店主戯言00207 2002/07/01〜2002/07/31 "There goes talkin' MOMO"


About桃知利男インデックスSelf Talking INDEX | 2002年6月へ| 2002年8月へ著作権店主へメール


2002/07/31 (水)  
【対極のルール?の失敗】

昨晩は夜8時30分に新潟から帰ってきて、今朝方3時過ぎまで(↓)を書いていました。
ほとんど下書き状態なので、これからかなり手を入れることにはなりますが、これが7月29日に作った「松阪市の制限付き一般競争入札制度導入による落札率調査」表からの議論、つまり「対極のルール?の失敗」になるわけです。

今回は、この部分をほとんどここに掲示してしまいます。約6千300文字ありますが、これも15万文字から見ればわずかでしかありません。

でも、今回の「桃論」では、非常に重要な部分なので、あえて晒して皆さんのご意見をお聞きしたいと考えるのです。

ご意見等がありましたら、どうぞ「店主へメール」で、ご意見をお願いいたします。
お礼は、出来上がった「桃論」サイン入りでいかがでしょうか?

→今までご意見を下さった皆さんにも当然に差し上げますよ。

では、暑い日が続きますので、体調管理には十分に注意され、7月最後の日を有意義に過ごしてください。

Lesson 対極のルール?の失敗

@設計コンサル・測量業界

■発注者のモノを買うという視点

 「表 」は松阪市における2002年4月18日開札分から、ある測量設計業務委託の入札結果をまとめたものです。この業務の設計金額は 1,195,000円、予定価格は 1,188,000円、最低制限価格はありません。

 開札順 入札業者   入札金額  備考   入札結果
  1    A     430,000円   1   落札決定
  2    B     700,000円   2
  3    C    1,050,000円   4
  4    D     900,000円   3

 この入札における落札率は予定価格の36%にしか過ぎません。さらに、同日に行われたその他の設計や測量委託業務(最低制限価格なし)の結果を見ると「表 」のようになります。

 委託業務   予定金額   最低入札金額   落札率
  A    18,826,000円   6,480,000円    34%
  B     9,882,000円   3,700,000円    37%
  C     2,480,000円   1,090,000円    44%
  D     3,118,000円   1,150,000円    37%

 ここでは,軒並み30%から40%台の落札率という結果を見ることができますが、私はこれらの結果を「コスト競争力」が機能した成果とは考えてはいません。ただ需要と供給のバランスによる価格決定メカニズムが単純に働いているだけであろうという見方をしています。

 つまり、この落札価格は、今までの調達システムでの価格設定が、実態価格よりもかなりの高値であったことを単純に表しているだけであると理解してよいのです。これは、「マーケット・メカニズム」が単純に機能すれば、今までの「配分のルール」での価格決定メカニズムの正当性は簡単に崩壊してしまうことを意味しています。

 この価格のデスカウント化は、今までの「ヒエラルキー・ソリューション」に頼った価格決定メカニズムが崩壊し、「マーケット・メカニズム」が単純に機能した結果に過ぎません。であれば、私は、この「制限付き一般競争入札」を「似非マーケット・ソリューション」と非難することはありません。ただ、「公共」という空間で「マーケット・メカニズム」の正当性を言う発注者の短絡的な発想を非難するだけでしかありません。

 そんなことよりも、ここでの重要な問題は、「なぜ設計コンサル・測量委託業務には、最低制限価格が設けられていないのか?」ということです。工事関係には85%の最低制限価格が設けられているのにもかかわらずです。

 結論を先に言えば、この問題の考察におけるキーワードは「発注者のモノを買うという視点」なのです。

 私は、設計コンサル・測量委託業務に最低制限価格が設けられていないのは、そもそも「発注者側にモノを買うという視点が存在しているため」ということが「答え」になると考えています。つまり、設計コンサル・測量委託業務は、その調達内容に関しては発注者からの仕様の縛りがゆるく、受注者側に創意工夫の余地が大きく残されているので、最低制限価格は設けなくても、これが低価格入札ではなく、品質の確保等の正当性を主張できるということです。

 たとえば,設計コンサルタント業界は、IT等の活用次第では、知識労働力を海外に求めることが実質的には可能でしょうし、そのことによる人件費カットは、その限界を下限にコストダウンを可能とします。さらにはその業態から見れば、ITの活用による業務プロセスの見直しによるコストダウンも十分に可能でしょう。このことは、設計コンサル業界は中小建設業と同列に並べることのできる建設業ではなく、むしろ情報産業のようなものであることを意味しています。(※要注釈)

 つまり,設計コンサル・測量委託業務では、コストダウンは受注者側の創意工夫の成果として実現される可能性があるということです。この業界での生産物が「情報」である限り、採算ベースに見合うところ、たとえば調達できる人件費のコストダウンの限界までは、コストダウンは可能だということです。ただ、前述のように、私は今回の松阪市の入札結果を「コスト競争力」の成果とは考えてはいません。これは単純に価格調整メカニズムが機能したに過ぎないのです。

 しかし、このことは、設計コンサル・測量委託業務では、発注者側に「モノを買うという視点」が存在し、「マーケット・メカニズム」が単純に導入されるのならば、受注者側の努力の結果としてのコストダウンが行われる可能性を意味しています。でも、「市場の失敗」(※要注釈)を省みなければという条件は付きます。


A建設(施工)業界

■発注者側のモノを作る視点

 ここではまず、表 「松阪市の制限付き一般競争入札制度導入による落札率調査」表(※出展:http://www.city.matsusaka.mie.jp/)を見てください。

「表 」挿入

 この表は、平成14年 4月18日から平成14年 7月25日までに行われた松阪市での入札から、最低制限価格が設けられており、かつ業務委託工事以外の 109件をピックアップしたものです。この表での平均落札率は85.51%となっていますが、この落札率の平準化は、工事関係には予定価格の85%の最低制限価格が設けられているためであることは容易に理解できるでしょう。

 このほとんどが予定価格付近での落札となることは、なにもこの松阪市の事例に限った現象ではなく、設計価格の事前公表+最低制限価格付きの「制限付き一般競争入札制度」においては共通する特徴と言えるものです。このことは、このような「制限付き一般競争入札制度」が、実は「指値方式」あることを自ら明らかにしているだけでしかありません。この制度では、設計価格があらかじめ公表されていますから、入札者は、積算もせず最低制限価格を予想して金額を入れて応札するだけなのです。つまり、この制度では、落札できるのは運まかせなのです。落札のことを「当たった」という表現をしているようですが、それも納得のできることでしょう。

 それでは、「なぜ工事には予定価格の85%という最低制限価格が設けられているのでしょうか?」
 
 それは、発注者側に「モノを作る視点」が存在し続けているためだと言えます。つまり、この入札制度を導入する発注者は、「マーケット・メカニズム」を表面に出すことで、「公共工事という問題」から自らを切り離そうとしていますが、「公共工事という問題」に内在する発注者の機能、開発主義の文脈での公共工事の存在意義と発注者の役割を引きずろうとしているためです。それは、「地場経済の活性化と雇用の確保」という目的 →配分を重視したルール(ヒエラルキー・ソリューション)が、この「制限付き一般競争入札制度」でも前提となっているということです。

 「マーケット・メカニズム」の導入によって、安く調達できることだけを目標とする公共工事であるならば、設計コンサル・測量委託業務と同様に予定価格をここに設ける必要はないのです。ただし、それには受注者の創意工夫が可能だという前提が存在しています。しかし、自治体発注の公共工事は、どのような「マーケット・ソリューション」を持ち込もうとも、発注者側に「モノを作る視点」がある限り、それは「仕様」に縛られた、受注者にとっては創意工夫の余地のないものでしかありえないのです。そのことは、発注者に「モノを作る視点」がある限り、コストダウンはその人件費の削減でしか達成できないことも意味しています。

 つまり、「開発主義」において確立されてきた自らの機能と権限を維持しようとする発注者が、昨今の公共工事批判に対応しようとして、公共工事のコストダウンを標榜するには、労務単価の積算基準を引き下げて、自らの地域ドメインの雇用のコストを落としていくか、自らの地域労働力は極力使わないで、グローバルに安い労働力を調達した方が資本(受注者側)にとっては有利であるという環境を設定するこのと二つしか対応策がないのです。

 前者はともかく(この動きは活発ですが )、後者を声を大にして推奨している中小建設業向けの公共工事など存在するはずはありません。でなければ、発注者が「地場経済の活性化と雇用の確保」という開発主義からの公共工事の目的を主張することもできないことで、自らの存在を自己否定することになってしまうからです。なぜなら開発主義の思想こそが、官僚主導の経済政策の正当性を裏付けているものだからです。

 つまり、中小建設業が依存する自治体発注の公共工事のような、地域雇用を集約的に投下せざるをえないような公共工事でのコストダウンは、本来公共事業が持つ目的のひとつである「配分」という政策的な目的において限界を露呈さぜるを得ないことになります(そのために労務費「積算単価」は落とされ続けているのです)。

 さて、「発注者側のモノを作る視点」は調達に詳細な仕様を設けることになります。なぜなら、作っているのは発注者だからです。そのことは、発注者にとっては、品質とコストのバランスに対してある程度の予測が付くことを意味しているからであり、自治体が発注者として予算を執行できる唯一の立脚点だからです。

 その結果、「発注者側のモノを作る視点」がある限り、受注者側の相違工夫は、その発注者側の仕様規定において著しい制限を受けますから,その制限の中での行われる価格競争は、結果的にコストダウンではなく、予定価格帯での単なる「価格の摺り合わせ」でしかなくなります。その結果が「当たり」という表現なのです。

 これが「性能規定」(※ )のような調達方法(発注者側の性能を買うという視点)にでもなれば、最低制限価格は存在し得なくなります。つまり,受注者側の創意工夫の結果としての価格の予想は発注者には最初から及びのつかないところであり、最低制限価格の存在は否定されることになります。さらに、発注者側の性能を買うという視点は、予定価格を超える入札でさえ可能にするということです。このメカニズムが本来の「マーケット・メカニズム」であり、「マーケット・ソリューション」を担保するものなのです。

 つまり、「発注者のモノを作るから買うへの視点変化」がなければ,創意工夫に基づくコストダウンなどは存在し得ないし,国交省のスローガンである「技術と経営に優れた建設業」の実現は永遠に絵に描いた餅でしかないということです。

 さて、このように、「発注者がものを作るという視点」を確保しようとしながら行う「マーケット・メカニズム」の公共工事の導入は、「制限付き一般競争入札」のように、自由競争ではなくただの指値制度にしかなれないのです。このような調達のシステムできちんと積算をして入札に臨む業者はいないでしょうし、この入札制度は最低制限価格を予想するギャンブル化してしまっています。落札できるのもできないのも時の運、このような市場で、「どうしたらいい会社になれるのか?」などと考えること事態、無駄なことでしかなくなってしまっているのです。

 このような「似非マーケット・ソリューション」が、技術と経営に優れた中小建設業をつくりだせるのでしょうか。この入札方法の発明者とその賛同者は、きっと、公共工事のコスト削減や透明化という問題と、技術と経営に優れた中小建設業をつくりだすことは、トレードオフの関係にあるとでも考えているのかもしれません。もしかしたら、「そもそも技術と経営に優れた中小建設業なんていらない」と考えているのかもしれないとしか思えないのです。

 こうして「似非マーケット・ソリューション」が主流な公共建設市場もまた、差別化とコア・コンピタンスを「特にいらない」と言っているに過ぎないものとして存在してしまうのです。ここでの競争は価格によって行われていますが、それが各社の経営努力の結果ではないのです。ですから、当然に、ここでも「IT化」はどこかへ消えてなくなってしまっているだけなのです。「IT化」へのインセンティブに関していえば、対極のルール?と思われている「似非マーケット・ソリューション」も結局は失敗しているに過ぎません。「IT化」への意欲は、中小建設業が自ら経営体質改善への意志を持つということでは大変重要なものですが、どうやら発注者はそんなことはお構いなしのようです。

 IT化推進論者で、このような「似非マーケット・ソリューション」を擁護する方々は以外に多いのものです。そして、そのような方々からは、「工事発注状況」を見るためにインターネットを利用しているではないか、という反論も聞こえてくるのですが、しかし、それこそが、インターネットをファックスや電話の延長上に考えているだけに過ぎないことを理解すべきです。こうして「似非マーケット・ソリューション」も「公共事業という問題」そして中小建設業には、なんの問題解決方法にもなってはいないのです。

 さて、私たちはIT化の遅れの原因を、市場を支配するルールの問題という視点で考察してみました。その結果、配分を重視したルール(ヒエラルキー・ソリューション)も(似非)マーケット・メカニズムを重視したルール(マーケット・ソリューション)も、結局は「IT化」の阻害要因にしかなっていないことが理解できたかと思います。

 これは日本が抱えている開発主義の残像上での二つのソリューション(問題解決策)が行われることの限界なのです。今までの経済学が考え出したルールは「政府が介在する(ヒエラルキー・ソリューション)」か、「市場に任せる(マーケット・ソリューション)」の二つしかないのですが、それを司るのは、わが国では、いつでも「お役人」だという前提が取れていないことに気づかれるでしょう。その前提が取れない限り、この二つの対極のルールは、結局どっちに振れても、中小建設業には淘汰の原因ぐらいにしかなれないのです。

 では、自治体発注の工事に性能規定方式のような真正の「マーケット・ソリューション」を持ちこむことが問題解決策なのかといえば、これも中小建設業という産業の終焉を意味するだけでしかありません。今の中小建設業にこれに対応できる程の経営と技術に優れた企業はほとんど存在していないでしょう。つまり、似非どころか真正の「マーケット・ソリューション」もまた、「公共工事という問題」そして中小建設業には、なんの問題解決策にもなれないのです。

 この問題については、最終章の「事業者団体ベースのIT化」において詳しい考察を行いますが、「公共工事という問題」を考えるときに、我々が忘れてはならないのは、発注者としての自治体も受注者としての中小建設業も、インターネット社会の 4つの象限のどこに存在するものなのかを、もう一度考えてみてほしいということなのです。

 それは間違いなく、第U象限「コミュニティ指向」−アクティブな相互性をもってコミュニティとして活動することに特化するかコミュニティに活動のターゲットを絞る−でしかないということです。

2002/07/30 (火)  
【@新潟】

桃知@新潟です。
今日は午前中はホテルで執筆、午後から昨日同様、新潟県電設業協会の役員さん向け勉強会をします。

今回の勉強会はイントラネットを活用した事業者団体のIT化の意義からのお話であり、3時間のうち、前半は「私の話」、後半は「実技研修」っていうようなものですね。

本日は、午前3時起床で、「ヒエラルキー・ソリューションとマーケットソリューション」の部分を修正。
なので、本日の一節は(↓)。

これで、3100文字ぐらいしかないんだよ。
15万文字っていうのが、いかに膨大な文字数であることがわかるだろうか?

■ヒエラルキー・ソリューションとマーケットソリューション

 ここでは、インターネット社会の特性をベースに、これからの時代の社会・経済行動に関して、どのような問題解決の方法があるのかをまとめておきます。ここでの考察は、後に中小建設業が抱えるさまざまな問題(以下「公共工事という問題」と呼びます)の解決にある示唆を与えてくれることになるはずです。なぜなら、中小建設業といえども、インターネット社会で生きるということに関しては「私」となにも変わらないからです。建設業に従事されている方々の、個人というレベルでは、なおさら「私」となにも変わらないのです。

 これまでの社会で、代表的な問題解決方法と言えば、ケネス・J・アローが指摘している二つの問題解決方法が有名です。それは、資本主義的な民主主義国家における社会的選択肢が、

 @選挙によって選ばれた政治体制による政治的決定(ヒエラルキー・ソリューション)と

 Aマーケット・メカニズムによる経済的な決定(マーケット・ソリューション)

の二つであるということです。(※ここでの「ヒエラルキー・ソリューション」と「マーケット・ソリューション」という呼び方は、金子郁容に倣っています。)

 この二つの考え方は、実はかなり奥の深いものですが、現実には社会問題を解決する方法としての二極化を意味してしまっています。政府の選択もこのどちらかに振れてしまう事が多いのです。例えば、大規模な財政発動の後の急な財政の引き締め、ケインズ政策の後の新古典主義的政策の台頭、たとえば最近目立ってきている、自治体発注の公共工事における「制限付き一般競争入札」も、この二つの解決方法が極端に振れることを私たちに実感させてくれるはずです。今の日本政府の手詰まり状態も、結局は、このどちらかに極端に振れて問題解決をしようとする結果でしかないように見えます。

 では、まずは権限による「ヒエラルキー・ソリューション」について簡単にまとめます。これは権限の委譲による問題解決方法を意味していますが、アローの言う「選挙によって選ばれた政治体制による政治的決定」の最高機関を「政府」とすれば、インターネット社会では、この問題解決方法の存在価値は薄くなるしかありません。なぜなら、政府自体が「第W象限」<ノングローバル指向+ノンコミュニティ指向>の空間に位置するものだからです。日本政府に限らず、一国の政府という「ヒエラルキー・ソリューション」の担い手は「第W象限」に位置しています。グローバルな存在でもなくコミュニティ性も薄ければ、インターネット社会ではその問題解決能力が及ぶ範囲は自然と限られてしまうしかありません。つまり、インターネット社会は「小さな政府」を指向しているということです。

 一方、「第V象限」<グローバル指向>の空間に位置するのが「マーケット・ソリューション」による経済的解決です。これは、「ヒエラルキー・ソリューション」の力が落ちてきたことで台頭してきた問題解決方法と言うこともできますが、インターネット社会の特徴から見れば、この問題解決方法の台頭はある意味当然のことでしかありません。なぜなら、この問題解決方法は、インターネット社会の二面性であるグローバル軸とコミュニティ軸のグローバル軸側にちゃんと足場を持つものだからです。インターネット社会における「マーケット・ソリューション」は、インターネット社会のグローバルな方向性に足場を置きながらその影響力を発揮することになります。

 でも、私たちの社会生活において、このふたつの問題解決方法のいずれによってもうまく問題解決ができない場合があることがわかってきたわけです。本書が取り上げる「公共工事という問題」は、この典型的な事例でしかありません。


■公共工事における問題解決方法の閉塞

 たとえば、「公共工事という問題」に対して、日本政府や自治体が「ヒエラルキー・ソリューション」という問題解決方法で今までやってきたことは、地場経済の活性化と雇用の確保を名目に、地方に公共工事をばら撒き続けることでしかありませんでした。そして今、その効果への疑問、そこで発生している利権、惰性への批判が公共工事批判を生み出す結果となっています。

 これに対して、「第W象限」に位置する日本政府や「第U象限」に位置する自治体が「マーケット・ソリューション」側に問題解決方法をシフトさせていることでおきていることと言えば、自治体発注の公共工事に「制限付き一般競争入札」のような、中小建設業の存在価値を否定しかねない調達方法を一方的に突きつけてくるような事態でしかないのです。(しかしこの問題はさらに複雑です。これについては後述します。)

 今のところ、中小建設業にとって「公共工事という問題」に対する問題解決方法がこの二つの問題解決方法のどちらに振れても、自らが抱えている根本的な問題を解決できるものではないことが理解できるでしょう。

 「公共工事という問題」に対するこの二つのアプローチからの問題解決方法は、結局二つの極を行ったり来たりしているだけで、根本的な問題解決方法にななっていないのです。その原因は、この二つの問題解決方法の共通項にあります。それは、どちらも「 C軸−コミュニティへの方向性」に基盤をおいていないということなのです。それは、「ヒエラルキー・ソリューション」の場合は権限を「上層部」に委譲することで、また、「マーケット・ソリューション」の場合は、需要があるということを絶対視することで、どちらも個人と問題を切り離して問題を解決しようとしているからです。(金子,2002,p151)

 しかし、インターネット社会を理解するときに、個人と問題を切り離して問題解決方法を考えてしまうと、「私の身の上」話にあるように、その深層にある個人の精神的な変化(ミーム)を見つけることができません。私の心の内なる変化は、「ヒエラルキー・ソリューション」でもなければ「マーケット・ソリューション」でもない方法でもたらされたものなのです。それが、「コミュニティ・ソリューション」なのです。


■コミュニティ・ソリューション

 「コミュニティ・ソリューション」は、その位置を、「第T象限」<グローバル指向+コミュニティ指向>もしくは「第U象限」<コミュニティ指向>に置く問題解決方法です。

 これは、コミュニテイを形成するメンバーとの積極的につながりを構築することで問題を解決しようとするもので、例えば「オルフェウス室内管弦楽団」による「オルフェウス・プロセス」(※要注釈)や「リナックス・コミュニティ」(※要注釈)がその事例としてよく挙げられています。

 『これまでの常識から考えれば、関係に依存するということは、自己完結できないということであり、その分弱みが出現するということになる』(※金子,2002,p151)と金子が言うように、この問題解決方法は、私の言う『「答えのない」コンサルテーション』、若しくは『「わからない」という方法』によく似た問題解決方法だと言えるでしょう。この問題解決方法では、既存の権威や制度慣行もたいした意味はありませんし、ましてやお金で白黒つけるなどという下品な方法論を持ち出しても意味はありません。ただ下品だと笑われるだけです。
 
 金子は、「ソーシャル・キャピタル」こそが、コミュニティの関係のメモリーであり、「コミュニテイ・ソリューション」のエンジンだと言います。そして「ソーシャル・キャピタル」とは、コミュニティの文化遺伝子であるミームだとも言っています。

 『ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密である。』(金子,2002,p160)

 私は<IT化が扱う「情報」とは「ミーム」のことである>と言うのですが、実はこの理解こそが、私の考える「中小建設業のIT化」と金子の「コミュニティ・ソリューション」を結び付けている重要な共通軸なのです。

2002/07/29 (月)  
【今日は新潟へ】

昨日、それも午後7時前に、「一眠りしてからはじめよう」なんて書いたのはいいのだけれども、目覚めたのは、午前5時ちょっと前ってところだ。

寝たなぁ〜!!!

目覚めるとマニア1号さんから、空知建協さんのイントラ調査レポートが届いていた。
タイムスタンプは、今日の午前2時42分。

相変わらず頑張るね〜。
調査レポートに対して簡単なコメントを書いてメールで送る。

空知の皆さんも頑張っておられる。

■「松阪市の制限付き一般競争入札制度導入による落札率調査」表

目覚めての最初の仕事として、「松阪市の制限付き一般競争入札制度導入による落札率調査」表をつくる。

→落札率の計算が間違っていましたので、午前9時10分過ぎに訂正しました。布袋さん、ご指摘ありがとうございます。m(__)m

これは、「桃論」の「事業者団体ベースのIT化のイントロダクション」であり、7月26日で編集氏から指摘を受けていると紹介した、
自治体による制限付き一般競争入札などを例に、「マーケット・ソリューション」の「いんちきくささ」を述べておられますが、「公共工事という産業」を否定したい方々に向けて、この部分については、もう少し、かみくだいて、詳細に解説したほうがいいのではないか、
へのプロローグともなります。

私は「制限付き一般競争入札制度」を「似非マーケット・ソリューション」だと非難しています。

この制度は地場型中小建設業という産業を殺してしまうでしょう。

この制度の下では、地場型中小建設業は、従前よりもさらに、自らが価格をコントロールできない、お役所の従属的なものと成り下がってしまうでしょう。

そして成り下がってみたところで、必ず仕事が取れるわけではないというパラドックスの中で、自らが「よい会社」になろうとするインセンティブは消えてしまうのです。

ここで地場型中小建設業という産業は終焉を迎えます。

つまり、お役所の言うことを聞いていれば何でもうまくいくと考えている経営者がいれば、今こそ目を覚まさなくてはならないのです。

つまり、お役所はあなたに「死になさい」と言っているも同然だと言うことです。

これは、マーケット・メカニズムの中で戦って死ぬことを意味していません。

だれでも良いから、とにかく死んで数が減ればいいのですから、強制的に淘汰しているわけです。

そういうことを、お役所主導でやっていること自体、この国は「似非マーケット・ソリューション」の国、「共産主義」の国なのですよ。

制限付き一般競争入札制度が、マーケット・メカニズムを導入したなんて大嘘なのです。
そもそも、こんな指値制度のような入札が、自由主義経済の国で行われること自体「マーケット・メカニズム」を冒涜した行為でしかありません。

価格が自由に決められないことこそが、「市場の機能」を阻害するものです。

こんな指値のような、統制経済システムが大手を振って市民から支持を受けているとするならば、この国はかなり「変」だとしか言いようがない状態でしかありません。

ここでは、「技術と経営に優れた建設業」なんて「絵に描いた餅」にもなれません。

この最低事例は横須賀市なのですが、横須賀市を事例にしてしまうと、電子入札がこの制限付き一般競争入札制度をつれてきたみたいに思われるのでね、今回は、あえて郵便入札の松阪市を事例にしてみたわけです。

つまり、電子入札は必ず制限付き一般競争入札である必要はないわけです。

ということで、以下は、あるところからの無断引用。「布袋さん」事後承諾でよろしくね。

横須賀の方も来ていましたが、市に対する営業活動は全くせず、月曜に公示された物件を見て、積算もせず金額を入れて応札するだけだそうです。この前当った(落札できるのは運まかせなのでこういう表現をしてました)物件では、落札が決まってから初めて工事場所を確認したと言ってました。皆さんのところもそうならないように、発注者との溝を作らない努力をして下さいと言ってました。

というところで、発注者も受注者も今までの問題解決方法が機能できなくなっている時代が「今という時代」であることを理解しなくてはなりません。

ということで、本日の一節。

■自らが環境を変える

 市場をミーム論から見ることで、「公共工事ダメダメミーム」は、中小建設業にとってはさらに厳しい状況へ限界質量を超えて相補均衡しつつあるということを理解できるでしょう。そしてそのスピードは加速的に速いことも理解できるはずです。私たちがここで恐れなくてはならない事態とは、一旦均衡してしまったこの状況を、元に戻すことは非常な困難を伴う(不可能かもしれない)ということです。

 しかし、これに対して中小建設業が今までのように、貝のように口を閉ざしたままであるのなら、状況はさらに悪くなるだけでしょうし、一方、自治体は公共の領域に「マーケット・ソリューション」を持ち込むような対応が精一杯でしかありません。この悪循環はスパイラル的に中小建設業を取り巻く環境を悪化させるだけでしかありません。

 ここで、私たちは公共工事を「よし」とする「救世主」の出現を望むことしか対処の方法がないような気持ちになってしまうかもしれませんが、でも、それは「ヒーロー」の出現で解決できるような問題ではないでしょうし、ありえないこととしたほうが、より現実的です。

 公共工事に対する信頼を構築するのは、「公共工事という産業」を構成していたすべて、つまり、自治体、政治、中小建設業、自らでしかないということに気が付かないかぎり環境は好転しようもないのです。

 それは、ミームという眼鏡を通して、私たちが知ることができたことです。

 つまり「公共工事という産業」に対する「消費のミーム」さえも、「公共工事という産業」が持っている「技術のミーム」との相互作用によってもたらされた「結果」だということなのです。「公共工事という産業」は、知らず知らずのうちに、自ら「公共工事ダメダメミーム」が「消費のミーム」の中で主流のミームとなることに加担してきただけに過ぎないのです。

 公共建設市場は、確かに典型的な環境依存型の市場ではありますが、その環境を変えるものがあるとすれば、「公共工事という産業」自らの変革にしかないと本書は主張します。

 それは単純に、「消費のミーム」に迎合することを意味していません。本書が言う「IT化」とは、インターネット社会という「今という時代」の中で、中小建設業、ひいては「公共工事という産業」が地域社会との中で、自らの位置確認ができる枠組みを考え出そうとすることでしかありません。

 それが「コミュニティ・ソリューション」であり「ソーシャル・キャピタル」の蓄積を目指した自らの革命的な変化だということです。

 「IT化」とは、その「変革」の最大の推進エンジンであり、「コミュニティ・ソリューション」の中枢である「インターネットの精神文化」に自らを「開放してみる」ことでしかありません。

 つまり、本書が行ってきた議論を、車寅次郎風に言ってしまえば、

「信頼をなくしちゃおしまいだよ!」

でしかありません。

 「公共工事という産業」は、長い間、このことを意識しないで維持できてきた稀有な産業であっただけなのです。それを許した稀な時代環境があったというだけなのです。その環境で生まれ育った「公共工事という産業」は、信頼の構築は不器用と言うか「へたくそ」きわまりありません。

 ここで、もう一度初心に帰ってみて、信頼をどうしたら構築できるのかを、私が経験してきた「IT化」の文脈、つまり「コミュニティ・ソリューション」の文脈で考えてみましょう、というのが、本書の意図するところであって、本書はそれ以上のものでも以下でもありません。 ただ、「公共工事という産業」の「IT化」を語るという時、私は、この文脈においてのみ「IT化」の可能性を信じているということです。

 つまり、本書が、今までの考察において「中小建設業」や「公共建設市場」の仕組みを『「わからない」と言う方法』を駆使して見てきたのは、ことの良し悪しを判断しようとしているのではないということです。私は、「今という時代」に、そして「これからの時代」に、今までのような「安心のシステム」が、中小建設業の行動原理として相応しいのか、ということを指摘しているに過ぎません。

 今までの議論を翻って考えてみれば、これは簡単に理解できることだと思います。このような「安心のシステム」が「公共工事という産業」の特徴であるのは、戦後の開発主義の裏側で勧められた配分重視の経済政策への公共事業という産業のミーム適応の結果であり、さらには公共工事における請負契約の内容が一方的に発注者に有利になっているという片務性(請負制度が請負「うけまけ」と呼ばれていること)や、公共工事の参入に際して不確実性が存在するという環境への受注側からのミーム適応の結果だと考えればよいだけなのです。

 つまり、環境がその必要性を生み出した、と私は理解するだけです。そのことは、「公共工事という産業」を取り囲む環境が変化しているとすれば、公共工事という産業も変化する必要があるということです。そして、その環境こそが、「今という時代」であり、インターネット社会という時代なのです。

 最初に指摘したように、ミームは「ここ掘れワンワンのポチ」にすぎません。つまり問題発見のツールであり、本書が問題点を指摘しているとすれば、それもミームが「ここ掘れワンワン」と教えてくれた問題点ということです。

■今日は新潟へ

本日、明日と私は新潟へ参ります。
新潟県電設業協会での勉強会ですね。

新潟も暑いでしょうね。

2002/07/28 (日)  
【眠い】

朝から執筆、執筆、また執筆。
とにかく書く。

でも、最後のパートとなった事業者団体ベースのIT化のイントロダクションが書けなくていた。
なので、こんな時の常套手段、今まで書いた部分を最初から読んでみるをやってみる。

誤字脱字、言い回しの変なんなところを訂正しながらの作業だ。
こうして読んでいるうちにあることに気づく。

事業者団体ベースのIT化のイントロダクションが書けないのは、事前のフリが足りないからなのだ。
そういやCALSについてもなにも書いてない。(書かなくてもいいのかも知れないけれど)

ということで、前半部分に最後のパーツへのフリを1万字ぐらい入れてみようと考えたのだ。
だが、もう眠い。ってまだ午後7時前だけれども。。。

一眠りしてからはじめることとしよう。

2002/07/27 (土)  
【隅田川花火大会】

今日は、隅田川の花火大会なわけで、私の今の部屋は、この花火を見るために借りたようなものでね、一生懸命、岐阜からかえってきてね、今日は客人を迎えて、花火三昧なわけだ。

今となりにビルが建築中なので、来年は多分第一会場は見えないんだろうなぁと思うけれども、今年は第一会場は雷5656会館の屋根越しに、第二会場は浅草寺の五重之塔脇に楽しむことができる。

ああ、日本の夏だねぇ。

でもね、お昼に向井先生のところでお酒をご馳走になったりしたものだから、お酒はもいらない状態なのでした。



【今日は岐阜でお祝いです】

■向井会長、藍綬褒章受章おめでとうございます。

岐阜県建築士事務所協会の向井征二会長が藍綬褒章を受章されたお祝いに参加するために、今日は岐阜へお出かけ。
東京 9:00 *のぞみ 49号 名古屋 10:36
名古屋 10:55 東海道本線新快速 岐阜 11:13

ご案内の文書には「平服でお気軽にご出席ください」って書いてあるので、平服で行こうかと思うのだけれども、私の平服と世間一般の平服では、多分その認識にえらい隔たりがあるに違いなくてね、あまりひんしゅくを買うのもいやなので、ネクタイぐらいはしていこうかと思っているわけです。

■桃論、壁にぶち当たる?

さて、桃論は、一応企業ベースのところまで書き上げました。
この原稿を縦書きにして読みやすくしてくれた方がおりますので(ジローさんありがとう。m(__)m)、私はこれを印刷して今日の行き帰りに「赤ペン」を持って読む予定でおります。

しかし、誤字脱字の多いこと、われながら「己は馬鹿か」と思わずにはいられませんね。

さて、桃論粗原稿に対する行政の方からの反応です。

さて、他の方からもご意見が出ていましたが、
今回の桃論、高度すぎるのでは?と私も感じました。
そこは桃知さんのポリシーに関わる部分なので
前回のメールには書きませんでしたが、
最初のハードルが高くて、結果として、
解ってなくて、解って欲しい人達を
クラウド・アウトしてしまうのではと思っちゃいます。

個人的にはプリンシパル・エージェント問題が気になっています。
顧客である地域社会を本当に意識して発注主となっていたか、地域社会の代理者となり得たのか、
自問するばかりであります。確かに藤澤の感想文でも指摘があったように、その資金のあり方も
あったと思われますが、公共事業のみではなく、血税である税金を元手に、行政という名の下に
行われたすべての活動そのものに当てはまる気がしてなりません。

ただし、半分自嘲気味ではありますが、「デジタルガバメント」への取り組みを始めるにあたり珍しく「BPR」
から取り組みましょう、というかけ声のもと足下を見直す作業、特に本来の発注主である地域社会(県民)
が何を望み、それを実施できる仕組みは何か、を今一生懸命になって考えています。
「行政のIT化」(通常はeガバ当県ではDガバ)はどう行政自体を変えられるのか・・・

(略)自己否定をしなければ、この業務は理解できないと感じたのですが、正に哲学であり桃知さんの著作も哲学書の様相ですね。

全体の流れは理解できましたが、2Pの「制度・慣行=環境×原理」はもう少し噛み
砕くか、前段部分が必要ではと思います。26Pの「第三章 市場」以降も、もう少
し噛み砕かないと、土方には理解できないと思います。

私が最も気に入ったフレーズは25Pの{ITという「情報の機械」は未来が「確率
計算可能なリスク(危険)」としてとらえる限りで機能するにすぎず、「確率計算不
能なクライシス(危機)」としての未来には「人間の組織」によって対応するほかな
いということである}という部分です。
公共事業としての基盤整備は、自然を相手とし「計算可能なリスク」だけでなく「計
算不能な危機」を常としています。
そこには「人と人、人間関係」によって解決することが多々あります。
情報技術は「繰り返されるもの」「パターン化されたもの」「記述できるもの」と
いったものには有効ですが、突発的危機には人の行動が問題解決をします。
突発的事故の多い公共事業は、この部分でのIT阻害要因ではないでしょうか。

皆さん、ご意見ありがとうございます。
深く感謝いたします。

こうしてね、他人である私の著作にだよ、それもまだ粗原稿段階で、ご意見をいただけるなんて、やっぱりね、持つべきものは友なのです。

しかし、「最初のハードルが高くて、結果として、解ってなくて、解って欲しい人達をクラウド・アウトしてしまうのではと思っちゃいます。」って指摘は耳に痛いのです。

ズバリ「桃論」の欠点はこれなのですよね。

わかりにくいところは、これから極力手を入れていきたとは思うのですが、、これ以上どう簡単に書けばいいのかも、じつは、わからないほどに私は「たわけもの」なわけで、ああ、どうしようなのです。

本質にせまることをやさしく書ける方っていうのは、本当にすごいなぁと思うのですね。
己の馬鹿を身に染みて感じている今日この頃なのでした。

■熊本からのお客様

昨日は熊本からお客様が見えられたました。
お忙しい、かつ体調不良の中、わざわざおいでいただいたことに深く感謝申し上げるのでした。

私たちが「岐阜モデル」と呼ぶ、公共建設政策について、その概要をご説明しましたが、そのアウトラインはご理解いただけたようで感謝申し上げるのでした。

8月27日、「熊本独演会」での再会いたしましょう。

2002/07/26 (金)  
【ただひたすら書くのだよ】

■執筆の進捗状況

いろんなことが身のまわりで起こっていても、それでも「桃論」の執筆は続くのです。

先日いただいた桃論に関する感想です。

●公共工事の財源について

 公共工事の大半が地方自治体によって実施されながら、
 その財源の大部分を国に依存しているのも(補助金、交付税)
 配分のルール(ネポティズム)を続けてこられた一因です。
 
 自腹を切るときは投資効率をじっくり考えるけど、
 ヒトの金ならパーッと使っちゃうってことありますよね。
 経済学で言うところの
 「ソフトな予算制約の問題」(Soft Budget Constraint)ってやつです。

 これまでの日本では、その地域で行われる公共工事に関して、
 受益と負担の関係が不透明な状況にあって、
 それが、お金の面でも
 「公共工事の顧客は地域社会である」と言い難くしていたのでは?

 国の財政が厳しくなり、地方分権が進んでいくとしたら、
 地域社会が自らの負担で公共工事を行う「施主」となり、
 「公共工事の顧客は地域社会である」状況に近づいていくと思います。

●文体について

 内容がとっても高度なので、
 その分(?)文体がもっと柔らかくてもいいんじゃないでしょうか?
 いつもの桃知さんの語り口のように。

●PAUL KRUGMANについて

 PK登場!(P.8〜)
 PKフリークの私としては嬉しい限りです。
 で、KRUGMANはMITからPrincetonに移っています。

 彼がコラムを書いているNewYorkTimesのBiographyは↓
 http://www.nytimes.com/ref/opinion/KRUGMAN-BIO.html

以上、思いつくままですが・・・。

Thanks!である。
この方は、私よりもずっとお若いのですが、「元祖私の理解者」だからね、簡単に読んじゃうわけですね。さすがです。

確かに文体はもっともっとやさしくしたいとは思ってはいますが、その作業はできるかどうか?
そろそろタイムリミットなのですね。

なによりも、8月は既に予定で一杯。私も本業で働かないとお飯たべれませんからね。
でも、私個人が設定した期限は、7月末迄でしたから、そろそろ危ない状況なのです。(笑)

と、言うことで、文字数125,319文字までは書き上げました。
原稿用紙では314枚ということです。

現在企業ベースのIT化部分をまとめています。
最後の事業者団体ベースのIT化まではもう少し、事業者団体ベースをまとめれば一通り終わりですね。

このあたりは手馴れた部分ということもあって、作業ははかどります。
それから、先日編集氏からいただいたご指摘、

自治体による制限付き一般競争入札などを例に、
「マーケット・ソリューション」の「いんちきくささ」を述べておられますが、
「公共工事という産業」を否定したい方々に向けて、
この部分については、もう少し、かみくだいて、詳細に解説したほうがいいのではな
いか、

を書かなくてはならないのです。

「もう少しだ」ってね、自分に言い聞かせながらがんばっているんですよ。

■桃知copyを書く。

で、昨日、ある会社さんのパンフレットにcopyを書いたのだけれども、今日はそれを「本日の一節」にしましょう。

建設業のIT化の要は「現場」です。現場で使えないシステムは経営のお荷物でしかありません。現場で使えるネットワークは、インターネット・イントラネットです。これをツールとしないIT化は、建設業ではなんの役にもたちません。IT化とは、コンピュータを使うことがインターネットや電子メールを使うことと同じ意味であることです。つまり、「IT化とはインターネットを使うこと」、その目的とは、「インターネットの精神文化を自らのものとすること」でしかありません。皆さんもインターネットをバリバリと使いこなし「現場のIT化」をはじめてみましょう。きっと何かが変わります。

300字という制限付きで、中小建設業のIT化を要約するとこうなるのです。
それじゃホーム・ページを作りましょうっていう方もいるかもしれませんが、それも単純バカボン的センスなわけだ。

なぜなら、多くの地場型中小建設業には、ホームページで撒き散らすような「技術のミーム」つまり、コア・コンピタンスがないからなのですね。

桃論の中で私はこう書いています。
これが本当の本日の一節。

■IT化はなぜ必要なのか

 これまでのIT化=(環境×原理)の理解を前提に、まずは個々の企業でのIT化について考えて見ましょう。

 これまでの議論をもってしても、まだこんな疑問はぬぐえてはいないことでしょう。
 
 「なぜIT化なのか?」
 
 私は、かつてこの疑問に対する答えを自らのホームページに次のように書いたことがあります。

  @IT化とは企業戦略の道具としてある。
  AIT化は競争勝利の戦略としてある。
  BつまりIT化とは、技術と経営に優れた建設企業実現のためにある。

 こうして、もっともらしい答えが並ぶわけですが、では、今現在でも同じ答えなのか?と聞かれれば、私は、「同じだけれども、ちょっと違う」と答えるしかありません。

 なぜなら、これらの答えは、公共建設市場において「マーケット・メカニズム」が機能することを前提として書かれているということです。つまり、「IT化はなぜ進まないのか?」で触れた「市場のルールによるIT化の阻害」が、「マーケット・ソリューション」によってある程度解決がついていることを前提としていたのです。しかし、その予測は半分は当たっていましたが、半分は「はずれ」てしまいました。

 これまでの議論でも明らかなように、公共建設市場は、「マーケット・ソリューション」側に振れています。これは私の予見が当たったというか、当たり前に考えれば当然の結果でしかないのですが、しかし、「はずれ」は、その「マーケット・ソリューション」がどうも「いんちきくさい」ということです。

 本書では、自治体による制限付き一般競争入札を、似非「マーケット・ソリューション」と非難していますが、それらはマーケット・メカニズムをかなりゆがんだ方向に捻じ曲げただけで、とても自由主義経済の国で行われているものとは言えないものとなってしまっていると言うことです。

 この捻じ曲げられたマーケット・メカニズムが働く公共建設市場でも、先の@〜BをIT化をもって実現しようとしても、それは期待できるものではありません。なぜなら、IT化の努力を評価する仕組みがこのシステムには組み込まれていないからです。

 ただし、ここで「できない」と言うのは、それはあくまでも「マーケット・ソリューション」の文脈では、という注釈がつきます。「できない」が中小建設業の「IT化」の諦めを意味するものではないということです。
 
 つまり、公共建設市場における中小建設業のIT化が、経営戦略の道具となり、技術と経営に優れた建設企業実現のためにあるには、「マーケット・ソリューション」の文脈から、その視点をはずして見る必要があるということです。

 では、中小建設業にとって、IT化が、経営戦略の道具となり、技術と経営に優れた建設企業実現になるためのIT化への視点とはなにか?と言えば、それが「コミュニティ・ソリューション」の視点なのです。

 このことは、思い切って、

<IT化を効率化や合理化の道具として考えることをやめなさい>

と言っていることを意味しています。

 そして、IT化が中小建設業になんらかのメリットをもたらすとすれば、それは、

<中小建設業が売っているものとは、自社の「技術のミーム」である>

ということであり、

<IT化が扱う「情報」とは「ミーム」のことである>

ということです。そして、

<インターネットとはミームが獲得した新しいプール(培地)である>

という文脈だけでしか、私たちはIT化のメリットを享受できないということです。

 つまり、IT化をこの不確実性の時代に、自らの経営ツールにできるとすれば、IT化が自社の「技術のミーム」の確立と伝播をおこなう取り組みであること意外に、中小建設業のIT化が立脚する基盤を見つけるのは難しいということです。

これが、企業ベースのIT化についての導入部分になっています。

じゃ、今日も暑いようだけど、熱中症対策は十分にして、元気に生きましょう。

2002/07/25 (木)  
【熊本独演会は有料にしますね】

蕨の歯医者にいって、蕨の美容室で髪を切り、蕨のたるやで昼食を食べて帰ってきました。
朝方小降りだった雨もいつしか本降りになっています。

じめじめと、非常に鬱陶しい日になっています。

さて、熊本独演会は考えたあげく、資料代2000円を頂戴する有料でやることにしました。
私にとっては、初めての有料の独演会となるわけです。

でも、この独演会は完全なボランティアですので、飛行機代にもならないのですね。
→後援:マイクロソフトは消させていただきます。

私の夢は二つあって、ひとつは印税生活です。
そしてもうひとつは、話芸でお金をいただけるようになることなのです。

この二つの夢の実現に向けてもくもくと励んでいるわけですね。
なので、いつでもきちんとプロの仕事をしたいと思っているわけです。

熊本独演会は既に内々の申し込みもいただいております。
「これは、ただだから」という台詞のない独演会になります。

ご期待ください。


【悲しいな】

昨晩は2時過ぎまで呑みながらご相談。
私にとってはかなり重大な内容なので、まだここには書けませんが、時期がきたら明らかにします。

<経済学は中小建設業を救えないだろう>

 本書では「中小建設業は地場の重要な産業だ!」と最初から言い切ってしまいます。しかしこれは、必ずしも今までのような公共工事はなにがなんでも必要なんだ、ということを意味してはいませんし、既存の中小建設企業のやり方を単純に擁護しているわけでもありません。

 本書は、中小建設業が、地域社会の中で自らの居場所を確認できる枠組みを、IT化を通してつくりあげることが可能なのかを考えてみようとするだけのものです。そういう意味では「最初からなにか偏っているのじゃないのか」という指摘があるかもしれませんが、その指摘に対する私からの答えは「そうかもしれない」です。

 本書の立場は、中小建設業は、結局、「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」という、有名なオルテガ・イ・ガセットのことばを、「中小建設業とは中小建設業と中小建設業の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、中小建設業をも救えない」といい換えるしかないほどに、中小建設業は自らを取り囲む環境そのものが生み出した存在なであり、その環境と共生することでしか救われないというところから出発するものです。ただし、この環境がいつも同じものではないことを同時に理解することになるでしょう。 

私は、今の日本じゃ数少ない談合擁護論者であり、中小建設業擁護論者なのです。

つまり、わたしゃ中小建設業の「みかた」なんだけれども、なんだか私を敵だと思っている方々が多いのはなぜなんだろう。

それは、ヒエラルキーソリューションが私を敵だと思っているってことなんだろうなとは思う。
でも、ヒエラルキー・ソリューションもマーケット・ソリューションも中小建設業を救うことはできないんだよ。

そのことを今書いている。
そして、そのことは今にわかることになるでしょう。

2002/07/24 (水)  
【芸人魂】

2002/07/24 (水) 5:07:40 AM 本当に今、地震がありました。

わたしのマンションは揺れるというようりもぐるぐる回る感覚なのねぇ。
ああ、気持ちわりぃ。

さて、昨日は、顧問先の福井コンピュータさんのご依頼で、宇都宮の増淵組さんでセミナー。
→「雅嗣」のぎょうざありがとうございました。

3時間ほど、「信頼の構築とIT化の関連」についてお話をしてきました。
題材的にはかなり高度なものでありますな。

例えば永六輔なんかは、伝統とインターネットを対峙させて、古典芸能の衰退を書いているけれども(『永六輔の芸人と遊ぶ』,2001年10月10日,小学館)、わたしはそうは思わないわけだ。

例えば、芸が廃れるのは、確かにテレビが伝統をぶち壊し、インターネットが芸の質をめちゃくちゃにしたせいかもしれないが、私たちはそのことによって、「逆に」人と人とのよりリアルな空間の存在を知ることができるはずなんだな。

私に言わせれば、伝統芸を壊してきたのはインターネットじゃないのだ。
高度経済成長が生み出した均質化された価値観のためだよ。

むしろ、インターネットは、埋もれた小さな宝石のようなものを際出せるものだと思っている。
それがGC空間のC軸の流れであり、第二象限の意味するコミュニティ指向だってこと。

それは人のにおいを常に求める遺伝子の要求のようなものだ。
つまり「生」であり「ライブ」は廃れない。

ただ、これに耐えられない「芸」は廃れていくだけなんだろうと思うわけ。
つまり、ミームの繁殖力が弱いのだよ。

この耐えられない「芸」っていうのは意味が深くてね、それは「客を育てる」ってことも意味するんだ。
ミームの話を正しく理解できるとこれがわかるはずだ。

つまり、商売っていうのも「芸」なんだけれども、「生」に耐えられない「芸」は「客を育てられない」。だから廃れていくだけなんだよ。

つまり実力がないんだ。
実力のある「芸人」は客を育てる。わたしゃそう思っている。

実力って言うのは「芸」であって、ミームである。

つまり、ここでのキーワードは芸人と客との間の「ソーシャル・キャピタル」っていうことになるんだね。

商売もおんなじってことだ。

さて、編集氏より。

暑さ厳しき折り、
ご執筆大変ご苦労様です。

最新版を拝見いたしました。

文体をご自分のものにされて安定しており、
なるべく平易に解説しようという桃知さんの意図もよく伝わってきます。
ご自身の実体験から、ITの本質を読み解くストーリーはなにより説得力があると思
います。
いい調子になってきたと思います。

@自治体による制限付き一般競争入札などを例に、
「マーケット・ソリューション」の「いんちきくささ」を述べておられますが、
「公共工事という産業」を否定したい方々に向けて、
この部分については、もう少し、かみくだいて、詳細に解説したほうがいいのではな
いか、
と思いますがいかがでしょうか。
「マーケット・ソリューション」派が勢いを増している現状では、
本書のこの部分の説得力がとても重要と考えます。

A業界事情にそれほど詳しくない人にも読み進められるように、
脚注はできるだけ多く付けたいと思いますが、いかがでしょうか。

酷暑の折、長丁場のご執筆は本当にご苦労のことと思いますが、
もうひと頑張りのほど宜しくお願い致します。
ゴールはもうまもなくと思います。

了解である。
そして、モニターさまより。

お暑うございます。

大暑だそうですが、それにしてもあついです。
最新版ありがとうございます。
I
(ばっさり)

そんななか届いた最新版。
うれしいです。
2段目に、すぐに感動。
−信頼の構築… これです。
これが全てですよね。社会においても。どの業界においても。
簡潔なる師匠の想いだと思います。
師匠が、IT化を説くも「でも、呑んで語りあうアナログも大事です!」ときっぱりおっしゃるのも、納得。

○○総研の、少年隊のメンバーのような名前の最近タレント化している方達はそうは言わない。(言えないのかもしれませんが)悲壮感しか伝わらない。
そう思うと、桃毒が凄いのかもしれませんね。
何かやりたくなってしまう。

ありがとう。
勇気がわいてくる。

こうして、本を書くというのは、私ひとりの内向的な作業というよりも、たくさんの方々との共同作業なわけなのだね。

助けられて生きている自分がわかるわけだ。
→「他力」

でもね、たくさんの人たちに助けられている、教えられているっていう感覚を持ってして、私は「答えはない」って言えるんだし、「わからない」という方法で、こうしていろいろと考えることができるわけなんだ。

つまり芸人は己の芸(ミーム)のためにすべてをささげることができる。
それは客が芸人を育てるってことでもあるわけだ。

つまり、「ソーシャル・キャピタル」なわけ。
けれども、世の中の自信満々の方々には、多分絶対にわかない感覚だろうとも思うわけだ。

2002/07/23 (火)  
【お題なし】

昨日は、8月3日に予定されている気の置けない方々との「暑気払い」の段取りもかねて「杉」で晩飯としました。春風亭美由紀さんの確保もたぶん大丈夫でしょう。

そんなわけで、酔っ払って早々に床についたものですから、昨日は原稿はぜんぜん進んではいないのですわ。★\(^^;

まあ、たまに休ませないと。

わたしゃ天才のひらめきをもって執筆しているわけじゃなくて、例の「わからない」という方法、それも、地を這う思考方法でぐだぐだとやっているだけなものなのだから、疲れるしね、頭も煮えたぎるわけだわ。ほれほれと。

ということで、今日は4時30分起床。
午前中はうだうだと原稿書きして、午後から宇都宮でセミナーをやってくる。

それから、8月22日は金沢にて石川建協さんの講演が予定されているので、この講演の段取りやら、「桃塾」の段取りやらもし始めなくてはなりませんでしょうねぇ。

それから、しばらく東京でしゃべってないので、東京独演会も準備しなくてはなりませんでしょうねぇ。→9月頃にでもやろうかと。。。

と、なにやら色々考えると、なるほどいつまでも原稿書きやっている場合でないこともわかるのだわねぇ。

でも、そんなに簡単に本っていうものは書けないことはよ〜くわかったのだよ。
いくらわからない私でも。

唐突だけれども、ディズニーランドへ行きたい。

2002/07/22 (月)  
【信頼をなくしちゃおしまいだよ!】

今日は午前中は蕨の歯医者さんまで行って来る。
月に2、3度しかいかないのだけれども、私の歯の大規模改修工事はいつまで続くのだろうか?

お昼に京浜東北線の快速で帰って、上野で下車、アメ横近くのお気に入りのパスタ屋「SPIGA」で海の幸のクリームスープスパゲティを食べる。

わたしゃ、この店はものすごく好き!

帰宅後メールをチェックすると、長崎からの講演のオファーが入っていました。
希望日がちょうど熊本独演会に近いので、お受けすることにしたわけです。

熊本独演会については、今日のメールマガジンで速報版を流しておいたけれども大体(↓)のような按配。

2002年8月27日(火) 13:00〜17:00
 くまもと県民交流会館パレア・9F会議室2
 <テトリア熊本ビル(鶴屋百貨店東館)内>
 定員は30名〜40名程度の予定
 主催者 「桃熊会」 後援 「マイクロソフト」
 多分、無料の予定(本当は有料にしたいのだが・・・)

申し込み受付はまだ始まっていないのですが、熊本市においでいただける方は是非においでください。

私にとっての「独演会」の位置付けは、非常に実験的な要素が強いものです。

この実験的な要素っていうのは、まあ、いろいろ意味はあるのですが、特に私の考える「IT化」という部分の理論的な背景確認作業としては、いつも何かしらの実験的な要素が入ってきます。

なので、多分、私をずっと読んでいる人には面白いはずですし、初めて聞く人は、多分、好きか、嫌いかの二極化されるわけですね。

と言うところで、本日の一節。
これは完全なるボツ原稿です。

■IT化はなぜ必要なのか

 これまでの議論をもってしても、まだこんな疑問はぬぐえないことでしょう。
 
 「なぜIT化なのか?」
 
 私は、かつてこの疑問に対する答えを自らのホームページに次のように書いたことがあります。

  @IT化とは企業戦略の道具としてある。
  AIT化は競争勝利の戦略としてある。
  BつまりIT化とは,技術と経営に優れた建設企業実現のためにある。

 こうして、もっともらしい回答が並ぶわけですが、それでは、今現在でも同じ答えなのか聞かれれば、私は「違う」としか答えられないのです。

 私は、これらの答えを、公共建設市場がマーケット・メカニズム化されるという変革を前提として書いたのです。しかし、その予測は半分は当たっていましたが、半分ははずれてしまいいました。

 今までの議論でも明らかにしてきたように、確かに公共建設市場は、「マーケット・ソリューション」側にふれてきました。しかし、その「マーケット・ソリューション」がどうも「いんちきくさい」のです。

 本書では、自治体による制限付き一般競争入札を、似非「マーケット・ソリューション」と非難していますが、それらはマーケット・メカニズムをかなりゆがんだ方向に捻じ曲げたものとなってしまっています。

 この捻じ曲げられたマーケット・メカニズムが働く公共建設市場では、先の@〜BをIT化をもって実現しようとしても、それはできません。

 このことをCALS/ECをについて見てみましょう。

私が今書いている本と、私がかつて書いたもの、例えばデジケンやこのサイトにある「Beeing Digital」に書いてあるもは、基本的には同じようなものなのですが、じつは相当に違います。

それは、マーケット・メカニズムが、あらぬ方向へひん曲がってしまっためのものです。
つまり、今言われている「マーケット・ソリューション」、例えば、制限付き一般競争入札や、CALSやISOなんていう新古典主義の匂いだけをまとったものたちが、どうも「いんちき」くさくてしょうがないのです。

なので、それらを前提とすることをやめて批判的に考察することにしました。
たったこれだけのことで、枝葉は、バラとえんどうまめぐらい違ってきてしまうのです。

私自身は市場原理主義者であることは、ここで何度も書いていますが、そういう私でさえ、今言われている、例えば、横須賀市や松阪市で行われている制限付き一般競争入札を「マーケット・ソリューション」だなんて口が腐っても言えないのですわ。

ということで、このあたりの私の愚痴大会が8・7新潟講演なわけですね。

それと、
出版に際し、ひょっとしたらものすごくフラストレーションをお感じと思います。
今回の出版は「初心者入門編」と割り切っていただき
「現在の桃論の思考と理論の到達点」に関する整理と主張に関しては
「上級編」の出版をお願いしたいと考えております。
私をはじめ、桃知さん愛好家としては
難解かつ深遠な「桃論」も望むところではあるのですね・・・。

と言うメールをいただいたけれども、わたしゃ入門編だからこそ、手の内をすべて吐き出している。

私が今書いている本で言いたいことは、車寅次郎風に言ってしまえば、「信頼をなくしちゃおしまいだよ!」でしかない。

大体3分の2ほど書き終えた段階でも、ITに関する技術論は一切ない。

こう言う言い方をすると、必ず、「だから談合をきちんとしなきゃならない」なんて言う方々が出てくるわけだけれども、それじゃ私も困っちゃうわけだ。

「信頼をなくしちゃおしまいだよ!」って言う言葉は、多分皆さんが思っている以上に深遠なのだ。
その真意を知っていただくためには、私の思考の手の内をすべて吐き出すしかないと思っている。それで、「馬鹿」って言われても。わたしゃ、{はい、馬鹿でぇ〜す」と言って、また考えるだけなので、そんなことはどうでもいいわけだ。

そして、少しでも多くの方々に、「IT化」に目覚めていただきたい。
それは、「公共工事という産業」を否定したい方々と「公共工事という産業」を守りたい方々に、特になのである。

それは、自らの解き放ちのようなものなのだ。
って、ここで書いてもわかんねぇだろうなと。

なので、今回の本は特に地場型中小建設業向けに書いているのではないことをはっきりさせておこう。ターゲットは、「公共工事という産業」を否定したい方々と、「公共工事という産業」を守りたい方々両方なのだ。

2002/07/21 (日)  
【マニア1号GET】

昨晩は、うどん星人2号から長岡の「へぎそうめん」が届いたので早速に食べる。
今日は比留間さんから出雲そばが届いたので、そばで一杯だね。

うどん星人2号さん、比留間さん、どうもありがとうございます。m(__)m

ところで、333,3333は、マニア1号が意地でGETしたらしい。
なんてやつだ!

ではお約束どおり、布袋さんとマニア1号は、杉のうどんすきにご招待いたします。
でも旅費は自分もちだからね。

問題は春風亭美由紀さんのスケジュールだわね。

2002/07/20 (土)  
【333,3333告知といろいろ】

山口から帰ってきたぁ。
東京は暑い!

まもなくトップページの一お連カウンターが333,333のぞろ目になります。
景品は、7月11日をご覧ください。

■桃塾申し込み状況

桃塾」の申込状は現在11名さまとのこと。
私的にはかなりの上出来である。

去年の法政大学エクステンションカレッジでさえ、つまり東京でやってもね、始まりは13名だったわけです。

それを地の利の悪〜い、岐阜県は大垣市まで、勉強に来てくださる方々がいらっしゃること自体に、深〜く感謝申し上げなくてはなりません。

まあ、参加いただいた方には絶対損はさせない勉強であることは保証いたします。

懇親会がメインだとは言っていますが、私はお酒を飲むだけで生活をしている人間ではございませんので、当然に現時点での私の考え方をじっくりと学んでいただきと思うのです。

それは、絶対に損はさせないものであることは保証いたします。

なぜなら、多分、ここまで「わからないという方法」で思考を繰り返している変人は、この業界に、私以外には、そうはいらっしゃらないからです。

二死満塁さんからのメール

原稿ありがとうございました。

クルーグマンの有名人経済の話は非常に興味深かったです。
オープンソース関連の論文や山形浩生氏や池田信夫氏といった
インターネットがあることを前提に経済・社会を見ている論文は、
非常に興味深く色々読んでいるのですが、実体経済とどこか距離が
あるな、と良く感じます。

桃知さんは、実体経済(中小建設業)とインターネット経済学
の両方を知る人なので、その距離を埋められる希少な方かも
しれませんね。
先を早く読みたいです。

おほめいただいてありがとう。

「桃知さんは、実体経済(中小建設業)とインターネット経済学の両方を知る人なので、その距離を埋められる希少な方かもしれませんね」。

今まで自分では考えても見なかったことなのだけれども、言われてみて、「ああ、そうかもしれい」と思った。

私が今まで「わからないという方法」、それも「地を這う方法」で埋めてきた空間っていうのは、多分(↑)のことを言うんだろうと思う。

こういう理解者がいるかぎり、私はがんばれるわけだ。

でも、心配性のCALSセンターはこんなメールをくれるわけ。

桃知様 建設CALS/EC研修センターです。

いつもお世話になります。
「2002桃知塾」の件ですが、初日はいい勢いだったのですが
その後は伸び悩んでいます。
現在の応募状況は県内8名、県外3名計11名です。
県外が意外と少ないのですがいかがでしょうか。
人の輪を広げるため、できればもう少し増やしたいので、
お力添えをいただけませんか。
よろしくお願いします。

PS:県外3名とは北海道、新潟、東京です。

確かに県外参加者が少ないですね。
それも、せっかく中部地方での開設なのに、中部の皆さんからの参加はゼロ。

確かにわたしゃあんまし岐阜県以外の中部では動いていないかもね。
でも、せっかくですので中部、東海、近畿の方々とも勉強してみたいものです。

じゃないと、ますます岐阜県との差が開くばかりになってしまうでしょうからね。

2002/07/19 (金)  
【僕たち自身を鍛えてゆかなければいけないですね】

柏崎市での後援。嬉しいことがあった。
4時間の後援で、途中で取った一度の10分だけの休憩時間。

そのとき、作業服の方が私に近寄ってきて、「ケイジアン」の意味について確認にこられた。

私は、意味もなく嬉しくなった。
「そうだよ、そういう時代なんだよ。」

 今という時代は複雑ですね。人類が長い歴史のなかで経験したことがないような面がたくさんあるわけです。今の体制やシステムのさまざまな問題が指摘され、かなり煮詰まっているとはみんなが感じているけれど、「どうしたらいいのか」という提案はまだ出されていません。でも同時に、今ほど多くの人がよりよい未来を求めている時代はないのではと思っています。

 そのとき大事なことは、国際政治や環境問題もそうですけれども、まず知らないと、問題自体がないわけです。じつは僕も、こんなに環境が悪化しているなんて知るまでは、僕にとって問題ではなかった訳ですね。みなさんそうだと思います。知るということ、よく知るということによって、今起きていることの真実、私たちがこの惑星の上に生き残れるかというような大きな問いへの気づきが生まれてくるのですね。

 インターネットが普及してきて、今は非常に多様な情報が手に入れられる。国というのは情報にしても、一つの統一したシステムでやっていきたいという思考が働きますが、インターネットによって市民が国境の壁をするりと乗り越えて横でつながる、非常にグローバルな動きがでてきています。そういう情報の横の流れができると、何がおかしいのかをより精密に考えたり、より具体的に未来を考えてゆく議論ができるようになってきます。
世界を動かしている巨大なシステムが求める、AかBかという単一の価値観じゃなくて、いろんな考えの人がAでもBでもない、CもDもあるというように多元的に考え、責任もって行動してゆくということから、僕は未来はより良い方向へ変わってゆくのではないかと思います。まずは、そうなるように、僕たち自身を鍛えてゆかなければいけないですね。
(坂本龍一,「変革の世紀」http://www.nhk.or.jp/henkaku/about/themesong.html

これは、今回の原稿でどこかに引用して使おうと思って、入れたり出したりしている坂本龍一の言葉なのだけれども、結局「没」になりそうなので、ここに掲示してしまおう。

「僕たち自身を鍛えてゆかなければいけないですね」
これがすべてだろう。

それでは、今日の一節。
私は、今日は山口へ飛ぶ。

■ソーシャル・キャピタル

 「ソーシャル・キャピタル」というのは、日本語では「社会資本」と訳されますので、道路や公共下水道のような「社会資本」と混同されがちですが、じつは全く違うものです。

 ロバート・パットナムは、コミュニティがうまくいっている、うまくいかないの差を、この「ソーシャル・キャピタル」の差であるとしていますが(※ロバート・パットナム,河田潤一(訳)『哲学する民主主義』2001,NTT出版)私は、これを次のケネス・J・アローのいう「信頼」の文脈で理解しています。

 『それは人々の間の信頼である。さて信頼というものは、かりにほかの点をおくとしても、非常に重要な実用的価値をもっていることはたしかである。信頼は社会システムの重要な潤滑財である。それが社会システムの効率を高めることはたいへんなものがあって、他の人々の言葉に十分に依存できるとするならば、さまざまな面倒な問題が取り除かれる。』(※ケネス・J・アロー,村上泰亮訳,『組織の限界』,1999年,岩波書店,p16)

 たとえば、ここでは「談合」を例に考えてみましょう。批判を覚悟で言いますが、私は本来の意味での「談合」を「コミュニティ・ソリューション」のひとつの形態と考えています。そもそも談合は、極めて不確実性の高い要件を前提として成立しています。それは、談合が成立するには、談合参加者が決定事項を必ず守る必要があるということなのです。つまり、談合の成立自体が、全く信頼のおけない構成員同士の「信頼」を前提としているという矛盾を抱えています。つまり、談合そのものが不確実性を抱えているのです。

 しかし、そこになんらかの信頼関係が形成され、構成員の合意によって仕事の均等な配分を求めるという談合のシステムが正常に機能しているとすれば、ここには「ソーシャル・キャピタル」が存在していると理解してもいいのだろうと考えるのです。

 つまり「ソーシャル・キャピタル」とは、ブラウが言うところの「社会的交換」それは「何らかの将来のお返しの一般的期待はあるけれども、その正確な性質はあらかじめ確定的に明記されない」の上に存在する「信頼」と呼べるようなものをベースにした人と人との関係性の財産と理解すればよいでしょう。(※P・M・ブラウ,間場ほか訳,『交換と権力』,1974年,新曜社,第4章)

 それであれば、昨今問題となっている官製談合や、あっせん収賄などと言った政官との癒着の必要は本来必要ではないはずなのです。

 談合のシステムに政官が加わることは、談合が本来持っている「コミュニティ・ソリューション」がその機能を失い、その代替策としてコミュニティの秩序を形成するために「ヒエラルキー・ソリューション」が機能しているということでしかないでしょう。それは、本来の意味での「談合」における信頼を構築するシステムがなんらかの理由で機能しなくなっていることを意味しているのですが、このような状況を「ソーシャル・キャピタル」が欠如した状態と理解すればよいでしょう。

 つまり、本来の談合のシステムさえも正しく機能しないコミュニティでは、そもそも信頼が存在していないがために、権限と強制力による「ヒエラルキー・ソリューション」が必要とされたということです。その意味では、このコミュニティには最初から「ソーシャル・キャピタル」は存在していないといえるのですが、逆説的には「コミュニティ・ソリューション」が機能するためには、信頼をベースとした「ソーシャル・キャピタル」は不可欠であることを意味しています。

 このことは、「談合」というシステムが持つ本来の機能への批判と、政官との癒着と言った不正行為への批判は本来違うものであるということを指摘しておかなくてはなりません。私は「コミュニティ・ソリューション」の効用を語っている立場として、本来の「談合」が持つ機能は、これからの社会の問題解決方法として十分に研究に値するものだと考えています。しかし、このことは、昨今批判の対象となっている政官との癒着と言った、本来の「談合」の機能を歪める不正行為に対しては、批判的な立場であることを意味していることもご理解いただけるかと思います。

 私は、中小建設業が当面している諸問題は、「ヒエラルキー・ソリューション」でも、「マーケット・ソリューション」でも既に解決はできない。つまり「経済学が生み出した二つの解決方法では中小建設業は救えない」という見解を持っています。

 このような状況の中で、第三の道とも呼べるような解決方法があるとすれば、それが「コミュニティ・ソリューション」なのだと私は確信しているわけですが、それが実行され有効に機能する、「信頼の構築」という「ソーシャル・キャピタル」を蓄積していかなくてはならないという、かなり困難な作業をともなうことは、この談合の例でも理解できるかと思います。

 それでも、私は、これからの公共工事の問題解決方法は「コミュニティ・ソリューション」であり、その推進エンジンである「ソーシャル・キャピタル」の蓄積こそが大切なのだと言うわけです。そしてそのときの問題とは、その「ソーシャル・キャピタル」を蓄積すべきコミュニティとはどこなのかということなのです。ここで結論を書くのはいささか性急過ぎるかもしれませんが、それは業界という仲間内を越えた地域社会であるというのが私の答えとなります。それは私の個人的な経験の昇華としての理解なのです。

2002/07/18 (木)  
【今日はコピーやさんのためにか?】

今日は新潟県柏崎市で講演です。

上野 9:34 あさひ 401号 長岡 11:29
長岡 11:44 北越 4号 柏崎 12:08

近いのか遠いのかよくわからない移動距離なのですが、午後から4時間の講演を行って、終了後に帰路につきます。

今回の講演会は、柏崎商工会議所さんのお骨折りで実現できたものですが、これは二部構成の第一部の予定で、じつはもう一回講演が予定されています。

つまり、8時間枠の講演を想定してあるのですね。
ちょと、最近は体力が落ちてきていますので、がんばらなくっちゃ!なのです。

■8月7日新潟講演決定!

オープンセミナーのご案内に、8月7日新潟講演のご案内を掲示しました。

主催は、主催は社団法人新潟県電設業協会さま、演題は「奥が深いぞ!電子入札」というすさまじいものです。

なので、内容もこうなっております。

 この講演は、かなり意味深な演題でもわかりますように、電子入札というよりは、電子入札を隠れ蓑に台頭してきている、制限付き一般競争入札についての批判的な講演になります。たとえば、主催者さまの案内文にある松阪市は電子入札はしていません。制限付き一般競争入札+郵便です。

 問題は電子入札にあるのではなく、制限付き一般競争入札なわけです。ただ、この講演は批判に終わるだけではなく、「ヒエラルキー・ソリューション」の衰退と「マーケット・ソリューション」の暴走を背景とした、「コミュニティ・ソリューション」という問題解決方法の可能性を探るものとなります。

 多分私の講演としてはかなりの上級者コースかもしれませんが、初めての方でもわかりやすいような内容とすることは言うまでもありません。お近くの方は是非にご参加ください。

ということで、執筆作業は今日はあまり進まない予定です。

では、本日の一節
これは下書きのようなもので、まだ手を入れなくてはならない部分であることをご了承ください。というよろもコピー屋さんの部分は消えるかもしれません。

■技術のミーム

 さて、私たちはここで、市場を形成する「技術のミーム」と「消費のミーム」という二つのミーム分類に立ち返ることで、ある産業の持つ「技術のミーム」が第一種の情報と第二種の情報との束であることが理解できるでしょう。

 たとえば現代の自動車産業の場合、技術のミームにおける「第一種の情報」とは、いってみれば自動車の機能や性能や価格を表す「値」としての情報です。そして、そのような「第一種の情報」の値として表出させている商品の規格化と定量化の枠組み合意のようなもの、つまり、世間で認知されている「単位」とか「取引方法」などの、「人々の間で交わされてきた経験と解釈と信頼の蓄積を反映している第二種情報」がその背景に存在しているということです。つまり、それらを生み出している、開発システムや生産技術やもっと大きなくくりではそれらを統括する経営システムも「第二種の情報」に含めて技術のミームとして存在していると考えるわけです。

 しかし、既にみてきたように、このような要因だけを自動車という商品の競争力とすることは難しいわけです。これは自動車産業とはある意味模倣が容易な技術を基にした産業だということなのですが、このような模倣が容易な技術を基盤にした産業で、競争力の根源(コア・コンピタンス:ここでは自社の商品を消費者に選んでもらえる強力な理由)は何なのだろうか?と考えてみればよいわけです。

 このような技術模倣が容易な産業での競争力の根源は、

<企業間にあるわずかなミーム(文化子)の相違>

でしかありません。(※村上,1994)

 この企業間にあるわずかなミームの相違が、第二種の情報に潜む「信頼の情報」の差であることを私たちは既に知っているなずなのです。

 この自動車産業に見られるような傾向は、模倣が容易な技術を基盤にする産業ではどこにでも見ることのできるものです。一例を挙げれば、複写機業界というのは模倣が容易な技術を基盤にした産業の典型例として考えられます。たとえばこの業界を代表するX社とR社の製品を比べた場合、その製造者のロゴマークを製品から取り去ってしまえば、どちらがX社製かR社製かを区別することは複写機業界以外の方々には不可能でしょう。

 しかし、それでも消費者は製品を選別して購入しているはずです。消費者はなんでもいいやとは思っていないはずなのです。ここで、私たちが注目するのは、その時の選好基準はいったい何なのだろう?ということなのです。そこには今までの考察でも見てきたように、価格や狭義な技術以外にも、「なんだかよくわからないけれども人を集結させる力を持った情報」が大きなウエートを占めているのではないだろうかと考えることができるはずです。

 複写機を選ぶ際の選好基準はメーカーによる機能的(技術的)な差異が決定的な要因ではないでしょう。私にはどう見てもX社とR社の製品は同じようなものとしか思えないのです。それでは、複写機の選好基準とはなんでしょうか?

 まず最初に価格の差をあげることができるでしょう。同じような性能の複写機で決定的な価格差がある場合には、これは間違いなく安い価格を提示できるメーカーに軍配があがるでしょう。ただしその価格さは「決定的」なものでなくてはならないとう条件付ですが。しかし実際のところ、両社は相手を完全に駆逐するような価格戦略は行っていないようです。つまり、価格が決定的な選好基準にはなかなかなれない状況だと考えてよいでしょう。

 では、価格が決定的な選好基準になれない場合、たとえば、些細な技術的な差異とか、販売店との付き合いの深さとか、営業マンの熱意とか、メーカーに対して持っているブランドや信頼のイメージとか、もしかしたら製品のデザインとか色使いとか、環境にやさしいとか、そういう機能とか性能とは直接関係のないものの組み合わせが選好基準となっていると考えられるのではないでしょうか。

 このように、まずは、選好基準は複雑なのだということを理解していただければよいのです。そして、私が「模倣が容易な技術を基にした産業」という部分に「こだわって」例を挙げるているのにはもちろん理由があります。それは、

<中小建設業は自動車産業よりも複写機産業よりも模倣が容易な技術を基盤とする産業である>

ということなのです。中小建設業の技術模倣が容易でなければ五十七万社の許可業者が存在し六百五十万人の雇用を抱える産業が存在するなんて説明のしようがないわけです。

ということで、ここから地場型中小建設業のコア・コンピタンスを見つける作業をするわけだわね。

2002/07/17 (水)  
【(続)長野県でおきていること】

これは、今回の執筆作業で書いたパーツなのだけれども、たぶん使われない、つまり日の目を見ない可能性が高いので、昨日の長野県ネタに絡めてここに載せておこうと、ふと思った。ので、そうする。

■信頼ってなに

 「信頼」という概念はなかなかに理解することが難しいのですが、ここでは、この「信頼」について、山岸俊夫が行った整理にそって理解を進めていきましょう。(※『信頼の構造』,1998年,東京大学出版会,p35)

山岸は、「信頼」を次のように分類します。

 1・相手の能力に対する期待としての信頼
 2・相手の意図に対する期待としての信頼

 1は、ふぐを調理する板前さんに対する信頼のようなものです。
 2は、夫は浮気をしてはいないと信じている妻の場合のようなものです。(この場合、夫に浮気をする能力がないと考えているわけではありません)

 この「信頼」の分類は公共事業に対する昨今の問題を理解するには好都合なのです。

 例えば、ダム建設に対する問題を考えて見ましょう。近くにダムが建設されるという計画が発表されれば、住民の中はその必要性について疑問を持つダム建設反対派の方々が出てきます。それに対して、ダム建設推進派は治水の問題や、建設による地元経済への貢献期待などのダム建設による効用のPRを行い、ダム建設反対派を説得しようとすます。この場合、電力会社や政府は、問題はダム建設の効用という「能力」であり、建設反対派の不信は、「能力」に対する不信に基づくものであると考えていわけです。

 これに対して、建設推進派がいくらダム建設による効用をPRしても、建設反対派の不信はあまり解消しない場合が多いのです。これは建設反対派には、行政や政治家や建設会社なのどの建設推進派の「意図」に対する不信があって、行政や政治家や建設会社なのどの建設推進派は、本当のことを住民には知らせないだろうと思っているからなのです。

 このように、ダム建設に対する信頼の構築を、建設推進派がダム建設による効用としての「能力」の問題だと考えているのに対して、反対派側では、ダム建設推進派の「意図」の問題としてとらえているいるような場合には、建設推進派の効用に視点を持ったPR活動は、ほとんど効果をもたないものになってしまっているわけです。そしてこの対立は妥協点を見つけることが困難なままなのです。

これだけ・・・



【杉の「うどんすき」はうどん星人2号から「うまい」というお墨付きをもらった】

昨晩は、うどん星人2号と「杉」にてうどんすきを食らう。
そして、これが、うどん星人2号から感想メールだ。

さきほどは、大変ご馳走様でした。
たしかに、「おそるべし....」ではなく「すさまじい....」うどん
そのものでした!
でも、とても生粋の浅草っ子が作っているとは思えない
上品なスープ、ハモのかまぼこ入りは初めてです。
いくつかの素材の味が融和して美味しい....
素材の持ち味で勝負....
などと、美味しいものにはいろいろありますが、
杉のうどんすきは、時系列的に展開するおいしさですね。
おかわりする度に、スープがだんだん濃厚になって
最後はネギも甘くとろけて、別の料理のようでした。

うどん☆人、感激のあまり、
すっかり杉のうどんすきのファンになりました。
香川からの客人が来た際には、杉につれていって、
ちょっと驚かしてあげたい気分です。
(お蕎麦は、以前麻布十番の更級で、
蕎麦ちょこに入らないくらい堅い田舎蕎麦で打撃を与えてあります。)

また次回、300,000ヒットの布袋さん(笑)、それに
333,333ヒットのどなかた様、みなさまと
うどんすきを堪能できるのを楽しみにしています。

ここにも書いてあるように、第一回うどんすきの会は春風亭美由紀さんをお呼びして、既に参加の権利を獲得している轟さん(なぜか家では「布袋」さんと呼ばれている・謎・)と333,3333ゲッターと、うどん星人2号と、それに若干名の希望者を加えてにぎやかに開催する予定です。

これは以前やっていた「おじやうどんの会」の代替版ってところです。
時期的には8月のお盆過ぎを考えていますので、お楽しみになのでした。

ということで、今日の一節。

■経済的交換と社会的交換

 さて、ここからは、金魚論から展開した「中小建設業のIT化=環境・原理(市場×IT化)」という式の「市場」という部分の考察を始めますが、その市場についての概観は今までの考察の中である程度は略画的に描いてきています。

 お気づきの方も多いかとは思いますが、本書の「市場」考察のアプローチは少々変わっているはずです。それは、村上泰輔が行った、「社会的交換」の視座から産業化を再構成する考え方を援用しているからなのですが、この考え方では、従来のマーケット・メカニズムに依存した交換行為を「経済的交換」として社会的交換の特殊ケースとしているところに特徴があります

 このようなアプローチは、本書のいたるところに見て取ることがでるはずです。

 まず、本書では、中小建設業は開発主義的な産業政策が生み出した「政策的な産業」だという言い方をしていますが、開発主義の考え方の基礎を成すのが、この「社会的交換」の視座から産業化を再構成するやり方なのです。

 また、人間をミーム・ヴィークルと想定していることは、「社会的交換」を前提にしていること意味しています。それは「売り手と買い手のミーム」で見たように、市場を形成しているミームには、「売り手」が持っている「技術のミーム」と「買い手」が持っている「消費のミーム」の二つのミームがあり、<市場とは「技術のミーム」と「消費のミーム」の相互作用の場>であること、売るということは、<自社の「技術のミーム」を買っていただいている>ことというように、既に、市場をミームの交換の場という社会的交換の場として概観しています。

 さらに、中小建設業を取り巻く諸問題の問題解決方法を「コミュニティ・ソリューション」の効用の文脈で考察していすが、ここでも、既に「ソーシャル・キャピタル」という概念を持ち出しているように、さらにはアローの『信頼は社会システムの重要な潤滑財である』という言葉を引用しているように、経済的交換が社会的交換を下敷きにしていることは、既に指摘していたところなのです。

 つまり、本書における議論は、「経済的交換」が単なるマーケット・メカニズムだけではなく、「社会的交換」の概念の上に存在しているとを、既に想定したたものとなっていたわけです。

 ところで「社会的交換」というのは、ブラウが言うような「何らかの将来のお返しの一般的期待はあるけれども、その正確な性質はあらかじめ確定的に明記されない」ものと理解すればよいわけです。(※P・M・ブラウ,間場ほか訳,『交換と権力』,1974,新曜社,第4章)

 売買と言っても、単に価格と量の情報が大量にやりとりされるだけでは、人を取り引きに集結させる力が特に強くなるわけではないということで、ビズネスはいつも悩ましいわけです。つまり「安くて大盛ならば絶対に売れるのか?」といえば、「どうやらそうでもない」ということです。

 そこで「人を集結させる力が強い交換とはなんだろう?」と考えた時、「社会的交換」がクローズアップされるのです。たとえば、社会的交換の色彩が強い関係として村上はこんな例を挙げています。

 日本的経営、下請け関係、産業政策、サービス売買など。(村上,1994年,p139)

 これらの社会的交換の色彩の強い関係例は、なにやら信頼と呼べるようなものを基盤として形成されてきたものと言えるはずです。これらの例は、日本的な経営に見られる制度慣行を代表しているということで、昨今のG軸(グローバル指向)上に展開されるビズネスでは、批判の対象とされているものです。

 しかし、インターネット社会はそんなに単純なものではありません。特に、

<中小建設業は第U象限の「コミュニティ指向」でしか生き残れない>

というGC空間での象限分類に立ってみれば、中小建設業再生のヒントは、むしろ社会的交換の色彩が強い関係にあると本書は主張するのです。

 そして、この社会的交換には、信頼と呼ばれるもの以外にも、「なんだかよくわからないけれども人を集結させるような力を持った本質的な情報」が沢山あると考えるのです。それらを総じて、交換における「ソーシャル・キャピタル」と言うこともできるでしょうし、「(「ソーシャル・キャピタル」という)ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密」になりえるのです。

 つまり、「経済的交換」を「社会的交換」の特殊ケースとするという考察方法は、市場を人の面から束ねる力は、私たちが単純に売買とはそれだけだと思い込んでいる「量と価格」だけの経済的交換よりも、何かしらの「信頼」をベースとした社会的交換側に比重がある、若しくは社会的交換をベースとして経済的交換も行われているのではないかと考えるということです。

今日は日中、群馬からお客様の予定。
そのほかは、とにかく執筆、執筆、執筆なのだ。

2002/07/16 (火)  
【台風が日本中を覆っている】

■桃塾開設のご案内の訂正

深夜のメール。
ご苦労様です。

いつもお世話になります。
さっそくホームページに「2002桃塾」を出していただきまして
ありがとうございます。おかげさまで、今日現在で公募し始めて
3日(土日を含む)なのですが、応募者がすでに8名となっています。
大変早い反応に心から感謝し、喜んでいます。

また、案内文の「研修日」ですが、私が9月21日を27日と慌てて
打ち間違えています。(「研修概要」中の日程があっています)
できればホームページ(momoti.com)の訂正をお願いします。

よろしくお願いします。

ということで、桃塾開設のご案内を訂正いたしました。
それと、申し込みはスタート・ダッシュ状態ですね。嬉しい限りですね。

■なんとか副大臣のこと

薩摩隼人らしくだそうだ。
怒れ鹿児島県民である。

私は鈴木宗雄氏にもむかつくことはなかったけれども、久しぶりにむかつく政治家を見た。
名前など覚えるに値しない。

■長野県でおきていること

私は最近田中康夫氏がやろうとしていることが、なんとなく理解できるようになってきたわけです。まあ、彼の行動はどう考えても「へん」ではありますが、かれのやり方を見ていると、やっぱりミームだなぁって、つくづく思うのです。

「民意」(みんい)っていう日本語は、これはミームなわけです。よく発音が似ています。
田中康夫氏は、ミーム(民意)・コントローラーなのであり、究極の「コミュニティ・ソリューション」の実験者であり、「ヒエラルキー・ソリューション」の否定者なわけです。

ということで、本日の一節。

 それは、まず、インターネットが革命であることは、マクロ経済学者には理解しにくいだろうということです。なぜなら彼らの問題解決方法は、個人と問題を切り離すことで成立しているからです。そういう方々にとって、インターネットの存在はファックスの延長上に考えることで十分な理解になってしまいます。しかし、個々人の世界イメージの中では、これは「革命」に相当するようインパクトを持っているということです。

 たぶん今起きている革命的な変化とは、一人ひとりが生活基盤とする文化・精神の「革命」であるということです。社会とか企業とかが人間の世界イメージの組織であることを理解していれば、組織を形成する個々人の価値観の変化は、やがて組織全体を変化させることになります。それは既存の組織とシステムの無力化を意味し、さまざまな「新しい関係」を生み出すことになるでしょう。

 当然そこでは、私の個人的な問題解決方法である「コミュニティ・ソリューション」とか「わからない」という方法のような、新しいスタイルの問題解決方法が、社会的にも有効な方法として台頭してくるだろうと予想できるはずです。この意味でインターネットが「革命」となりうるものであると私は言うのです。

 そして、インターネットが新しい通信手段として大きなシェアを占めることは、相互依存的に相補均衡するものだろうと考えています。インターネットユーザーの量的な拡大は先の文脈と相まって、やがて社会の質的な変化をもたらすでしょう。それは今という社会がインターネットの精神文化とでも呼べる文化を基盤としたものに変化するだろうということです。

 私はこのような理解をベースにIT化を考えています。つまりIT化とは、精神文化的な革命を私たちにもたらすものということです。そして、この精神文化的な革命は、個々人が今までとは違った構図で、自らと社会との関係位置を確認し始めることを意味しています。

 この関係の中では、従来の枠組みで機能してきた「ヒエラルキー・ソリューション」や「マーケット・ソリューション」だけでは問題の解決が難しいかもしれません。そのような状況は金子郁容の言う、ボランタリーな問題解決方法である「コミュニティ・ソリューション」が新しい問題解決方法として台頭してくるだろうと言うことです。

私は長野でおきている事は、「コミュニティ・ソリューション」VS「ヒエラルキー・ソリューション」だと考えています。

それで、どっちが勝つかと言えば、「コミュニティ・ソリューション」だと思います。
なぜなら、

『ミームによって運ばれる感動と人間性に対する信頼感の伝承がコミュニティ・ソリューションの秘密である。』(金子,2002,p160)

のであり、田中康夫氏は「ミーム(民意)・コントローラー」であるからです。

選挙と言うのは、本来「ヒエラルキー・ソリューション」なのです。

 「ヒエラルキー・ソリューション」は権限を「上層部」に委譲することで個人と問題を切り離して問題を解決しようとする問題解決方法なわけで、本当は、田中氏は本当は不利なはずなのです。

しかし、田中氏はその究極の「ヒエラルキー・ソリューション」さえも、「コミュニティ・ソリューション」の枠内にとりこもうとしているように見えます。つまり、選挙の前に、ミームの形成の部分で田中氏は勝ってしまっているわけです。

選挙という「ヒエラルキー・ソリューション」でさえ、結局は、投票をする一人ひとりの県民の意思の集計なわけであり、その県民との関係性を作りだそうとする「ミーム(民意)・コントローラー」田中康夫氏は、選挙の勝ち方を知っている戦略家なのです。

一方反田中派にはなんの戦略も見えません。旧来からの「ヒエラルキー・ソリューション」にこだわり続けているだけで、個人と問題を切り離して問題を解決しようとする問題解決方法にこだわり続けているだけでしょう。 

でもそこにこだわればこだわるほど、戦況は田中氏にとっては有利にしか働かないわけです。

そして選挙は、単に田中氏に権威と権限を与える古い秩序でしかありません。
それは、今のところ(ここが肝要)田中氏にとってはたいした意味はないのだと思います。

問題は常にミーム(民意)の形成にあるわけです。

ミームに関して言えば、反田中派は、本当に情けないぐらいになにもできないミームしか発信していません。それは、県民一人ひとりとの関係性の上に成立していないからでしかないでしょう。今回の選挙で、反田中派は、県民のミーム(民意)形成という部分では、致命的な打撃を受けるはずです。

しかし、心配なのは、田中康夫氏という「ミーム(民意)・コントローラー」が、古い秩序とは言え、権限と権威を得ることです。まだわが国の政治のシステムは、「ヒエラルキー・ソリューション」の文脈にしか存在していないわけです。

ここでは、なにがおきるのでしょうか。

ということで、今晩はうどん星人2号が遊びにくるので、それまでは、執筆、執筆、執筆なのである。

2002/07/15 (月)  
【2002年度 「桃塾」 開設】

2002年度 「桃塾」 開設の案内を作成したのでご覧ください。


昨年の法政大学エクステンションカレッジに引き続いて、今年は岐阜県の建設CALS/EC研修センターにて、「桃塾」を開設することになりました。

昨年もそうだったように、今年も「懇親会」がメインだという変な勉強会ではありますが、中小建設業のIT化について勉強して見たい方は、是非にご参加くださいませ。

特典は、
とにかく友達ができる。
酒飲みができる。
現在執筆中の私の本が発刊前に読める。

そんなものですが、興味のある方は、建設CALS/EC研修センターまでお問い合わせください。
詳しくはこちら→桃塾開設のご案内

追伸:

これは結局全国募集なわけで、中小建設業のIT化について学びたい方であれば、全国どこのどなたでもOKということです。

なので、宿泊施設を岐阜県は作ったわけだ。


【わかったような気にはなるものです】

とにかく書き続けている。
今回の本は、二部構成をとる予定だけれども、その第一部である「IT化を考えるための基礎知識編」とでも呼べそうな部分がまもなくまとまりそうである。

総文字数は89,431文字と7月11日に比べると2,803文字減。

しかし、ここ数日間での本質的な変化にかかわる情報はこの文字数の動きでは表せるものじゃないわけです。

では、本日の一節。

■制度・慣行=環境×原理

 本書は、中小建設業の「IT化」を中小建設業とIT化の乗数という公式で考えます。つまり、

「中小建設業のIT化=中小建設業×IT化」

です。さらには、「中小建設業=市場」とすることで、

「中小建設業のIT化=市場×IT化」

という公式での考察も行います。

 まず、「中小建設業×IT化」とは、「中小建設業」と「IT化」のそれぞれの環境と原理を理解することで議論を進展させていくことを意味しています。これは「制度・慣行=環境×原理」という公式の拡大解釈的活用方法なのですが、中小建設業のIT化を考察するということは、中小建設業とIT化それぞれの環境と原理を明らかにするということなのです。

 そして、「中小建設業=市場」「中小建設業のIT化=市場×IT化」とは、「金魚論」からの発展系なのです。中小建設業は自らを取り囲む環境そのものが生み出した存在であり、その環境に依存した存在であるとすれば、環境とは「公共建設市場」のことであり、その公共建設市場の環境と原理の考察も必要であるということです。

 このように本書では、伊丹敬之の方程式、<制度・慣行=環境×原理>((伊丹敬之,『経営の未来を見誤るな』,2000,日本経済新聞社))を援用しています。この方程式は、「制度・慣行」部分を「それに相当するものと」入れ替えることで、様々な考察パターンへの展開が可能になります。

 たとえば、制度・慣行を中小建設業のIT化」とすれば、

「中小建設業のIT化=環境×原理」

となります。これは、

「中小建設業のIT化=環境・原理(中小建設業×IT化)」

と展開できます。

 つまり中小建設業のIT化とは、「中小建設業=環境×原理」と「IT化=環境×原理」の乗数でもあるということです。先ほどの「中小建設業とIT化それぞれの環境と原理を明らかにするということ」とはこのことなのです。

 さらに「金魚論」からの観察で、中小建設業を自らを生み出した市場の存在とすれば、

「中小建設業のIT化=環境・原理(市場×IT化)」

という展開も可能となるということです。

 経営が行うIT化とは、経営における制度でしかありません。その制度は「環境」と「原理」の乗数としてのみ正しく機能します。この考え方を本書は貫いています。

 私たちがIT化の考察に際して最初におこなうべきことは、コンピュータやアプリケーションソフトの品定めでも、ウインドウズVSマックVSリナックスというような、どうでもいいようなOS優位論争でもありません。それは自社(中小建設業)の環境と原理を徹底的に理解することで、中小建設業、つまり自分の会社の「IT化ってなに」という問いへ、輪郭的な答えを掴む作業でしかないのです。

 ただし注意しなくてはならないのは、この考察方法は、「IT化」「中小建設業」「市場」という中小建設業のIT化を構成しているモノをそれぞれのパーツに分けて、それぞれの環境と原理を徹底的に理解しようとします。場合によっては顕微鏡で見るような考察を行いますが、これにもじつは大きな落とし穴があります。

 例えば、小学生の理科の時間の魚の解剖を思い出してください。魚を知ろうとして解剖をすれば、魚を構成する各パーツについての知識を得ることができます。そこで、そのパーツを元に戻せば、魚はまた水の中を泳げるのでしょうか。答えは「泳がない」なのです。なぜなら死んでしまっているからです。

 この魚の解剖のように、事物を構成するパーツを詳細に見ていくことによって、私たちは何がしかのことを「わかったような」気にはなるものです。しかし、そのパーツを組み合わせたところで、それに生命が宿るのかと言えばそうではありません。大切なことはそこなのです。

 企業はそれを構成するパーツの集合体というだけではなく、それらが複雑に相互依存関係を持つ生命体のようなものだということなのです。中小建設業のIT化が、「中小建設業=環境+原理」と加算ではなく「中小建設業=環境×原理」という乗数で表されているのはそのためです。

2002/07/14(日)  
【休み】

休み

2002/07/13 (土)  
【今日はお休み】

33万ヒットは宇都宮の轟さんでした。
おめでとうございます。

333,333さんとあわせて、浅草にご招待いたします。
お楽しみに。

というところで、今日はお休みです。
では、よい週末を。

2002/07/12 (金)  
【二日酔いの朝】

昨日の東京はかなり暑かった。
夕方から編集氏と打ち合わせをかねて、杉に行って、結構酔っ払って帰ってきて書いたのが、(↓)の【330,000と333,333】。

今朝おきて自分で読んでびっくり。
「旅費、宿泊費込みで」って書いてある。

おいおい、わたしゃ自慢じゃないがせこいやつなんだよ。そんなに太っ腹じゃないぜ!
冗談は寄席。★\(^^;

これで、ドイツとかニュージーランドとかからだったら、わたしゃ借金こしらえなくちゃいけない。
ということで、早速打ち消し線で文字装飾。

そして、せこく、「旅費は自腹で」となりました。
朝礼暮改ならぬ、夜例朝改だと。

でも、本当に春風亭美由紀さんは呼ぼうと思うのだ。

2002/07/11 (木)  
【330,000と333,333】

忙しくて何も考えてなかったぜ。
33万と333,333ヒット。

よっしゃ、今回は特別ボーナスだ。
旅費、宿泊費込みで、(朝目覚めたらとんでもないことが書いてある。これは各自負担でお願いね)
私と杉でうどんすきを食おう。(どこが特別ボーナスなんでしょう?)

それから特別に、春風亭美由紀と小唄を唄って遊ぼうじゃないかい。(これが特別ボーナスなんでしょう)
浅草で遊びたい方は、見逃せやしないねぇ。

その代わりだぁ、絶対に浅草に来いよなぁ。
これないやつは、今回は遠慮してくれい。ちゃんとなにか差し上げます。

なにせ、芸人一人キープしなくちゃなんないだからね。
わかった?>ALL。

【執筆、執筆、執筆】

浅草は、台風一過のさわやかな青空が広がっている。
よい天気である。

私は午前2時過ぎから、ごそごそと起きだして、執筆作業をしていたのである。
今は午前8時ちょっと過ぎ。ちょっと疲れてきたところだ。また一眠りしようかと思う。

さて、現在の作業量は92,234文字
昨日よりは、+4,385文字

今日のフレーズ。
だいぶ文体が違ってきているのがわかるでしょうか。

■開発主義の問題点

 そうこうしているうちに、今や、公共工事はパッシングに晒されることになってしまいました。それはなぜなのでしょうか。

 その深い原因が、開発主義はその役目を終えたのにまだやっている、ということなのです。開発主義の問題点は村上の次の言葉に収斂されます。

 『とりわけ、離農が事実上ほとんど完成した後も、様々の既得権益のため、この政策を日没させることが難しいという問題に直面せざるを得ない。』(『反古典の政治経済学要綱』,p205。)

「表 」挿入

 村上は開発主義がうまく機能する要件として 8項目を挙げていますが(「表  」)、特に「公平で有能な、ネポティズムを超えた近代的官僚制」に期待をかけていたようです。

 確かに、戦後の廃墟の中から立ち上がり、経済成長を果たしていくためには、社会資本の整備、特定産業への重点融資が必要であり、引き続き貯蓄が推奨されてきました。そして、公職追放を逃れた優秀な国家官僚たちにより見事に高度経済成長が達成され、日本は世界に冠たる経済大国になったわけです。『それが昭和の経済の歴史である』

 『しかし、この強制貯蓄による統制的な経済システムにも限界があったのである。』(堀内光雄,文芸春秋2002年8月号「年金保険料30兆円を廃止せよ」)

 確かにそのとおりなのです。開発主義は典型的なヒエラルキー・ソリューションでしかありません。つまり、この時代にもうその必要はないのです。開発主義はその目的を果たし終えたのです。必要なのは開発主義に変わる次なる政策なのです。でもそれがなかなかできません。すなわち、開発主義は日没が難しいのです。

 この国では開発主義の流れの中で国家公務員は増殖し続け権限を拡大してきました。現在国家公務員は 109万人ほどおりますが、公平で有能な、ネポティズムを超えたる官僚が 109万人もいて、今の日本の混沌とした状況を作り出しているのですから、本当は、期待はずれどころのはなしではないのです。

 スティグリッツは、官僚は何を最大化しているかと問うのでが、その答えは「官僚は自ら所属する組織の予算と権限を最大化する」という言うのです。これを「スティグリッツの法則」といいますが、まさにそのとおりの状況を見ることができるのが今の日本ということでしょう。

 さらには、日没できずに生きながらえている既得権益が問題になっているのもご存知の通りです。これもスティグリッツの法則の文脈上で考えることができますが、これは官僚ばかりではなく、政治と業界が絡む問題として、最近益々非難の対象となっているとこです。でもこれもそう簡単にはなくならないでしょう。とにかく開発主義は日没が難しいのです。

 言ってみれば、これらヒエラルキー・ソリューションの文脈で行われている公共事業こそが、公共工事の信頼を失わせ、批判を生み出している張本人ではないでしょうか。

 このような状況は、ヒエラルキー・ソリューションが解決方法としての力を失いつつあることを意味しているわけです。私たちが想定しているインターネット社会では、この解決方法の効果は薄れてくることは、先に見たように当然のことでしかありません。

 さて、これらのことを意識して中小建設業を見ると、次のようなものの見方ができます。

 ・中小建設業は開発主義における地方への配分政策(ヒエラルキー・ソリューション)において「毛細血管」の機能を果たしてきました。
 ・つまり、中小建設業は開発主義的な産業政策が生み出した「政策的な産業」なのです。
 ・しかし、開発主義がその役目を終えると同時に、本来、毛細血管としての役目も終えなくてならなかったのはずです。
 ・でも、開発主義が生み出した既得権益は、その日没を拒み続けています。
 ・その文脈で、既得権益ともども公共工事はパッシングを受け続けています。
 ・でも、この国では、とにかくたくさんの方々が公共工事に関係しながら暮らしています。

 本書では、このように普通の「IT化の本」では絶対に立ち入らないであろう中小建設業が抱えるネガティブな問題にまで立ち入ってしまいます。ここに違和感を感じる方々もおられるかもしれませんが、それでも、本書は「IT化の本」でしかないのです。それは、IT化をこう考えているからです。

<企業がおこなうIT化は制度なのです>

 IT化は制度なのです。つまり制度について考えるということは、それを生み出している環境とか原理を理解しないことにはわからない、ということです。なぜなら、制度は環境と原理の乗数でしかないからなのですが、これについては後程詳しく触れるので、ここではただそう思っていただければ結構です。(伊丹敬之,『経営の未来を見誤るな』,2000年、日本経済新聞社)

 そして、

<中小建設業は「毛細血管」以外の存在価値を自ら創出するしかない>

 これが本書が読者の皆さんに投げかけるメッセージなのです。

 つまり、このような立場で、中小建設業のIT化を考えるということは、

・このような文脈でIT化を考えること自体にいったいどんな意味があるのだろうか、
・それははたして、現状打破への解決策になるのだろうか、
・もしそれが解決策であるならば、それを可能とするIT化というのは具体的にはどんなものなののだろうか、

それをを考えてみようということです。

 このような立場を取ると、本書は結局「中小建設業のIT化は必要だ」という答えを出すための巧妙なレトリックだとの批判を受けるかもしれませんが、その批判に対しては、私自身が、かつては「無条件なIT信奉者」であったことを正直に認めておけば十分でしょうか

2002/07/10 (水)  
【こんなときこそ地場型中小建設業】

郡上建協さんのイントラネットを見てびっくり。
岐阜は台風の影響で大変なことになっているようだ。

朝日新聞のサイトには、揖斐川の支流の氾濫で冠水した大垣市内の写真が出ていた。

しかし、こんなときこそ地場型中小建設業なのだ。
皆さん、「ご苦労様」なのである。



【山口から帰る】

心配していた台風の影響も受けず(まあ、飛行機は揺れたけれども)ANA 696 山口宇部(1250) - 東京(羽田)(1420)で予定通り帰る。

帰ってすぐに。7月18日の新潟県柏崎市での講演用PPTを整理して送信。
岐阜県事例集の手配もしなくてはならない。→それはこれから。

昨日の山口での後援にはたくさんの方々においでいただいた。
深く感謝なのである。

それから、ホテルもよかったので、原稿も思いのほか進んでいる。
といっても、

総文字数87.849文字。
−8,549文字。

文字数は大幅減なのだ。

協力者の意見を取り入れて、本文中の引用を最小限にしようとしているわけで、今後もっと減る予定。でもかなりの加筆もあるので、本文はかなり変化している。

それから、文体も変えてみた。縦書きを意識して「,」を「、」に変えてある。
たとえばこんな具合である。どんなものでしょう。

 「この本」は建設業全般のIT化について書かかれたものです。けれども、同時に私的な経験を書いたものでもあります。その経験とは、IT化という言葉の持つ意味をどう解釈するのか、つまりIT化の認識の持ち方に対しての私の考え方の基礎の部分のことです。この部分に関しては、私がインターネットを実際に使うことによって得たものが大きなウェートを占めています。ですから、私的な経験を書いたものなのです。

 ITやIT化に関する議論をするとき、特にそれが「この本」のように、制度や組織のあり方まで意見が及ぶような場合は、これはどんな論者でもですが、それぞれが、ある仮説に立って自らのIT化論を語っています。IT化が社会に与える影響をそれぞれに仮定しているのです。

 現代社会は、情報社会とか、IT社会とか、インターネット社会とか、ポスト工業社会とかさまざまな呼び方をされていますが、では、現代社会をどう理解するのかという時代認識の足場には、じつにさまざまな意見があります。当然そこには「IT革命とかいっているが、そんなものはありはしない」という立場、つまり、「ITなんかで何が変わるものか」という、この本の議論の中枢をなす議論も、そんな立場のひとつとして存在しています。そしてIT化は建設説業を変えるものだとする私の立場もそのひとつでしかありません。

 意外に思われるかも知れませんが、この現代社会という時代の認識には、統一された見解がないのです。フランク・ウェブスターはこういいます。

 『情報をわれわれの時代のシンボルにしたいという感覚そのものが、論争の根源となっているのだ。情報の時代は、専門化の時代、福祉の時代だと語る者がいる一方、市民に対する管理が強まると語る者もいる。高い教育を受けた人々が知識にアクセスできる時代の幕開けとする意見があり、逆につまらぬ情報や、センセーショナリズム、世間を惑わすプロパガンダなどを思い浮かべる者もいる。情報の役割を推進する国民国家の発展を想起する者もあれば、情報がより枢要となるような企業組織の変化を考えるものもある。』

 さらに情報の性質や意味については、ほとんど合意が形成されてはいません。『情報がどのように社会的、経済的、政治的関係に影響を与えるのか、という点には、驚くほど多様な意見を有しているのだ。』という具合に、世間にはさまざまな仮説が漂っています。(フランク・ウェブスター,田畑暁生訳,『「情報社会」を読む』,2001年,青土社,p9)

 ここで共通してしているのは、『現代において「情報」が何かしら特別であるということについては、すべての学者が認めていることだ。』ということだけなのです。でもそれがどう特別なのかについては、人さまざまなままなのです。

 これが巷に溢れるIT化論の実情でしかありません。はっきりいえば、「ぼんやりとしかわからない」のです。しかし、だからといって、私自身がこの部分を曖昧なままにして今後の考察をおこなうことは困難ですし、ここで現代社会の見解についての議論を始めるのも「この本」が意図するところではありません。

 つまり、「この本」にも当然に今後の議論の足場とするものがあります。読者の皆様が余計な混乱を起こさないためにも「この本」が足場とするIT化やIT化が社会に及ぼす影響の認識を最初に明らかにしておく必要があるでしょう。つまり、「私はこう考えている」ということを最初に書きます。

2002/07/09 (火)  
【山口】

桃知@松田屋ホテル%山口県湯田温泉である。

今回の山口入りに関しては、CALS山口さんから事前情報をいただいていた。

時が過ぎ去るのは早いもので、明後日には、また先生のお話を聞けると思うと
今からワクワクいます。
さて、この度は先生自らレンタカーを運転されると言われていましたので、
アドバイスを一言。

・山口県人の運転は荒っぽい。
赤信号でも平気で突っ込んできますので、交差点付近ではご注意ください。

・スピードを出しすぎない。
交通量が少ないので、ついついスピードが出てしまいます。
白バイが虎視眈々と狙っています、ご注意を。
また前方の車がゆっくり走っているときはネズミ捕り中の可能性が高い。
追い抜かないようにして下さい。

・レンタカーはトヨタ車を
山口県のレンタカーはマツダ工場がある関係でマツダ車が多いのですが、
やはりトヨタの方が快適です。

話は変わって、松田屋にお泊りになるんですね。
このホテルは、故司馬遼太郎氏の定宿でした。また著名人もよく泊られます。
以前、井上ひさし氏が講演で
「松田屋の司馬氏の部屋に入ると創作意欲がわいた」と言ってました。
今もあるかどうかわかりませんが、聞いてみられてはいかがでしょうか。

最後に山口県の方言を↓(友人の地元新聞記者が作りました)
http://www.joho-yamaguchi.or.jp/ohtsuya/hougen/hougen.htm

アドバイスどおり、トヨタのレンタカーを借りて、運転しない暦数年の私が、へなちょこ運転でも何とかなるぐらいに山口は交通量が少ない。

首都高で(タクシーでだけれども)渋滞は常識化している私には、逆に自動車天国としか思えない状況なのである。

それで、最初は調子にのって萩にでもいこうかと思ったのだが、途中に立ち寄った秋芳洞で体力を使い果たしてしまいあえなく挫折。

そしてお宿の松田屋さんは本当にすばらしい。
とにかく書けるのである。不思議なところだ。

今朝は4時半に起きて、第一章の大規模改善工事をがんがんと進めたわけだ。
確かにはかどるぞ。いとうれし!

2002/07/08 (月)  
【困ったぞ】

やっぱり、どうも「難解」らしい。

桃論(今回書いている本の仮称なわけだ)の第一章を読んだ方々から、ポツポツと感想が届き始めた今日この頃、感想はどうも芳しくない。

つまり、「難しい」なのである。
そしてわたしゃ「ん〜」なのである。

方針としては、絵本化してしまおうかという気持ちが大きくなってきた。

なにせ、第一章を今読んでいる方々は、少なくとも私の講演は何度か聞いている方々であって、まあある程度の前理解をもっているわけで、それでも難しい。

つまり、最初に読んだらどうなるんだい、ベイビィ?(ななわくん風に)

というところで、わたしゃ考えた。
1・文字数事態を少なくする。
2・専門用語を少なくする。
3・今回の桃論の中で圧倒的に専門用用語がおおいのは「引用」の部分なわけで、それじゃ「引用」をできる限り消してしまおう。

たとえば、7月4日にここに掲示した「この本の立場」のところを、以下のように書き換えることができる。→文字数を減らして専門用語を削減。

■この本の立場

 この「中小建設業は金魚だ」という比喩は、多くの「公共工事は悪だ!」派にはほめてもらえるかもしれない。「世の中飼い慣らされた金魚ばかりだから餌が沢山必要になって国の財布はすっからかん、挙句の果てに借金までしなくちゃならない」と思っている方々は意外に多いものだ。そして挙句の果てには「建設業はもっと自助・自立しなきゃいけない」とかなんとかいい出すのだろうが、残念ながら、この本はこのような方々が喜ぶような「IT化」の話ではない。この本は明らかに、この逆風の中、中小建設業を擁護する立場に立っているわけだ。

 この本では、中小建設業は「政策的な産業である」という風に考えている。この見方は中小建設業を「金魚論」の枠内でみているには違いないけれども、金魚論が抱えている息詰まりの打開策を、マーケット・メカニズムで何でも洗濯してしまうのが大好きな方々のそれとは違った方法で考えようとしている。それどころか最近の政府に頼ろうとしている方々の動きにも疑問を呈している。そして挙句の果てにこういうのだ。

<経済学は中小建設業を救えないかもしれない>

 この本では「中小建設業は地場の重要な産業だ!」と最初からいってしまう。しかしこれ、必ずしも今までのような公共工事はなにがなんでも必要なんだ、ということではない。この本は、中小建設業が、地域社会の中で自分の存在確認ができる枠組みを「IT化」を通してつくりあげることができるのか、を考えてみようとするだけである。そういう意味では最初から偏っているのじゃないのか、という指摘があるかもしれないが、その指摘に対する答えは「そうかもしれない」である。

すべてを専門用語を使わずにこのような書き方をすることもできる。
でも新古典主義者を「マーケット・メカニズムで何でも洗濯してしまうのが大好きな方々」、ケイジアンを「政府に頼ろうとしている方々」って書くのもなんだかなぁ、である。

逆に注釈をつけなきゃならないだろうかね。

ということで、わたしゃANA 693 東京(羽田)(1010) - 山口宇部(1145)で山口へ飛ぶ。

2002/07/07 (日)  
【七夕さまの夜に思考がすこし吹っ切れた】

総文字数96,398文字
前回よりも増えた文字数8,374文字

今日は結構気合が入っていたわけっで、IT化の原理のところで、インターネットっていうのは革命なのか否か。、というところを書いていたわけだ。

実は、これをどう表現しようかとしてかなりの試行錯誤を繰り返してきたのだが、結局は自分のことを書くことにしたわけだ。

 それに、私はインターネットを活用することで仕事をえたわけだけれども、もしもこのインターネットがなければ、私には「失業者」というレッテルが貼られていたはずだ。バブル崩壊後の四十歳の求職者に世間は冷たかったはずだ(私はそれをしなかったので実感としてはわからない)。そして、マクロ経済学者にとっては、私一人が失業することは、国の経済全体に占める失業率を表す5%とか6%とかの数値を構成する、ほんのちっぽけな(無視してもかまわない)一要因でしかない。その意味ではインターネットのおかげで私が失業せずに済んでいることなどは、マクロ経済に与える影響などと呼べるものでもないし、インターネットをファックスの延長上に考えることしかできないだろう。つまり、クルーグマンは多分こういうのかもしれない。

「君のやっていることなど革命でもなんでもないんだよ!」

 その通りである。しかし、私にとっては「失業しなかったこと」、それはとても大きな「革命」だったわけだ。生きるために稼がなくてはならないひとりの人間にとっては、「失業しなかったこと」は、なによりも大きな意味を持っても不思議ではないだろう。私は独立以前のサラリーマン時代とは全く違った方法で、生活の糧を得る方法をインターネットから学んだのだ。

つまり、私個人的にはインターネットは「革命」だと思っている。
ただしそれは、(↓)のようなことなわけだ。

「オープン(解放性)」「ボトムアップ(平等性)」「ボランティア(自律性)」といった、いわば「グラスルーツ(草の根)」としてのインターネットの精神文化の存在であったわけだ。この文化は、それまでのサラリーマン生活で慣れ親しんだ文化とはかなり異質なものであったが、インターネットでの見知らぬ方々とのコミュニケーションを通じて知らず知らずに身についてきたように思える。そして私の活動の基盤は知らず知らずにこの精神文化を足場にするようになったわけだ。まあ、これも今だからいえることで、なにか特別意識して身につけてきたものではない。そして、私が「革命」というのはこの部分なのである。つまり、

<私にとって、インターネットの精神文化は文化的・精神的「革命」だったのだ>。

 さて、私の私小説はこのぐらいにして、ここで、私が主張したいことをまとめよう。

 それは、まず、インターネットは、特にマクロ経済学には革命とは理解しにくいだろうということだ。だからインターネットをファックスの延長上に考えることしかできない。しかし、個人の世界では、これは「革命」に相当するような変化の基盤をもって繁殖しているとということだ。多分今起きている革命的変革は、それは相補均衡的なものだろう。量的な拡大が質的な変革をもたらす。そして、このインターネットの精神文化は、インターネットの世界に低音として流れる「ミーム」といえるのかもしれない。

 そのことは、社会とか企業とかが人間の組織であることを理解していれば、個人の価値観の変革が社会を動かすという意味で、インターネットが「革命」となりうるものであることを意味している。私はこの理解でIT化を考えているわけだ。

ということで、夕方、鹿児島の阿久根建設の井上さんがおいでになったので、そのまま、ひさご通りの米久へでかけ、牛鍋にビールで酔っ払って帰還。

明日からは山口である。

2002/07/06 (土)  
【気合が入らない日】

現在の総文字数88,024文字
前回よりも増えた文字数2,279文字

全然気合が入っていない。

まあ,昨日は静岡の平井工業さんで講演があって,久しぶりの講演ということで疲れていたが,今日はなんか気合抜けぎみ。

午後から銀座の伊東屋へ出かけて,フィルムルックスの609を購入。
そのまま,銀座ライオンに入って生ビール中ジョッキ2杯。

出口に七夕の短冊があったので「本が売れますように」と書いて,ぶら下げてきた。
書き終わってもいないものが売れるわけねーじゃないか。★\(^^;

2002/07/05 (金 (^O^)/ )  
【例によって「分からない」という方法】

総文字数85,745文字
昨日よりも増えた文字数3,060文字

昨日は祝誕生日メールを沢山いただきまして,ありがとうございます。
こうして44年も生きてこられたことを皆様に感謝申し上げます。

昨日は,第一章をひと区切りとして,編集氏をはじめ,私の支持者と目される方々(笑)に原稿を送ってみたわけだ。でも,反応はまだ一通もな〜い。

わたしゃ,どうもひとりで,もそもそやっているのは性にあいませぬ。
私のやり方っていうのは,さらさないとダメなんでしようね。

そもそもベースがこのHPだし。
本当はWeb上に全部さらしてしまえばいいのだろうけれども,それじゃ商売の楽しみっていうものもなくなっちゃうしね。(笑)

さて,この第一章っていうのは,私の考え方の基礎の部分,つまり,IT化=環境×原理の理論的な説明部分なわけで,特に環境理解に力をいれてみましたが,こんなもの書いてどうなんだろうか?どのぐらいの方々が興味を持つのだろうか?っていうのが本音なのです。

この後に,「IT化」の原理の話が入りますが,この部分はかなり難しいわけです。
難しいっていっても話が難しいのではなくて,どう表現しようかって部分です。

基本はGC象限論なのですが,GC象限論にしてもそれが立脚している「情報社会」の捉え方,つまり,今という時代の理解の仕方があるわけで,私は例によっていつもそれは「正解なのか」って考えてしまう人なのでややこしいわけです。

ということで,本日の一節。

 ITやIT化に対する議論をするときには,特にそれが本書のようにある制度や組織のあり方に意見が及ぶような場合には,(これはどんな論者でもそうなのだが)ある仮説に立って自らのIT化論を語っているわけだ。それは,情報社会とかIT社会とかインターネット社会とかポスト工業社会とかとよばれている(まあ呼び方なんてなんでもよい)現代社会をどう理解するのかという時代認識の足場をそれぞれが持っているということなのである。つまり,意外に思われるだろうが,この時代認識には統一された見解なんてないのだ。ついでに書けば「情報」というものの『その性質や意味については,ほとんど合意が形成されていない。』(フランク・ウエブスター,田畑暁生訳,『「情報社会」を読む』,2001年,青土社,p9)というありさま。これがIT化論の実情なわけだ。

このような自分の立場を表明するっていうのは,私のような商売をしている立場では本来ありえないことなんだよ。

なんてったって自分でIT化論を論じながら,果たして自分の信じていることは「正解」なのか,と自分に問いかけているわけで,つまり,私はよく「答えはない」っていってしまっている「へん」なやつなわけだけれども,まあ,またそれをここでもやってしまっているわけだ。

まあ,この後には私の立脚する立場を明らかにする作業が続くわけで,当然にその正当性を強調することにはなる。しかし,それでさえ,『合意が形成されていない』わけだ。

なので可能な限り「分からない」という方法を駆使することになる。

これは私にとっては,いつものことなので,当然に今回の執筆でもそれを繰り返している。
だから,第一章を読まれた小数の方々は気が付いたかとは思うけけど,私は一つのことを,これでもかってぐらい,かなり多方面から検討することを試みるわけだ。くどいぐらいにね。

それでもわたしゃまだ自分自身で納得なんかしていない部分は多いのだ。
だから「朝令昼改」男でいられるのだよ,わたしゃ。

いいようによっては「いつも新しい」わけだ。(笑)

しかし,私がいう「分からない」という方法っていうのも,底の浅い論議に巻き込まれると,もう大変なわけで,説明する気力すらなくなるご意見が沢山来るわけだ。

わたしゃ「答えはないよ」っていってもね,開き直っているわけじゃないし,逃げを準備しているわけじゃないし,諦めているわけでもないのよ。

その逆なわけ。

『何についても,自分たちが分析して学んだことはそれがすべてではないので,決して威張らず控えめであるべきだ』(佐々木スミス三根子,『インターネットの経済学』,2000年,東洋経済新報社,p76,ケネス・J・アローへのインタービューでのアローの言葉)

情報経済学の生みの親(っていうよりも新古典主義経済学の理論的指導者にして批判者でもある)ケネス・J・アローにして(っていうより,だからこそなんだろうな),いみじくもこういうように,私たちの社会の根底に流れる基本原理なんて,本当は分かっているようでわかっちゃいないことを私のような商売の人間こそが理解していないと,つまり自分自身に謙虚じゃなかったら,何でも分かったような浅い議論ですべては終わってしまうわけだ。

でも,本当は何も分かっちゃいないのだけれどもね。

ということで,私は今日は静岡まで講演でお出かけですわ。

2002/07/04 (木)  
【44歳】

総文字数82,685文字
昨日よりも増えた文字数3,469文字

朝一のメールは仮面ライダー龍騎から。
あはは。。。なのである。

★・★・★・★・★・★・★・★

桃知 利男 さんへ

お誕生日おめでとう!!
この一年が貴方にとって特別なものでありますように・・・。
充実した日々を送れるよう祈ってます!
俺も本物のジャーナリスト目指して精一杯頑張るから!

城戸真司

☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★

東映ヒーローネット
http://www.toeihero.net/
support@toeihero.net

★・★・★・★・★・★・★・★

わたしゃ,ハカイダーとキカイダーのためにこのクラブに入っているわけで,別に仮面ライダー龍騎が好きなわけではない。っていうかほとんど知らない。

ところで,ウルトラマンコスモスはタクシードライバーのはなしだと冤罪らしい。
大阪府警守口署は子供たちに,「だから警察っていうのは信用できねぇんだよ」ミームを植えつけてしまった。

では,今日の一節。

■金魚論

 本書では地場型中小建設業という言葉を公共工事依存のローカル色の強い中小建設業という意味で使用している。本書が「IT化」の対象として想定している中小建設業とはこの地場型中小建設業のことである。この明確な定義や,はたしてこの実数がどのぐらいのものなのかなどといった議論は必要ないだろう。直接公共事業を元請受注できる二,三万社社なのか,それとも二次三次下請や専門工事業,さらには建設関連業までを含めるのかは,本書においては時間を割くに値するような議論ではない。それは本書の読者がそれぞれ勝手に決めればよいことであって,当社もそうだと思うかかもしれないし,当社は違うと感じるかもしれない。それでかまわない。そんなことよりも,

<この国では,とにかくたくさんの方々が公共工事に関係しながら暮らしている>

という認識こそが重要なのだ。

 この業界をめぐる問題は,地場型中小建設業はまるで水槽の中の金魚のようなものだ。という比喩で表現できるだろう。水槽の中の金魚は,野生の魚のように自ら餌をみつけようとすることはない。いつも天井(水面の上)から降ってくる餌をじっとまっているだけだ。今日ありつける餌があるのかないのか,多いのか少いのかは,自らの意志の及ぶところではない。せいぜいできることといえば,ご主人様(餌を与えてくれる人)に嫌われないようにと時々なにかしらのご機嫌伺いをすることぐらいだろう。それから同居しているほかの金魚に嫌われない,いじめられないというのも大事なことだ。餌をめぐって余計な争いはなるべくはしたくはないのだから。

 傍目から見ればなんとも他人任せのお気楽な世界で暮らしているように思われるのだが,しかし考えてみれば,これは恐ろしい事態の裏返しでもあったわけだ。つまり「餌はいつまで続くのだろう」という不安が首をもたげてきたときから,だれもが疑わなかったこの世界の永遠性は静かに崩壊しはじめるわけだ。

■本書の立場

 この「中小建設業は金魚だ」という比喩は,多くの「公共工事は悪だ!」派には賞賛をもって迎えれるかもしれない。「世の中飼い慣らされた金魚ばかりだから餌が沢山必要になって国の財布はすっからかん,挙句の果てに借金までしなくちゃならない」と思っている方々は意外に多いものだ。そして挙句の果てには「建設業はもっと自助・自立しなきゃいけない」とかなんとかいい出すのだろうが,残念ながら,本書はこのような立場の方々が喜ぶような「IT化」の話ではない。本書は明らかに,この逆風の中,中小建設業を擁護する立場に立っている。

 本書における中小建設業の存在は「政策的な産業である」というものだ。この認識は明らかに中小建設業を「金魚論」の枠内で捉えてはいる。しかし,金魚論が抱える閉塞への解決策を,新古典主義的(マーケット・メカニズムで何でも洗濯してしまう方々)なそれとは違った方法で考えようとしている。それどころか最近のケイジアンの動きにも疑問を呈している。そして挙句の果てにこういうのだ。

<経済学は中小建設業を救えないかもしれない>

 本書は「中小建設業は地場の重要な産業である」という認識から出発している。しかしこの認識は,必ずしも今までのような公共工事はなにがなんでも必要なんだ,という立場を意味してはいない。本書は,地域社会における中小建設業がその位置確認できる枠組みを「IT化」の文脈の中で考え出そうという立場を取っている。そういう意味では最初から偏った立場にあるのではないかという指摘があるかもしれないが,その指摘に対する答えは「そうかもしれない」である。

どうだい,面白そうかい?

 2002/07/03 (水)
【最近のお気に入り?】

総文字数79,036文字
昨日よりも増えた分6,855文字

仕事のBGMは菊池雅章 1981年の名盤 - 「ススト」。

これは学生の頃っていうか卒業の時,レポートを書いているときの定番BGMだったわけで,ジャズの枠を超えてGroovin'しているのに一緒ににGroovin'しながらフォレットを書いていたわけだ。

それ以来,何か書き物をするときは,こいつが出てくる。
パブロフの犬のように,これがBGMだと「書くぞ!」っていう気になるわけだ。

このアルバムに入っている「GAMBO:ガンボ」っていう曲はその昔,ブリジストンのレグノというタイヤのコマーシャルソングだったので,ああ,あれねっ,て思い出してくれる方もいるかな?

それから,もう一枚。アグネス・チャン ベスト・セレクション 「Melancholy」。
アグネス・チャンの初期の頃の歌っていうのは,歌謡曲が歌謡曲の枠からはみ出そうとした時代の実験音楽のようなもので,今聞いても十分に新しい。

矢野顕子の名曲「ひとつだけ」がアグネス・チャンのために書かれていたものだなんて,わたしゃずっと知らなかったし,ハロー・グッドバイもアグネスの歌だったのねぇ,とそんなことを楽しみながらMelancholyになれるのでした。

ということでメール。

 既に、ももちさんは気にしながら執筆されているのですが・・

 文章中で使われる言葉(用語)の定義・説明にあたる内容を
 その前段で紹介されていると思うのですが、本日分の文面を
 拝見して「難しい言葉が多いかなぁ」(どこまで解説するかも
 程度の問題あり)との不安を感じたものです。

 ももちさんの話を直接聞いて、内容全てを理解できなくても
 我が身の経験や置かれた環境への気づきをもとにして
 「自分なりに理解された(つもりの)方」が読めば一層の理解が
 進むものと思われるのですが・・ そうでない方々にとっては
 「何が何やらわからない」状態に陥るのではないか・・
 と感じたのです。

  #まったく、ももちさんを御存じない方が読まれるとは
   思いません。 もちろん、先にもお伝えしたように
   判ろうとする方は、前後を読み返して話題の流れの中で
   自己の理解を形作っていくとは思うのです。

ああ,これは心配ない。あれはあくまでも下書きなのだ。
私としては,ああいう文体になれているので,とりあえずあんなふうに書くわけ。

それで,それを今度は翻訳する作業をしているの。
だから大変なんですよ。

ということで今日の一節。

 これが幻想かどうかは別として,重要なのは,地方への公共事業投資は,開発主義的産業化政策がつくりだした急激な社会的変化−地方の農村部から都市部へ人口が大量流出する−の中,地方の衰退を最低限に止めた。建設作業員としての兼業農家化は同じ土を扱う仕事としての雇用の確保を実現し,彼らが所得を確保することを可能とし,開発による地価の上昇が農家の資産価値の上昇をもたらした。そしてなによりも彼らが「新中間大衆」として国内需要を支える立場になったことは事実でしかない。つまりだ,日本国中みんな一応に豊かになったし(国民総中流),豊かになったおかげで,車も,電化製品も売れて国内需要として産業の発展にちゃんと寄与してきたじゃないかということだ。

 この時代の流れのなかでは,中小建設業は配分の機能の一部をしっかりと果してきたといえるだろう。それは戦後のすべてが貧しい時代からの出発には決して誤りではなかったと思うし,地方に対する公共投資は,結果の平等を目指す中では,誤った政策ではなかっただろう。確かに,生産に連動した形で補助金を与えようとするような配分政策(非新古典派型の政策)は,生産に連動するため資源配分上の歪みを発生させることにはなる。

 『しかし生産と連動することで,農民を生産活動に向かわせる誘因を維持し,農村の生活様式を急激な崩壊から守ることができる。農民は無気力化せず。安定した生活様式の担い手でありつづけ,産業化への少なくとも消極的な支持者でありつづけるだろう。都市に出てきた人々も故郷を心理的基盤とすることができ,その安心感を支えとして,産業化の果実への挑戦を続けることができる。』(村上,1994年,p201)

 つまり,中小建設業は,この時代の流れにのって,地方への資源の再配分(それはわが国の元気の素であった)を担う機能の一つとしてその存在を確立してきたのである。それはあたかも人体の隅々まで栄養分を送る「毛細血管」のようにである。この意味で「中小建設業は政策的な産業」でしかないと私はいうわけだ。

この苦労の跡が分かりますでしょうか。(笑)
ここで出てくる専門用語は前の文脈で説明済みだと思ってくださいね。

で,これでも分からないとなると,わたしゃヽ(^。^)ノでございますね。
「分かるまで読め!」って言うしかないかな。まあ,もう少し頑張ってみますが。

2002/07/02 (火)  
【まあ,順調といえば順調なのだろうけれども,それにしても眠い】

総文字数72,181文字。
昨日からの増加文字数1,553文字。

文字数を見ればほとんど何も書いていない様に見えるが,これはさにあらず。
仕事量としてはかなりの文字数をこなしている。

今の状況というのは第一章を総括的にまとめ上げている段階なのだ。
この第一章と言うのは,私のIT化理論の基礎を成す,市場という環境と原理の理解について書かれている。

この第一章のまとめはここ2,3日中に終わってしまって,一度原稿を編集氏をはじめ,私の理解者の方々に見ていただこうと考えている。

その返事を待つ間に私は次を書き始めるわけだわね。

昨晩は午後8時ごろに再び眠ってしまって,目が覚めたのは午前2時30分。
それから午前5時ごろまで仕事をして,再び床に入り,また目覚めたのは午前7時過ぎ。

そして,一休みに今これを書いているわけだが,脳みそを酷使しているとやたらに眠い。

さて,今日も一節。

 つまり,公共建設市場は消費のミームが産業を規定する力となる市場特性を持ったものである。そしてその特性の中で建設業の技術のミームは形成されていく。ただしこの場合には,ある前提条件が存在している。それは,産業を規定する力としての消費のミームの持ち主が発注者の持つものだとすれば,発注者の持つミームは発注者の内部で,技術のミーム=消費のミームが成立しているということである。さらには,公共建設市場の技術のミーム(商品に関する特徴やその製造に関する情報)に関しては,発注者の方が優位にある(もしくはその幻想が存在している)ことを前提としているということである。

 このような市場特性に立脚する中小建設業は,民間の企業としては不思議な存在でしかない。普通の取引きであれば,売り手と買い手では,売り手であるメーカーの方が技術のミームにおいて優位である(たとえば「コア・コンピタンス」と呼ばれるようなものの存在)。だからこそ市場では競争力という言葉が意味を持つ。しかし,中小建設業にそれを見つけることは困難でしかない。公共建設市場の技術のミーム(商品に関する特徴やその製造に関する情報)に関しては,発注者の方が優位にある(もしくはその幻想が存在している)ことを前提としていることで,中小建設業にはコア・コンピタンスは存在しないのだし,この市場そのものがコア・コンピタンスなんていうものを要求しないように振舞ってきたとしか思えないのだ。

結局,中小建設業の不安は,このようなコア・コンピタンスの考え方を持ち出されると,何をどう考えていいのか分からなくなってしまうことだろう。

そもそもコア・コンピタンスってなんだ?っていうのもありだろうし,そんなものが必要だとは思えないという方々がいてもいのだけれどもね。

そういう方々にとってコンピュータなんていうのは,子供のおもちゃに過ぎないだろう。
つまり「IT化」なんていっても無駄なわけだ。

まあ,そういう方々に向けて私は本を書いてはいるのだが,そう考えると,難しい作業をしているものだ。

2002/07/01 (月)  
【脳みそが疲れている段階】

本日午後4時までの総文字数70,628文字。
昨日と今日との作業量3,685文字。

午前7時30分頃に一旦目覚めるも,その後また眠り,目覚めたのはお昼を過ぎていた。
それから昼食を食べ,TVを見ながらごろごろしていた。

午後2時ごろから気合を入れなおして執筆作業にはいり,ただいま息抜き中ってわけだ。
なんて堕落的な生活なんでしょう。

今日は談合について書いていた。(そればかりじゃないけれども)
以下粗原稿段階のもの。つまりメモのようなものだ。

これから手をいれなきゃならないものであり,前後の文脈がないとなんだかわけがわからないかと思うが,つまり,「談合」っていうシステムと官製談合のような政官が癒着する似非談合とは本来違うんだってところを理解して読んでください。

 たとえば談合について考えてみよう。そもそも談合は,極めて不確実性の高い要件を前提として成立している。それは,談合が成立するには,談合参加者が決定事項を必ず守る必要があるということだ。つまり,談合の成立自体が,全く信頼のおけない構成員同士の「信頼」を前提としているという矛盾を抱えている。山岸が指摘する「公共工事の参入に際して不確実性を低めるためには,企業間で談合を行ったり」というのは,むしろ談合そのものが不確実性を抱えていると言った方がいいだろう。

 しかし,そこになんらかの信頼関係が形成され,構成員の合意によって仕事の均等な配分を求める談合のシステムが機能していれば,政官との癒着の必要はない。つまり「談合」というシステムの良し悪しと,公共事業参入の不確実性を低めるための「特定の代議士の後援会に加入して地域ボスと密接な関係を保つ建設業者のやり方があります」という文脈は本来違うのである。

 談合のシステムに政官が加わることは,この談合における信頼のシステムが機能しなくなっていることを意味している。それを背景にして政官の介入は意味を持ってくるだけなのだ。つまり,私が言いたいのは,談合のシステムさえも正しく機能しないところに(まさに信頼は最初からない),政官といったこの集団主義社会における秩序を形成する権限と強制力が必要とされたのである。(金子郁容のいう「ヒエラルキー・ソリューション」のようなもの)そしてそこで生まれたものは「似非談合」とでもよべるようなもの。

 この頻度依存行動としての談合は,仕事量という環境パラメータの増減によって簡単に機能できたりできなくなったりすることは指摘できるはずだ。つまり仕事があるという環境ではこの行動原理は機能するが,仕事がないという環境では機能することはできない。なぜなら,集団構成員が構成員足ろうと(自発的に)思えるのは,自らが構成員であることに満足できる仕事の配分を受けることが可能な状態(もしくはそう思える状態)が継続されている場合にしかありえないからである。

ここで,「ヒエラルキー・ソリューション」として政官の癒着の必要性が生まれる。

私はそもそも配分のシステムとしての「談合」の機能を批判するつもりはない。(マーケット・ソリューションよりはいいものだと思っている)

問題はその「談合」のシステム不良から政官との癒着を生み出す仕組みである。
このような似非談合は,建設業にある「心」の問題ではなくて,頻度依存的は行動とそれによってもたらされた相補均衡状態だと理解すれば事足りる。

このような問題はその原因なわけだ。
その原因と解決策を追求していくと,単純バカボン的にはマーケット・ソリューションしか思いつかない方々が沢山居る。→一般競争入札。

単純なマーケット・ソリューションの導入も,日本の中小建設業を骨抜きにするだけだろう。

それから『現代用語の基礎知識2001』から面白いものを見つけたので貼り付けておく。

天の声
流行語部門・銅賞
受賞者:受賞対象者が拘留中のため保留
政・官・業の腐敗構造はますます深刻化している。1993年は“談合”によるゼネコン汚職が問題化した。自治体の公共事業を、業者間の談合で入札企業を決めていたというもので、この際、地方首長の意向を「天の声」と呼称していたという。本来の用法と異なり、隠語として「天の声」が多発されていたとなると、もはや立派な新語と解釈するしかないとした。
(『現代用語の基礎知識2001』 自由国民社より引用)

なので,私も「天の声」という言葉を使うことにした。

momo
桃知商店謹製
(c) Copyright TOSIO MOMOTI 1998-2002.All rights reserved.


About桃知利男インデックスSelf Talking INDEX | 2002年6月へ| 2002年8月へ著作権店主へメール


 一お連専用カウンター