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2002/09/30 (月)  
【9月の終わりにうだうだと】

■11月30日 桃論出版記念演芸会

昨日は、浅草ビューホテルへ行って、11・30桃論出版記念演芸会の打ち合わせをしてきました。

私の環境も日々変化していくわけで、出版記念パーティをやろうなんて、そんなことになろうとは夢にも思っていなかったのですが、これもまた皆さんのお世話にならなくちゃならないようです。

わたしゃ、真正の他力依存型人間なので、もう正直に言っちゃう。

代表世話人の役を買って出て下さったトライネットの熊谷社長始め、私が勝手に世話人役をお願いいたしました皆様には、徹底的にお世話になります。宜しくお願いいたします。m(__)m

それで、開催時間ですが19:00〜ということになりました。
理由は、18:00までは先約ありだからですね。

ところで、熊谷代表世話役から以前に言われていたことなのですが、一般の方(この言い方も曖昧だけれども)も、この桃論出版記念演芸会に参加できるよにしたら、という意見もあります。

まあ、混乱するぐらいお集まりになることも無いでしょうからね、それは前向きに検討したいとは思いますが、果たして何人様そういう酔狂な方がおられるのでしょうか?

■浅草桃塾

昨日も書いた浅草桃塾ですけれども、12月の7日(土)14日(土)で、とりあえず1回目をやってみようかと思うのです。

たぶん、多くの皆さんは忙しい時期でしょうが、

浅草桃塾は参加させて頂きます。
時期については年明けより年内を希望します。
理由は、早く受講したいからです。

こういう(↑)方がおられることは、それはとても心強いわけで、この方の為だけにやってもいい、と思ったのです。

ということで、本当にやりますが(笑)、募集は来月になってから正式にアップします。
開催時期と定員10名様は絶対に変更なしですが、その他は多少流動的なところもあります。

少々お待ちいただければ幸甚です。

2002/09/29 (日) 
【浅草桃塾(ちょっとご意見をくださいませ)】

桃論の発刊にあわせて、浅草で桃塾の開催を目論んでおります。
ただ、桃論は11月15日に発刊ですので、その後となると、師匠も走る年度末ですから、皆さん、お忙しいのではないかと思うわけです。

浅草桃塾は定員10名様(できれば5,6人)で、午後1時30分から午後6時30分までの1回5時間×2回の構成。少人数、短期集中型で、「桃論」概論が理解できるような内容にしたいと考えています。

開催はいつものように土曜日の午後から、場所は、合羽橋通りにある台東区生涯学習センターを考えていました。受講料は3万円(テキスト代込み、ただし桃論は別途必要)でとんとんでしょうねぇ(というか採算は最初から度外視しています)。

最初の浅草桃塾の開催を、12月の7日と14日の開催で考えていましたが、問題はこの開催時期なのです。

この告示を呼んでその気になられた方々にお聞きしたいのですが、この開催時期は如何なものでしょうか? 年明けの方がよいでしょうかね?

最低2名様の参加がありましたら必ず開催いたしますが、ご意見をいただければ嬉しく思います。


【10・4一関講演予習用PPT】

10・4一関講演の予習用のPPTをダウンロードのページに掲示いたしました。
3・5時間で、できるだけ「IT化の話」をしようと思いましたのでこうなりました、というようなものです。

本人が結構お気に入りなのは、ミームの説明に「ウー」がでてくるところでして、これはウルトラマン世代にはなんとかご理解いただけるのではないかと思うのです。

今回の講演のキーはミームの理解です。

なぜなら、情報とは「ミーム」であり、
私たち(中小建設業)の売っているものとは「技術のミーム」に他ならないからです。

9・24札幌独演会に比べれば、かなりPPTの枚数は削除されておりますが、とても3・5時間で全部を詳細に話しきることはできなません。勿論、それぞれの理論的な根拠について語ることも時間的に不可能です。ですから、公演内容は「IT化の概論」の枠を超えることはありません。

しかし、その概論でさえ、予習なしで聞くのとある程度の予習をして聞くのでは、その理解の深さがぜんぜん違うようです。

「桃知さんの講演は 予習しないと とても理解できませんから」
これは、ある発注機関さまからの言葉ですが、世の中には、私の講演をそれこそ何回も聞いている方もおられるのですが、多くの方々は、そのたびに新しい発見をされるようです。

それは、私が特別新しいものをガンガンと入れているというようりも、お聞きになっている方々の理解が深まっているのだと私は感じています。

ということで、10・4一関講演にご参加の皆様は、是非に一読されてからおいでいただければと思います。

2002/09/28 (土)  
【@網走の朝】

なんだか、ここのところ4時30分になると目が覚めてしまう。

昨日の網走建協さんでの講演は、私&空知建協IT委員会の秋野さんというタッグマッチ。

わたしゃ、本当に基本的な理解の部分をお話しましたが、反応は(?)なか。

熱心に聞く人もいれば、途中で退席する人もいるしね。
だからってめげるような私でもないし。

とにかく、「網走の皆さん、動き出せ!」
ですね。

講演後は、くじら三昧でございました。
網走はかつては捕鯨基地であったところで、今でも調査捕鯨用の鯨が水揚げされております。

不謹慎かもしれかいけれども、子供の頃覚えた鯨の味は、体が覚えてしまっているわけで、やっぱり、うまい、と思うわけです。

それを思うように食べられない現実というのは、なんか変なような気もします。

さて、昨日はジンギスカンねたのメールもいただいておりました。

長沼のジンギスカン相当お気に入りのようですね。
しかし、まだまだジンギスカンは奥が深いのです。
私の会社や中山組、神部組などがある滝川は「ジンギスカン」発祥の地でもあります。
ジンギスカンの王道を極めていただくにはやはり滝川にお越しいただくしかありませんね

桃論を教科書にセミナーを企画いたしますので、そのときはよろしくお願いいたします。

松尾ジンギスカンのHP
http://www.2989.net/

「にくやく」、ね。(笑)

さて、今日は、女満別空港 13:20空路JAL(羽田−女満別) 538便 羽田空港 15:05で、家へ帰えります。

北海道4連戦も、こうして無事終えることができました。
お世話になりました皆様に深く感謝申し上げる次第です。

2002/09/27 (金)  
【@札幌四日目の朝】

桃知@4時半に起床したら体から脂が噴出している、です。
昨日は、市岡建設さんでの勉強会後、念願のジンギスカンを食べさせていただきました。

場所は、ながぬま温泉の隣のところ。
ここのメニューは変っていて、こんなふうなのです。

ジンギスカン(ロース)
 かねひろ
 佐藤
 ながぬま
ジンギスカン(マトン)
 かねひろ
 佐藤

わたしゃ、札幌ビール園の生ラムを食べて、こんなジンギスカンがあったのか、と感動した男なのですが、今回食べました、ジンギスカン(マトン)かねひろ&佐藤は、もう完全にそれを凌駕しておりました。

特にお気に入りは、かねひろのマトンでして、これは、鯨の大和煮のような味のするタレ、脂身のある厚いお肉と、私のジンギスカン熱は沸騰するばかりのものでございました。

うますぎるぞ、北海道!

さて、本日は網走建協さんのお招きで、網走までお出かけして午後から講演をいたします。
でも、フライトはこんなに早いのでした。

ANK 451 札幌(千歳)(0840) - 女満別(0925)

なので、今日は早起きしているわけで、これから自宅に送り返す荷物もまとめなくてはなりません。

ということで、昨日の市岡さんでの勉強会をサポートしてくれた、まにあ1号さんの舎弟さん(桃塾の塾生)よりの感想のメールを載せて今日は網走だよ〜ん。

ベンダー(私もそうです)は、「IT化しませんか?効率化ができますよ。」
と営業に行きますがコンピュータが万能であるかのような営業をしていたことに反省させられたのは、桃知さんの話を聞いてからです。
「イントラネットの構築は、社内にあるミーム(情報)を写しだすことを目的とし、
 イントラネットにより明確になった事実に対応するのは人間である。」
最後は職員が直接対応すること。そういう社風を作っていくこと。
それを企業に説明でき、理解してもらえるように建設業を訪問するよう心がけます。

今後とも宜しくお願いします。
桃知さんも、お体に気をつけて飛び回って下さい。
考えがまとまらないままメールをしてしまい申し訳ありません。
まずは、本日の講演のお礼と思いメールさせて頂きました。

追伸:講演の中で「サトラレ」のお話がありましたが、私はそのマンガを今
    読んでます。面白いですね。

2002/09/26 (木)  
【@札幌%三日目の朝】

昨晩は、中山組さんでの勉強会を終えた後、中山社長の御計らいで、五条西三丁目の「ふじ田」というお鮨屋さんで御一献。

わたしゃ、札幌で鮨を食べることはほとんどなくて、それはなぜかというと、やっぱり鮨は江戸前が一番だ、と思い込んでいるからなのだけれども、昨晩はその考えを改めざるを得ませんでした。

驚きは「たらこ」の握りで、これは軽くあぶったものと、そのままのものをひとつづついただきましたが、これがね、なんともね、うまいんだわねぇ・・・

それから、「たこ」。

最初は、炊いたものがお通しででたのですが、この段階で相当クラっときていて、次にスダチとお塩で食べたのだけれども、クラクラするぐらいに、うまいんだわねぇ・・・

それから、松茸の土瓶蒸は今季二度目(一度目は先日美濃加茂市でいただきました)でしたが、これもたまんないんだわねぇ・・・

ああ、酒がすすむ・・・

ということで、「うまいぞ!北海道」
「もっと食ってやるぞ!」→今日はジンギスカンの予定。

なのでございました。

さて、昨日訪問させていただきましたクピド・フェアは、ある意味カルチャー・ショックを受けてきました。

なんといっても自家焙煎珈琲豆まで売っているのには驚いた。
飲ませていただきましたが、これが、うまいんだわ。

しかし、なんで珈琲なんだ?っていう不思議さはあるわけで、わたしゃ、「なんでこんなことを思いついたのか?」って質問しちゃったぐらいなわけです。

私たちは、身体障害者通所授産施設である、アゴラスタジオサーティを訪問することが目的だったのですが、ああ、努力しているなぁ、と感じるわけです。生きるためのね。

わたしゃ、ある意味したたかな生命力のようなものを感じたわけで、健常者が、うーたらかーたら言っている場合じゃないだろうね。

さて、最後は24日の独演会の感想。
ご存知まにあ1号さまから。

金子さんの
「日本社会は平等社会ではなく同調社会だ」・・・には
「恐れ入りました」ですね!
相補均衡論やミーム論をシンプルかつ的確にそしてわかりやすく
一言で説明してくれています。
これは私の胸に「ピンポイントヒット」!でした。
早速買って「平等と同調」の差異を研究します。
でも、何だか深そうですね・・・これは・・・!

昨日の「札幌独演会」は相変わらず、全く時間の長さを
感じさせないところはさすがでした、でも、少し違和感が
あったことも事実でした。
桃塾での「かんで含めるような」語り口とは違い、
何かに急き立てられておられるような口調は

「こんなはなしをしに来たんじゃないんだという思い」

も、あったわけですね。

でも、私はびっくりしました。
かつて、ITに対し非常に否定的だった方が
「イントラネットを構築して、ウチで上手く行くのだろうか・・・」

また別の方は、「ここ(イントラ)までは要らないね、メールとインターネットで十分だ」
と公言してはばからなかった方なのですが、
「イントラネットの可能性・・・」について考え込むように話されていたりしました。

桃知さんの「自己嫌悪」的な思いとは裏腹に
「同調の芽」は静かに、でも着実に根を下ろし、育ち始めています。
私はそれを間近で感じさせてもらうことができました。

あのね、金子は「同調」という言葉を否定的な意味で使っているんだよ。
だから、「同調の芽」っていうのは褒め言葉にはならないんだ。

書くのなら「共感の芽」とか「コミットメントの芽」とかが正解なのですね。

ということで、今日は市岡建設さんへ行ってきます。

2002/09/25 (水)  
【@札幌】

桃知@札幌です。
昨晩はちょっと張り切って飲みすぎたせいか、二日酔い&胃が痛い。

昨日の札幌独演会といえば、初心者コースのようなもの&ベンダーさんへの気合入れのようなはなしで、準備したPPTは半分も使えず、結構気分はブルーだったりするわけです。

気がつけば時間ばかりが過ぎていく中で、こんなはなしをしに来たんじゃないんだという思いが溢れるわけで、ああ、喋りきれない・・・

なので寝起きの機嫌は悪かったりするわけです。

今日は、10時から空知建協さんで会議がありまして、午後一番に岩見沢市にありますクピド・フェアを訪問します。

それが終わってから、中山組さんを訪問して、今日のお仕事は終わります。

2002/09/24 (火)  
【熊本の民よ、25日は県議会を傍聴に行け】

以下、大西県議の「今日のひとりごと」から無断借用でございます。
楽しそうだなぁ、こりゃ。

9月25日 午前9時30分までに議会棟ロビーへお越し下さい。
ちなみに、質問項目は下記の通りです。

1 地場建設産業の振興について
(1) 建設産業振興プランの策定について 
(2) 工事入札参加者の格付の公表について 
(3) 不良不適格業者の排除対策の徹底について 
(4) 建設業からの暴力団排除対策について 

2 建設CALS/EC(公共事業支援総合情報システム)
  について 

3 情報化の取組みについて 
(1) 地域情報化について
(2) 行政情報化について

4 学校評議員制度について 

5 技能五輪、アビリンピックを契機とした今後の取組みについ
  て(要望)




【そして、わたしゃ今日から北海道4連戦】

今日は、第二回札幌独演会のために札幌へ参ります。朝9時のフライトです。
自宅は7時30分に出る予定です。

本日の受講者の半数以上の方々が「葉月会」の方々ではありませんので、第1回の独演会をお聞きになっていないはずです。

となると、ミーム論も知らない方々が多いのかな?と思うわけで、ミームがわからないと、今日の話を聞くのは大変かと思います。

なにせ、私は、IT化が扱う情報とはミームのことだよ、って言ってしまっているわけですから。

今回は、この辺りを考慮してPPTを準備しましたので、必要な方はダウンロードのページから、入手してください。(圧縮していますがかなり大きなファイルです。3.23MB)

予習には間に合いませんでしたが、復習ぐらいには使えるかと思います。

明日から金曜日までは、ずっと北海道で仕事をしています。
帰りは28日(土)になります。



【ついでに、久しぶりの「こんどく」】

久しぶりに今週の読書でも。

田原総一郎、御手洗富士夫、金子勝,『大逆転−新しい日本モデルの挑戦−』,2002年,東洋経済新報社

この本は、先日、岐阜からの帰りに名古屋駅で購入しました。
そんなに期待はしていませんでしたが、結構面白いのです。

御手洗さんはアメリカでの生活が長かったキャノンの社長さん、金子勝先生は「反グローバリズム」の人、田原さんはなんだかよくわからない人なのですが、それぞれの思想的な背景が浮かび上がっていると思います。

私が一番面かったのは、金子の「日本社会は平等社会ではなく同調社会だ」という認識で、これは、山岸俊男の「内集団ひいき原理」と同じ認識だと理解しました。

金子は最近「信用」という部分を強調していますが、慶応大学に移ったことで、金子郁容の影響でも大きくなったかのようです(本人は多分否定するでしょうが)。

帯にある「グローバルスタンダードへの追随は、もう終わりだ!」というのが、この本を貫く一本の主張なのですが、制度論の入門編のようにして読んだら、面白いんじゃないかと思いました。

桃論を読まれる前に読んでおいてもよいかと・・・★\(^^;

2002/09/23 (月)  
【札幌独演会用資料】

お約束の、札幌独演会用のPPTが(なんとか)出来上がりましたので、掲示いたします。
予習には間に合いませんでしたね。(^^ゞ

圧縮してありますが、3.23Mbもあります。
必要な方はダウンロードのページからどうぞ。

これは、「桃論」のエッセンスのようなもので(全ては網羅されていませんが)、5時間枠の講演でも、たぶん収まりきれませんね。

・・・ということで、ちょっとお疲れ。

2002/09/22 (日)  
【日記だね】

桃知@ようやく浅草に帰ってきました。

昨日は、上野 9:19 山手線(外回り) 東京 9:27、東京 9:37 ひかり 211号 岐阜羽島 11:40で、岐阜入りし、岐阜羽島からはタクシーで大垣の酒井亭へ直行して「にしんそば」を食べました。

この酒井亭は、「桃塾」の最初の日に、CALSセンターの森所長さんに連れて行ってもらたところなのですが、とにかく、ここの「にしんそば」は絶品だと思うわけですね。(もちろん温かいやつです)

最近は、大垣といえばこのそばが食べたいわけで、これはもうお気に入りというか、パブロフの犬状態なのです。

というところで、昨日の「桃塾」は、事業者団体ベースのIT化の二回目と、企業ベースのIT化の1回目というラインナプ。

最初に、郡上建協の前田会長からのお話を聞いていただいたわけで、前田会長も最近は2時間近く平気で講演しちゃうのです。見事な内容だと思います。

そこで、講演の師匠としては、真打に昇進してあげなくちゃ、と思うわけですね。
つまり、前田会長は、「師匠」ってことです。

それで、この真打昇進のお披露目も11月30日にやろうかと思う次第なのでした。
そして、桃論発売記念&前田会長真打昇進お披露目講演を東京でやりましょうかね、などと考えているのでありました。

ところで、この事業者団体のIT化の一番大事なところは、IT化っていうよりも、IT化の活動を通した、新しい事業者団体のあり方の確立にあるわけで、これも「ヒエラルキー・ソリューション」→「コミュニティ・ソリューション」の文脈にある、という話を私はしたわけだ。

つまり、いくら郡上建協の真似をしたところで、魂が入らなければ、郡上建協になるのは難しいっていうことね。

その後の事業者団体ベースのIT化のはなしは、これは、私の主張である、〈「公共工事という問題」の前では技術論的なIT化などなんの役にも立ちはしない〉というはなしなわけで、つまり、これ(↓)の理解の重要性についてです。

 〈IT化を効率化や合理化の道具として考えることをやめてみなさい〉

ということです。そして、IT化が中小建設業になんらかのメリットをもたらすとすれば、それには、

 〈中小建設業が売っているものとは自社の「技術のミーム」である〉

という認識が必要なのであり、

 〈IT化が扱う「情報」とは「ミーム」のことである〉

ということを理解し、さらには、

 〈インターネットとはミームが獲得した新しいプール(培地)である〉

という文脈を理解することでしか、私たちはIT化のメリットを享受できないところにいることを認識すべきなのです。

 つまり、IT化を自らの経営ツールにできるとすれば、IT化が「消費のミーム」の持ち主との間に、何がしかの「ソーシャル・キャピタル」の編集を行える自社の「技術のミーム」を育て上げる取り組みであること意外に、「中小建設業のIT化」が立脚する基盤を見つけるのは困難なことだということです。

次回は、全ての時間で企業ベースのIT化の事例発表。
受講生である内藤建設さん、門倉組さんに加えて、どなたかゲストも呼ばなくてはなりますまい。

勉強の後の懇親会は。ご近所の居酒屋にて。
幹事役の土屋組の臼井さんご苦労様でした。

昨日は、長野県飯田市から熊谷さんと北沢さんがおいでになっているし、岩手県からもお客さんがきてくれたし、うちの塾生の紅一点さん(なんと大学生さんなのだよ)もご参加くださって、にぎやかでございました。

その後柳ケ瀬に繰り出し、これもパブロフの犬状態である山本屋の「味噌煮込みうどん」を〆に食べ、こうして賑やかに私の一日は終わっていくのでありました。

そして、本日は朝から岐阜県建築士事務所協会さんでサーバーのメンテナンス。
ハードデスクの容量も足りなくなってきているしね、回線スピードも上げなくてはいけないし、いろいろと考えながら、Klez退治。(笑)

しかし、アンチ・ウイルスソフトが見張っているのに、なんで入ってくるわけ?
作業は12時ちょいと過ぎに終了して、14:20分名古屋発ののぞみで帰ってまいりました。

ということで、これから某社のシステム構築。

2002/09/21 (土)  
【京都府さんからのメール】

御講演いただくこちらの考えでありますが、私共が考えているのは

「中小企業の未来はIT化にある」

という演題でございます。

中小企業にとって、IT化は取り組まなければならないものという理解は、大半の者がもっていると思いますが、いったいどうすれば活用ができ、有効利用ができるのかわからないという者がたくさんいます。

CALS/EC(電子入札・電子納品)のためにパソコンを購入したとしても中小零細企業にとっては、年に一回入札があるかどうかの状況です。

そこで建設業の経営、業務にITを取り入れる有効活用の方法等御講演いただきたいと思っております。

そのため、桃知先生にその方法等を御講演いただければと思います。

 会場につきましては、11月26日(火)園部国際交流会館

              11月27日(水)みやづ歴史の館

              11月28日(木)宇治市文化センター で進めております。

昨年とは違う会場でより多くの人に聞いていただきたいと考えております。

また御講演時間につきましては、午後1時30分〜午後4時で考えておりますが、後に延長する事は可能です。

講演の内容並びに会場、講演時間等について御検討をお願いいたします。

うほ〜・・・涙が出ますねぇ。
ここまでの理解があってのご依頼っていうのがとても嬉しく思うのです。

というのも、前回の京都三連戦は、個人的にはかなりしんどかんたわけで・・・(それにつては、まあこの辺りから3日間ほど遡って読んでいただければよろしいでしょう)

しかし、このご依頼の内容は、かなり深いものですから、私も色々と仕掛けを準備したいと思うのです。

とにかく、〈「公共工事という問題」の前では技術論的なIT化などなんの役にも立ちはしない〉なのでございますから、IT使って便利になる、なんていう話ができるわけはございません。

時間は30分ほど延長いただいて、午後4時30分、3時間コースで考えてみたいと思います。(でも多分終わりは5時でしょう(笑))

ところで、世の中には、ITを効率化や合理化の道具だと思っていらっしゃる方々がまだ沢山いるようですが(特に売っている方に)、それはあんまり説得性のある話じゃないわけです。

私は桃論にこう書いています。

それは、

 〈IT化を効率化や合理化の道具として考えることをやめてみなさい〉

ということです。そして、IT化が中小建設業になんらかのメリットをもたらすとすれば、それには、

 〈中小建設業が売っているものとは自社の「技術のミーム」である〉

という認識が必要なのであり、

 〈IT化が扱う「情報」とは「ミーム」のことである〉

ということを理解し、さらには、

 〈インターネットとはミームが獲得した新しいプール(培地)である〉

という文脈を理解することでしか、私たちはIT化のメリットを享受できないところにいることを認識すべきなのです。

 つまり、IT化を自らの経営ツールにできるとすれば、IT化が「消費のミーム」の持ち主との間に、何がしかの「ソーシャル・キャピタル」の編集を行える自社の「技術のミーム」を育て上げる取り組みであること意外に、「中小建設業のIT化」が立脚する基盤を見つけるのは困難なことだということです。

それじゃなかったら、建設業向けの製品を売っているベンダーさんが苦戦している理由なんかつきようがないのです。

公共事業投資が減っているので売れないんだ、という意見も聞きますが、それも嘘ですね。仮に、どこかで売っているIT(情報の機器)を使うことで売り上げが増える、利益が出るというのであれば、それは必ず売れていなければ変でしょう。

実は、多くの経営者は、〈「公共工事という問題」の前では技術論的なIT化などなんの役にも立ちはしない〉ことを知っているのです。

今回の京都三連戦の講演のベースはこれ、ということになりますね(直接はお話しないかもしれませんが)。

ということで、本日は岐阜で「桃塾」。

2002/09/20 (金)  
【訂正】

11月の福岡の日程が違うとのメールをいただいてしまった。(^^ゞ

正確には、11月21日は福岡建協さんの講演。
翌日22日は、まだ内緒なのだけれども、やっぱり九州にいる予定。

というのが正解のようでございます。
このあたりは「桃論」発刊記念講演みたいなものでございますね。



【桃論脱稿そして動くぞわたしゃ、そして「編集」】

今日は歯医者の日なので蕨へ行ってきます。
明日は桃塾があって、日曜日は岐阜県建築士事務所協会さんでサーバーのメンテナンスをして、23日は午後から打ち合わせがちょっと。

24日は札幌で独演会、25日は空知建協さんで会議、その後内緒がちょっと。
26日はジンギスカンを食べ(勿論食っているだけじゃないが・・・)、27日は網走に行って講演なのです。

10月になると、ようやく本来の仕事に戻るという感じで、上旬は美濃加茂市建設業協会さんでシステム構築関係、4日は一関電設工業会さんで講演、翌5日は大垣で桃塾。

7日の週に、「桃論」脱稿後のコンサル的な仕事の再開ということで、長野県の某社のシステムをスタートさせたいと考えています。

14日の週にも、山口県の某社のシステムをスタートさせます。
このあたりに、美濃加茂市建協さんの新しいシステムの勉強会が入る予定にもなっていますから、ほとんど自宅にいない生活がまた始まりますね。

19日は桃塾最終日。

面白いのはこの翌週で、自治体関係の講演が2件予定されています。
22日が兵庫県(神戸)での講演です。そして翌23日は長野県、これは両方とも時間は短いのですが(特に長野県は1時間15分しかないようです)、自治体さんが私を呼ぶという、その勇気(笑)に敬意を表したいと思っています。

27日は帯広、30日はさいたま新都心で、それぞれ企業さん向けの講演です。

それから10月からは建設業と関係のない部分でのIT化のコンサルテーションをはじめる予定です。これは結構楽しみにしております。

11月は決まっている講演だけを並べてみるとこうなっております。
まず1日は三重県の津市での講演があります。三重建協さん主催かな?

11月7月8日は滋賀建協さん2連戦。
11月2221日は福岡建協さんの講演。

翌日2322日は、まだ内緒なのだけれども、やっぱり九州にいる予定。
そして26日27日28日は恒例になってしまうのか?の京都三連戦です。今回は前回とは開催場所が違うようです。

この頃、つまり「桃論」の出版を待って、「浅草桃塾」(1日コース)をスタートする予定でいます。(桃論が教科書ですね)
少数で、ぎゅっと圧縮したような勉強会をしたいと考えています。

そして11月30日は、出版記念演芸会+忘年会ですね。

さて、「桃論」について岐阜の「やっさん」からメールがきいていたのでご紹介しましょう。
いつもお世話になっております。

桃知様
かなりお疲れのようですね。頑張ってください。

私は基本的に桃論は理解しているつもりですが、インターネットとメールの世界は所詮は仮想の世界であり「信頼の構築」はできないと思います。

不言実行から有言実行であり、情報発信としてのインターネット社会は「自己主張、自己表現の場」「意見交換の場」であり、「情報収集の場」であると考えてます。

しかし、ここで培った思想の実践の場は、現実の社会における「フェースToフェース」の行動で評価されると思います。そこに信頼が生まれると考えてます。

桃知さんが言われる「私たちは、書を捨てずに町にでなくてはなりません。」
「そして、パソコンを捨てずに町にでなくてはなりません。」が理解できます。

ただ、以前質問した「編集」は今も理解できません。
一般的には「編集」は書物やパソコンによる、書き込んだり修正したりの作業であり、最終的には個人の机上の作業と考えられます。

実践、行動という作業は他への働きかけとして、他との相対的な関係での作業となります。
従って「・・・・の存在位置」は「相対的な関係での作業」の中で決まると考えているため、私個人は構成、構築が妥当な単語ではないかと考えています。

信頼っていうのは、関係性のメモリなのですよ。
メモリならば編集でいいじゃないですか?

ここは、哲学的かつ詩的なセンスをもって読みましょう(笑)。

2002/09/19 (木)  ▲
【9月24日札幌独演会は若干の空席があります】

24日の独演会の件
今日迄の参加者は50名です。
増えてもあと2〜3人程度だと思います。
ほぼ9割の入りでしょうか。
オープン参加者が33名もおられます。(びっくり)

というメールが主催者様から届きました。

「オープン参加者が33名」ということなのですが、この方々の理解度は如何ほどなのかという問題がありますね。葉月会の方々よりも多いのですね。。。

本当は事前に予習資料でもあればよいのですが、今回はありません。

なぜなら、これからPPTを作るからですね。
このPPTは後でダウンロードできるようにはしますが、今回は事前はちょっと難しいのです。

とにかく「桃論」から開放されたとたんに、いろいろなことができるようになってきました。
「桃論」を書くという作業が、どれだけ私の活動の負担になっていたのがわかります。

これもやってみてわかることであって、やらなければ、これは理解できないことだったのです。

身体性を伴ったリアリティというものの大切さを身をもって実感したのでした。



【11月30日】

桃知@新潟です。

編集氏っていうのは、こうしてうまいメールをくれるものなのです。
了解なのです。

原稿のご執筆、本当に長い間、大変ご苦労さまでした。
ご苦労の末に今、脱稿を迎えてどのようなお気持ちでしょうか。

最初の著作ということで、桃知さんご自身も書いていかれる中で
言い知れぬご苦労も多々あったことと思います。
そうした中で、桃知さんの頑張りには
編集者として、大変な感謝とともに敬意を申し上げます。

念願の本が完成したあかつきには、
浅草で美味しいお酒などを飲みつつ、ゴールの美酒に酔いたいなどと考えております。

さて、これから本格的な装丁作業に入ることと致します。
大まかなスケジュールと致しましては以下のようになります。

・10月初旬 本文ゲラおよび表紙ダミーの出稿 (→校正作業をお願いします)
・10月中旬〜20日 校正終了→印刷所入稿→印刷
・11/7 印刷完了
・11/15 書店発売

ということで、「桃論」は11月15日発売予定です。
皆さん、買って読んでくださいね。

ところで、11月30日っていうのはなにかっていうとですね、これはチーム桃知(いつからそんな名前になったんだ?)の「出版記念演芸会+忘年会」の予定日です。

関係者各位はこの日は空けておいてくださいな。
それから「お祝い」は今から貯めておくように。(笑)

普通は記念パーティなんだろうけれども、今回は「演芸会」っていうのがミソでございますね。

これにあわせて、出版記念の独演会を東京でやろうと考えています。
これは12月になってからですね。


さて、昨晩は、新潟県電気工事工業組合の皆様と、研修会終了後に御一献。
振袖さんまでご準備いただきまして、最後のラーメンまで、大変お世話になりました。

やっぱり、新潟のお酒はおいしいものです。
昨晩は、萬壽久保田と〆張鶴をいただきましたが、わたしゃどっちも好きです。

郡上建協の前田会長と平井さんも、お忙しい中飛行機で飛んで来ていただいのですが、新潟の夜はいかがでしたでしょうか。

郡上建協さんには、いつもこうして動いていただいております。深く感謝申し上げるところです。

後は、新潟が動き出す番なのですね。

2002/09/18 (水)  
【10月4日一関(岩手県)で講演、一般席若干あり】

桃論はとりあえず脱稿ということで、朝のうち原稿をメールで送って、ただいま新潟へ移動中なのです。

10月4日(金)に岩手県の一関市で予定されている講演に、一般枠を設けていただきましたのでおしらせいたします。

この講演は、「協同組合一関電設工業会青年部20周年記念事業 記念講演」として予定されているものです。

詳細は、オープン・セミナーのご案内をご覧ください。



【もうやめよう】

二死満塁さんとまにあ1号さんから、まとめ(案)についてのご感想をいただきました。
いつもありがとうございます。

まずは二死満塁さん。

>私たちは、書を捨てずに町にでなくてはりません。
>そして、パソコンを捨てずに町にでなくてはなりません。

格好いいです。感動しました。


帯に使ってみてはいかがでしょうか。


書を持ち町に出ろ。パソコンを持ち町に出ろ。

書を持ち町に出ろ。インターネットともに町に出ろ。

書を持ち町に出ろ。マウスを握り闘え。

書を持ち町に出ろ。ITをまとい町で闘え。

ぴっしとしたフレーズ出てきませんが、帯に使ってみれば
いかかでしょうか。

そしてまにあ1号さん。

まとめ・・・に対するご意見を求められておられますが・・・
だめですね。私には意見など出来ません。

つとめて、さらりとかかれておりますが、この「まとめ・のようなもの」に
書かれている内容はまさに、この「桃論」のエッセンスですよね。
絞りに絞られた、「現在の桃知の到達点」そのものです。
ここに至るまで、一体どれだけ「艱難辛吟」し、「苦悩」し
書き直し、思考されたことか・・・・・
多分アタマがしびれるほど疲れた日もあったことでしょう。
その、苦労の跡が行間からにじみ出てくるように感じられて
冷静に読めないんですよ・・・・

>私たちは、書を捨てずに町に出なくてはなりません。
>そして、パソコンを捨てずに町にでなくてはなりません。

この、たった2行に、どれだけの思いがこめられていることか
私には想像もつきません。

失った信頼を取り戻すために「戦わなくては」なりません。
「考えること、思考すること」を忘れてはならないんですね。
そして、それに加速度をつけるために、膨らませるために
「パソコン」を用いなくてはならないのですね。
そう、「考える」だけではなく、「実行」していかなくてはならない、
行動を起こさなくてはならないんですね。

すべては「失った信頼」を取り戻すために「戦うこと」
私はそう解釈します。
(ほとんど、A木さんの受け売りになってしまいますが・・・)

この2行になんとも「打ちのめされた」気がしています・・・

ともあれ、もう一息でしょう!頑張ってください

お二人ともお気に入りの、

「私たちは、書を捨てずに町にでなくてはりません。」
「そして、パソコンを捨てずに町にでなくてはなりません」。

というフレーズは、本当は「はじめに」用に考えていたものなのです。

それで、「はじめに」はどうなっているかというとこんなものです。

はじめに −「なぜ」を知ろうとする心−

■「中小建設業のIT化」を考えるということ

 子供の頃、ご飯を食べる時に、 「お百姓さんに感謝して食べなさい」といわれたことがあるかと思いますが、「中小建設業のIT化」について考えることは、ご飯を食べながら、お百姓さんはコメをどうやって作っているのだろう、と考えるようなものです。

 ご飯をいかにおいしく炊き上げるか、ということについては、電気炊飯器かガス炊飯器か、やっぱりかまどを使って薪で炊くのが一番いいとか、いや同じかまどでも藁の方がいいとか、水加減はこうした方がいいとか、食べる直前に精米した方がおいしいとか、そんな楽しい議論をすることができます。

 そのような議論で「中小建設業のIT化」が語られるのであれば、それは幸せなことです。それらは技術論としての問題なのです。

 しかし、「中小建設業のIT化」には〈「公共工事という問題」の前では技術論的なIT化などなんの役にも立ちはしない〉という命題が存在してしまっています。

  「公共工事という問題」とは、端的にいってしまえば、中小建設業の力の及ばない理由で「仕事がどんどん減っていく」ということです。

 この命題の前では、どのようなIT化論も、たいして意味を持てないのは当然のことでしかありません。

 しかし、本当においしいご飯を極めようとしたら、コメの銘柄や産地とか、栽培方法や乾燥の方法まで気になってしかたなくなってしまうように、本書が行っている「中小建設業のIT化」に関する議論は、まさに「お百姓さんはコメをどうやって作っているのだろう」を考えるようなものです。

 つまり、本書は、先の命題に対して、次の三つの本質的な問題を考えることで、それを乗り越えようとします。

 1・情報とはなにか
 2・中小建設業が売っているものとはなにか
 3・IT化とはなにか

 これらは、「中小建設業のIT化」の「コメはどうやって作られるのだろう」を考えるようなものです。それはある意味哲学的な問いかもしれません。

 哲学的というと、つい大上段に構えてしまいそうですが、それはそんなに大げさなものではありません。つまりは〈「なぜ」を知ろうとする心〉のことです。

 世間では、ご飯を食べながら、コメはどうやって作られるのだろう、と考えるような人間には「馬鹿」というレッテルが貼られるのでしょうが、私はどうしても「中小建設業のIT化」が機能する道を知りたかったのです。

 先の命題の意味するところは、「公共工事という問題」がある限り、IT化という経営の道具は、中小建設業の経営では意味をもてないということですが、それは「なぜ」なのかを意識してみようということです。そしてそれは、「公共工事という問題」への「なぜ」を意識することにつながっていきます。

 その〈「なぜ」を知ろうとする心〉がなければ、「公共工事という問題」を解決できないままに、中小建設業の経営は、ただ時代の力に閉塞してしまうだけでしょう。

 寺山修司は「書を捨てて町に出よう」と呼びかけましたが、本書は「書を捨てずに町に出よう」、ついでに「パソコンも捨てずに町に出よう」と呼びかけるものです。

 本書はIT化の本ではありますが、技術論やノウハウ書ではありません。「中小建設業のIT化」を通して、〈「なぜ」を知ろうとする心〉を持とうと提言しているものです。

■本書の読み方

 本章は六つの章で構成されていますが、必ずしも第一章から順番に読み進める必要もありません。

 読者の皆さんには、まずは目次を読んでいただいて、自分の興味のある章から読み始めることをお奨めいたします。

 まずは自分の会社のIT化だ、というのであれば、第五章のIT化概論(企業編)から読み始めるのもよいでしょう。

 そこで、興味はわくのだけれども、どうもよく意味がわからないというものがあれば、その関連するところを読んでいただければと思います。

 例えばミームについてわからないのであれば、第二章のLesson6から8、それから第四章を読むという具合にですし、「なぜこんな考え方をするのだろうか」と、私の基本的な考え方に興味を持っていただいたなら、第一章から第二章のLesson3までを読んでいただければよいかと思います。

 「IT化論」としての私の意見は、第五章と第六章に要約されています。ただその到達への経過(下敷きにしているさまざまな先達の研究の理解)の方が、本当は大切なのです。

 本書は、私自身が、多くの先達の研究をまず点で理解しようとし(ひたすら読んでいたということです)、それを「中小建設業のIT化」というキーワードをもって、線でつなぐような作業をしながら、ひとつの考え方として構成しようと試みたものです。

 特に、故村上泰輔氏の「反古典の経済学」、伊丹敬之氏の「デジタル人本主義」、金子郁容氏の「コミュニティ・ソリューション」、山岸俊男氏の「信頼の構造」には大きな影響を受け、本書においても多くを援用させていただいています。

 そのために、本書は決して読みやすい本にはなっていないと思いますが、本書を読んでくださる読者の皆様が、本書で引用する先達の意見に興味を持っていただくことで、先達の考え方に皆さんが直接コミットしながら(つまり先達の本を読みましょうということです)、自らの「中小建設業のIT化」論を考えていただけるのなら、それはとてもすばらしいことだと思います。

 こんなことも意識して、本書を読んでいただければ幸いです。

ということで、今日は新潟で講演です。

それからA木さまより。

体調大丈夫ですか?本日の店主戯言を見てなぜ具合が悪く
なったのかやっと分かりました。
文章は直し出すときりがありません。あまり手を入れると最
初の「熱」が文章から消え、さらに手を加えたくなる…というドツボ
にはまります。どこかで「エイ、ヤーッ」と割り切るしかありません。
一番いい方法は出来たらすぐに手元から離す(つまり脱稿)
ことです。
心残りは次回の執筆に回しましょう。(えっ?もうこりごりだって??)
自分が手を加え一番気に入っている部分と、読み手が感銘を受ける
いる部分は意外と違うもんです。
最後は目をつぶって誤字、脱字だけの校正にしましょう。
体調を戻さないと24日に札幌で飲めないしょ。

はい、もうやめます。

2002/09/17 (火)  
【まとめ(案) ご意見希望】

まとめのようなもの

 結論からいえば、やっぱり「信頼をなくしちゃおしまいだよ!」ということしかいえないのかもしれません。インターネット社会においても、私たちが作ろうとしているものは常に信頼の関係でしかないようです。

 中小建設業のIT化を考えていくと、そこには「公共工事という問題」が立ちはだかっています。つまり、中小建設業がおこなうIT化が、経営に対して何かしらの積極的な意味を持つには、公共工事という市場の特性がIT化を必要としていない、という現実に行き着いてしまいます。結局、中小建設業は公共工事という水槽に棲む「金魚」でしかないようです。

ですから、

 〈「公共工事という問題」の前では技術論的なIT化などなんの役にも立ちはしない〉

のですし、この現実の前では、「正解の思い込み」がいうIT化論は、なんの力もなくはじき飛ばされるだけでしかありません。

そもそも単純な経済合理性を目的とするIT化推進論と、その背景にあるマーケット・メカニズムへの無防備な信奉が、「公共工事という問題」をますます厄介な問題としていることに私たちは気付くべきなのです。

 例えば、「IT化による生産性の向上」という、IT化を推進する立場にとっては何の疑問の余地もない言葉は、「今という時代」に、「公共工事という産業」に対してどのような意味を持つことができるのでしょうか。私はこの問題と直面したとき、ただ自分の無力さに愕然とするしかありませんでした。

 「中小建設業のIT化」を啓蒙する立場で、「なぜ中小建設業にIT化が必要なのか」という質問に答えることは決して簡単なことではないのです。本書は、この疑問に対する答えを次の三つの疑問を解明する形で考えてきました。それは、

 1・情報とはなにか
   →ミームのことである
 2・中小建設業が売っているものとはなにか
   →「技術のミーム」である
 3・IT化とはなにか
   →〈インターネットを使うことである〉

というものです。もうひとつ付け加えるのなら、〈インターネットとはミームが獲得した新しいプール(培地)である〉ということでしょう。

結局IT化論としての本書は、これらの疑問に答えようとしているものでしかありませんが、ここでのキーワードが「ミーム」であることで、議論を〈「公共工事という問題」の前では技術論的なIT化などなんの役にも立ちはしない〉という閉塞から開放しようと試みているのです。

それは、経済的交換を社会的交換の範疇にある特殊なケースだとする、村上泰輔の「反古典の政治経済学」からの推論なのですが、ここにある情報とは「ミーム」のことだとする視点が、中小建設業のIT化論を展開させる「首の皮一枚」なのです。

私自身が情報とはミームのことだと理解できていなければ、「公共工事という問題」の問題解決方法を、地域社会との関係性の編集である「コミュニティ・ソリューション」に求めることはできなかったでしょう。ましてやそれをIT化と結びつけることなど、考えも付かなかったはずです。

 本書は「コミュニティ・ソリューション」の推進エンジンである「ソーシャル・キャピタル」の理解を、インターネットの精神文化としての自発性(ボランタリー)と重ね合わせて考えることで、その理解への第一歩を、自ら「インターネットを使うということ」と「インターネットの精神文化に自らを開放(コミット)すること」して「中小建設業のIT化」論を展開しています。これは金子郁要の「コミュニティ・ソリューション」の考え方に深く依存したものです。

 「公共工事という問題」を、旧来の「ヒエラルキー・ソリューション」と「マーケット・ソリューション」の枠組みで考える限り、公共工事に依存した中小建設業は失望の結果しか得ることはないでしょう。それは、この二つの問題解決方法が当事者である市民社会(地域社会)や中小建設業から問題を切り離した方々によって行われることの問題であり、それらが決して確かな根拠に基づいていないことの問題なのです。

「コミュニティ・ソリューション」に問題解決方法を求めた本書のIT化論の特徴は、IT化の活動をサイバーな空間だけにとどめず、リアルな空間(現実社会)との関係性の中で考えようとしたものです。これは、経済的交換を社会的交換の範疇にある特殊なケースだとすることの延長上にあります。

私たちは経済人である前に地域社会人なのであり、サイバーな空間の住人である前に、リアルな空間(現実社会)の住人なのです。

中小建設業は自らを語らないことで存在していた産業なのかもしれませんが、そのことが市民社会との距離を大きくし、「公共工事という産業」が信頼をなくしてきたひとつの理由ではないでしょうか。それはサイバーな空間に限らず、リアルな空間(現実社会)ででもです。であれば、

私たちは、書を捨てずに町にでなくてはりません。
そして、パソコンを捨てずに町にでなくてはなりません。

本書は、通常のIT化本とはだいぶ毛色のかわったものですが、それは公共工事に依存した中小建設業のIT化を、新しい枠組みで体系化するきっかけを作ろうとする試みのようなものだからです。

それは〈「公共工事という問題」の前では技術論的なIT化などなんの役にも立ちはしない〉という命題に、あえて「公共工事という問題」へ立ち向かうことで、この命題から「中小建設業のIT化」を開放する試みともいえるものですが、この試みを公にさらすことで、読者諸氏のご批判を仰ぎたいと思います。



【本日の私の課題】

なんとか、今日中に「桃論」の「はじめに」と「まとめ」をまとめてしまう予定です。
体調は悪いというか脳みそが疲れているような状態です。

昨晩は吐き気がしました。

自分が書いた16万字ほどの文章を何回も読み続けているわけですが、これはかなり体に悪いことを実感しています。そしていつまでやってもきりがないことも。

なので、本体をいじるのはそろそろ止めようかと、そう考えているのです。

「桃論」は今までにお目にかかったこともないようなIT化の本であることはたしかなのですが、それが単なる私の独りよがりなのか、それとも多くの皆さんに共感を持っていただけるのか、反論をいただけるのか(反論がいただけることを想定して書いています)を考えると、まだ書き切れていいない、という思いが大きいのも確かなのです。

でも、それじゃいつになっても終わらないわけで、それじゃ私は、ただの考える人になってしまうのですね。

ご飯を食べないですむのならそれでもいいのですが、ご飯は食べなくちゃいけないという現実の前では、私の理想の精神はどこかへ消えてしまいそうです。★\(^^;

2002/09/16 (月)  
【休み】

体調悪し。
寝る。

2002/09/15 (日)  
【ぼちぼちと】

17:53分に美濃太田駅を出る特急飛騨は、7分遅れで到着。
ところが、名古屋駅に着いたときには僅かに2分遅れでした。

「やればできるじゃない」

9時過ぎに自宅に着いて、スカパーでF1をみながら晩飯を食べて、そして、こうしてまたパソコンに向かい「桃論」に取り掛かかろうとしている。

ちょっと下痢気味で体調はわるいけれども、まあ頑張れない程じゃない。
とにかく桃論を仕上げなくてはならない。

2002/09/14 (土)  
【@美濃加茂市】

半日かけて美濃加茂市まで移動してきまして、ただいま美濃加茂市建設業協会さんで、サーバのセットアップ中です。

今回はGroupBoard2を使いますが、以前から使っていたSQLサーバーがSpidaにやられていて、こいつの駆除がどうしてもできていません。

なので、最初からServerを構築しなおしていますから、まあ時間はかかります。

今月末にはADSLを使うことで回線も早くなるとのことなので、10月に勉強会の予定を組む予定です。

つまり、システムができてもなにもかわらないわけで、必要なのは教育なのですね。

これがわからない人たちが沢山いるので、私は少々うんざりしているのですが、つまり私は物を売っているのではなくて、単純にIT化を啓蒙してているだけなのですね。

昨日のお客さんからのメールです。

いろいろと、勉強させていただきました。
私がこれから行うことと、市場は違うので
桃知さんが耕して、私はその後の種を刈り取る作業となります。

自分は、発注者として、みんなの役にも立ちたいと考えているので、
発注者側のサイドからの提案や補助を考えています。

発注者、受注者お互いに成長して一助となれるよう精進いたします。

このお客さんは、私を物売りだと思ってやってきたのですけれども、私のはなしを聞いて、私が物売りじゃない、つまり耕す人であることに気がついたのですね。

この認識は間違いではありません。。

ただ、私のIT化論は多分多くの皆さんの想像外のところにあります。
この方も完全には理解できていないと感じています。

このあたりの詳細は「桃論」を読んでいただくしかないのですが、でも「桃論」を読まない人たちはわからないままでしょうね。

そういう方々がIT化を標榜しながら、中小建設業が抱える問題にいったい何を答えとしてだそうとしているのかを考えてみればよいのです。

つまり、「公共工事という問題」の前には、技術論的なIT化など何の役にも立ちはしないのです。

美濃加茂市建協さんは、私の行っている市建協のレベルでのIT化の唯一のものです。県の協会ではなく、市の建協となるとIT化のインセンティブの面でとても難しいところがありますが、亀井さんや協会の皆さんのご協力を得ながら進めていきたいと思います。

今日終わらなかったら、明日もこの作業を行います。
明日終わらなければ明後日もです。

2002/09/13 (金)  
【コア・コンピタンス】

今日はとっても忙しい。
歯医者にも行かなくてはならなし、仕事も沢山。
午後からはお客さんが来るし。

なので、またとりあえずの更新です。★\(^^;
「桃論」から。

 たとえば、「顧客主義」という言葉は、いまやだれもが普通に使うはずです。私も「コア・コンピタンスとは顧客の要求にある」という表現を好んで使います。しかし、これは顧客の要求を鵜呑みにすることと同義ではありません。顧客の要求とは、企業が「今できること」に置きがちな戦略視点を「もしかしたらできるかもしれない」に変化させる推進力であると理解するのです。つまり「コア・コンピタンス」は顧客の要求を超えるところに存在するのです。それが自社の「技術のミーム」であるならば、その「コア・コンピタンス」は顧客の要求である「消費のミーム」さえも変化させる力となることを意味します。それは、私たちの言葉でいえば、自社の「技術のミーム」は「消費のミーム」や「ソーシャル・キャピタル」を形成する。つまり、

〈コア・コンピタンスとは顧客との新しい関係をつくりだせる力である〉

ということです。

2002/09/12 (木)  
【正解の思い込み】

いろいろ書きたいことはあるのですが、「桃論」がそれを許してはくれません。
なのでとりあえず更新です。★\(^^;

 それで、「中小建設業ではコンピュータはやっぱり役にはたたないのだ」とほとんどの経営者は自らを納得させておしまいにしているのです。「建設業の経営なんて結局そんなものさ」というような、ミもフタもない意見もたくさん聞いてきましたが、この「あきらめ」の正体は、多くの経営者が陥っているある「思い込み」の結果なのです。それは、

 〈経営に正解はあるという思い込み〉

です(以下、「正解の思い込み」と呼びます)。これは、「経営戦略のようなものは、どこかで、コンピュータソフトのように販売されている」と思い込んでいるということです。

 この「思い込み」は、その「正解」を買えば当社にも立派な経営戦略がやってくるというような、なんともお気楽で、他人任せな精神に支えられているものです。それが「ベスト・ソリューション」とかいうモノを導入すればすべてがうまくいくというなビジネスを成り立たせているのも事実です。しかし、これも、中小建設業の妄信的な行動と、その結果としての失望を生み出しているだけでしかありません。

 「正解の思い込み」は、その「ベスト・ソリューション」が失敗に終わっても、深く反省することはありません。ただ次なる「ベスト」探しを始めるだけです。失敗のあとで、経営者は「こんどはちゃんと説明書を読んでから使おう」と心に決めるのです。でもその決心もすぐに忘れてしまいます。次なる「ベスト」探しは他人任せになってしまいます。そして、次なる正解探しをするには自分はあまりにも忙しいと経営者は自分を弁護するのです。「私」は忙しいのです。ですから、なぜコンピュータ投資は業績の向上に結びつかないのかを深く考え分析する暇はありません。でもゴルフに行く時間はあったりします。

 「全てに関して「正解」と思えるようなものがもう存在している−これが当たり前になった時、人は競って「正解」の方へ走る。それが「正解」であるかどうかは別にして。「あっちに正解がある」の声があがれば、とりあえずそちらの方向へ走る。走った後で、「なんだ、違うのか」という落胆が一時的にあったとしても、「正解を求めて走る」という習慣だけは崩れない。それが、「正解はどこかにある」と信じられていた時代のあり方である。」

 橋本治はこういい切ります。(※橋本治,『『「わからない」という方法』』,2001,集英社新書)つまり、企業経営というミクロ的な視点からみると、IT化が遅れている原因は、

 〈IT化と情報化とは何が違うのかを売る方も買う方もわかったふりをしている〉

ということです。そして、この深層には、「正解の思い込み」という思考の閉塞が存在しているということなのです。「正解の思い込み」とは、考えることの放棄でしかありません。今、経営には何が必要で何が不要なのか、という経営判断を放棄するものでしかありません。

2002/09/11 (水)  
【もも空知切手】

あんまりおかしいので、ここで紹介。
世の中は、私らのイマジネーションを越えたところで、なに考えているのかわからない人がいるものですが、とにかく笑うしかありませんでした。これは。。。

本人さまのコメント。

もも団扇に続く、もも空知限定オリジナルグッズ堂々完成!
IT華やかなこの時代に敢えて挑んだ渾身の力作。
本当に使ってくれる人はいるのでしょうか!
まあ、見て頂戴。

「もも空知切手」

実際に使えるらしいですが。。。



【哲学する土建屋】

まず、まもなく一お連カウンターが36万のようですので、ゲッターの方は店主へメールをください。

遅くなるとは思いますが(出版にあわせていろいろ考えています)、景品を送らせていただきます。

『桃論』は、通しで読むことによって、一度目の校正を終えて、再び、「まえがき」と「まとめ」を考えているのですが、「まとめ」は意外と難しいものです。

「まえがき」については、サブタイトルを「考える土建屋」か「哲学する土建屋」にしようかと考えていました。

『桃論』はかなり面倒な本です。

言葉遣いは、です、ます調ですし、なるべく難しい言葉、専門用語、横文字は使わないようにしてきました。

今おこなっている「校正」も、言葉遣いの「校正」が多いのも確かです。

しかし、どうしてもカタカナでしか表せないものとか専門用語を使わざるをえないものも多いのです。
たとえば「ソーシャル・キャピタル」です。

多くの方々にとって「ソーシャル・キャピタル」という言葉はなにを意味するかわからないかもしれませんが、この概念は『桃論』の中核となっているものです。

ですから、これが理解できないと、『桃論』はなんの本なのかさっぱりわからないはずです。

土木系の方なら、「社会資本」と訳すのでしょうが、それでは合格点はさしあげられません。これは、ロバート・パットナム等が、次のような意味で使っている言葉です。

以下『桃論』からです。

 「ソーシャル・キャピタル:social capital 」は、日本語では「社会資本」と訳されてしまうので、道路や公共下水道のような「社会資本」と混同されがちですが、実は全く違うものです。

 ロバート・パットナムは、コミュニティがうまくいっている、うまくいっていないの差を、この「ソーシャル・キャピタル」の差である、としていますが(※ロバート・パットナム,『哲学する民主主義』,河田潤一訳,NTT出版,2001)、私は、これをケネス・J・アローのいう「信頼」の文脈で理解しています。

 『それは人々の間の信頼である。さて信頼というものは、かりにほかの点をおくとしても、非常に重要な実用的価値をもっていることはたしかである。信頼は社会システムの重要な潤滑財である。それが社会システムの効率を高めることはたいへんなものがあって、他の人々の言葉に十分に依存できるとするならば、さまざまな面倒な問題が取り除かれる。』(※ケネス・J・アロー,『組織の限界』村上泰亮訳,岩波書店,1999,p16)

 たとえば、ここでは「談合」を例に考えてみましょう。批判を覚悟でいいますが、私は本来の意味での「談合」を「コミュニティ・ソリューション」のひとつの形態と考えています。

なんとなく、理解いただけるでしょうか。

『桃論』は、いたるところで、この「ソーシャル・」キャピタル」という言葉を、引用や比喩を用いて説明しようとしていますが、限られたスペースでこれを行うのも、なかなか大変な作業ですし、きちんとした理解を皆さんには伝えられていないかもしれません。

しかし、次のようなことは可能だと考えています。

それは、『桃論』をきっかけに、皆さんが、ロバート・パットナムやケネス・J・アローや、そもそも私がこの言葉を使うようになったきっかけである、金子郁要の『コミュニティ・ソリューション』を読むことには「何の制限もない」ということです。

それは皆さんの意思次第です。

皆さんに読んでいただきたい本はたくさんあります。
『桃論』は、できる限りそれを紹介する形になっています。

たとえば、『桃論』に流れる重低音は、『社会的交換から経済的交換を位置づける』というものですが、この理解には、村上泰輔の『反古典の政治経済学要論』を読むことは必須です。

『反古典の政治経済学要論』は、私の知っている方々からは、「睡眠薬」扱いされている程難解なものというレッテルを貼られていますが、『桃論』を読んでからアプローチすれば、私はきっと理解できるはずだと考えています。

『桃論』は、皆さんが「哲学するきっかけ」になれればいいなと思って書きました。
『桃論』は、皆さんの思考の展開を制限するものではなく、それを後押しするものでしかありません。

ですから、「まえがき」を「考える土建屋」か「哲学する土建屋」にしようかと考えているのです。

中小建設業に足りないものは「哲学する心」なのだと思います。

しかし、それにしても、私自身の中で言葉遣いがこなれていない、ボキャブラリーが足りない問題は大きいのです。

たとえば、昨日の「編集」という言葉遣いについて、次のようなご指摘をいただきました。

再編集は少しおかしいのでは、国語辞典によると
「編集」は、「雑誌・新聞・本をつくること」となっています。

この指摘は、確かに正しいのです。
しかし、「編集」には次のような意味もあります。

いったん入力したプログラムやデータの一部を削除したり並べかえたりさらには新たに追加したりして手直しすること

「ソーシャル・」キャピタル」を「編集」するというときには、このような意味で考えてほしいのです。

でも、それを『桃論』の中で説明するスペースはありません。

これを、どうやって読者の皆さんに伝えるのかは、非常に悩ましい問題なのです。

・・・ここまで書くのに1時間もかかってしまいました。
今日はこれから柏崎市へ参ります。

2002/09/10 (火)  
【編集】

桃知@まだまだ新潟です。
疲れております。(T_T)

桃知様
「あとがき・・・・・・公共事業を議論しよう」 読みました。
早く完成著書が読みたいです。
3年間余の活動の集大成としての「桃論ミーム」が、
どれ程の広がりを持っているのか、また新たな広がりを
見せるのか、具体的数字としての販売数として表れることを
楽しみにしております。

ところで「あとがき」の中で、「中小建設業の存在位置を再編集」
「公共工事の存在位置の再編集」となっていますが、編集という
ことばを使われた意味はなんでしょうか。
構成とか構築を使われなかったのは何故でしょうか。
もう一点、「建設業」と「公共工事」の「存在位置」は同じにならない
と思うので、用語を統一した方が良いのではないでしょうか。
些細で軽薄な意見で申し訳ありませんが、感じたことを書きました。

岐阜のやっさんから(↑)のメールをいただきました。
ありがとうございます。

本当に沢山売れると嬉しいのですが、とにかく隙間のような題材を取り上げた本ですので、どの程度売れるものなのかは、まったく「?」でございます。

生活がかかっていますので、お金を出して買ってくれる方が沢山おられることを切望しております。(^^ゞ

さて、まずは中小建設業と公共工事の概念ですが、桃論では区別していません。なぜなら、桃論でいう中小建設業とは、公共工事に依存した地場型中小建設業のことをいうからです。

つまり、こうなっております。

 本書は地場型中小建設業のIT化について書かかれたものです。本書では地場型中小建設業という言葉を公共工事依存のローカル色の強い中小建設業という意味で使用していますが、本書がIT化の対象として想定している中小建設業とは、この地場型中小建設業のことです。この明確な定義や、はたしてこの実数がどのぐらいのものなのかなどといった議論の必要はありません。直接公共事業を元請受注できる方々なのか、それとも二次三次下請や専門工事業、さらには建設関連業までを含めるのかは、時間を割くに値するような議論ではありません。それは読者の皆様がそれぞれに考えて決めればよいことです。当社もそうだと思うかもしれませんし、当社は違うと感じてもいいのです。そんなことよりも、

 〈この国ではたくさんの方々が公共工事に関係しながら暮らしている〉

という認識こそがまず大切なのです。

それから、「編集」という言葉ですが、これは金子郁要の用法です。
つまり、「ソーシャル・キャピタル」という概念を考えていくと、そこにはかならず相手がいて、相互依存的に蓄積されていくようななものであることがわかります。

それは「構築」というものでもありませんし、新規に「確立」するというようなものでもありません。なぜなら地場型中小建設業にとって地域社会との関係は既に経過依存的に存在しているからです。

ですので、自らが変化することの相互作用として、相手と共同作業的に今までの関係を変化させる、つまり、お互いに明文化されない覚書を「書き換える」作業が必要だというような意味です。

こればかりは『桃論』を通して読んでいただかなくてはわからないかもしれません。


【一日が短い】

桃知@新潟です。
一日が500時間ぐらいあれば嬉しいのに、と思いながら過ごしております。

毎日ぱさぱさの戯言も寂しいので、修正している『桃論』から引用しておきます。
このあたりは前後の文脈がわからないとかなり難解なはずです。

 たとえば、小泉政権における緊縮財政という状況下での「時代の空気」は、「今までおこなわれてきた景気対策のためといわれている公共投資が財政赤字を膨らませ続け、そしてそれが景気回復につながらなかった」(※ 五十嵐敬喜の指摘,『市民の憲法』,早川書房,2002年,p209-212)という、国民(それも都市部)の機会費用・取引費用の問題意識を背景に構築されてきたものということができます。

 これも、「公共工事ダメダメミーム」を形成している市民の感覚のひとつです。このような状況は、自らへのサービスの原資そのものが緊縮するという事態に、市民社会がサービスの買い手としての意識を強くせざるをえないような均衡状態が生まれている、ということを意味します。とすれば、発注者は市民社会に対しては「売り手の意識」を大きくせざるをえませんし、中小建設業に対しては、「公共工事という産業」の構成員の一員というよりは、「買い手としての意識」を強くせざるをえないのです。

 ここに、昨今発注者に対していわれる「ものをつくるから買うへの発注者視点の変化」の根拠があります。この視点変化が強調される背景には機会費用・取引費用の問題があります。しかし、いくら視点を変えたところで、肝心の「買う能力」が不足していたり、発注者が「公共工事という問題」から自らを切り離す、つまり自らの保身が最優先である限り、短絡的な「似非マーケット・ソリューション」が繰り返されるだけでしかないのです。

 その結果、対市民社会への「発注者の意図の信頼」を構築する必要から(A'')の状況は生まれます。それは、市民社会が「マーケット・ソリューション」をよしとする「消費のミーム」をもつために、公共工事がマーケット・メカニズムを導入せざるをえない状況へと押し流される、ということでです。そして、民間技術力の導入を大義名分にした「性能規定発注方式」の採用や、制限付き一般競争入札が導入されている状況を、私たちは目のあたりにしているのです。公共建設市場のIT化のシンボル的存在だとされている「CALS/EC」にしても、それがCALSである限り、本来はこの文脈で機能するものでしかありません。

「(A'')の状況」というのがわからないかと思いますので、以下に書いておきます。

(A'')発注者の市民社会に対する「売り手としての意識」が大の場合、対市民社会に対する発注者側の「意図の信頼」を担保するものは、市民社会の持つ「消費のミーム」に規定される度合いが高くなる。その「意図の信頼」を担保するものを発注者自らが持ちえない場合、発注者が自ら持っている「意図の信頼」を証明する方法以外のものに、自らの「意図の信頼」の担保を依存する傾向が強くなる。

2002/09/09 (月)  
【@新潟】

桃知@新潟です。
今日は疲れました。

2002/09/08 (日)  
【校正中】

桃論校正中。
なので休み。

2002/09/07 (土)  
【@桃塾】

ただいま「桃塾」中です。
現在、空知建協のIT化の取り組みを、秋野さんから発表していただいております。

ということで、A木さまからのメール。

桃論」のあとがき案を拝見しました。
「ですます調」がすっかり板について、桃知さんの
心情がストレートに伝わってきました。ひょっとすると、
あとがきが一番いいじゃないでしょうか?
残っているのは「前書き」ですか…。もう少しです。頑張ってください。
24日の札幌独演会では正真正銘の「打ち上げ」ができそう
ですね。

ありがとうございます。

2002/09/06 (金)  
【桃論 あとがき案】

あとがき -公共工事を議論しよう-

 私は、この本が少しでもの多くの「公共工事が嫌いな方々」に届くことを願って書きました。それは、今中小建設業でおきている問題が、決して他人事ではなく、ましてや机上の議論で解決のつく問題でもなく、いつでも自分の身にもおきうる問題だと感じてもらえることを願ってです。そして、世論や空気がつくりだした議論ではなく、身体の伴った視点で公共工事の議論がおこなわれることを切望しています。

 一方、「公共工事という産業」に身を置く方々には、真摯に自らの存在意義を再確認し、今という時代に、公共工事とそれに従事する地場型中小建設業の存在位置を、再編集できる何らかのきっかけとなればと考えています。そして、その再編集の議論に自ら参画する、もしくは自ら議論を提起するような業界であることを願っています。

 今という時代に必要なのは、単純な公共工事批判や、公共工事擁護というような、時代から取り残された構図の繰り返しではありません。そうした思考の硬直化は、出口のない閉塞感をさらに強めるだけでしかないでしょう。必要なものは、当事者としての地域社会と中小建設業が参加する議論を通した、公共工事の存在位置の再編集でしかありません。

 もちろん、本書はちまたに溢れるいろいろな「公共工事論」「IT化論」のひとつにしかすぎません。もしかすると、ひとつにも数えてもらえないかもしれません。でも私はこれだけはどうしてもいいたかったのです。だからこの本を書きました。

 <「公共工事という問題」の前では、技術論的なIT化など、なんの役にも立ちはしない>

 本書のタイトルは『桃論』という不思議なものです。たぶん、このタイトルだけだと、桃の栽培方法の本か、なにか風俗業界の指南書と間違われてしまうかもしれませんので、サブタイトルをつけることにしました。この原稿を書いている段階では、サブタイトルはまだ決まっていませんが、エクスナレッジの担当者であるの近藤正さんが考えてくれた「中小建設業IT化サバイバル論―信頼の構築による淘汰から再生へ―」というような仰々しいものになるはずです。

 一介のIT屋に過ぎない私が、そのようなたいそうなタイトルの本を書いていいのかという問題はあるとしても、IT屋の目からみた、公共工事に依存した中小建設業のIT化の前に立ち塞がる問題は、<「公共工事という問題」の前では、技術論的なIT化など、なんの役にも立ちはしない>という絶望的なものでしかありませんでした。その絶望を乗り越える方法を、その絶望の原因を、ただひたすら「なぜなんだろう」と考え続けることで探していたのが、私がこの仕事を始めてから現在に至るまでのすべてでしかありません。その「なぜなんだろう」という疑問と地を這うような「わからないから考える」を著したのがこの『桃論』なのです。

 その「わからないから考える」という地を這うエネルギーの根源がどこから湧き出ているのかは、自分でもよくわかりません。それはたぶん、私自身がかつては建設業界に身をおいていた存在であったこと、さらに独立して一歩退いて建設業界をみたとき、そして、日本という国に生まれ育った私が「なにものでもない」ことを自覚したとき、そこに渦巻く問題は、建設業界の問題だけではなく、日本の国のどこでも誰にでも起きうる問題、つまり私自身の問題だと自覚したからではないかと思うのです。

 ところで、この本は私にとっては初の著作です。ということは、初めて本を著すという作業をおこなった、ということなのですが、それは私が今まで経験をしたこともない苦悩に満ち溢れたものでした。 

 私は、自らのホームページと講演活動をもってミームの散布作業をしてきた人間ですから、ライブには少々の自信はあったのです。ですから中小建設業のIT化について本を書いてみないかとお声掛けをいただいたときにも、「ああ、そんなもの楽勝だわ」などというお気楽な気持ちでそれを引き受けてしまったのです。そこには、講演内容を本にすればいいのだろう、というような「おごり」があったのですが、そんな「おごり」など、まったく意味のないものであったことを痛感させられたのが、今回の本を著すという作業なのでした。いざ書き始めると、私自身の思考の浅さがさらけ出されるような恥ずかしさと、その思考の浅さの穴埋めの苦悩との戦いの日々でした。

 その恥ずかしさや苦悩から自らを切り離すことは、いつまでたっても「桃論」は脱稿できないことを意味するだけでしかありませんでしたから、他力依存型人間である私は、ある方法を今回の執筆において試してみることにしました。まず、私の支持者である方々に、部分的な下書きができるたびにそれをメールで送り、それに対する感想をお願いし、その感想を反映させながら稿を改める作業をしました。

 この作業には、私の最初の理解者である岐阜県職員の方々をはじめ、二〇〇一年の法政大学エクステンション・カレッジで私の講座を受講してくださった皆さん、そして、空知建設業協会「葉月会」の皆さんに大変にお世話になりました。この共同作業がなければ、「桃論」がここに存在することはなかったでしょう。

 それと同時に、私は自分のホームページで、原稿を書き進める過程で表出してきた曖昧な部分を晒すという作業も何度となく繰り返しおこなってきましたが、この行動に対しても、沢山の方々からご意見をいただくことで、執筆を進めることができたのです。

 執筆は、孤独でつらい作業だということは、今回の執筆で十分に理解できたことなのですが、そんな孤独な作業を続けることができたのは、このような協力者の皆さんがあってのことです。改めてお礼を申し上げます。

 そして、エクスナレッジの近藤正さんは、いつもタイミングよく、めげそうな私に励ましのメールをくれました。そのタイミングのよさに私はプロの仕事を感じたのでした。心から感謝申し上げます。


【ドレイファス】

昨晩は午後8時過ぎに急なお誘いの電話があって、近所の寿司屋で一献、帰りは午前1時を過ぎていました。

今日は美濃加茂市建協さんへおじゃまの予定でおりましたが、都合で取りやめとしましたので、「桃論」を何とかしたいなぁと思うのです。

最近私が凝っている人に、ヒューバート・L・ドレイファスという哲学の先生がいて、この人は知っている人は知っているだろうけれども、キルケゴールを引き合いに出しながら、インターネットの限界をいっているひとです。

『インターネットについて 哲学的考察』
ヒューバート・L・ドレイファス,石原孝二訳,産業図書,2002

それは私のようなインターネット信者には、とても挑発的で、哲学的な議論を投げかけてくるものですが、共感する部分も沢山あります。

たとえば、こんなフレーズはいかがでしょか。

『もし人がすでに何らかの理想にコミットしているのであれば、ワールド・ワイド・ウェブはわれわれの行動する力を強めることができる。ワールド・ワイド・ウェブは関連する情報を提供してくれるし、また、理想を共有し、自分の時間とお金、そしておそらく自分の生活さえも、共有された目的のために危険にさらす用意のある他の人々に接触させてくれるのである。』(p136)

大切なのは、「何らかの理想にコミットしている」という、自らの身体を伴った、水平性(つくられた市民)との差異なのです。

簡単にいえば、それは「情熱」と「行動」なのです。
これこそが、無条件のコミットメントの根源なのだと私も思うのです。

その力がなければ、インターネットは現実世界から切り離された遊びのようなものにしかなりえないことは当然でしかありません。

2002/09/05 (木)  
【「知らぬが仏」】

年に一度の経済調査会での打ち合わせを終え、途中、伊東屋により文房具を調達しながら、そのまま美々卯まで歩き、昼飯は久しぶりに美々卯のうどんすきとしました。

最近「杉」のうどんすきを食べなれているせいか、あれほどおいしいと思っていた美々卯のうどんすきが今日は妙に醤油くさく感じました。

人というのは怖いもので、「知らぬが仏」もことわざどおり、知らないほうが幸せいうのは本当のようで、知れば知るほど、価値観というのは変わっていくようです。

さて、「桃論」の暫定的な目次ができてきました。

目次

はじめに

第一章 本書の立場

Lesson1 本書の立場
■本書の立場
* ■中小建設業のIT化=環境×原理
*
*
* 第二章 IT化
*
* Lesson1 インターネットという革命
* ■IT化を語るという立場
* ■IT化認識の基盤
* ■現代社会はIT、それもインターネット社会である
* Lesson2 私の身の上ばなし
* ■クルーグマンのおはなし
* ■私の革命
* ■答えのないコンサルタントの分からないという方法
* ■私の身の上ばなしのまとめ
* Lesson3 インターネット社会
* ■インターネット社会の方向性
* Lesson4  コミュニティ・ソリューション
* ■ヒエラルキー・ソリューションとマーケットソリューション
* ■公共工事における問題解決方法の閉塞
* ■コミュニティ・ソリューション
* ■ソーシャル・キャピタル
* ■IT化ってなに(IT化と情報化の簡単な分別方法)
* Lesson5  ミーム論
* ■思考の眼鏡
* ■ミームという眼鏡
* ■なぜ社長の車は高級車なのか
* ■ミームってなに?
* Lesson6  市場とミーム
* ■売り手と買い手のミーム
* ■主流のミームが文化を形成する
* ■主流のメカニズム
* ■ミームが産業を束ねる
* Lesson7  IT化のミーム論的位置づけ
* ■情報としてのミーム
*
* 第三章 中小建設業
* Lesson1  開発主義と中小建設業
* ■中小建設業とは
* ■開発主義の裏側で
* ■ヒエラルキー・ソリューションの問題点
* Lesson2  IT化はなぜ遅れたのか
* ■ちいさなサンプル
* ■なぜIT化は遅れたのか?
* ■二つのヒエラルキー
* ■公共工事という産業構造
* ■市場のルールによるIT化の阻害
* ■対極のルールの失敗
*
* Lesson3 対極のルール(?)の失敗
* ■発注者側のモノを作る視点
* ■現行の入札制度の問題点

Lesson4 正解の思い込み
■経営者の不信感
■教科書的な情報化は「正解」なのか
■「仕事はある」という環境理解の誤り

第四章 市場
Lesson1 市場の相互作用
■社会的交換から経済的交換を位置づける
■信頼というメタ情報
Lesson2 信頼ってなに
■二つの相互作用
■情報の二分類
■三種類の相互作用
■情報の非対称性
■取引き費用と機会費用
■選好基準は複雑である
■信頼と安心
Lesson3 コア・コンピタンスとしての技術のミーム
■技術のミーム
■二つの技術のミーム
■ふぐ屋の技術のミーム
■中小建設業のコア・コンピタンス
Lesson4 公共工事ダメダメミーム
■安心の担保
■公共工事はだれの共有地なのか
■安心の担保の崩壊
Lesson5 発注者と市民社会
■発注者は豹変する

■発注者と市民社会のエージェント問題
■権威の崩壊
■自らが環境を変える

第五章 中小建設業IT化概論(企業編)
Lesson1 中小建設業のIT化の意義
■IT化はなぜ必要なのか
Lesson2 二つの前提
■IT化のための二つの前提
■現場のIT化
■テレワークという考え方
■イントラネット
■イントラネットは零細企業に必要か
Lesson3 中小建設業IT化への三つのポイント
経営者のリーダーシップ
■トップダウン
■IT化における頻度依存行動
■IT化熱血社長とIT化頼りなし社長
■IT化のベクトル
■経営者は自らコンピュータを使え
組織的な取組み
■IT化プロジェクトチーム
■IT化キーマン
■総論賛成、各論反対
■合意形成
Lesson4 イントラネットふたつの実践
■ふたつの実践
現場状況報告
■現場状況報告からはじめよう
■伝達から共有へ
■現場状況報告から始めるということ
入金状況報告
■入金状況報告

第6章 建設事業者団体によるIT化の取組み
Lesson1 自治体版CALS/EC
■CALS/ECについて
■国土交通省のCALS/EC
■自治体のCALS/ECはCALSを越えて
lesson2 建設事業者団体のIT化
■二つの目的
■CALS/ECに対応するとは
■インターネットの精神文化
■目標の策定
■郡上建設業協会(岐阜県)による取り組み

まとめ

あとがき

ちょっと手を入れなくてはならないところもあるようですが、とにかく、「はじめに」と「まとめ」と「あとがき」を書いてしまわなくてはならないようです。

これがうまくいけば、桃論は11月上旬の発売予定とのこと。
なんとなく嬉しいな、でございます。



【気合入れなおしか】

TDLときたら、ほとんどのアトラクションは待ち時間ゼロでした。
レストランも空席多数。

こんなに快適なTDLは初めてでございました。

夏休み後の平日、それもシーの方は一周年のアニバーサリー・イベントが昨日から始まっておりますので、そういう理由もあるのでしょうか。

ということで、私は一日中ぼけぇ〜っと遊んでいたわけで、そもそもディズニーのキャラクターが嫌いな私は、なにも買い物するわけでもなく、ただひたすら、ぼけぇ〜っと過ごしていたのでした。

ということで、一日仕事をしていませんから、当然に仕事は溜まるわけで、今朝は、9月9日10日に予定されている新潟県電気工事工業組合さんでの勉強会資料を作成。

これから銀座の歌舞伎座近くへ打ち合わせにお出かけ。
そして、9月7日の桃塾第3回目の準備もしなくてはなりません。

こうして、私はますます「桃論」の最後の仕事から切り離されていくわけです。

2002/09/04 (水)  
【もっとげんきだしてちょうだい】

ということで、早速ジオさんから「もっとげんきだしてちょうだい」というメールが届いたので、これを載せると一応の完結となりますね。

ももさんおはようございます。

>「採算のとれた経営をすること」ってことは、「おまんま食べなければ生きて
>いけない」という解釈でよろしいでしょうか。

そんなネガティブな意味ではなくて、事業を興す、会社の経営者となるというこ
とはすなわち「採算のとれた経営をする」ということとが最低限の義務だという
ことです。バブルで見失ったのはこのへんの基本なのではないかと思う次第です。

>それは、現政権がおこなうサプライサイド政策に対する見解です。
>ジオさんは、これを時代の必然、もしくは避けられない現実だと理解されるの
>だと思います。

御意。

>でも、私はそうは思いません。
>それは作られた民意だと理解しています。

それもある程度御意ですが、(1)その誤解を解くために努力するのか、(2)その環
境の中でも採算のあった経営をできるようにするのか、(3)その両方を同時に進
めるのか、ということだと思います。通常皆さん(3)を選択なさるのでしょうが、
私の選択は(2)です。理由は「そんな余裕のある時間は残されていない」ことと
「期待がかなわなかったことの反復学習効果」からです。

>今おこなわれている政策では、よい企業も悪い企業も区別はつかないのです。

悪貨が良貨を駆逐するのは、何もしないでいたら必然的に起こるのでしょうね。
悪貨の方がよく考え、行動するということが多いですから。良貨が駆逐されない
ためには悪貨よりよく考え、より行動するしか手がないのだと思います。

>ジオさんからメールをいただいたおかげで、こんなに文章が書けるのです。

ではますます元気になってください。桃論も最後の詰めのようですし。

広島カープの津田投手が「弱気は最大の敵」と自分に言い聞かせてマウンドに上
がったように、今の建設業界にとっては「思考の放棄を原因とした漠然とした安
心感が最大の敵」なのだと思います。だれでも「なんとかなるだろう」と思いた
いものですから。

ということで、これから散髪です。
スポーツがりにしようかと思っているのでした。



【やっぱり金魚】

9月24日の札幌独演会は、残り10席程度になってしまったようでございます。
よい席はお早めに・・・って、全席自由だけれど。

さて、躁なんだか鬱なんだかわかんない状況なのでございますが、どっちかっていえば鬱みたいな感じです。

「桃論」の「はじめに」も「まとめ」も「おわりに」も当然に書けてはいません。
でも、ここには書けるのですね。

これは、正確に反比例します。
ほかの原稿の調子がいいときは、ここは書けないのです。

当たり前っていえば当たり前なのでしょうが、まあ、体も脳みそも疲れまくっていることは確かなわけです。

なので、今日は朝早く散髪へ出かけ、それからTDLでも行こうかと思っています。
馬鹿みたいに、ボーっと遊んでこようかと、そう考えています。

そんでもって、ジオさんからはお約束のメールです。
毎度ありがとうございます。

ももちさん、戯言みたら、おたずねされているようなので、ちょこっとばかりお
返事をば。。。

>ジオさんが最近のトピックス、「サイレントマジョリティの覚醒」でいってい
>ることは、中小建設業が淘汰されることは経営者が淘汰されるだけで、従業者、
>つまり建設業で働く方々が淘汰されるわけではないということでしょうか。

経営者が淘汰される「べき」ではなく、淘汰されるような経営者は淘汰される
「のでしょう」ということで、従業員の方も同様です。経営者だから、従業員だ
からということではありません。

私の感覚では、じっくりと社会に理解を求めながらという時間はすでに残されて
いない、と思っています。実際兵庫県を代表する2社も数日前に事実上消えまし
た。私は単に現実主義者なだけだと思います。自分が正しいと思っていても、相
手がそれを認めなかったら、それは正しくなかったという「結果」が待っている
だけです。

すべてのことが裏表ありますので、いろいろな角度から経営者も従業員も自分自
身を眺めてみる必要があるのではないでしょうか。待っていて改善されるという
ものはあまりありません。

いま経営者に課せられていることは「採算のとれた経営をすること」なのですが、
その方法はひとつではなくいろいろあると思います。

ももさんの考え方はよくわかります。しかし両論ないと疑似安心の世界に行こう
としてしまうのが人間です。

「採算のとれた経営をすること」ってことは、「おまんま食べなければ生きていけない」という解釈でよろしいでしょうか。

そうであれば、それは、経営者も従業者も同じことだと思いますし、私のはなしは、そもそも、この時代に「どうやって食っていくか」のはなしでしかありません。

多くの中小建設業の経営者は少なくとも今の事態に危機感は持っていると思います。

従来型のヒエラルキー・ソリューションでも、流行のマーケット・ソリューションでも、地場型中小建設業は生き残れないと、私は断言できるのですが、そんなことぐらい、彼らも承知しているはずです。

ジオさんのことばは、それがわからない方々への警告、もしくは宣戦布告なのだと理解しています。

それがわからない方々は、私のはなしに耳を傾けることもありません。そしてそのような方々がこの業界に多いことも重々承知しております。

ここまでは、私とジオさんの認識は一緒なのです。多分。

そしてちがうのは現政権がおこなう経済政策に対する見解の相違だと思うのです。

それは、現政権がおこなうサプライサイド政策に対する見解です。
ジオさんは、これを時代の必然、もしくは避けられない現実だと理解されるのだと思います。

私は、はっきり、過てる政策だといいます。

私の問題提起とは、公共工事がさまざまな問題を抱えているとしても、その、問題解決は、工事量を減らすことで、多くの方々が失業したりするような政策の下でないとできないことなのか?という疑問なのです。

多くの国民は、また景気対策のために公共工事をおこなったりしたら、既存の腐敗構造が温存されるだけだ、と考えているのだと思います。

でも、私はそうは思いません。
それは作られた民意だと理解しています。

→そこからミーム論を展開するわけです。


経済が安定している状況でこそ、「公共工事という産業」の構造改革、問題解決は本来行うべきものだと思っています。

サプライ・サイド政策はショック療法としては効果があるかと思いますが、長く続ければ、死ななくてすむ人々が死んでしまうだけです。

特に、私が金魚だという地場型中小建設業にとっては、です。

彼らに、今の状況でサプライ・サイダーが望むような、供給側の効率化を求めることはたいして意味のあることとは思えません。

公共工事が縮減される前では、ただ唖然として立ちすくむだけでしょう。

今の不況の原因は、需要の問題だと私は思っています。

しかし、竹中平蔵氏は、自らのプランをサプライ・サイドのものだと明言しています。
つまり、日本経済に非効率性が不況の原因だとし、日本経済をもっと効率的なものにしようとしています。

そして彼は、今おこなわれている改革は、最終的に需要サイド(消費)を改善するだろうとするのです。

消費者が経済の長期的な見通しが改善されたと理解すれば、財布の紐を緩めることになる、というのが彼の主張です。

さらに、規制緩和と民営化による改革が進むことによって、新しいビジネスが生まれ、それが設備投資も促進させる、とするのです。

これは無謀な政策でしかありません。
なぜなら、この政策に根拠など存在しないからです。

不況が長引いている経済では、失業した労働者は職を見つけることは困難です。
失業者は商品を買わなくなるでしょうし、経済はさらに悪化するしかないでしょう。

クルーグマンはこういいます。

『(竹中大臣のいうサプライ・サイド政策は)すなわち、効果を発揮するだろうという期待から取られた政策であって、効果を発揮すると信じられるような確固たる根拠があって取られた政策ではないのである。』(クルーグマン,2002,p216)

私のはなしの背景にはこのような理解があります。
そしてサプライ・サイド的な政策を批判しているわけです。

私も時間がないといいますが、それは、このサプライ・サイド的な政策が時間をなくしているだけだと思います。

ただ、それを生み出したのは「おごった」中小建設業と「公共工事という産業」に群がる方々(既得権益)だったことは否定しません。

「公共工事という産業」の構造改革は絶対に必要です。
それを私は否定するものではありません。

しかし、それには時間が必要なのも確かなのです。

私のいうIT化は、地場型中小建設業の構造改革の問題です。
その前提は、現政権がおこなうサプライサイド政策の影響を最小限にすることです。

→それを事業者団体ベースのIT化、自治体の公共建設政策としてのCALSという形でまとめたものが、熊本独演会資料なのです。

これが理解できていれば、経済政策と「公共工事という産業」の構造改革はトレード・オフの関係ではないと私は思うのです。


それから疑心暗鬼のはなしといえば、最近よく聞くはなしに、建設業界は他人の不幸を待ち望んでいる、というのがあります。

限られたパイの中では、金魚の数は少ないほうが自らの餌の取り分は確保しやすくなるというなんとやりきれないものがあります。

そう思う方々にとって、今の政策は喜ばしいものかもしれません。
でも、このような政策こそが疑心暗鬼を生み出してしまっているのではないでしょうか。

この国は、そんな卑しい考え方の方々しか生み出せないのでしょうか。

他人の不幸が嬉しくてしょうがないような方が経営をされる会社が、地域社会で生き残ったとしたら、「公共工事という問題」はなにも解決されていないことになるのではないでしょうか。私はそう思うのです。

今おこなわれている政策では、よい企業も悪い企業も区別はつかないのです。
生き残ったものがよい企業だという主張は、どのぐらい正当性を持つのでしょうか。

そしてその根拠とはなんでしょうか。


ジオさんからメールをいただいたおかげで、こんなに文章が書けるのです。
TDLへいくより元気がでてきましたね。

ありがとございます。

2002/09/03 (火)  
【金魚でごめんよ】

朝から頭が痛くて、午後から眠り続け午後5時に目覚めました。
今日も講演依頼の特異日らしく、沢山の講演依頼のメールをいただきました。

ありがとうございます。
できる限り対応させていただきます。

さて、今日のしめは、8月30日に書いたことをもう一度再掲して始まります。

『桃塾で私は、「コミュニティ・ソリューション」の秘密は「共感」だというはなしをしました。
それは、一度自分が「なにものでもない」ことを心の中に持たないことには理解できないでしょう、ということなのです。』

というフレーズですが、これは当然に受講生の皆様にいっていることばなのです。

つまり、中小建設業という業界の方々に対してです。
これはミーム論のことをいっています。

つまり、自らのミームを世間一般さまに伝えるにはどうしたらよいだろうか、というときの最初の自覚とは、中小建設業というのは「自助・自立」の存在ではないことを自覚することなのです。

はっきりといえば、世間さまと共生する存在でしかありません。

しかし、この理解は意外と難しいわけで、普段は地域と生きる「なんとか建設」とかいう割には、自分だけは「自助・自立」の存在だと思い込んでいるものです。

でも、自らが「なにものでもない」ということがわからないと、地域社会との「共感」も「コミットメント」も何もないのです。

ジオさんが最近のトピックス、「サイレントマジョリティの覚醒」でいっていることは、中小建設業が淘汰されることは経営者が淘汰されるだけで、従業者、つまり建設業で働く方々が淘汰されるわけではないということでしょうか。

それは地域の公共工事の必要性を否定するものではない、ということですね。
これも確かに一理あるのです。

この意見の支持者は以外に多くて、私もよく聞かされるはなしです。
そして、この意見の持ち主が発注者である自治体職員に意外と多いのも事実なのです。

それは「経営者」に対する不信であることは疑いもなく、そして「おごった」経営者が多かったことも事実であり、その原因なのでしょう。

しかし、そういう方々が本当にプロレスの悪役のように「悪」なのでしょうか、というのが今回の問題提起です。

プロレスの悪役は仕事で悪役をやっているわけで、根っからの悪人ではないはずです。

そして、「おごった」中小建設業の経営者もまた、根っからの悪人なのでしょうか。
彼らがそうしなくてはならなかったは、彼らが根っからの悪人だからでしょうか。

私が憂いているのは、土建屋のおやじ=悪人というこの単純化された図式なのです。
少なくとも、私の知る経営者の方々は、悪人ではありません。

彼らが悪人のように振舞うとしても、それは振舞う理由があるからです。
それは頻度依存行動にすぎないのです。

水戸黄門の世界と現実の世界が混同されていることこに混乱があります。

問題の本質はちがうところに存在しているはずです。
少なくとも多くの地場型中小建設業の経営者は権力者などではありません。

ただ、自らがそういうものだと錯覚していた、もしくは思い込んでいただけのはなしではないでしょうか。

そして、私は旧来のヒエラルキー・ソリューションを否定しています。
談合を肯定しても官製談合は否定します。

問題は背景にあるものだと思います。
公共工事の問題は中小建設業の行う頻度依存行動を意図的に利用したものです。

それを中小建設業だけを批判してもなんの問題解決にもならないはずです。
この問題に答えがあるとしたら、自ら変わることで、新たな頻度依存行動を展開していくことしかないのでは、というのが、私の今の考え方です。

ただ、「桃論」が難しいと批判されるように、この理解もとても難しいものかもしれません。
私は、とても簡単だと思ってはいますが。



【実るほど頭をたれる稲穂かな】

昨晩は群馬建協さんでの講演会、懇親会を終え、自宅に到着したのが夜の10時過ぎ。

講演の内容は、初めて聞かれる方々向けの最近の定番である「爆笑前橋寄席」。
面白くもやがて考え込んでいただければよろしいのでした。

帰宅後爆睡してしまったものですから、昨日いただいたメールへの返事がかけないでおりました。

さて、今朝一番のメールは、まにあ1号さまからでした。
タイムスタンプは午前4時。おひおひ、あなたさまは、いったいなにをやっているのでしょう。

かつて、私は
桃知さんを「師匠」と呼ぶことに誇りを覚え、
桃知さんから「弟子」と認められることを「熱望」しました。
今思うと恐ろしいことです。

桃知さんの弟子になるということは
「自分が何者であるか、実を持って知る」つまり、
@の右側から飛び出さなくてはいけない!・・・と
いうことです。
その深淵を垣間見てからは、「まにあ」という座に逃げ込んで
そう、本当に逃げ込んでいたんですね。

例えば、今私が銀行へ行けば(わずかばかりではありますが)
お金を貸してもらえるでしょう。
サラ金では、多分、喜んで貸してくれると思います。
それは、私という「人間・個人」ではなく、@の右側への信用です。
私から@の右側ドメインが外れたら、多分銀行はおろか
サラ金だって怪しいものです。
クレジットカードを維持することすら、多分危ういでしょうね。

でも、そんな中から「桃知商店」はスタートしました。
「それをやってみろ!」と桃知さんはおっしゃいます。
弟子になるということは、それを行うということです。

「スポイル・のメールの方」も今、そういう立場に
いらっしゃるということ。

そして、桃知さんはそういう立場にいたからこそ
「メールの方」の気持ちがわかるんだと思います。
私には「わかるような気がする」位でも、ひょっとしたら失礼かも
しれませんね。

ともかく、今の自分に出来ることを
自分の器を少しでも広げることと、本当の力をつけることを
(精一杯)やるしかないんだなと考えます。

元気出して生きましょう!!

私は、中小建設業には、地域社会とのソーシャル・キャピタルが決定的に足りないというのです。

それは、コミュニティ・ソリューションのいう、共感とコミットメントの蓄積です。

この共感とコミットメントが不足してしまう大きな理由は、「おごり」と「委任」なのだと思うのです。

しかし、自分自身の反省も含めていえば、

『おごれるものもまた久しからず』

でしかないのです。

亡くなった祖母に、子供の頃よく聞かされていたことば、

『実るほど頭をたれる稲穂かな』

が、共感とコミットメントの文脈に存在するものだと、実感としてわかるようになるまで、40年もかかっているわけですから、人(というより私)はしんどいものです。

もっと早くわかっているのなら、いろいろな失敗もしないで済んだかもしれません。

ところで、この共感とコミットメントを私に考えさせることとなったのは、ご存知の通り、アマルティア・センなのでした。

2000年11月18日に私は次のように書いたのです。

【潜在能力の自由】

昨日の【グローバル・パラドックス】に続いて、このHPを見て勉強しているという方々へのイマジネーションへの宣戦布告第弐弾。(^_-)

先月、とある行政の方々と任意の意見交換会(ようするに酒飲みだなぁ)をしたときのはなし。
「アマルティア・センとCALSってどこでどう結びつくんでしょうか」という質問があった。
(以下省略→以下の部分は200011月18日を読んでくださいね)

この時期は、私自身の転換期でした。
つまり単純な市場原理主義信者としてのCALS信奉者であることをやめたのです。

私はかつて建設業のISO9000's市場に群がる方々を軽蔑していました。

建設業におけるISO9000'sの効用については、もちろん今でも否定的なのですが、私はそこに仕事を求めている方々、たとえば審査員やコンサルタントの存在を否定することはなくなっています。

なぜなら、ISO9000's市場で、生活の糧を得ることができるのあれば、それもまたよし、だと思うのです。

失業しないことは、この時期にはとても大切なことです。

2002/09/02 (月)  
【スポイルされた人からのメール】

> たとえば、自助自立や自由化、競争という、米国流の表面だけを
> まねする方々は、自由化や競争の結果、スポイルさ れてだめに
> なった人をどうするかについてのケアをなにも考えていない場合が
> 多いのです。

今の社会では,米国流云々に限らず,スポイルされた人のケアなどなにも
考えれていません。それこそ,身ぐるみをはいで,すべてをむしり取っていく
ような方法しかされていません。

体裁では,社会には色々な再生方法があるようにいわれていますが,
その多くは,手足をもぎ,目をツブシ,千尋の谷から「さぁ〜あがってこい」と
やることと同じです。奇跡的に上がってきてもそれは何とか社会の底辺です。

そんな事が当たり前のようにまかり通っている社会システムが今更,競争に負けた
人に対してケアを真剣に考えられるわけがありません。

いま,日本では新たに挑戦しようとする人が少ないと聞きます。それは
こんなリスクの大きな社会で,挑戦して失敗すれば,二度と立ち上がれない
ようなシステムしか持っていないからです。

スポイルされた人は,色々な社会に対する制約が発生します。その問題数は
膨大ですし,そしてそれらの制約により,新たな制約が発生します。だから
ちょっとやそっとの事では「そこから」二度とは立ち上がれないのです。

今までの日本では,スポイルされる人は,まだ少なかったし,それが
社会問題化する恐れがなかったからかもしれません。しかし,それらに
胡座をかいてしまい,社会全体が師匠のおっしゃる「無責任な依存」よりもたら
された「ゆるみ」によって,未だにスポイルされた人に対するケアをどのように
すべきかすらも議論されていませんし,何も変わっていません。

グローバルで,リスクの大きい競争の時代に,安心(語弊もありますが)して
挑戦できるような社会システムの構築が早急に必要だと感じています。

私は自分の実力の無さから社会からスポイルされてしまいましたが,
まだ普通に社会に復帰することはゆるされません。反対に昨今の情報の
一般化がもたらされる弊害に苦しめられています。

日本の社会が成熟し,早く何度でもトライが出来る様な社会システムが
出来上がることに期待してやみません。

私は人間の基本というのは、自分を愛すること、つまり「自己愛」から始まるものだと思っています。

自らを愛せないことには、他人も愛せない。
自らが深い悲しみを感じられないことには、他人の痛みもわからない。

自己愛というと、「自助自立」の方々には、フロイトの心理学を根拠に、幼稚なものだというのでしょうが、それは本当に正しいのでしょか。

私はコフートのいう「成熟した依存関係論」のほうが普通だと思っている人なので、「人間は依存のもの」だというのです。

つまり「他力」です。
この理解が壊れてしまっていることで、この国の歪みが露出しているのだと思うのです。

考えさせられるメールです。
ありがとうございました。



【自助自立=覚悟】

今日は群馬建協さんで講演です。

この講演には、岐阜から、建設CALS/EC研修センターの森所長さまと、郡上建協の前田会長さまがおいでになって、それぞれにお話をしていただきます。

ですので、私のはなしは「岐阜県の中小建設業のIT化戦略の背景」ということにになります。

なので、テキストは熊本独演会資料なのでした。

と書いても、これ(↑)を読んでない人には、なにいっているかは、絶対にわからないでしょうね。

わからないということは、私がここでなにを言っているかもわからないというこなわけで、ん〜・・・なのですが、そういう方々に限って「わかったふり」をしているから、世の中は面白かったりするわけです。

私が一番嫌う人々は、「わかったふりをしている方々」なのです。
この方々の特徴は、実は自分の意見がないということです。

そういう方々のはなしというのは、どこからの借り物を下敷きにしていますので、メッキはすぐにはがれてしまいます。

でも、きまって自分はエリートだという鼻持ちならない意識が見え隠れしていますから、私はもうたまらないわけです。身の毛がよだちます。(笑)

それで、私はなるべくそういう方々には近づかないようにしているのですが、そういう方々に限って近づいてくるものだから、世の中は面白いわけです。

さて、怒りのまにあ1号からのメールを紹介しましょう。
この人の凄さは、自分は知らないということを知っていることです。

さて、
この一週間「官公需」について、無いアタマをフル回転で考えました。
井堀先生も読み返そうとしました。
Fさんも、ジオさんもきちんとした「理論」をお持ちなので、
それに「反論・・・じゃないですね、意見」をするためには「自身の理論武装」が
どうしても、必要だと考えました。
少し、時間が足りませんでしたね。まだまだ、自身の立場を整理して「文字」に
するのは修行も全然足りません。(笑)

(ばっさり)

つまり、「記者氏」の態度が、私には最初から「聞く耳」をもったモノとは思えない
のです。

(ばっさり)

>『「わかってない」とおこるんじゃなくて「わからせる努力が足りない」と
>反省しないといけないんですけど、まだまだですね。』

いや、確かにその通りなんです。これは私も耳が痛い。(笑)
でも、その前に
「人の話をまともに聞く耳を持っていない」者には、果たして「わからせる努力」を
する価値があるのか・・・・という問題です。

(ばっさい)

Fさんや、ジオさんには「まだまだ」と叱られるのを承知でも
どうしても、私には彼を許せませんね!

(ばっさり)ばかりでわかりにくいかもしれないけれども、こうして、考えることは心がよろこぶんじゃないでしょうか。

こういう問題を考えるということは哲学することなのだと思います。
それは、「社会とはどうあるべきか」という哲学です。

たとえば、自助自立や自由化、競争という、米国流の表面だけをまねする方々は、自由化や競争の結果、スポイルされてだめになった人をどうするかについてのケアをなにも考えていない場合が多いのです。

それは、自らにも起こりうる「不安」であるはずなのに、自分だけは大丈夫だと思っているのです。

いってみれば、彼らの自助自立への自信も、実は根の深い無責任な依存に頼っているのですが(この意味わかりますか?)、ここには、「社会とはどうあるべきか」という哲学する心がみえないのです。

ただ、私が「自助自立」男であるジオさんを尊敬しているのは、彼はすべてのリスクを背負う「覚悟」があるからですね。

問題から自分を切り離して、高みから野次をいう方々とは明らかに違うわけです。

私は「自助自立」は「覚悟」のあるなしだと思うのです。

2002/09/01 (日)  
【あとがき】

この土日は、ずっと「桃論」の面倒を見ていました。
大幅に書き直したところも多数あり、図表を整理し、今はなぜか「あとがき」を書いています。

でも、「はじめに」も「まとめ」もまだ書いていないのです。

中小建設業のIT化=環境×原理が、乗数であることの補足的な説明に時間がとられてしまったのです。この部分は大幅に書き直しましたので、前に比べると、少しはわかりやすくなったのではないかと思うのです。

ということで、今日は「あとがき」の書き出し部分(ここまでしか書いていない)を載せておしまいです。

あとがき

 本書のタイトルは『桃論』という不思議なものです。たぶん、このタイトルだけだと、桃の栽培方法の本か、なにか風俗業界の指南書と間違われてしまうかもしれませんので、サブタイトルをつけることにしました。この原稿を書いている段階では、サブタイトルはまだ決まっていませんが、エクスナレッジの私の担当者であるの近藤正さんが考えてくれた「中小建設業IT化サバイバル論―信頼の構築による淘汰から再生へ―」というような仰々しいものになるはずです。

 一介のIT屋に過ぎない私が、そのようなたいそうなタイトルの本を書くこととなった経緯はかなり複雑なものなのですが、IT屋の目からみた公共工事に依存した中小建設業がおこなうIT化は摩訶不思議なものでしかない、という思いがこの本を書く最大の推進エンジンのような気がします。

この後は、これから書くわけですね。
心底疲れました。

momo
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