」が多発されていたとなると、もはや立派な新語と解釈するしかないとした。(『現代用語の基礎知識2001』 自由国民社より引用)
山岸俊男は、現在の日本社会が直面する問題を、「信頼崩壊」の問題としては考えていない、といいます。そうではなくて、これまで「安心」を提供してきた集団主義的社会の組織原理が、機会費用の増大というかたちで高くつきすぎるようになったことが生み出した「安心崩壊」の問題だと考えている、というのです。(山岸俊男,『安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書)』,1999,p237-238)。次に山岸の意見を引用しますが、「公共工事ダメダメミーム」が形成される背景には、このような専門家の意見があることも理解できるかと思います。
]]>これまでの日本社会では、コミットメント関係の内部で情報を共有しながら外部に対しては情報を漏らさないというやり方で関係を安定させ、その内部で社会的不確実性を低減してきました。情報開示と政治や社会的諸制度の透明化は、まさにこの正反対のやり方で社会的不確実性を低下させ、安心の提供をはかろうとするものです。
前者のやり方の典型的な例としては、公共工事の参入に際して不確実性を低めるためには、企業間で談合を行ったり、特定の代議士の後援会に加入して地域ボスと密接な関係を保つ建設業者のやり方があります。
これに対して後者の方法による不確実性の減少は、公共工事への参入に際してすべての障壁をとりはらい、意思決定過程がすべて透明に行われる場合です。この場合には談合や政治家との結びつきによってもたらされる確実性の保証は存在しませんが、客観的基準以外の理由によって理由によって契約が恣意的に拒否されるという意味での不確実性は存在しなくなります。(山岸,1999,p245)
さて、中小建設業の「狭義の技術のミーム」として指摘した建設業許可や技術職員の数や経審の点数や営業年数やISOなどは、ふぐ屋の調理免許のようなものであり、市場参入要件にしか過ぎません。しかし、それはそれで公共建設市場における能力の信頼を裏付けるメタ情報であり、決して軽視しできないものであることも確かです。しかし、これだけではビジネスにならないのは、ふぐ屋も中小建設業も本来同じはずです。なによりも「おいしい」というような「広義の技術ミーム(コア・コンピタンス)」と、それを支えるもうひとつのメタ情報である「意図に対する信頼」が必要なのが本来の市場のはずなのです。
]]> ここで、この「広義の技術ミーム」が中小建設業では何にあたるのだろうか、と考えると、そもそも中小建設業にコア・コンピタンスとしての「広義の技術ミーム」はあるのだろうか、そしてそれを支える「意図に対する信頼」というものは形成されているのだろうか、という疑問が湧いてくるはずです。結論からいってしまえば、中小建設業には「コア・コンピタンス」も「意図に対する信頼」も存在していないのです。中小建設業、特に配分のルールが主流な公共建設市場という市場は、そもそもコア・コンピタンスを要求してはいないのです。
特にバブル経済崩壊後の、景気対策を大前提とした公共工事にはその傾向が強いといえます。そしてそれにかかわる既得権益の出現と社会問題化は、意図に対する信頼も同時進行的に崩壊させている、としかいいようがないのです。つまり、「公共工事という産業」が依存してきた「ヒエラルキー・ソリューション」が今という時代、つまり、インターネット社会に機能できなくなる大きな理由は、この「意図に対する信頼」の崩壊の文脈で考えることができるでしょう。それは「安心のシステム」として金魚蜂の崩壊も意味します。そして、私たちはこういうこともできるはずです。
〈意図に対する信頼を失った市場はやがて市場そのものが崩壊する〉
これに対して、中小建設業にもコア・コンピタンスはある、という反論も十分に予想できます。しかし、その反論が提示できる「広義の技術のミーム」といえば、業界的には「営業力」とか呼ばれているものに過ぎません。この営業力は、確かに業界内では他社との差別化の要因として機能してきたもので、たとえば、それはこんなものを例として挙げることができるでしょう。
とか、まあ、そのようなもの……。
配分のルールが機能する、という条件付きでなら、公共建設市場では、これらはあたかもコア・コンピタンスとしての「広義の技術のミーム」のように、若しくは「意図に対する信頼」を提供する情報のように、それこそメタ情報として機能することは確かです。では、これらが意図に対する信頼の情報を提供するものとして、その情報の提供先がどこなのかを考えてみましょう。
すると、この視線の先には「仲間」しか存在していないことが理解できるはずです。業界外に存在しながら公共工事のステークホルダー(stakeholder:企業に対して利害関係を持つ人。社員や消費者や株主だけでなく、市民社会までをも含めていう場合が多い)である、納税者や有権者などという市民社会への視点などどこにも存在してはいないのです。
市民社会は、今や最大の公共工事に対する「消費のミーム」の持ち主です。つまり、これら、所属団体や、OBさんの有無や、政治的な活動などは、市民社会という「消費のミーム」を無視することで機能するだけであり、決して「広義の技術のミーム」などと呼べるものではありませんし、コア・コンピタンスでもありません。ましてや建設業界の意図に対する信頼を提供する情報だどであるはずもありません。むしろ市民社会に対しては逆の効果(不信)しか提供できないものなのです。それでは、これらはいったいなにものなのかといえば、これらは仲間内でしか通用しない、
〈安心の担保〉
でしかないということです。
]]>中小建設業の「狭義の技術ミーム」は、たとえばふぐの調理免許のようなものです。これは相手の「能力」に対する期待としての信頼を担保します。ふぐ屋を開業するには調理免許は最低限の適応課題であり、これも「技術のミーム」には違いありません。この調理免許という狭義の「技術のミーム」は、調理人のふぐを調理できる、という技術(能力)に対する信頼を形成することはできます。
]]> しかし、店開きしたふぐ屋が繁盛するのかどうかの要因は、このような「狭義の技術のミーム」とは別のところにあります。調理免許を持っていることと店が繁盛することはイコールで結ばれることは絶対にないはずです。そこで、オーナーは自分の店の特色を出す努力(経営努力)をすることになるのです。これが「経営」であり「商い」というものです。たとえば、おもいきり低価格戦略を打ち出して、「価格と量」を売りにすることも可能でしょうし、味やサービス、店の雰囲気とか、店主の人柄とか、つまりは私たちが「広義の技術ミーム」と呼ぶものを売りにすることもひとつの戦略です。
でも、それでも商売が成功できるかどうかはわかりません。全てはこのふぐ店の持っている「技術のミーム」を総動員して、「ふぐを食べるならこの店だ!」という「消費のミーム」を形成できるか否かにかかっています。そこでは、なによりも「おいしい」という本質的なものへの依存が大きくなります。このことは、この「おいしい」というような数値で表せない「広義の技術ミーム」が、「狭義の技術ミーム」だけでは「よそ」に差をつけることが難しい市場でのコア・コンピタンスだ、ということです。
そして、ここでもうひとつ指摘できることは、このふぐ屋の例にしても、商売が繁盛するという時には、取引情報の「メタ情報としての信頼」を形成するようなものはちゃんと存在している、ということです。
それは調理人の能力に対する信頼としての調理免許と、たとえば、「天然もののとらふぐ」と表示をしていれば、それは嘘偽りなく「天然もののとらふぐ」であるとか、調理人の「腕と」に対する信頼、たとえば、いつでも誰に対してでも「うまい」料理を提供するし、一見の客にも手抜きはしない、というような、調理人の「意図」に対する信頼です。この「意図」に対する信頼は、ふぐ屋のコア・コンピタンスを支えるメタ情報のひとつと考えてもよいでしょう。
さて、ここにみられる公共建設工事の「技術のミーム」は、受注者(中小建設業)が主体となってつくり出したものではなく、発注者によって規定されたものであることに特徴があります。これは、公共工事における技術や技術者を(かつては)発注者が独占していた、過去の残像のためですが、「技術のミーム」の形成が発注者の要求に規定されていることで、中小建設業は「金魚論」の枠組みから開放されることを許されないのです。
]]> 先に産業の生成で見たように、伝播力の強い「消費のミーム」が形成されれば、それが「産業を規定する力」として機能します。つまり、配分のルールに依存する「公共工事という産業」は、まさに発注者という「消費のミーム」に規定された産業なのです。ただしこれにはある前提条件が存在しています。それは、産業を規定する力としての「消費のミーム」の持ち主が発注者(行政・自治体)だとすれば、発注者の内部で「技術のミーム=消費のミーム」が成立していなければばらない、ということです。これをわかりやすく言うとこうなります。発注者は受注者(中小建設業)にとっては「消費のミーム」の持ち主ですが、実は公共工事は「つくっている」のが発注者である限り、発注者自身が「技術のミーム」を持つことになります。この場合、受注者は自ら「つくっている」わけではありませんから、受注者側の「技術のミーム」は発注者側の要求を超える必要はないのです。つまり、言われた通りにやっていればよいのであって、ここは頭を使って餌を確保する方法を考える必要がない市場ではありません。
このような市場特性に立脚する中小建設業は、企業としては、かなり不思議な存在です。通常のビジネスであれば、売り手であるメーカーや販売店の方が商品に関する情報については優位です(情報の非対称性)。「コア・コンピタンス」が機能するのはこの図式があってのものです。だからこそ市場では「競争力」や「かんばん」や「評判」という言葉が意味を持つのであり、各社、技術開発や宣伝・広報などでしのぎを削るのです。
しかし、中小建設業にそれらを見つけることは困難です。はっきりいえば、
〈中小建設業には「コア・コンピタンス」がない〉
のです。
公共建設市場の「技術のミーム」は、発注者、すなわち「消費のミーム」の持ち主の方が優位にあることが前提であり、その上、その「技術のミーム」は恐ろしく複製が簡単にできるモノです。ですから、〈中小建設業には「コア・コンピタンス」はない〉のであり、つまり、公共建設市場とは、市場そのものがコア・コンピタンスを要求しないように振舞ってきた市場なのです。
このことは、中小建設業の「技術のミーム」が、「公共建設市場の参入要件」のようなもので、「他社に対する受注優位のための条件ではない」ということを意味しています。
中小建設業を営む(もっと狭い意味では公共事業を受注しよう)としたら、これらの「技術のミームは最低限の適応課題(クリアしなければならないハードル)であって、それがクリヤできればビジネスは必ず成功するという保障ではありません。その意味では、先に挙げた中小建設業における「技術のミーム」とは、どちらかといえば「狭義の技術のミーム」であり、受注に結びつく、人を束ねる力を持っていたとしても、それはかなり弱いものでしかない、ということです。
]]>ここまでの理解を基に、私たちはようやく中小建設業における「技術のミーム」を考察することになります。それは、中小建設業では競争力とかコア・コンピタンスを明らかにすることなのですが、ここでは、便宜的に「技術のミーム」をふたつに分けて考えることにします。
]]>と呼ぶこととします。
まずは、中小建設業における「技術のミーム」を思いつくままに書き並べてみましょう。
ここには「お役所さん」からいわれたとか、いわれそうだとか、そのようなものが並んでいます。これらは公共建設市場を形成する「技術のミーム」ということができます。
ここで注意してほしいのは、建設業許可や、経審の制度や、一級土木成功管理技士の認定制度や、ISOの認証などという仕組みや制度は、規格化と定量化の枠組み合意であり、つまり第二種の情報であるということです。そして、そのような規格化と定量化の枠組み合意の上の「値」、つまり、技術者の数とか、経審の点数とか、ISO認証に有無が、第一種の情報として「技術ミーム」を表現してる、ということです。
これらをみると、中小建設業がターゲットとするような公共建設市場を形成している「技術のミーム」は、発注者の要求が受注者(中小建設業)側の技術のミームの形成を促しているものであることがわかります。つまり、
〈中小建設業の「技術のミームは発注者が作り出したもの〉
なのです。これらは、受注者(中小建設業)の能力証明を第一義とするものであり、「狭義の技術のミーム」に分類できるものです。ただし能力といっても、これらを手に入れるのは特段難しいことではありません。例えば、私には配分のルール上の「公共工事定義」がありますが、それは、
〈誰でもできるから公共工事〉
というものです。中小建設業の「技術のミーム」は、この定義からはずれることはありません。そうでなければ、地場経済の活性化と雇用の確保の公共工事は存在できませんし、配分のルールでは発注者であろうとする自治体も自らの立場を失うだけでしかないのです。誰でもができるようなものでなければ、それは特命契約ですし、特殊な技術が必要であれば中小建設業はそもそもお呼びではないのです。つまり、中小建設業の「技術のミーム」は、複製のしやすさをその第一の特徴としているということです。
これを、村上泰亮に倣っていえば、公共工事の「技術のミーム」(生産技術)が、ある時代の社会的環境下で複製(模倣)されやすければ、その生産技術を利用しようとする企業は皆同じような具合で増えていく、となるでしょう。そしてさまざまな経済的交換とその可能性への期待が、それらの企業群を結び目として束ね上げ、「配分のルール」に依存する「公共工事という産業」とそれにまつわる建設関連業を形成してきた、ということです。
公共建設の「技術のミーム」は、ある時代の社会的環境下で複製(模倣)されやすいものだったのです。そしてその環境が長く続いたために、非常に多くの企業数と雇用をかかえてしまっているのです。その「ある時代の社会的環境」とは、もちろん開発主義的な政策と、それに続く既得権益の形成の流れですが、その制度・慣行が、「今という時代」にはそぐわないことで「公共事業という問題」は露呈せざるをえないのです。
]]>ここまでの理解を基に、私たちは、ようやく中小建設業における「技術のミーム」と、その「技術のミーム」が形成してきた「消費のミーム」や「ソーシャル・キャピタル」を考察することになります。それは、公共建設市場における中小建設業の競争力とかコア・コンピタンスはなにか、という考察を意味するのですが、ここでは、「コア・コンピタンスってなに」という方々のために少し寄り道をします。
]]> ここで「技術のミーム」が形成してきた「消費のミーム」や「ソーシャル・キャピタル」と同様に使用している「コア・コンピタンス」という言葉は、G・ハメルとC・K・プラハラードの著書『コア・コンピタンス経営』(日本経済新聞社,1995)によって広められた概念で、簡単には「核心的な競争力」と呼ばれています。ハメル&プラハラードによれば「顧客に特定の利益を与える一連のスキルや技術」と説明されています。この「核心的な競争力」という言葉をそのまま鵜呑みにすると、どうしても現実主義の危険性が付きまとうことになります。つまり過去や今の競争力にとらわれがちになるということですが、ハメル&プラハラードは、むしろ不連続的に変化する未来において強い競争力を保ち続けるための戦略としてこの概念を使っています。
例えば、「顧客主義」という言葉は、いまやだれでもが普通に使う言葉になっているはずです。私も「コア・コンピタンスとは顧客の要求にある」という言葉を好んで使いますが、これは顧客の要求を鵜呑みにすることと同義ではありません。顧客の要求とは、企業が「今できること」に置きがちな戦略視点を「もしかしたらできるかもしれない」に変化させる推進力であると理解するのです。
つまり「コア・コンピタンス」は顧客の要求を超えるところに存在するものなのです。それが自社の「技術のミーム」であるならば、その「コア・コンピタンス」は顧客の要求、つまり「消費のミーム」さえも変化させる力となることを意味します。それを私たちの言葉でいえば、自社の「技術のミーム」は「消費のミーム」や「ソーシャル・キャピタル」を形成する。つまり、
〈顧客との関係をつくりだせる力である〉
ということです。
]]>
さて、私たちはここで、市場を形成する「技術のミーム」と「消費のミーム」というふたつのミーム分類に立ち返ることで、ある産業の持つ「技術のミーム」が「第一種の情報」と「第二種の情報」との束であることが理解できるはずです。
しかし、すでに明らかなように、このような要因だけを自動車という商品の競争力とすることは難しいことです。これは自動車産業とはある意味模倣が容易な技術を基にした産業だ、ということなのですが、このような模倣が容易な技術を基盤にした産業で、競争力の根源(コア・コンピタンス:ここでは自社の商品を消費者に選んでもらえる強力な理由)は何なのだろうか、と考えてみればよいのです。答えは、このような技術模倣が容易な産業での競争力の根源は、
〈企業間にあるわずかなミーム(文化子)の相違〉
でしかないということです。(村上泰亮,1994,p152)
この企業間にあるわずかな「技術のミーム」の相違が、企業と不特定多数の「買い手」の間に構築される組織(広い意味でのコミュニティ)に流れる「ソーシャル・キャピタル」の差、若しくは「消費のミーム」の差を形成しています。この自動車産業に見られるような傾向は、模倣が容易な技術を基盤にする産業ではどこにでもみることができます。一例を挙げれば、複写機業界というのは模倣が容易な技術を基盤にした産業の典型例として考えられます。
たとえばこの業界を代表するX社とR社の製品を比べた場合、その製造者のロゴマークを製品から取り去ってしまえば、どちらがX社製かR社製かを区別することは複写機業界以外の方々には不可能でしょう。
しかし、それでも消費者は製品を選別して購入しているはずです。消費者は「なんでもいいや」とは思ってはいません。ここでの私たちの関心は、その時々に、人々の選好基準をきめているいるのはいったい何なのだろう、ということです。そこには、価格や狭義な技術以外にも、「なんだかよくわからないけれども人を束ねる力を持った情報」が大きなウェートを占めているのではないだろうか、と考えることができるはずです。
これをミームから見れば、経済的交換(市場)では、自社の「技術のミーム」のシェア極大化(マーケット・シェア極大)というのは自然な姿でしかない、ということができます。そして私が「模倣が容易な技術を基にした産業」という部分に「こだわって」例を挙げているのには、もちろん理由があります。それは、
〈中小建設業は模倣が容易な技術を基盤とする産業である〉
ということです。中小建設業の技術模倣が容易でなければ57万社の許可業者が存在し 600万人を超える雇用を抱える産業が存在することなど、説明のしようがありません。
]]>本書では、「なんだかよくわからないけれども人を束ねる力を持った情報」を「ソーシャル・キャピタル」だというのです。それは、金子郁容の言葉では、
ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密である
となり、村上泰亮の言葉では
社会的交換を成立させているのは、まさに時間と対人関係の両面において「粘っこい」蔓の情報に他ならない。
(村上泰亮,1994,p141)
ということです。
]]> ただ、本書が使っている「なんだかよくわからないけれども人を束ねる力を持った情報」を「ソーシャル・キャピタル」だと理解するには、今までの「ソーシャル・キャピタル」という概念の描写が、かなりあやふやなものであったことは確かです。そこでここでは、「信頼」という概念を整理することを通して、その輪郭を明確化することにしましょう。山岸俊男によれば、信頼はふたつに分類して考えることができます。(山岸俊男,『信頼の構造―こころと社会の進化ゲーム』,東京大学出版会,1998年,p35)
この「信頼」の二分類は公共事業に対する昨今の問題を理解するには好都合なものでしょう。例えば、ダム建設に対する推進派と反対派の対立問題を考えてみます。
近くにダムが建設されるという計画が発表されれば、住民の中にはその必要性について疑問を持つダム建設反対派の方々が出てきます。それに対して、ダム建設推進派は治水の問題や、建設による地元経済への貢献期待など、ダム建設による効用のPRを行い、ダム建設反対派を説得しようとします。この場合、ダム建設推進派は、問題はダム建設の効用という「能力」であり、建設反対派の不信は、「能力」に対する不信に基づくものであると考えているわけです。これに対して、建設推進派がいくらダム建設による効用をPRしても、建設反対派の不信はあまり解消しない場合が多いのです。これは建設反対派には、自治体や政治家や建設会社なのどの建設推進派の「意図」に対する不信があって、自治体や政治家や建設会社なのどの建設推進派は、本当のことを住民には知らせないだろうと思っているからです。(山岸俊男,『信頼の構造』の中の「原子力発電所」のはなし(p36)をモデルとしています)。
山岸は、さらにこの相手の「意図に対する期待」を「信頼」と「安心」とに分類しています。ここでいう「信頼」とは相手の人格的なものへの信頼です。これは相手が強力な「良心」を持つ人間だと確信できることで、相手は自分をだまそうという意図を持っていないことを期待できる場合です。一方、「安心」は、相手は自分をだまそうという意図を持っていないという期待が、相手の「良心」に基づくものではなく、相手の行動により生み出される相手にとっての自己利益に基づくものです。
たとえば、先の談合を例としてみれば、本書のいう本来の意味での談合は、ここでいう「信頼」をベースとしたもの、ということができます。そもそも談合は、社会的不安の多い環境を前提としています。それは、談合が成立するには、談合参加者が決定事項を必ず守る、という前提が必要だということですが、相手が嘘をつくような人間ではない、という相手に対する人格的な信頼を、メンバー同士が互いに持てる場合にしか成立できるものではありません。
一方、官製談合のように、談合のシステムに政治家や行政が加わることは、相手に対する人格的な信頼を前提とはしていいません。つまり、談合参加者が決定事項を必ず守る必要を談合参加者の良心に委ねるのではなく、政・官という権限と強制力に委ねていることを意味しているのです。
つまり、官製談合は「安心のシステム」でしかない、ということができます。この「安心のシステム」には、談合参加者が約束を守らない場合、指名から排除される等の何らかのペナルティが違反者に対して課せられる仕組みが存在します。このけん制装置の存在は、相手は嘘をつくかもしれないが、嘘をつけば相手は自己利益を損なうだろうから、たぶん嘘はつかないだろう、という相手の意図に対する期待を持つことを可能とします。ここで違反者が損なう自己利益とは、経済的な損失の実ならず、村八分のようなものも含まれる、と考えればよいでしょう。
私は本来の意味での談合を「コミュニティ・ソリューション」のひとつと考えていますが、この意味での談合が成立できるのであれば、そこには「ソーシャル・キャピタル」が存在している、と理解するのです。そのことは、本書で扱う「ソーシャル・キャピタル」が「安心のシステム」を維持するためのものではないことを意味しています。
「信頼」はそもそも社会的不確実性を前提として必要とされるものですが、「安心」は、そもそも社会的不確実性を、政治家や行政を巻き込んだ「ヒエラルキー・ソリューション」で排除した上に存在しようとするシステムである、と理解できるでしょう。そこにあるのは旧来の開発主義の文脈における「公共工事という産業」の閉塞でしかないのです。
本来の談合のシステムさえも正しく機能しないコミュニティでは、そもそも「信頼」が存在していないがために、権限と強制力による「ヒエラルキー・ソリューション」が必要とされる、と述べましたが、その意味では、政治・自治体・中小建設業という地場型公共工事複合体というコミュニティが立脚する「安心のシステム」には、私たちが考える「ソーシャル・キャピタル」は存在していないのです。
「安心のシステム」が依存している「ヒエラルキー・ソリューション」が、インターネット社会では機能範囲が限られるものであることはすでに概観したところです。「安心のシステム」という「ヒエラルキー・ソリューション」こそが、「公共事業ダメダメミーム」を生み出しているひとつの原因であることを忘れてはなりません。「ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密である」という文脈から、「安心のシステム」ははるか遠くにあるのです。つまり、「公共工事という産業」は、市民社会との「ソーシャル・キャピタル」を持てないことで、「公共事業ダメダメミーム」にさらされているのです。
本書は、経済的交換を社会的交換の特殊ケースとして扱うことで、経済的交換に流れる重低音が社会的交換にベースを持つ「ソーシャル・キャピタル」だといいます。ここでは、その理解に、意図に対する期待を「信頼」と「安心」というふたつの分類枠と、「インターネット社会」の特性という枠を与えることで、その理解の輪郭をかなりしぼりこむことができたのではないかと思います。
つまり、本書がいう「ソーシャル・キャピタル」とは、中小建設業が依存してきた集団主義社会で機能してきたような、既存の秩序を意味するものではない、ということです。例えば官製談合が中小建設業における既存の「ソーシャル・キャピタル」だとしても、それは「ヒエラルキー・ソリューション」を前提とすることで、私たちがいう「コミュニティ・ソリューション」の推進エンジンである「ソーシャル・キャピタル」とはあきらかに違うのです。
]]>さて、これからのはなしは、私と親交のある電気工事業の社長さんのはなしです。この会社は電気工事業が本業ですが、付帯的に電化製品の物販も行ってきました。ご多分に漏れず、最近は量販店がたくさん近所に進出してきて物販部門の売り上げはじり貧状態、いよいよこの物販部門の存続打ち切りを本気で考えざるをえない状況になってしまったわけですが、このはなしを社長からうかがっている時に、この物販部門で電化製品を購入される方々にみられるある行動についての興味深いはなしを聞くことができました。
]]> 例えば、冷蔵庫が欲しい、というお客様がいるとします。するとこのお客様は、まず量販店で現物をみて価格を調査するのです。でもそこでは買わなのです(ここが大事)。量販店ではお客様はほしい冷蔵庫に関する情報を集めるだけです。そこには当然価格の情報が存在します。例えば量販店ではお客様のほしい冷蔵庫は十三万円で売られていたとします。でも買わないのです。そして、このお客様は電気工事店の社長に電はなしをするわけです。「量販店でほしい冷蔵庫は十三万円だったのだけれども、○○電気さん、あなたのところはそれじゃ無理だろうから十五万円で持ってきてくれますか」。この場合、この電気工事店から冷蔵庫を購入するという選好基準は、「第一種の情報」としての「価格と量の情報」だけではないことは簡単に理解できるでしょう。このことは、当面の価格を重視するよりも、少々高い代価を支払ってでも、お客様がこの電気工事店に対して持っている、「なんだかよくわからないけれども人を束ねる力を持った情報」という部分を重視したということです。
でも、これを取引費用と機会費用だけで説明しきるのも難しいことです。この場合、取引費用は、量販店で購入した方が、価格調査をした費用を含めても直接電気工事店で購入を決めるよりは安くすんだとしましょう(もしかしたら、直接電気工事店に電はなしをしたら、十二万八千円だったり、顧客の提示した金額よりも安かったりという想定はないものとします。実際にそれはないと電気工事店の社長もいっています)。量販店で購入していれば、商品代金を含めた取引費用は安く済むのです。この例でいえば二万円の取引費用を節約できることになります。
では、ここに機会費用を持ち出してみましょう。この場合には、このお客様は二万円を機会費用として失ったことになります。量販店で購入していれば、電気工事店で購入するよりも二万円安く済んだはずです。でも、このお客様はこの二万円の損を覚悟で電気工事店とのコミットメント関係を保とうとしたということです。疑問は、このようなコミットメント関係を保とうとする判断はいったいどのような行動原理によっておこなわれているのだろうかということにあります。つまり、このような取引は、ブラウがいうような「社会的交換」が強い意味を持っているように私には思えるのです。この場合、機会費用や取引費用の相対的な大きさではなくて、社会的不確実性が小さな環境そのものが、選好基準をつくりだしているといえるでしょう。
社会的交換の概念は、対人関係と社会的相互作用における創発的特性に注意を向けさせるものである。あるひとが相手からサービスを受けた場合、彼は感謝の意を表し、機会がくればお返しのサービスをすることを期待される。謝意を表することとかお返しをしなかったりすると、彼は助けるには値しない恩知らずの人間だという烙印を押されるようになる。彼がきちんとお返しをすれば、相手が受け取る社会的報酬はさらにいっそうの援助を寄せる誘因として役立ち、その結果として生ずるサービスの相互交換は、二人のあいだの社会的絆を創出する。(ブラウ,1974,p3)
このような社会的交換の色彩が強い理由で、この電気工事店との付き合いを継続した方が将来的なメリットはあるとでもお客様が判断をしたとしか説明のしようのない経済的交換もあるということです。もちろんこの場合の将来的なメリットは文書化されたり約束されたりしているものではありませんし、なにかを基準に計量できるものでもありません。これをお客様が電気工事店の持っている「なんだかよくわからないけれども人を束ねる力を持った情報」(村上の言葉では『社会的交換を成立させているのは、まさに時間と対人関係の両面において「粘っこい」蔓の情報に他ならない』となる。村上,1994,p141)を重視した結果であるということは簡単ですが、それでは、問題はこの「なんだかよくわからないけれども人を束ねる力を持った情報」とはなにものなのか、ということです。
]]>売り手には正しい情報があり、買い手には正確な情報がないという、両者間での情報量に大きな差異がある場合のことを「情報の非対称性」といいます。これにはアカロフの「レモン市場」という有名なモデルがあります。(J.A.アカロフ,『ある理論経済学者のお話の本』,幸村千佳良ほか訳,ハーベスト社,1995)
]]> たとえば、私たちは新車を購入する場合には、雑誌やCMやパンフレットなどからエンジンの性能や走行性などのある程度正確な情報を得ることができます。しかし、これが中古車となるとそうはいきません。事故車(レモン)であるかもしれないからです。その欠陥が隠された情報である場合には、素人ではとても見抜くことができるものではません。このような場合、「情報の非対称性」が存在するといいます。そして市場が「情報の非対称性」であれば、市場は崩壊するとされているのですが、しかし、現実には中古車市場はちゃんと機能しています。ではそれはなぜなのでしょうか。それは〈買い手が売り手を信用して購入している〉
からです。この「信用」とは、「のれん」や「評判」と呼ばれているもののことなのですが、この「のれん」や「評判」も、私たちがいう「なんだかよくわからないけれども人を束ねる力を持った情報」に含まれるもの、と考えればよいものです。でもここにも疑問があります。それは、では完全情報、完全競争の市場が実現したら、「のれん」や「評判」は意味を持たなくなるのではないだろうか、ということです。
その指摘はけっして間違いではありません。インターネット革命では、完全情報・完全競争の市場に近づくだろうという意見もあります。(たとえば、小室直樹,『小室直樹経済ゼミナール 資本主義のための革新』,日経BP社,2000) でも、現実的にはそんなことはありえません。インターネット社会においても完全情報、完全競争の市場は実現できないのです。なぜなら人間の認知許容力には限界があるからです。
電子市場においても、人間の認知許容力の限界において「情報の非対称性」は存在し続けます。ですからインターネット社会においても「情報の非対称性」がなくなることはありません。つまりインターネット社会も不確実性の存在する環境でしかありません。そのような不確実性のある環境では、「のれん」や「評判」というような「なんだかよくわからないけれども人を束ねる力を持った情報」が交換の潤滑剤であることは今までの社会となんら変わりはないのです。
]]>このような情報の二分類によって相互作用については一歩進んだ理解をすることができます。それは、相互作用が物的と情報的の二種類ではなく、情報的相互作用が第一種の手段的情報と第二種の本質的情報によって分類される、少なくとも三種類の相互作用で構成され、それらが常に関連を持った働きをしているという認識です。
A 物的相互作用
B 情報的相互作用
第一種の情報的相互作用、超越論的な枝の情報
第二種の情報的相互作用、解釈学的な蔓の情報
(村上,1994,p136)
すなわち、経済的交換でみれば、そこでおこなわれる売買という物的相互作用は、量と価格という第一種の手段的情報と、第二種の本質的な情報のふたつの情報の上に成り立っているということです。これは私たちが商品を選ぶときに、いったい何を基準に商品を選択しているのかという「選好基準」の問題を考えることにつながります。つまり、私たちは経済的交換の際に、なにを優先させて商品を選好しているのか、という疑問です。経済的交換においては、これはかなり複雑な要因が絡み合っていることは直感的に理解できるでしょう。たとえば、自動車を購入しようとする時の選好基準(車を選ぶ基準)を考えてみましょう。
私たちは、排気量や馬力や価格が同じであれば、価格の安いものを必ず選択するんだろうか、という問いに対して、「たしかにそういうときもある」と答えることができます。しかし、「そんな時ばかりでもない」と答えることもできるはずです。たとえばハイブリットカーを選択する人の選好行動というのは、機能と価格の対比だけでは車を選ばない典型的な事例です。クルマとして同程度の基本機能と性能を持っていると考えられるカローラを選ぶ人とプリウスを選ぶ人との選好基準を比べたらこれは明確なはずです。環境保全に熱心な方は、少々価格は高くとも環境を考慮した(と世間では思われていると自分が思っている)プリウスを選択している、と考えられます。佐沢隆光は、アマルティア・センの『合理的な愚か者』を引き合いに出してこういっています。
地球環境保全に熱心なあなたが、地球温暖化防止のためにと、太陽電池を屋根に取り付けたり、ハイブリッドカーを買ったりするのは、効用最大化では無論なく、共感でもなく、コミットメントにほかならない。コミットメントは、確固たる主義主張の持ち主にとっての重要な選好基準となる。人間の選好順序を動かす要因は、共感やコミットメント以外にも多数ありうるのに、効用最大化のみを選好基準とする経済人は「愚か者」と呼ばれても仕方あるまい。』(佐和隆光,『経済学の名言100』,ダイヤモンド社1999,p119:ここでいう「コミットメント」とはアマルティア・センのいう「コミットメント」なのだが、この理解はとても難しい。センのいう「コミットメント」に関しては『合理的な愚か者』(アマルティア・セン,大庭健ほか訳,勁草書房,1989)を読んでほしい。正直にいえば私も未だにセンのいう「コミットメント」は理解できない。)
それから、たった二人しか乗れない割にはばかに値のはるスポーツカーを購入する方々の選好基準も、機能や性能と価格の対比だけでは説明がつかないでしょう。これは「かっこいい」(と自分が思っている→他人からそう思われたい)デザインや高性能(それを試す機会は日本での日常生活には存在しない)や数々のレースでの戦歴というような物語性(そんなものは自分には全然関係のないことでしかない)を基準として車を選ぶ人もいるということです。さらには個人がメーカーに対して持っているイメージとか信頼感とかセールスマンへの熱意とかが大きなウェートを占める場合があることも私たちは経験的に知っていますし、先の社長の車はなぜ高級車なのかという問いに対する答えである、買い手が持っている「偉そうにみえるミームを購入している」も、この選好基準の複雑性を物語っていることが理解できるはずです。
つまり、この自動車の例にかぎらず、私たちは普段の「買い物」でも、価格と量の第一種の情報だけではなく、価格と量以外のもっと別な理由から商品を選択している時があることに気がつくはずです。その価格と量以外のもっと別な選好理由が、第二種の情報には含まれている、と考えるわけです。
私たちが商品を選ぶという選好基準は複雑です。金に糸目はつけないという時もあれば、やっぱり安いのが一番、という時もありますし、色々考えたけれども、お金と品質のバランスを考えるとこれがいいや、という時もあるわけです。そればかりではなく、別な店で買えばもっと安いけれども、私はいつもこの店でしか買わない、という時もあります。少々高くても商品やメーカーや販売店を変えない場合は以外に多いものです。
では、何がこのような選好基準を作り上げているのでしょうか。ここでは、経済学がいうふたつの理由をみてみましょう。そのひとつは「情報の非対称性」であり、もうひとつが、取引費用と機会費用との相対的な大きさの問題です。
]]>さて、ここからは、市場を形成する情報とはなんだろうか、という考察を始めます。それは、市場に流れる情報としての「信頼」とはなんだろうか、を考えることを意味していますが、ここではまず、自分自身、つまり「自己」という存在を考えてみましょう。
]]> 私たちは相互作用(ネットワーク)の中で生きるミーム・ヴィークルではありますが、それでは、「私」(あなた自身)はいったいなにと相互作用をしているのだとうか、と考えるのです。答えは、私は「自己」「自然」「他人」の三者と相互に作用しあう存在だということが、理論的、経験的にもわかるかと思います。この三者との相互作用を考えてみれば、私たちが考察の対象としている市場での相互作用、つまり経済的交換における相互作用というのは、当然に他人との間、つまり人と人との相互作用の関係で形成されていることがわかるはずです。
例えば、牛舎の建築を依頼された場合、建築の依頼主は牛ではありませんし、魚道を作る仕事は魚が発注したものではありません。車が持っている「偉そうに見える」ミームを買うという場合でも、代金は車に支払っているわけではありません。このように、市場は、人と人との間でおこなわれる売買という相互作用の場だ、といえるものなのです。この意味で、市場に流れる情報とは人と人との相互作用の中に流れるミームだ、ということもできます。
村上泰亮は、この相互作用を次のふたつに大別しています。
「物的な相互作用」を経済的交換からみると、それは商品と対価の受け渡しという行為を意味しています。売買の成立、若しくは成立させようとしておこなわれる行為にともなう、商品の移動や貨幣の受け渡しがそれです。つまり、モノやサービスを購入したらちゃんと代金を支払わなくてはならない、でなければ経済的交換は成立しないということです。
一方、「情報的な相互作用」を経済的交換の範疇からみると、交換を成立しようとして(でも必ず成立するとは限りません)やりとりされる「情報の交換」のことです。この分類では「情報」という言葉がかなり広い意味で使われていることに注意する必要があります
私たちはここでいう「情報」の正体がミームであることをすでに知っているはずですが、このことは、ミームの持ついささか広い意味での情報、たとえば、価格や量ばかりではなく、先の「信頼」や「偉そうに見える」ミームというようなものも「情報的な相互作用」の「情報」の中には含まれるということを意味しています。
さて、このように情報を広義の意味で扱うことができれば、情報は次の二種類に分類することができます。
まず、手段的と本質的との違いから始めると、手段的な情報とは、何か他の目的のために役立つ情報を、本質的な情報とは、それを持つこと自身が値打ちをもつ情報を指します。
たとえば手段的な情報とは、商品の規格化と定量化の枠組みによって表現された情報、つまり商品の枠組みを知る手段的な情報です。自動車の例でいえば、エンジンの排気量(4000cc)や馬力(280h.p)最高速度(180Km/h)価格(600万円)といったもので形成されているものが手段的な第一種の情報です。雑誌やCMやパンフレットで知ることができる基本的な性能、エンジン性能や走行性などもこれに含めることができるでしょう。
一方、排気量、馬力、最高速度、価格を表す「cc」「h.p」「Km/h」「円」という商品の規格化と定量化の枠組み合意のようなもの、つまり、世間で認知されている「単位」とか「取引方法」などは、人々の間で交わされてきた経験と解釈と信頼の蓄積を反映して構築されてきたものであり、これは本質的な情報としての第二種情報です。従来の経済的交換といった時には、情報の二分類はこれでおしまいです。
しかし私たちは、経済的交換においても、もっと他の情報がやり取りされていることをすでにみてきました。それは、車を所有することで得られる満足感のようなもののことですが、ひとことでいってしまえば、いいクルマなのかどうかというような判断をするための定量化や文書化できないような情報=「評判」というような情報が動いているということです。
たとえばそれは、コマーシャルや口コミなどで形成されてきたブランド・イメージや評判のようなものまでを含みます。さらには、信頼感、ステータス性、乗り心地、物語性、その他にもメーカーや販売店やセールスマンに対する信頼感のような、「なんだかよくわからないけれども人を束ねる力を持った情報」も経済的な取引でやり取りされている情報なのです。ここでは、このようなどちらかといえば「社会的交換」の色彩の強い情報も第二種の情報に含ませておくことにしましょう。
]]>ここで本書が、市場のなにに焦点をあてようとしているのかは、すでに十分察しがつくことだと思います。それは、人々の経験と解釈と信頼の蓄積を反映した、メタ情報(情報の基盤となる情報)としての「信頼」というようなものです。金子郁容は、
〈信用とは情報の情報である〉
]]> といいます(金子,2002,p242)。つまり、「信用は交換のメタ情報である」ということですが、金子のいう信用というのは、本書における信頼と同じものだと理解してもいいでしょう。また信頼がメタ情報であるということは、アローのいうように、信頼は社会システムの重要な潤滑財であり、それが社会システムの効率を高めることはたいへんなものがあって、さまざまな面倒な問題が取り除かれるということです(ケネス・J・アロー,『組織の限界』,村上泰亮訳,岩波書店,1999,p16)。つまり、社会的交換であろうと経済的交換であろうと、信頼関係が成立していなければ、非効率で高上がりものとなってしまうか、そもそも交換自体が成立できない、ということです。つまり、経済的交換においても、〈信頼は効率を高める要〉
として機能するものなのです。
つまり信頼は、経済的交換に限らず社会生活を円滑におこなうための潤滑財とでもいえるものなのですが、私は信頼こそが「ソーシャル・キャピタル」の中核にあるものだと考えています。このように、経済的交換においても、社会的交換に基礎を置く「信頼」が潤滑財として大きな役目を担っている、という視点を持つことが、社会的交換の視座から産業化を再構成する考え方であり、従来のマーケット・メカニズムにのみ依存している、と考えられている経済的交換を、社会的交換の特殊ケースとして考える方法の特徴なのです。
ここで私たちの関心を、こうまとめることができるでしょう。それは、
ということです。
]]>さて、ここからは、金魚論から展開した「中小建設業のIT化=市場×IT化」の「市場」という部分の考察を始めますが、その市場についての概観は、すでに今までの考察の中である程度は略画的に描いてきています。
お気づきの方も多いと思いますが、本書の市場を考察するアプローチは、皆さんにとっては、少々風変わりなものであるはずです。それは「社会的交換」をベースに産業化を再構成する考え方をしているからなのですが(これは村上泰輔が「開発主義」の考察で行った方法を援用しています)、この特徴は「マーケット・メカニズム」にだけ依存しているとされる交換行為(つまり売買)を、「経済的交換」として「社会的交換」の特殊ケースとして位置づけているところにあります。つまり経済的交換も、結局は人と人との相互作用であると捉え、私たちの日々の生活から切り離されたものではなく、社会的交換を下敷きにしておこなわれているもの、と考えることを意味しています。このようなアプローチの特徴は、今までの本書の議論ではいたるところにみることができたはずです。
]]> まず本書では、中小建設業を開発主義が生み出した政策的な産業だ、といういい方をしていますが、開発主義理論の基礎を成しているのが、この「社会的交換」の視座から産業化を再構成するやり方です。また、人間をミーム・ヴィークル(ミームの乗り物)と想定していることは、人間が相互作用の生き物、つまり「社会的交換」を前提とした存在であることを意味しています。それは、売り手と買い手のミームでみたように、市場を形成しているミームには、売り手が持っている「技術のミーム」と買い手が持っている「消費のミーム」のふたつのミームがあり、〈市場とは「技術のミーム」と「消費のミーム」の相互作用の場〉だということ、売るということは〈自社の技術のミームを買っていただいている〉というように、すでに市場をミーム交換の場として、人と人との相互作用の場、つまり社会的交換の場として概観しているということです。さらに本書は、中小建設業を取り巻く「公共工事という問題」の解決方法を、インターネット社会での「もうひとつ」の問題解決方法である「コミュニティ・ソリューション」の効用の文脈で考察しようとしています。ここでも、すでに「ソーシャル・キャピタル」という概念を持ち出しているように、さらにはアローの『信頼は社会システムの重要な潤滑財である』という言葉を援用しているように、経済的交換が社会的交換を下敷きにしていることに着目しています。
つまり、本書における議論は、経済的交換が単なる「マーケット・メカニズム」だけではなく、社会的交換の概念の上に存在していることをすでに想定しておこなっている、ということです。
ここでいう社会的交換とは、ブラウがいうような「何らかの将来のお返しの一般的期待はあるけれども、その正確な性質はあらかじめ確定的に明記されない」というような交換と理解すればよいでしょう(P・M・ブラウ,間場ほか訳,『交換と権力』,,1974,新曜社,第4章)。一口に経済的交換といっても、単に価格と量の情報が大量にやりとりされるだけでは、人を取引で束ねる力が特に強くなるわけではありません。このことでビジネスはいつも悩ましいのです。つまり、安くて大盛ならば絶対に売れるのか、といえば、どうやらそうでもない、ということです。そこで、人を束ねる力が強い交換とはなんだろう、と考えた時、社会的交換のメカニズムがクローズアップされるのです。たとえば、社会的交換の色彩が強い関係として村上はこんな例を挙げています。
日本的経営、下請関係、産業政策、サービス売買など。(村上,1994,p139)
これらの例は、日本的な経営に見られる制度・慣行ということで、昨今の「G軸」(グローバル指向)上にビジネスは展開されるべきだ、という議論では批判の対象とされているものです。しかし、「G軸」に展開されるものがすべて正しいのかといえば、インターネット社会はそんなにキャパシティの小さなものでもありません。特に、
〈中小建設業は第Ⅱ象限の「コミュニティ指向」でしか生き残れない〉
という原理は、「中小建設という問題」の解決方法のヒントが、G軸などではなく、むしろ、インターネット社会のもうひとつの側面であるC軸(コミュニティ指向)という社会的交換の色彩が強い関係側にあることを教えてくれているのです。そして、この社会的交換では、「信頼」といういうなものをベースとした、「なんだかよくわからないけれども人を束ねるような力を持った情報」が、円滑な交換を仲介していると考えるのです。それらを「ソーシャル・キャピタル」と呼べれば、「ソーシャル・キャピタルという、ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密」だという金子の言葉も理解できるかと思います。
つまり、「経済的交換を社会的交換の特殊ケースとする」という考察方法は、市場を人の面から束ねる力は、私たちが単純に売買における情報とはそれだけだと思い込んでいる「量と価格」の情報よりも、何かしらの「信頼」をベースとした社会的交換に流れる情報に比重がある、もしくは社会的交換をベースとして経済的交換も行われている、と考えることを意味しています。
]]>今までの教科書的な情報化は、「仕事はある」という前提をもって行われてきました。それは意識していても、していなくてもです。この「仕事はある」という前提は、今となっては過去の遺物のような右肩上がりの経営環境を前提としているに過ぎません。西部邁は次のようにいっています。
]]>ITという「情報の機械」は未来が「確率計算可能なリスク(危険)」としてとらえられるかぎりで機能するにすぎず、「確率計算不能なクライシス(危機)」としての未来には「人間の組織」によって対応するほかないということである。(Voice2002年3月号,p234)
経営環境が「確率計算可能なリスク(危険)」であった右肩上がりの時代は、仕事はあるものとして計算済みのものですから、情報化はその仕事をいかに効率的に行うかのみに機能すればよかったのです。ですから、中小建設業でも、仕事があるという前提で、情報化は事務処理の延長上で解釈され、過去からの遺物のような「教科書に書かれた事務処理中心の情報化」が正解として大手をふってこられたのです。
例えば工事原価管理システムの導入を考えてみましょう。多くの経営者が考える最初の情報化のひとつがこれです。確かに、受注量・売上高が減少傾向であればあるほど、ひとつひとつの工事の原価管理を徹底し利益確保を確実に行いたいという気持ちはよくわかります。ましてや工事原価管理が現代の中小建設業の経営に必要不可欠なものであることも否定はしません。しかし、これをコンピュータ化することは、原価管理を行う「仕事がある」という前提に立っていなくてはできることではありません。ここでは、その導入前提条件「仕事はある」を「仕事はない」と入れ替えてみればよいのです。前提条件を入れ替えるだけで、このような情報化への期待は、もろくも壊れてしまうはずです。
つまり、原価管理システムを動かそうにも、その対象となる「現場」がないことには、このコンピュータシステムは必要がありません。そして逆説的には、原価管理をいくら一生懸命やっても仕事はとれないという、「情報化投資のパラドックス」が存在してしまうだけです。前提条件を入れ替えるだけで、情報化への期待は、いとも簡単に根底から崩れてしまいます。
前提条件とは、制度・慣行の変数としての環境と原理なのですが、今、多くの中小建設業が直面している環境とは、「仕事がない」もしくは「減ってきている」という現実です。これは否定しようもありません。けれども、多くの中小建設業は、長い間この事実を直視しようとはしていませんでした。それは、今までの「ヒエラルキー・ソリューション」の復活を期待しているようにしか私には思えないのですが、今やそれはありえない願望でしかないことを理解すべきでしょう。
「建設業は現場が稼ぐから建設業」なのであり、今や「仕事はない」という環境は承知のはずです。しかし、この中小建設業の環境と原理とは裏腹の、過去からの遺物のような情報化(ベスト・ソリューション)を盲目的に導入し続けていたのですから、その結果、いくらコンピュータに投資をしても、それが受注につながらないことは当たり前としかいいようがないのです。変化する環境と中小建設業の基本原理を無視して行われてきた制度・慣行(情報化)が、どこかで機能しなくなるのは当然のことでしかありません。
]]>たとえば、今までの「情報化」は、本社や支店といった事務所にサーバーを置いて、事務所で働く社員にパソコンを配布し、事務所内のLANを構築するといった、どこかの教科書に書かれていたか、ベスト・ソリューションと呼ばれるものを担いでやってきたベンダーさんが作っていったものでしょう。
]]> そして、そこで行われていることといえば、原価管理をはじめとする会計処理や、表計算ソフトやワープロやCADの活用、そしてそれらのファイルの共有などが「正解」だ、ということになっており、結局、事務処理のOA化に終始しているはずです。このような認識で、たとえ電子メールやイントラネットといったIT化の道具を導入しても、その活用範囲は「社内」という檻の中に使用を限定されてしまっていることでしょう。そして決まってこういうのです。「これで情報は社外に漏れない」
いったい何を隠しているというのでしょうか。
これらの多くは、ベンダーの提案や商社や製造業などで行われている事務処理の情報化の事例、つまり教科書的な情報化事例を、中小建設業でも正解だと思い込んでしまった結果でしかないのです。そして、それで何かいいことがあればまだしも、
〈中小建設業の事務所中心の情報化は受注には結びつかない〉
のですから、ますます多くの経営者に失望を運びつづけ、そして経営者はますますコンピュータが嫌いになってしまうのです。
ただしこれには、一部のパソコンオタク系経営者を除いては、という注釈が付きます。情報化が進んでいるといわれている中小建設業をみると、このパソコンオタク系経営者が推進エンジンであることがあります。コンピュータがないよりはずっとましですが、彼らも失敗を省みない方々でしかありません。彼らは失敗すればするほどコンピュータが好きになってしまいます。
彼らにとって情報化の失敗の原因は、常にシステムの処理能力にあります。新しいパソコンや新しいソフトウェアに衣替えすることが、彼らが信じる唯一の問題解決方法です。挙句の果てに、「このパソココンは私の自作です」などといって喜んでいるのですから、たぶん幸せなのでしょう。
でもIT化についてはほとんどなにも知らないのです。彼らの目標はIT化ではなくコンピュータの導入だからです。会社の中にコンピュータがたくさんあることがなによりも大事なのです。その使われ方はどうでもいいのであり、これもファックスの延長上にインターネットがあるに過ぎない情報化どまりのものといえるでしょう。
このような事務処理中心の情報化は、中小建設業の業績向上には一切寄与しないし、かえって経費負担を増大させ、経営者や社員のIT化に対する失望感を膨らませ、経営者がIT化に懐疑的な態度を取らせることに寄与し続けています。ここで仕事がたくさんあれば、その失望を経営者は忘れてくれるかもしれませんが、「今という時代」はそれを許してはくれません。
そして、ここが肝心なのですが、多くの経営者は、電子メールやイントラネットなどというIT化のツールを、今までの情報化の延長上にしか理解できていないのです。ですから、電子メールやイントラネットに対しては、使う前から「正解」ではない、という烙印を押してしまっています。そしてIT化は進まないのです。では、この教科書的な情報化のいったいどこに問題があるのでしょうか。
それは、「自分で自分をわかろうとしない」という思考の停止です。これは、教科書的な情報化が中小建設業にも「正解」なのだと思い込んでしまっているので、仕方がないことかもしれません。しかし経営にとっては大問題です。情報化に際してはベンダーは頼りになる存在であることも否定しませんし、製造業等の他業種による先進事例も参考になるところもあることは否定するつもりもありません。しかし、「教科書の事例が中小建設業に対してすべて正解なのか」これぐらいは考えてもいいはずです。そうすれば、「そんなわけはないだろう」と気付くはずです。ベンダーの多くは中小建設業がなにものかを全く知りませんし、中小建設業は製造業とは明らかにちがうものであることを経営者自身は知っているはずなのです。
いってしまえば、教科書的な情報化の失敗は、自分のことを知らなすぎるのか、それとも知っているという過信なのか、中小建設業における最も基本的な原理の認識の甘さがもたらしたものでしかありません。その基本原理とは、
〈建設業は現場で稼ぐから建設業〉
ということです。さらには、「公共工事は受注産業」ということです。そしてこれは、
〈仕事はいつも右肩上がりで増えるとは限らない〉
という、当たり前のことを意味しているに過ぎないのです。この「当たり前」をIT化に限らず、中小建設業界は直視してこなかったのです。
その原因は、「わからない」ということが「わからない」に尽きるのだと思います。それが「正解の思い込み」を生み出しています。「わからない」ということが「わからない」ことが、右肩上がりの時代の残像と結びついた時、「正解の思い込み」は考える経緯を省略して、短絡的に目の前にある正解のようなものを正解だと思い込んでしまっているのです。
]]>