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店主戯言040302 2004/3/16〜2004/3/31 "There goes talkin' MOMO"


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2004/03/31 (水)  
【(^o^)b ネ〜ス】

3月最終日、やたらとウイルスメールや迷惑メールが届く今日この頃、まあ、自宅のポストをみれば、ウイルスこそついてないけれども(とは断定できないが?)、なんだかわけのわからないチラシがいっぱいで、構造的にはインターネットも実社会も、基底は同じなのね、と呆れてはいる。

さて、今日のわたしは、空知建協さまのIT委員会出席のため、北海道へと飛ぶので、例によって朝はウルトラ忙しい。


忙しいときは、鱸さま頼り、である。

 鱸です。

> じゃ、誰にとっても正しい定規なんてあるのか?
>
 算数では「可測空間」なんていう言い方をしますが、 いっちょもわかっておりません。

 山岸先生とのPD直後にも話題としましたが・・
 小生にもわかる「計量手法」を御紹介いただけること 期待しております。

 「ものさし」の話ですが・・・ 竹内佐和子さんの「新・日本型経営指標」提案にも出てきます。
竹内さんは、例のMOTにおいて「投資工学」と名づけた分野を昨年から講義をされているとの事。
 http://www.takeuchi-sawako.com/005_d01.pdf

 #やはり、計量できないといけませんよね。


さてと、「例のMOT」(MOT:Management of Technology)という「ことば」がでてくるけれども、たぶん鱸さんとのDMで使った「ことば」なので、このサイトでは初登場じゃなかろうか。

まあ、これはWebを検索すればいろいろ出てくるだろうから、理解は皆さんにお任せ。

それから、竹内佐和子さんのpdfの中に出てくる、CSRとSRIという「ことば」も、たぶんひっかかるだろう。


ということで、うちにある MOTとCSRとSRI がみんな出てくる「本」といえば・・・たぶんこれしかない。(^^ゞ
(ほかにもあるかもしれないが、そんなものいちいち探しちゃいられない)


cover 『GOODNESS』―「良い」会社になる 「良い」会社にする


日本プラントメンテナンス協会(編)
田坂広志他(著)

2004年1月20日
日本プラントメンテナンス協会
1,800円(税別・・・って来月からは税込み表示か・・・)




CSR(Corporate Social Responsibility)は企業の社会的責任、SRI(Socially Responsible Investment)である。

SRIはあまりなじみがないものなのだけれども、企業の社会的責任に着目した投資活動のことである。

例えば、米国では、キリスト教の倫理観に根ざして、協会の資金運用において、社会性・倫理性に反する企業への投資はすべきではない、という考え方からこれが始まっている、そうだ。

まあ、CSRをものさしとした企業格付けのひとつの方法である。

しかしだ、そもそも定義の難しいCSRを「ものさし」にするとはどういうことなのか?を考えないといけない。

つまり、「こういう企業が良い企業である」という「ものさし」がないとSRI も機能しえないわけだが、「こういう企業が良い企業である」ということを、本当は企業の経営者、社員が自分で考えないと意味がないのである。(じゃないと、CSRに根ざした活動、投資は、企業の価値創造と結びつくことはないだろう)


『GOODNESS』に出ている、三菱総合研究所の「考える」SRI 評価基準は、雇用、消費者対応、環境、市民社会貢献の4ファクターを評価項目として設定し、それに、横断的に倫理的な基準や行動規範の遵守・情報公開といったものをベースとして織り込む、らしい・・・。

のだが、竹内先生ご指摘のように、『これら一連の指標は、企業の潜在的な力を顕在化させる試みではあるが、不特定多数の人々の判断が入りやすいため、経営へのインパクトは限られる。また外部評価のウェイトが高すぎる点にやや難がある。』

なわけで、これについては、皆さん、『正しい定規はどこだろうってあれこれ探してまわっているうちは、それは見つからない。』(池田)と思ったほうが良いのである。(なにせ竹内先生のもまだ案)


だから、『考えることこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかった時に、君は自由に考え始めることになるんだ。』(池田)を実践しなくちゃいけない、と「考える」わけで、だから、「わからないという方法」なのである。(笑)


それから、『GOODNESS』という本は、たしかにつまらない部分もあるけれども、最初の田坂広志の書いた、『企業の「社会貢献」とはなにか―経営者に求められる十の視点―』だけは十分に読む価値があるので、興味のある方はどうぞ。

2004/03/30 (火)  
【定規と自由】

昨日の帰り、名古屋駅で福井俊彦第29代日本銀行総裁をお見かけした。
なんだか、お札の輪転機が歩いているのをみているようで、わたしは無性にうれしかったりした。

以外だったのは、日銀総裁といっても、お供ひとりだけ(秘書さんだろうか)で、テクテクとホームを歩いておられたことだ。

日銀総裁といっても、別に、政治的な発言をするわけでもないので、SPとかはいらないのか、とくだらないことを考えていた。


このところ、体調がよくない。
風邪のような症状である。

最初は鼻水に悩まされ、ここのところ喉が痛む。
微熱が続いていて、脳味噌もいまいちはっきりとしない。

免疫力が落ちているような感じかな。


『14歳からの哲学』から「考える」についてのメモ

生きていることは素晴らしいと思っているか。

A1・素晴らしい
A2・つまらない
A3・よくわからない

P1・生きていることは素晴らしいと思っている人にとっては、生きていることは素晴らしい。→そう思っているから

P2・生きていることはつまらないと思っている人にとっては、生きていることはつまらない。→そう思っているから

生きていることが素晴らしいとか、つまらなかったりするのは、自分がそう思っているから。

つまり「自分が・思う」

「自分が・思う」ことの対立するもの同士対立は、つまり、この場合、素晴らしい派とつまらない派の意見の対立は水掛け論に終始するだろう。

なぜなら「自分が・思う」ことだから。

自分が思っていることを人にいう。
→自分が思っていることが正しいと思っているから。

そして、「よくわからない」派の意見。
「個人の自由でいろんな意見があっていいと思います」

「自由」?
自分の思っていることをしっかりと人に言えること?


では、ただ自分で思っているのであれば、その思っていることが、本当は、素晴らしいことなのか、つまらないことなのか、と知りたくはないかい?

そのことを知りたいと思う衝動(きづき)。

それにきがつくということ。
→「ただ思う」から「考える」の始まり。

「自分が思う」ということは、いったいどういうことなのかへのきづき。
→「考える」ことの始まり。

「本当にそう思う」≠「本当にそうである」

でも、本当に正しいことなんて、どうやったらわかるの?

「定規」(笑)

だれもが「定規」を持っている。
問題はその「定規」なの。

『自分が思っているのだから正しいと思っている人は、自分ひとりだけの定規、自分ひとりだけの目盛りを使って、すべてが正しく計れると思っているようなものだ。』

『各人がそういうてんでばらばらな定規を持って、お互いを計り合い、それが自由だと主張し合っているようなものなんだ。でも、正しく計ることのできないそんな定規を使って生きるなら、間違ってばかりのはずじゃないか。』


じゃ、誰にとっても正しい定規なんてあるのか?

『あるんだ。どこに?君が、考えれば、必ず見つかるんだ。正しい定規はどこだろうってあれこれ探してまわっているうちは、それは見つからない。考えることこそが、全世界を計る正しい定規になるのだとわかった時に、君は自由に考え始めることになるんだ。こんな自由って、他にあるだろうか。』(池田晶子,p17)

だからといって、自分の持っている定規が正しんだ、と思われた方がたくさんおられるだろうが、そうは問屋がおろさないのである。(笑)

続きは明日。


『人間は,自由を求める動物,より詳しくいえば,自由を永遠の相の下での理想状態を求める努力と理解して,自由を追求していく動物である。それは幸せの追求とは必ずしも同じではない。自由主義とは,このような努力を支え,促すような社会制度を擁護しようとする思想である。』(村上泰亮)

2004/03/29 (月)  
【取り急ぎ・・・】

今朝は忙しいく、ばたばたとしている状態なのである。
これから岐阜県建築士事務所協会さま迄お出かけ、なのだ。

ところで、クリちゃんから連絡のあった、ソウルフルなイベント http://www.1101.com/event2004_info/index.html だけれども、どうしようか?と悩んではいた。

前日(15日)は、北海道は深川にて「葉月桃塾」なのである(前日は鹿児島県は阿久根市にいる予定だし・・・)。

東京へ帰るのは当然に16日(日)となる。

この肝心の5月16日(日)、といえば、浅草は三社祭の日ではないかい・・・。

とりあえずチケットは購入しておいて、その日の雰囲気で決めるか、とか。
東京においでになっている方々で一献しようか、とか(浅草ではたぶん無理だけれども)とか。

悩みは尽きず・・・。と悩んでいるような時間は今朝はない。
なので、ほな、股、と。

2004/03/28 (日)  
【今日はご夫婦で】

風邪をひいた様で、いやな咳がつづいている。

かなり気を使いながら生活をしているつもり(多くの方々はバカいってんじゃないよ、というだろうが)なのだが、具合の悪いときはしょうがないじゃないか、と開き直っている日曜日、わたしは今日は留守番をしながら、細か〜い仕事をするのである。


さて、3月24日の戯言へのリプライである。
工藤さんありがとう。

 工藤@盛岡です。

 読みの深さが、足りなかったです。結果に対しての理由付けができるということだけですね、ベクトルは。

>つまり、y=ax は、情報受信者としての他者を理解するよりも、情報発信者としての自己を知るにより有効なのだと思う。

 他人に対しては、実行する事により a=y/x にて、相手の「a」がわかる事、自分の「a」とを比較する事により、自分自身の発信能力「x」を調整する事ができる可能性がある。 

 ・・・その先は、まだよくわからない、もう一回、読み直します。

確かに、y=ax から、a=y/xとすると、おっしゃるとおりの展開になりそうなのだが、これもまた単純には割り切れない問題があるわけだ。

それは、そもそも自分の係数 a とは、どのようなものなのか、そしてどの程度のものかを、メトリック的に把握する方法なんてあるのだろうか、ということだ。

つまり、わたしの仮説である 自分の係数a = 社会的知性 = キャパシティ = 
マリアビリティは、なにかのものさしをもって計測可能なのだろうか、ということなのだが、それが「知識の範疇」であれば、まあ、確かに、入学試験や資格試験などは、知識を計るメトリックだろうし、可能なのかもしれない。

しかし、今、我われが考察し続けているのは、その知識レベルのものが、「能力の信頼」の担保に過ぎず、「意図に対する信頼」の担保足りえてない、という結果(例えば山岸先生)をふまえてのものなのであり、つまり、わたしのいうIT化も、「意図に対する信頼」>「能力の信頼」を前面に押し出して考えらるものとなっている。


だからといって、「能力に対する信頼」が不要だといっているわけでは勿論ない。

このふたつの信頼は、己が、ある社会(種)において、自己実現、自己超越を達成しようとする時の、両輪であることには違いない。

ただ、「能力に対する信頼」は、己の属するより小さな種に大きく依存するものであるだろう、ということだ。

例えば、ある職業的社会(種)においては、英語を喋る能力は不可欠なものなのかも知れないが、ある職業的社会(種)においては、英語は喋らなくてよいから、重機を操作できる能力は必要だ、というようなものである。

つまり、種という概念を持ち込むと、「能力に対する信頼」は超越論的な絶対的真価ではなく、あくまでも「ある種」の存在を前提とした、移ろい易いものであることがわかる。

もっとわかりやすくいえば、「公共工事という産業」(これも種である)が縮小していけば、一級土木施工管理技士という「能力に対する信頼」の価値は暴落するだけだろう、ということだ。

つまり、普遍性でいえば、「意図に対する信頼」>「能力に対する信頼」なのだと思う。

なぜなら、「意図に対する信頼」とは、「能力に対する信頼」を要求する種の常に上位に存在する種(例えば日本という種)、若しくは類(例えば、人類)において、より普遍的に機能するものだからである。

であれば、我われは、如何にして「意図に対する信頼」を自らのものにできるのだろうか、と考えるとき、それが己のリアリティ(具体的には「職業」でしかないだろう)を通じた、「反省」の行為というself reference(自己言及)につながりいくのだろうと思う。

そのとき、己の係数a を自覚できる方法とはなんだろう。

わたしの場合、それは、今まで知らなかった、見えなかった、感じられなかったものがここにあった、という発見と、そして、それをもっと知りたいと思う、押さえ切れない衝動を自覚できることだ、と感じている。


では、つづけて奥様より。

 岩手県のみるきい こと工藤○○の家内でございますm(_ _)m

 みなさんがまじめなメールを送られる中、さもない内容ではございますが岩手県民の一部??に動揺が走る大事件が起こりましたのでご報告します。

 みちプロが本社を仙台に移転するそうです。
 昨年の県議選で選挙事務所に使った盛岡市郊外にある練習所や合宿所も建てたばかりなのに、それも移すそうで・・・仙台の方が営業的にも集客的にも有利だから、という事のようですが、岩手県民のファンは「あのおんぼろ小屋の事務所の時から応援していたのに納得いかない」という気持ちです。

 新崎人生社長になってから、どうもメジャー志向というかみちプロが当初目指していた「ルチャ」とは方向性の違う選手を呼ぶようになったり(10周年や営業的なものが多々あるとはおもいますが)ファンの側からみると「地元密着」と離れてると感じる様になったのが気になります。

 サスケ会長は岩手県議なのでもちろん盛岡住まいのままですが(ご子息 のアンドレス君も盛岡市内の高校に入りますし)みちプロとサスケ会長の今後が気になります(;_;)

仙台も陸奥だから、みちプロには違いないのだろう。
けれど、たしかに、仙台ではなにか違和感があるのも確かだ。

わたしのように、生活の基盤がどこにあるのかはっきりしないようなものでも、旅先でみちプロのポスターをみかければ(この前は高知でみかけた)、岩手の皆さんのことを思い出す。

そいうい意味では、みちプロのポスターというのは、岩手や盛岡、というシニフィエと結びつく、シニフィアンとして見事に機能しているなぁ、とは感じているわけだ。


ただ、「種の理論」からみれば (^^ゞ おいおい・・・、プロレス団体ほど、動的で内部矛盾を抱えながら存在している種もないわけで(そもそもプロレスというジャンル = 種は、内部矛盾の塊のようなもの、つまり種に属しながら種から逸脱しようとする個の集まり)、その動的な力学的なダイナミズム(つまり、カタルシス提供者としての自己分裂)こそプロレスだ、とわたしは思うのだ。

なので、できれば、上野(今や陸奥の玄関である)に本社を構え、盛岡と仙台に営業所を申し訳程度に置き、みちのくプロレスと名乗るような、そういう立派なプロレス団体になってもらいたいと、わたしなんぞは思うのである(無責任)。★\(^^;

2004/03/27 (土)  
【花見というか休みながら仕事をしている日】

今日はといえば、午前中、サイボウズのバージョンアップに伴う自習用テキストを、岐阜県建築士事務所協会さまのために作成し、PDFで納品。

午後からは、上野に出かけて簡易な花見をしてきた。

桜(はな)は五分咲きというところか、そしてまずまずの人出、暖かいということは、それだけでも人の心を軽くしてくれる。

ということで、これからスカパーでK-1を観戦し、『フィロソフィア・ヤポニカ』 を読み(この本が少しでも読めるようになれることは、とてもうれしいのだ)、そして事務的仕事をこなしていくという、なんともハイブリッドな生活をするのである。

2004/03/26 (金)  
【まだ哲学で遊んでいたのだった】

今日は無理やりつくった自宅で仕事の日である。

これだけ移動を続けていたら、いくらわたしが丈夫だろうが、体がもつわけはないわけで、ここらで一服、移動なしの日を3日続けて確保してみたわけだ(勿論、休みではなく、仕事はするのだし、来客もあるが・・・)。


14歳からの哲学 『14歳からの哲学』 ―考えるための教科書―.

池田晶子(著)

2003年3月20日
トランスビュー
1,200円(税別)






昨日の移動の間、池田晶子のベストセラー(?)を読んでいた。

『14歳からの哲学』というと、子どもの読み物かと思うだろうが、失われた20年(つまり「考えること」を放棄していた時代)を経験してきたわたしにとっては、ウルトラ刺激的なものであった。

つまり、ほんとにこんなの14歳が読むのか、読んでいたら凄い!未来は明るい!と思ってしまうのである。

「なんのために生きているのだろう」という問いに、あなたならなんて答えるのだろうか?

「なんのために仕事をしているの」という問いに、あなたなら、いったいどう答えるのだろうか?

そんなことをまじめに考えているやつはバカだ、というあなたこそバカなのかもしれないのだ。(笑)


たぶん、今という時代の下品(げぼん)さは、わたしのような失われた何年かを過ごしている、そのわりには外見ばかり気にして中身のさっぱりない(考えない)下品(げひん)な方々ばかりだからじゃないのか、とさえ思ってしまった。(まあ、それが専門分化のなれの果てなのだろうが・・・ :-P )

この本は、14歳ばかりではなく、なんだかわからない人生に翻弄され(ていると思い込み)、考えることを忘れた大人たちにこそ、「考えること」をあきらめない勇気をくれるのかもしれない。一読をお薦めしたい。


と、ここまで褒めておいて、後はわたしの感じた違和感を少々。

池田の哲学は、精神の存在を優先してしまうので、どうしても、自分自身に常につきまとう身体の存在が希薄になってしまうように感じた。

わたしは、わたしとは身体を伴う精神と感情だとして考えている。
リアリティの把握には身体的な距離はどうしても必要なのだ。

ドレイファスがいっているように、『物事を理解し、関連するものを見極める能力、物事の重大さを理解し、技能を獲得する能力、事物のリアリティの感覚と他者への信頼、そして最後に、われわれの人生に意味を与える無条件のコミットメントを生み出す能力にとって、身体は、決定的な役割をはたしているのである。』(ドレイファス,2002年,p119)

これも一理ある、と思うのである。

cover 『インターネットについて』 ―哲額的考察―

ヒューバート・L・ドレイファス(著)
石原孝二(訳)
2002年2月28日
産業図書
2000円(税別)






わたしの最近の関心事は、体が覚えるものの不思議である。
例えば自転車の乗り方、タッチタイピング。
最近つくづく感じている北海道の方々の雪道の運転のうまさ。

等々、数え上げたらきりがないだろう。
そんなもの精神じゃ説明がつかないじゃないか。ねぇ、と思うのだ。

まあ、精神が伴うのは確かだろうが。(笑)

2004/03/25 (木)  
【本日は岐阜日帰り】

(財)建設物価調査会さま発行の季刊建築コスト情報 2004年春号に、わたしの書いている『中小建設業事業者団体ベースのIT化(2)』が掲載されたので、この本を会社で購入されている方は、是非にご覧になっていただければと思うのだ。

今回は、IT化とはなにか、についての記述であり、『桃論』後では、一番まとまった形で、IT化概念が提示されているかとは思う。

この本、個人で買うような代物ではないけれども、興味のある方は、建設Naviから注文してください。(って、4,600円、わたしの頁は6枚だけ・・・:-P)


昨日まで、岩見沢建設業協会さまで、事業者団体ベースのIT化のお手伝いをしてきたのだが、事業者団体ベースのIT化とは、事業者団体のIT化と会員企業のIT化を両輪とした活動である必要を実感している。

それは、類−種−個の関係性の理論である「種の理論」(『フィロソフィア・ヤポニカ』)がなんとなくわかるようになるにつれて、実践に理論がついてきているような感覚なのだけれども。

まあ、会員企業のIT化が行われないことには、事業者団体ベースのIT化も閉塞してしまうだろう、ということが理論的にわかってきた、ということである。

つまり、たいしたことではないのだが、このふたつの両輪が、具体的にどのような動きをすべきなのかが、かなりうはっきりした輪郭をもってきているのは確かなのだ。

そのキーワードは「ハイブリッド」なのだが長谷川さまのメールより読み取って欲しい。

昨日の店主戯言、私の転載メールの言葉について
先生、私は一番大切なところで大切な字を間違えていました。
薄い紐帯を→薄い靱帯と書いてしまいました。
これってビックリです、私のロムはどうなっていたのか?
でも「ちゅうたい」がいつの間にか「じんたい」に変わっていた自分にはもう可笑しくってしょうがありません。
ミスタイプでなく「じんたい」と打ったところが大汗ものでした。

昨日、砂子組の熊谷さまと近藤さまから
当社の現場PPTを見た感想のメールをいただきました。
で、さっそく感想メールを公開、サイボウズに転載をしました。
私達は率直な感想は大歓迎です。
プレゼンでは大先輩の砂子組さまから感想、とても勉強になります。
広くて薄い紐帯・・・今という時代に頭が下がり心から感謝いたしました。

先生、昨日、○○作業所の竣工検査が無事終了。
ついに竣工プレゼンもやりました。
○○土木事務所の方、ほとんどが集合の状態でPPTを披露しました。

「凄いね、平和建設は、こんなことまでやっちゃうの?」
「これが電子納品、驚くね、音楽もあるの、時代は変わるね。」
「舗装キレイだね、でもあの歩道の脇、あそこの工事も出すべきだったよ。」
「プロに頼んだの?高かったでしょう?」
「おおお〜!アップだよ。」知った顔、監督官が出てくると大歓声。
「楽しかったよ、ありがとう!」課長から感謝の言葉も。

終わった時は皆さんからパチパチ・・パチパチと拍手が湧きました。
今回の試みはうちも初めて役所も初めてのことでしたからその反応は大きく、役所からの感想は驚くほどたくさんありました。
感想のほとんどは工事の内容がどうだとかを超えていました。

工事内容をPPTで見せること、PPTに音楽や動画や映像を入れて作ること、そのことに大きな興味を示していました。

珍しい物を面白そうに楽しそうに何だ何だと言って、でも全員がシーンとして熱心に見て聞いていたというのがこの度の竣工プレゼンの事実でした。

私は後から聞こえてくる感想を聞いているだけで感動してしまいましたよ。
先生、これはホントに作って良かった、見せて良かったと思いました。
私達にはとっても大きな励みになるものなのですね。

今まで知らなかった世界に私達を導いてくれた桃知先生
ありがとうございました、私達は心から感謝を申し上げます。

今日は朝から活気づいている平和建設です。
ではまた、感謝を一杯込めて、先生ごきげんよう!!

ここでいわれているPPTとはハイブリッドなのである。
そして、このメールのsubjectは「活気づく平和建設」なのであった。
素晴らしいじゃないか!


ハイブリッドについては、最近の話(このサイト&講演)の中でちらりと出てくる程度で、それこそPPTを使って説明するようなことはしていないのだが、たぶん、4月以降の講演では、わたしの使うPPTもかなり変化しいているだろう、と自分では思っているわけだ。(ハイブリッドの概念が入り込む)

まあ、いつ新しいPPTを作るのだ、というのは、強烈な問題として残ってはいるのだが・・・。(笑)

ということで、今日のわたしは岐阜県建築士事務所協会さまで、システム関係の仕事。日帰りである。

2004/03/24 (水)  
【表現者としてのわたしと 係数 a の理解 】

岩見沢で二日目の朝を迎えた。
岩見沢はは、この二日間とてもよい天候に恵まれていて、とても気持ちよく毎日を過ごすことができている。


盛岡の工藤さまより。

 関連HPも含めて、1次関数がよく出てくるなと思いつつ、「バカの壁」をやっと読みました。 そういう意味だったんですね・・・・出遅れてしまいました。同じインプットでも反対の方向(マイナス)の結果を出す方がいるという解釈は、なるほどと思いました。 ただ、私のまわりには、それだけでは解釈できない方がいます。

 例えば、私が一連の新しい情報を報告するとします。 「1があって、2になって、それから3になります」

 ところが、話を最後まで聞かず、「これは2だから、22だ!!」という方がいます。マイナスとは言い難いです。  プラス、マイナスだと1次元のベクトルですが、2次元のベクトルだと説明可能ではないでしょうか?

例の y=ax の一次方程式は、一次で十分なのだと思う。
これはある意味、人の行動の同型写像(数学のことばです)であって、実にきれいな方程式だと思う。

要は、係数 a の違いから、出力 y の違いも導かれる。係数 a が同じであれば、情報 x の違いで出力 y も異なる、というだけのはなしであって、出力 y がどこに向かうのかは、そもそも解析できないし、する必要もないのだろう。

例えば、x=立川談志演じる「らくだ」を聞いた

y= 感動した人もいれば、今日のできはよくなかったな、と思う人もいれば、そもそもなんだかわからない、眠ってしまった・・・等々。

つまり、情報は同じなのに、それぞれの客は(たぶん)感じ方や行動が違うだろう。

これは「違って当たり前」だと考えた方がよい、ということだ。
(だから「はなしてもわからなないこともある」)

それは、情報 x が同じであれば、つまりは係数 a の違いが原因なのだ、といっているだけで、その係数 a を「バカの壁」は「現実の重み」といっていたはずだ。

わたしをそれを「キャパシティ」と呼び、山岸先生のことばだと「社会的知性」となるのだろうと、解釈している。

この視座をもてれば、次のことがらがおのずと導かれるだろう。

 1.自分自身の係数 a はどうなっているのだろうという疑問(情報を見る能力=信頼)
 2.自分自身が情報 x の発信者であるときの情報 x の質(情報を発信する能力=信頼性)

そして、
 3.自分自身の係数 a と、情報 x の関係 (信頼と信頼性=社会的知性・キャパシティ)

だから、自分自身が情報 x の発信である場合大切なのは相手の出力 y をみて批判することではなく、その前対象としての係数 a を意識して、むしろ係数 a に働きかけのできる情報を発信する、ということなのだ、とわたしは理解している。

これが空知建協と熊建人吉支部のIT化の目的とする 人のこころを動かすIT化の意味である。(笑)

つまり、y=ax は、情報受信者としての他者を理解するよりも、情報発信者としての自己を知るにより有効なのだと思う。

ここにシニフィアン、芸としての表現能力を磨く必要を、(わたし自身は)感じているし、最近のわたしの興味の対象である、は〜い!ぶりっど(ハイブリッド)もこの文脈にある。

勿論、わたしのいうIT化はこの文脈に存在しているわけで、つまりは、自分自身の係数 a と、情報 x の関係 (信頼と信頼性=社会的知性・キャパシティ)は、「共進化」するのだとすれば、それは如何にして可能なのかを考え続けているわけだ、と。


そしてもうひとつ大切な視点があるとすれば、それは他の人の係数 a をみる(観察する)とき、自分自身の視点の位置(視座)はどこにあるのかを、きちんと認識することだろう、と思う。

つまり、係数 a とは、その方の持っている制度(仮定)の集合体のようなものであって、その方が属する「種」の領域がもつ制度(そのカテゴリ内で「真」とされているもの)で形成されている、と考えている。

であれば、わたしとまったく違った考え方をしていようとも、その方が属する「種」の領域では、真なのだ、ということもある、ということである。

つまり、要は立場の違いなのである。

であれば、この対立の図式はずっと平行線なのか、といえばそうではなくて、(表現者としてのわたしは)ここで、わたしとわたしと違う係数 a を持つ方々とが共に所属するであろう「種」を探すのである。(たぶんそれは上位に属する「種」である)

その共通する「種」にある制度が、共感を生みだすのだろう。

・・・と、最近の学習の成果で書いてみました(笑)。

2004/03/23 (火)  
【表現者としての自分(苦労の押し売り屋としての自分)】

桃知@岩見沢で目覚めるが、体中が脂っぽい。
三船から始まり、雷電食堂で終わるいつものパターンでは、尿酸値&コレステロール値は限りなく高まる。

さて、昨日の予告どおり、まずは、長谷川さまのメールからはじめよう。

「店主戯言」に反応してその2

うちが好むと好まざるとに係わらず、サイボウズを導入してからインターネットの文化が会社に入ってきました。そしてうちの現場の情報は瞬時に北海道にまで飛んでいきました。

この広くて薄い靭帯(桃知先生曰く)の係わりに耐えていける強さをうちの会社は持っているのだろうか?

この問いは、これからの会社の方向性(IT化)を考えた時クリアしなくてはいけない最大の課題だと考えています。

昨年6月から、桃知先生に背中押されてここまできたけれども初めて経験することは何でもが楽しかったのです、ワクワクでした。

うちにとって、サイボウズは最高に新鮮でした。進捗がまだまだということには、次のステップが、期待感がありました。間違えてもなんのその、初めての事には何でもOKという救いがありとにかく行け行け、と皆で進んで掲示板にはなんでも書き込みました。

けれども、知ってくると少し恐くなることも実感しました。それはいろいろなことも含めてなのですけれども。

経験が糧にならないなんて、情けないことだと自覚しています。体験から学習出来ないなんて、自己嫌悪におちいってしまいます。これは元気が無くなった時の私自身の気持ちでした。

最近、日を追うごとにいろいろな責任を改めて全身で感じてきました。発言する責任(言葉を語る)、行動する責任、考える責任、経営者としての責任、社会的責任、その数は上げれば諸々、きりがないほどたくさんあります。

インターネットの本質はオープン文化ですから当然なのですがさらされることを恐れていては、一歩も前に進めないのですよね。でも、「さぁ、どうだ」ともホントはまだ胸を張れないかもしれません。今はまだ、自信がないもの、会社の売りは?コアは?う〜ん、まだまだかな、わからないから答えられないのです。

ただ動いているだけでは、ウロウロしているだけですよね。他人から見たら、忙しそうだなとあっさりと切り捨てられそうです。

でもいつか、やがて、きっとそのうちにと心の中には希望の芽はしっかりと膨らんでいるのです。夢を明日に繋げられるような行動を今は耐えて続けてみようと思っています。

いつか、広くて薄い関係の人々と信頼を築けるように人を感動させることが出来るように、近づきたいと思われるように魅力的な建設会社に進化したいと願っています。

これからも、仕事にも自分の人生にも問うことを続け、二度とは帰って来ない今日という日を大切にして、答えはないかもしれないけれども自分では答えを見つけたい、見つけられるような行動をしたいと思っているのです。

近い将来、会社のHPを立ち上げて、現場のHPも、社員のHPも作れば、それこそ「まるごと平和建設」が誰からもよく見えるのです。さらけだして強く、打たれて強く、ありたいと思います。

以上、情緒的なメールで失礼をいたしました。先生のコンサルテーションの一環から、夫夫夫(←これはふふふです。)・・・練習なのです。(笑自分を語る方法を探しているのです。

では、先生、ごきげんよう。


熊谷@砂子組さまより。

 平和建設さまのPPTは、まだ拝見していませんが、初めてPPTを作成された平和建設さまの行動と想いに驚いています。

1現場のPPT作成に対し全社的に取り組まれ、出来上がった平和建設PPT処女作に対しても、自社の足元から反省と今後の課題を、これまた全社的に取り組まれている。

この全社的に取り組めるミームが「すっばらしい!」の一言です。
(なかなかできることではない。)

『このPPTを作成する過程は、担当された方にとっては、とても素晴らしい自己超越(反省)の時間だったと思われます。』
(↑)桃知師匠が言われたこと。 実感でございます。


現場PPTを作成したことのある方々は、必ず気が付く項目がいくつかあるはすです。
 ・ 着工から竣工までを振り返ることができる。
 ・ あの時こうしておけばよかったなぁ。という反省が見えてくる。
 ・ 実際にやったことしか表現できない。(ウソは作れない)
 ・ 現場ポイント(問題点など)の把握と対応の甘さが見えてくる。
 ・ 現場を完成するだけではPPTにドラマは生まれない。
 ・ PPT作成がとても楽しい。

などを感じるものです。そうすると当然反省を踏まえて、次回は「こうしよう。ああしよう。」と発想できるものなのです。

勘違いしていけないことは、PPTは現場のコアではありません。
現場あってのPPTなのです。PPTを使って現場をシンプルに表現し相手に伝えることのできる格好の道具だと思っています。
シンプル=プロの仕事

プロの仕事には、遊び心を持って楽しめることも必要だと思います。
シンプルさの中に遊び心を持って自分自身も楽しむ。
自分が楽しめないものは、人にも伝わりにくいものだと思います。
それが現場IT化の意味するところだと思うのです。

PPTを使い、シンプルに現場を表現することが、全国に広がってほしいと思っております。


法政大学エクステンションカレッジ受講させていただきます。

今からワクワクしています。

今日「反古典の政治経済学要綱」を、読み始めましたが、

まえがきから読めない漢字が2つ程ありました。(笑)

がんばります!!


ということで、ここではわたしのコメントはなし。
代わりに鱸さまより。

さて、本日+昨日の戯言から・・・

 ももさんは「哲学」への関心を高めたとの事ですが・・ 小生は「心理学」です。

 これといって御紹介する文献をあげることはできませんが、 ハーバード大や一橋大などが刊行するビジネス本でしょうか?
 こういった本の行間から 心理学に絡めた内容を読み取ろうとしているこの頃です。  
 #問題は・・・ 小生の頭が、教養部時代にとった「数十年前の」心理学から進歩していないことです。なので、読みきれませんねぇ。

 長谷川社長メールから、

> PPTは施工前からテーマとシナリオを決めて現場の進捗と共に製作にあたらないといいものは出来ないとの意見が多数でした。

 PPT制作に絡めたお話ですが、PPTを制作することが本来業務では ありません。とはいえ、弊社でいえば、工場の製造ラインの方々が40年?前からはじめていた「QC活動」の成果発表準備を連想しました。

 その当時は、模造紙やOHPによる発表でしたが、自分たちの努力・工夫の成果を関係者に向けてプレゼンする過程で「知恵の交換」をしていたのです。

 施工を担当される立場の方々にとってのQC活動、言い変えですが・・ 施工を開始する前に受注工事のテーマを決め(課題抽出の成果)、シナリオを 描き(課題克服のための工夫出しと脚本の作成=計画)、実行過程での見直し (シナリオのままで進行できるはずがありませんから・・)、最後のクロージング (課題克服・達成度の評価、次なる案件へつなげる何らかの整理・・)といった 一連のイベントを通して訓練が行われるものと考えます。

 皆様にとって「これまでも行っていた事柄」のはずですが、 今までよりも 「意識して取り組む」ことによって、一層の効果(お互いを高めあう)を発揮 するものと思います。

 でわ、股!!

鱸さまの意見にあるQCの枠内で考えてしまうと、シニフィアンとしてのPPTは「社内的」な品質管理の枠の中に収まってしまい、つまらないと思う。(鱸様はご承知の上だろうが)

わたし達がやろうとしていることは、「公共工事という産業」という枠を超えた部分(それを「顧客」と称するのか・・・ :-P)に対してシニフィアンとしてのプレゼンテーションを行うことを、最初から意識して「現場」の施工を行う、ということだ。

これはQMSが内部的に隠密に行われるのとは、また違う効果を「現場」にもたらすのではないかと考えている。

つまり、最初から立つ視点(最近のわたしの流行語では、これを「制度」というのだ)が違うのである。

ただこれさえ一朝一夕にできるものではない。

とすれば、鱸さんのご指摘の内部的なことから初めてみるのも良いだろう。
イントラネットも所詮似たようなものである。

問題は、表現者としての自分(もしくは、苦労の押し売り屋としての自分)、つまり「芸」を鍛える、という必要を自分自身が理解しているか否かだろう。

2004/03/22 (月)  
【構造主義入門】

この歳になって、哲学に目覚めた、なんて書くことは、凄〜く恥ずかしい行為のように感じている。

まるで、最近まで童貞でした、と告白するようなものだ(この表現が適切なの否かはわからないが)。

わたしは45のこの歳になるまで、哲学を真剣に学びたい、知りたいと思ったことは、恥ずかしながら一度もなかった。

正直なところ、今までの自分の理解の範疇で十分であり、不要だとさえ思っていたところもある。

『反古典の政治経済学要綱』は、哲学的な表現が多いので難解なのだが、それでもなんとか読めるか、と哲学を真剣に学ぶという行為に向ってわたしの興味が向くことはなかった。


わたしを哲学の旅へいざなったのはこの本がきっかけである。(2月21日に紹介)

cover百の旅 千の旅

五木寛之(著)
2004年1月1日
小学館
1,333円(税別)






この中で五木は、中沢新一の『哲学の東北』という本を紹介していて、それにはわたしの知りたい触手がちょっと動いた(宮沢賢治と唯物論だもの)。

それで早速Amazaonを検索したのだが、残念ながら品切れなのであった。
なので、しょうがないので、そのとき目に付いたこの本を注文したのだ。

cover 『フィロソフィア・ヤポニカ』

中沢新一(著)
2001年3月10日
集英社
2600円(税別)






とどいたこやつは、別に哲学書ではなようなのだ。

しかし、内容は田邉元の哲学に関するものなので、おもしろそう(脳味噌が喜びそう)なのはわかるだが、障害物競走のように、今のわたしには難解極まりないものであった。

とにかく、わたしの持っている語彙(哲学的な)では、明らかに読みきれないのがわかるのである。

特に「構造主義」がなんだかなんて、さっぱりわからな〜い。(きっぱり!、笑っておくれ)

なので『フィロソフィア・ヤポニカ』は、みるみる「わからない」付箋紙だらけになってしまったわけだ。

なので、こうなりゃいつもの習慣で、以下の二冊の本を、『フィロソフィア・ヤポニカ』 を読むために購入したのである。こうしてわたしの構造主義入門は始まったわけだ。

cover 『はじめての構造主義』

橋爪大三郎(著)
1988年5月20日
講談社現代新書
700円(税別)







cover 『ポスト構造主義』

キャサリン・ベルジー(著)
折島正司(役)
2003年12月5日
岩波新書
1400円(税別)






どちらもチョ〜初心者向けらしいが、その入門の書も、110メートルハードルぐらいの面倒さは持ち合わせてはいる。

まあ、読めないことはないので少し安心してはいるが、気のせいかもしれない。(笑)

こんなわたしが、いえることといえば、やっぱし若いうちにしっかり勉強しておくべきだな、ってことである。

年取ってから勉強することは、蝋燭の明かりぐらいにはなれるけれども、サーチライトにはなれない。(T_T)

ということで、本日のわたしは、きびすを返すように、岩見沢へ向うのである。

それから、平和建設の長谷川さまと砂子組の熊谷さまからメールをいただいていたのだが、これの紹介とわたしのコメントは明日のココロだ。

2004/03/21 (日)  
【休みだけれども】

今日は心底休む予定の日ではある。
起床は8時30分。普段のわたしの起床時間よりは3時間は遅い。(笑)


昨日の戯言に対して、メールを何件かいただいていたが、どう考えても転載はできそうにもない。

・・・のだが、長谷川さまからのメールを一部引用させていただこう。

初めての製作を通して、反省と今後の課題はたくさん出てきました。
PPTは施工前からテーマとシナリオを決めて現場の進捗と共に製作にあたらないといいものは出来ないとの意見が多数でした。

プレゼンで使う施工写真には黒板はいらないと私は思っています。
ナビゲーター(キャラクターとか)の吹出しやナレーションでもOK。
受け手が子供や市民だったら?は使いたいところですね。

フラッシュ(次回は)、動画、映像、BGMなど、と、建設会社の工事をどうグッドマッチさせるかはハイブリット化?(どうなのでしょう?)

いずれにしてもそれは私達の大きな課題だと思っています。
作り手には感性、表現力、バランス感覚も求められます。
関係者の活発なコミュニケーションと相互信頼から良いものが生まれると思っています。

○○作業所はうちでは最も平均的で一番ありがちな現場なのです。
だから、ここでの課題は他の現場でも良い参考になるはずです。

恥ずかしいけど、うちは施工写真の撮り方から再勉強をします。
最後の整列写真、足元はなんだ!とクレームをつけました。
部長から足元は安全靴、ヘルメットのあご紐、安全ワッペンなど服装について注意がありました。
「身支度きちんとしっかりせよ!」でした。

1枚の写真でも10人が見れば10の意見が出てくるのです。
PPTの製作は「考える」良いきっかけになりました。

きれいごとでなく、有体の現実を受け入れて、共有、全社的に改善していくことが大事だと感じました。

建設会社は形に残る物を造っているのです、原点に帰れば工事内容を記録に残すことはいつもやっていることなのです。

うちは何年かかっても、一つひとつの課題をクリアしていきます。
建設会社としてまるごと見られても恥ずかしくない会社を全社員と協力して作っていきたいと思いました。

では、先生、ごきげんよう。
水戸は雪、気温が急に下がってきました、お体をご自愛くださいませ。

このメールは、じつはとても大切な示唆を、わたし達に、たくさん与えてくれていて、このメールを基に、戯言を書き続けるのなら、お題は10や20では収まらないだろうなぁ、と思うぐらい、凄い。


このようなPPTをもって「現場」をプレゼンテーションする、という意識を「現場」が持つことで、「現場」は記号としての、シニフィアン(哲学や記号論では、「意味するもの」を「シニフィアン」という)としての性格を大きくすることとなる。

ひとことでいえば、平和建設の「現場」は、「現場」(つまり日々の己の行い)こそが、平和建設を意味するものにしていることに気が付いてしまった、ということだけのことなのだが、気が付いてしまったことで、わたしのいう「現場のIT化」がようやく意味を持つことになる、ということでもある。

つまり、意識しようがしまいが「現場は情報」なのである。

とすれば、その情報の受け手は誰か、情報の意味するところ(シニフィエ)はなにか、を意識できるようになった、ということだ。

それは、今という時代に、現場がなにをしなくてはならないのかが見えてくることだ、といってもよいだろう。

ここでは、既存の上意下達的パラダイムとは、まったく違う次元での行動(「有為な人材」としての自己)が必要なのだ。。

 1.「社会貢献と社会変革」の強い志と使命感を持ち、
 2.「プロフェショナル」としての高度な職業能力を磨き、
 3.「ネットワーカー」としての人間的魅力を身につける

大雑把なのだが、上記のメールはそのことをいっているのである(とわたしは思う)。
この認識が建設業(「公共工事という産業」)の次元を変えると、わたしは考えるのだ。


ということで、栗ちゃんから忘れ物が届いた。



では、ほな股。

2004/03/20 (土)  
【いままで土建屋には必要とされていなかったプレゼンテーションという能力(2)】

鱸さまより。

鱸#文章校正無し・・ 書きなぐり送信です。

 今朝の戯言、長谷川社長「ホットチーム」の様子が目前に浮かんできます。そうした動機付けが行えた事がスゴイと思いました。

> いままで土建屋には必要とされていなかったプレゼンテーションという能力


 これまでは「完成させたモノ」に語らせようとしてきたと思います。
 でも、そのメリットを享受してほしい方々へ
 事業の企画・設計・施工・維持に関わる側から「説明」を行ってきたのか・・

 行ってきたとは思います。
 事業説明会や用地買収、施工時説明会などを行ってきましたから。
 でも、専門家の言葉であり、地域の方々の感覚とマッチする日本語が使えていたのか・・
 このあたりが・・ プレゼン能力の重要さなのでしょう。
 ※その前に、語るべき事がないと・・ >わが身・鱸に返る

 話は飛躍します。
 経営層は、自社の経営情報を伝え、組織内の個々人に「当事者意識」を持たせる。 
 自分の給料が「どのように」
 して捻出され、支払われているのかを知ってもらう。

 これまでは、設計や施工といった本来業務に専念してもらい、
 経営といった「高次?の事柄?」には関与してもらわなくて良いといった認識だったかもしれません。

 でも、変わってきたと思います。
 構成員各自にプロ意識をもたせ、小局面での勝利追求だけでなく、
 本来、その業務が果たすべき機能、効用、成果を考え、
 関係する方々に「喜んでいただく」術を考えてもらう。
 そんな動きが出ていると思います。

 「人生は有限資源」(三木谷会長@楽天)
  やらなければ・・ 後悔する。 迷ったら「やる」。

 今朝の戯言では・・ 元気をいただきました。

 でわ、股!!


平和建設さまのPPTも、そのお手本になっている砂子組さまのPPTも、わたしは、市民社会という「側」から、この工事はいったいなにをしていたのか?を見ようとするとき、若しくは市民社会の「側」へ知らせようとするとき、今、日本で一番わかりやすい「表現」として存在しているのだろう、と感じている。

それはイメージ化とハイブリッドの産物である。
現場と画像とBGMのは〜い、ぶりっど!なのである。

うまく調和のとれた音楽と画像のシンクロナイズは、現場でありながら現場ではない、現場ではないようなのだが現場である、というようなハイブリッドな前対象としての「現場」を提供することに成功している。

つまり、「反省の行為」を省略したイメージとしての現場の理解を受け手「側」に可能とし、わかりやすいことで、高い訴求力を持つこととなる。

そのわかりやすさは、いい方は悪いかもしれないが、TVとか、漫画のレベルと同じようにである。

だからといって、それはとりたてて陳腐なものではない。
これが、この時代の表現方法なのだ、というだけのことなのだ。


だからこそ(ハイブリッド化があふれる今という時代にこそ)、ハイブリッドの基体の中から真実(自由や愛と書くと大袈裟になってしまうからこう書くのだが)を語る哲学が必要なのだと感じている。

しかし、順番として、それを受け手側に求めるのは至難の業でしかないだろう。
だからこそ、まずは作り手側(情報発信者)には、その姿勢が必要なのだ、というのがわたしの意見なのだ。

(まずは己が変化することである)


つまり、プレゼンテーション資料を作成するという作業は、受け手側の反省を省略することによる、わかりやすくを目指した、イメージ化・ハイブリッド化への作業である。

しかし、そのイメージ化・ハイブリッド化への作業(今回はPPTを作り上げるという作業)は、作成する方々に、その作品の持つ性格とはまったくの別の方向性である、強烈な「反省の行為」を作り手に強要したはずだ。

つまり、『作っているときもそうですが、やはり試行錯誤を繰り返しながらですから、皆で感じた不満や納得できないところは、都度、変更したいと思うのです。』という長谷川さまのことばの意味するところは、強烈な「反省の行為」の自己への強要なのである。

わたしが、メールで、『このPPTを作成する過程は、担当された方にとっては、とても素晴らしい自己超越(反省)の時間だったと思われます。』と書いたのは、その意味でである。

(この意味では、反省を「ことば」を使ってという古い概念から一歩進化させる必要がありかもしれない。→ハイブリッド化)

これが情報を発信する能力(信頼性)へつながる。
そして、情報を見る能力(信頼)も共進化させる。

つまりわたしのいう「IT化」の文脈に存在している。

だから、わたしが、わたしの関与先の方々に、(強制的に)講演を「していただく」のもその意からである。(ホントか>己?)

つまり、それらはわたしのコンサルテーションの一環にあるのだと理解していただいてかまわないのだ。(笑)


にしてもだ、このようなプレゼンテーションという能力は、つい最近まで、土建屋には全くといってよいほど必要とされていなかったものである。

しかし、今や少数とはいえ、このような動きの芽生えが見られるところに、今という時代を理解する鍵があるとわたしは思うのだ。

その鍵とは、「は〜い、ぶりっど!」とはなにか、の理解なのであり、それを理解できる哲学の理解なのである。

2004/03/19 (金)  
【いままで土建屋には必要とされていなかったプレゼンテーションという能力】

桃知@札幌で朝食中ある。
昨晩は、滝川で不二建設さまの勉強会終了後、札幌へ移動。

移転して新規開店となったふじ田にて一献。
最近は、ビールばかり飲んでいるいるのだが、それでも結構酔っぱらってしまったのだった。

今日は、これから札幌にて再び不二建設さまの勉強会。
朝のばたばた状態は、朝飯を喰らいながら、この頁の更新をしている、という現状を生み出している。

長谷川さまより。

送ったPPTですが昨日、会社で試写したら、またまた気になるところがあったので、写真を6枚ほど入れ替えました。
作っているときもそうですが、やはり試行錯誤を繰り返しながらですから、皆で感じた不満や納得できないところは、都度、変更したいと思うのです。

今回PPTを作り終わったら、次はこうしたいとの意見が山ほど出ました。
昨日のお茶の時間は、もう次の○○のプレゼンの話で大いに盛り上がっていました。
製作者達の視線はもう次の現場に向かっていました。

私がうちの会社の社員を褒めるのも変ですが、新しいことに取り組む意欲と努力、そして、耐えるというのか、辛抱強さには感心をしました。

今回の製作でも、検討する度に違う形を求められて、変更する作業を繰り返し、毎回でも、やり直しを厭わない姿には頭が下がりました。

私は皆で考えることの素晴らしさに、改めて感動をいたしました。
うちの感性豊かな若い社員達の成長は、今後とても楽しみです。

では先生、ごきげんよう。

このPPTは、竣工検査時に発注者に対して、工事内容をプレゼンテーションする、というものなのだが、わたしは先に次のような感想のメールを送らさせていただいていた。

長谷川さま、桃知です。
出かける前にPPTが届きましたので、PCにコピーし飛行機の中で小音量で見ておりました。
大変よくできていると思います。
素晴らしい!

実際に出来上がってきたPPTもそうですが、このPPTを作成する過程は、担当された方にとっては、とても素晴らしい自己超越(反省)の時間だったと思われます。
早速、北海道の方々にお披露目したく思います。

ということで、昨日は、早速不二建さんで(一部)お披露目してみたのだが、なるほど、いろいろと感想は出てくる。

その最たるものが、「いままで土建屋には必要とされていなかったプレゼンテーションという能力」というというフレーズなのだが、残念ながら、今は時間がない。

ので、股後で。(笑)

2004/03/18 (木)  
【雪だ】

桃知@滝川%北海道、今日は昨日とはうってかわって雪である。

昨晩は松尾ジンギスカンにて不二建設の方々と、ジンギスカンを食べビールを飲んだら、まだ早い時間だというのに、眠ってしまった。

夜中に一度寒くて目覚め、エアコンのスイッチを入れたのだが、再び目覚めて窓から外を見れば、一面の雪である。

昨日の暖かさ(雨であった)さから一転ではあるが、三寒四温とはよく言ったものである。


くりちゃんから。

ももちさんへ

くりです。
ご無沙汰してます。


http://www.1101.com/event2004_info/index.html
5/16(日)
東京国際フォーラムというところで、
糸井重里さん主催の講演会に「山岸先生」ですか?
参加されるそうです。
ほかの参加者の方々も、興味ありなので、

チケットが3/27発売らしく、
東京ですが、チケット取れたら、行ってみたいなと思ってます。
倍率高そうですけど。。。
しかも、東京ですし。。。


ご存知でしたら、申し訳ないです・・

最近、建築会社は、いらなくなる(激減)のかな?と
感じています。

以前、メールで匿名ではないですが、
「建築業界は、もっと開放すべきだ」と・・
個人で建てようとしても、なぜにあんなに材料は高いのだ・・と。
囲い込み・・?
わたしには、返答できかねるメールでした。(自分なりに考えて返事しましたけど。)

でも、自分で建てる、ということに、
楽しみや喜びを感じている、「建設会社ではない人」は増加していると思います。
先日、とある建築家の講演会に行きましたら、
しまいのことばに、
「自分で建てるとおもしろいんですよね」と、サラリと言っておられました。
公共物には、手は出せないが(安全面等で)個人的なものは、
下手でも、みなで、手がけたい、というようなことを話されていました。
(正しいとか、間違いとか、そういうことでなくて、その場の和みの空気から語ってくれたことばだと思います。)

なんとなく、ずいぶん前から
もやもやしてたのですが、たぶん、「こういうことだ」と、思いました。
危機感、というのは、その
取って代わっても、なんらもんだいないよね、と思われてしまうというか、
えらそうに、「建築会社」と名乗られたって、こっちでなんとかできますよ、という
そんな、こともありだろうなぁと。

つまり、もうウソは結構です、と。
自分らで、やれることは、アンタらには、頼まないよ。なにより、自分らのほうが
信用できるものね。
という、そんなことが、起こるだろう、と。

開放、っていうのは、そういうことか?
どういうことだ?まだ、わかりません。

もやもやは、ずっと晴れないかもしれません。

今回は、ほな股、がなかったな。(笑)

たぶん、大工さんがまだこの世にいない頃、自分の棲むところは、自分でつくるか、もしくは共同体が、それこそ協力しながらつくったのだろう。

その後、建物を建てることに秀でたものが、頼まれ仕事(アウトソーシング)を受けるようになり、まあ、それが大工さんという職業の始まりなのかもしれない。

職業の生い立ちはどうでもよいとして、その頃、建築基準法はないし、消防法とか建物を建てる諸々のきまりもないので、まあ、財力があればあるように、なければないように、好きなものが建てられたのじゃないのだろうか。

しかし今や、われわれは家を建てるにしても(国の)規制を受ける。
その規制という情報を扱うことを許された国家資格が、建築士ということなのだろう。

これは、わたしたちの思考の世界では、能力に対する信頼の担保と呼んでいるもので、意図に対する信頼の担保ではない。

わたしにとって、「開放」とは、この信頼の理解の延長にあるように思えるのであって、たぶん価格の問題ではないだろう。

まあ、この説明もつまんねぇ理解だとは思うのだ。

このあたりは本当は山岸先生の独壇場なのだろうが、聞けば「わかんない」って答えるに決まっているだろうな、と思う。(笑)

たぶん、「腕が利く」ということばが、職業における能力と意図との信頼の両立を含有しているのかもしれない。

そして「有為な人材」としての自己。

 1.「社会貢献と社会変革」の強い志と使命感を持ち、
 2.「プロフェショナル」としての高度な職業能力を磨き、
 3.「ネットワーカー」としての人間的魅力を身につける


どのような職業にしても、能力と意図との信頼の両立は難しいものだと実感している。

そんなとき、自ら一歩ひいてみて、自分のうちにある謙虚さのようなものと向き合う(自覚しようとする)とき、なにが自分の信頼性を損なっているのかが、少しは見えてくるような気がする。(これは己との情報的相互作用)

さらにいえば、それが、結果的に、卑屈になることとか、寡黙になることとかいうネガティブな行動に結びつくものでもないことも気がついている。

職業を持って生きる方々が、職業を通して己の自己実現の可能性を追求しているとき、そこに職業の信頼は見えるのだろう。

必要なものは、自分の職業において、なにをもって己の自己実現なのかを、理解しているのか、自覚しているのか、なのだと思う。

それは会社に忠誠を誓うのとはまた意味が違うのだろうと思う。

ということで、本日は、不二建設さまで勉強会である。
終了後、札幌へ向かうのだが、雪が心配である。

2004/03/17 (水)  
【今日は北海道へ】

昨晩は、お世話になった経済調査会の出版部の方が、移動のご挨拶にお見えになったので、「杉」にて一献。

今朝は、その残り物で、おじやをつくって食べているのであった。

それで、気がついたのだけれども、紹介するのを忘れていたのが、『建設ITガイド〈2004〉』 (経済調査会)なのだ。(^^ゞ


この『建設ITガイド〈2004〉』には、毎年何かしら書かしていただいているのだが(といっても、今回はほとんどが、まにあ・1号さまの力作なのであるが)、今回は、昨年の続編、つまり空知建設業協会におけるIT化の続編が紹介されている。

わたしはこれを、事業者団体(空知建協)ベースのIT化の記録として残そう、という思いで企画した。

なぜなら、事業者団体ベースのIT化のちゃんとした記録(つまりわたしの軌跡だな)は、じつは存在していないのである。

それも寂しいなぁ、と思うので、『建設ITガイド〈2004〉』という場をお借りしているわけだ。

つまりだ、他に存在しない事例として、『建設ITガイド〈2004〉』は価値がある、と自画自賛しているわけで、興味のある方は是非買って読みましょう。

読んで、真似して、空知のようにになれたら、それは素晴らしい!
まあ、そんなことはありえないだろうが。(笑)

なぜなら、事業者団体ベースのIT化とは「場のマネジメント」だからだ。
コンピュータ化とは違う。


さて、本日は、またまた北海道へ。

ここ暫くは、一週間に一度は北海道へ参上する予定が組まれているわけで、北海道の方々とのコミットメント関係が、ますます深くなっていることを実感しているのだが、これが安心の関係にならないように自戒しなければならないな、などと性懲りもなく考えている。


 鱸#ほろ酔い帰宅です。

 本日戯言の「いぢわる」ですが、あとでしっぺ返しをくうことが
完璧に予想されていたら・・・ 短期局面での自己利益の最大化
なぞ狙わないだろうなぁ・・・  と思って読みました。
 #どっかに勘違いがあるのかも・・

蛇足) ももさんページですが、どっか変更しました?

 自宅+モバイルの ie6.0.xxでは表示されないランタイムエラーが
支給品の ie5.5.xxで出ます。 今日からだったと思います。
 =至急品は、せきゅりてぃや、いんとら・ちゅうにんぐの関係で
  勝手にいぢれず。  そういえば、支給品の根輔4.7xも1ヶ月ほど
  前から、期待する表示をしませぬ。(文字コードなどではダメ。)
  なので、ie5.5.xでしたが。。 これも、いぢわる?? でしょうか

                      異常

スパイト行動については、まだまだわたしの理解はぜんぜんできていなくて、でも、なんとなくだけれども、日本人の行動の深奥には、「意地悪」があるような気がしてならない。

それは協力というような一見ポジテブな行動としての表出のみならず、出る杭は打たれるとか、人真似とかいう、横並びのESSの根源であるように思う。

つまり、山岸先生の言うところの「安心」の構造の深遠は「意地悪」なのかもしれないなぁ、と思うのだ

それから、わたしのサイトはちょっといじりました。
急遽、このページを元に戻してみましたがいかがでしょか?

2004/03/16 (火)  
【スパイト行動】

spite
━ 【名】
【U】 悪意, 意地悪
He did it from [out of] spite. 彼は悪意から[腹いせに]それをしたのだ.
━ 【動】【他】
〈…に〉意地悪をする, 〈…を〉いじめる
He did it just to spite me. 彼は私に意地悪をするだけのためにそうしたのだ.

New College English-Japanese Dictionary, 6th edition (C) Kenkyusha Ltd. 1967,1994,1998


「スパイト行動(spiteful behavior)」とは、自己の利得を犠牲にしてまでも,相手が大きな利益を得ることを阻止する行動のことである。


これを知ったのは、2004/03/11 の 【は〜い、ぶりっと】で紹介した、(リンク先の文章を書いた西條辰義先生の仕事にも興味津々)」でである。

スパイト行動に関しては、『経済学における実験アプローチの役割』(船木由喜彦、大和毅彦)も読んでみて欲しい。


これに拠れば、『一見すると,相手の足を引っ張る「スパイト行動」をとる人々がいる社会の方が,純粋に自己の利得のみに関心のある人々からなる社会より,悪い帰結がうまれそうである.しかし,上記の実験結果では,スパイト行動が公平性や協力を生み出す源となっている.これらは,「各個人が何らかの制約条件の下で自己の利得のみを最大化する」ことを仮定する伝統的な経済モデルからはわからない,実験による新しい発見と言えよう.』(船木由喜彦、大和毅彦)

この指摘は非常に興味深く、常識といわれているもので思考が縛られている限り、新たな思考が生まれ得ないのは当然なのだが、新しいパラダイムがこうして生まれてくるこの時代にいることに、わたしなんぞはわくわくさせられる。

しかし、いじわる(嫉妬ややっかみ)が、公平性や協力を生み出す源となっているなんて、誰が信じられようか。(笑)

それも西條辰義先生によれば、それは日本でより顕著なことらしいのである。

つまり、「各個人が何らかの制約条件の下で自己の利得のみを最大化する」ことを仮定する伝統的な経済モデルでは説明できない行動が市場にも存在するということである。→単純な新古典主義的経済モデルの限界。

人間の行動の中にある、嫉妬ややっかみ、つまり jealousy が生み出す行動は不快なものが多いのだけれども、相手がスパイト行動をとることが予想される場合には、相手に嫉妬ややっかみを持たせないような行動(公平性や協力)をとる傾向がある、というのは、いかにも安心の特性が高い日本人らしいではないか。(笑)

スパイト行動、意外と効果的なのかもしれない・・・ :-P
(なにを考えている>己)

momo
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