店主戯言041002 2004/10/16 〜2004/10/31 "There
goes talkin' MOMO"
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2004/10/31 (日) ▲ ▼
【ボロメオの結び目】
午前7時55分起床。
浅草は雨。
昨晩は夕食後に強烈な吐き気。
当然にもどす。
夕飯は鯨のハリハリ鍋だったのだけれども、同じものを食べた家人はなんでもないので、わたしの個人的な問題のようだ。
昨日から、11・04第3回実験的勉強会で使うPPTの作成を始めている。
今回は、志賀直哉の「小僧の神様」をまくらに、まずは「交換」と「贈与」と「純粋贈与」について考えてみようとする。
実際は、「純粋贈与」について語る時間はほとんどないので、「贈与」と「交換」についての考察となるだろう(でも、ほんとはそれじゃだめなんだけれどもね)。
この「交換」と「贈与」という相互作用を、経済的活動の中に位置づける手法は特段新しいものではなくて、村上泰亮が「反古典の政治経済学要綱」で既に行っているものだ。
つまり、
経済的交換とは、それに関わる情報的相互作用の中で第一種の比重が高いもの →非人格的交換
社会的交換とは、それに関わる情報的相互作用の中で第二種の比重が高いもの →人格的交換
実際には両者の性格を混合させてもつ中間的な交換形態が多い。
村上泰亮が社会的交換と呼んだものこそが「贈与」の概念に近い。
ただ今回は、ここにラカンの言う「ボロメオの結び目」という、人の心の構造を持ち込むことで、そのメタファーとして、我われが行っている経済活動を理解しようと考えている。
これは勿論わたしのアイディアなではなく、中沢新一氏の素晴らしいインスピレィションである。
ジャック・ラカンの「ボロメオの結び目」
この考え方は、既にわたしの講演には何度も登場してきている。中沢新一氏のインスピレーション。
「全体の経済」
ここでは、我われの行っている経済活動に流れる情報が、何物であるか(それは既に指摘済みだが)が、さらに明瞭になってくることだろうし、村上泰亮がぼんやりと持ち込んだミーム論(文化子)のエッジをさらに際立たせることになるだろう。
→経済活動に宿るミーム
→第一種の情報(交換)+第二種の情報(贈与)
しかし、ここからの展開は意外と大変で、PPTをまとめるのに苦労している。
その苦労は、このような理解が、我われの経済的な活動において、なにを意味するのかを、そしてIT化はここでなにができるのかを、できる限りわかりやすく説明しようとする苦労だ。
じつは今現在、依頼されている原稿も2件ほど溜まっていて、PPT作っている場合じゃないだろう、ともう一人のわたしはささやくのだが、そうもいかない。
このような仕事は純粋にわたしの「表現」であるので、当然にわたしの個人的な時間が消費される。
でも、それも幸せな時間ではあるわけだ。(笑)
今日も、お昼に来客予定。
2004/10/30 (土) ▲ ▼
【豚ホルの構造】
午前7時35分起床。
浅草はくもりだ。
写真の整理をしていたら、同じような構造を持つ写真があったので紹介。
どちらも「ホルモン」。
アリラン(まさたろうさんの会社の近所)のホルモン アリランで焼く 雷電食堂(岩見沢市)のホルモン 雷電で焼く
アリラン(まさたろうさんの会社の近所)のホルモンは豚である。
それも茹でてある。
飯田流に言えば「ゆでオタ」である。
食感、味付けとも抜群である。
雷電食堂(岩見沢市)のホルモンも豚である。
こちらは生であり、飯田流に言えば「生オタ」である。
このホルモンはいくらでも食べられるという形容がふさわしいだろう。
この日も、一次会は焼肉屋で、さんざんテッチャンを食べまくってからの、三次会〆のホルモンなのである。
痛風街道まっしぐら・・・か。
痛風といえば、人吉のホルモン写真もあったように思うのだがどうも見つからない。
代わりと言っちゃ寂しいが(↓)。
これは上野の竈屋の牛タン。
ネギを中心とした具が乗っているので、焼くときには写真のように半分に折り曲げ、餃子のようにする。
最近は、盛岡の焼肉屋か都内の高級店でもないと良い牛タンがないけれども、ここはそこそこいけるのでお気に入り。
ということで、平和な(?)土曜日の始まりである。
本日はお昼に来客あり。
2004/10/29 (金) ▲ ▼
【骰子一擲へ】
6時45分起床。
浅草は、今日も穏やかに晴れている。
伝えられてくる中越地震の被害状況は辛い。
直接わたしに関係の無いことだとはわかっていても心が痛む。
この人間のこころの動きはなんだろう。
危機管理に関しては、負のフィードバックを機能させることが鉄則ではある。
そのためにマニュアルがある。
しかし現況はマニュアルだけでは対応できていないように思える
「骰子一擲いかで偶然を破棄すべき」(マラルメ)
なんども書いているが「骰子一擲」は偶然のことではない。
これは確率を意味し、科学を意味し、偶然を破棄しようとする人間の意志と精神を意味している。
それはマニュアルさえも含有している。
しかし、思うのだが、科学だけでは偶然は破棄できないであろう。
それは、科学が自然に対して行う「あばき方」の問題のような気がする。
もう一度、私達と自然との関係を考え直してみる必要があるような気がしてならない。
それは科学を否定するものではなく、科学に上書きするできるような、略画的なもの(大森荘蔵)でであろう。
この近辺も、『11・04第3回実験的勉強会』にて触れる予定ではいる。
11月17日(水)、岩手県は盛岡で行われる講演のご案内。
これは後程、オープンセミナーとしてご案内させていただくが、一足先にである。
岩手リコーさん主催の「RICOH SolutionWay 岩手04」にて、セミナーのトップバッターを務めさせていただく。
勿論県外の方も大歓迎なので是非おいでいただきたい。
ただ、わたしの出番は午前10時なので、遠方からおいでいただく場合は前泊が必要かもしれない。
当然にわたしも前泊予定なので、その時は、16日夜に意見交換会の開催なども考えてみたいので、ご意見をいただければと思うのだが・・・。
→申込書RF041117.pdf 171KB
葉月桃塾へのコメントをまにあ・1号さんから頼まれ、昨日書いて送ったら、早々にMLへ流れていた。
ので、今日はそれを引用させていただいておしまいである。
「引用」というのも、元々わたしの書いた文章なのだからヘンなようなのだが、テクストは書いた段階で作者からは離れていくものなら(ロラン・バルト)、それでいいのだろう。
葉月桃塾では、建設業で働く、それも地域に根をおろした建設業界で働くということを考えてきました。
確かに「今という時代」は「資本の理論」が強く働く世の中です。そして「スケールフリー・ネットワーク」は強力な法則性を発揮し、強者は益々強く、弱者は益々弱くなってしまいがちです。
そんな中、皆さんが愛してやまない空知というテリトリーも、その法則性の前ではなすすべもないかのような疲弊の姿を見せています。そしてそのテリトリーを基底とした地域に根をおろした建設業界で働くということも否定されるかのようです。
しかし私達には、意志と精神が宿っています。それは「資本の理論」が消し去ろうとしている地域への愛の力、人が人を思いやる力、そして信頼と感動を生み出すミームです。
インターネット社会は、一見「スケールフリー・ネットワーク」だけの世界に見えるかもしれませんが、そこで確実に機能している適応度としての「広くて薄い紐帯」は「資本の理論」だけで動いているものではありません。そこにはミームが運ぶ信頼と感動が流れています。でなければ「広くて薄い紐帯」は機能しようもないのです。「広くて薄い紐帯」はミームが運ぶ信頼と感動こそがエネルギーなのです。
それは古臭く時代遅れのものに見えるかもしれません。しかし、地域に根をおろした建設業界で働くということは「資本の理論」で説明できないからといって否定されるものでもなければ、単純に「資本の理論」を受け入れれば問題が解決できるというものでもありません。私達はここで中間の思想、ハイブリッドな考え方を学びました。「骰子一揆」です。
私達は自らの職業を通じて信頼と感動を伝えることはできるのか、しようとしているのか、ともう一度考えてみましょう。そこには目先の「お金という見返り」は無いかもしれません。しかし「信頼」に基底を置いた新しい「公共工事という産業」の姿がきっと見えてくるのだと考えています。
そのために、私達は情報を発信し、情報を見る力を身につけなくてはなりません。それは、自分自身という情報を見る目でなくてはなりません。
自分自身という掛け替えの無い存在に宿るミームを見る目を育ててください。
そして、皆様一人ひとりの「骰子一揆」に、私は期待します。
「個は種のミームの中で育ち、種は個の変化による(種)のミーム変化を内包している」
またお会いいたしましょう。
2004/10/28 (木) ▲ ▼
【仙台独演会でのPPT】
7時33分起床。
浅草は穏やかに晴れている。
今朝は、仙台独演会でのPPTをまとめてみた。
→ダウンロードのページ
相変わらずだが、相変わらずでもない。
「広くて薄い紐帯(ウイークタイズ)」についての理解を、わたしはインターネット社会における「適応度」(環境変化への適応能力)と結び付けている。
それは確かに、「スケールフリー・ネットワーク」という環境においてしか機能しない。
そして「スケールフリー・ネットワーク」は、インターネット社会のグローバル性が作り出す環境として現存もする。
けれど、それが「資本の理論」が作り出したものであることで、「広くて薄い紐帯」は、「スケールフリー・ネットワーク」の特徴だけでは説明できない。
そして「ミーム論」でも触れたように、「交換」つまり市場経済は単純な「資本の理論」だけで営まれているものでもない。
→本来、市場は「交換」と「贈与」のハイブリッドのようなものである。
→公取委は市場の番人ではなく、「スケールフリー・ネットワーク」の忠実な番人なのだろう。
今回の仙台講演では、「広くて薄い紐帯」を、「スケールフリー・ネットワーク」と「クラスター」&「ランダムネットワーク」とのハイブリッドとして理解を試みていることを、最初にさらっと話した。
講演では「ミーム論」に打ち消されていて、たぶん多くの方々の記憶には残っていないだろうけれども、私的にはこちらの方が重要な骰子一擲だった。
仙台での講演では、この部分を前日に使用したもので代用したので(笑)、それをさらに簡単にまとめなおした。
→事業者団体ベースによるIT化の意義
この「広くて薄い紐帯」=「スケールフリー・ネットワーク」+(若しくは×)「クラスター」&「ランダム・ネットワーク」 という考え方は、11・04第3回実験的勉強会にてさらに展開してみようと企んでいる。
そこで、「贈与論」を持ち出す予定である。
「まくら」は志賀直哉の「小僧の神様」か。
→中沢新一氏の受け売り。(笑)
このぐらいやらないと『実験的勉強会』にはならないだろう。(笑)
2004/10/27 (水) ▲ ▼
【@仙台 今日は盛岡へ】
7時45分起床。
仙台はくもり。
まずは、来年の新年会。
開催日が決定。→1月22日(土)。
さて、昨日の仙台講演は、わたし自身の骰子一擲(二投目)であり、正のフィードバックループの中にある。
このフィードバックがどのような形になるかは未知である。
またやるかもしれないし、やらないかもしれない。
新たな形で動くのかもしれないし、動かないのかも知れない。
わたしは情報(ミーム)を観察する。
昨日の講演は「ミーム論」。
ミームについての解説や、考え方については、最近の講演ではほとんど触れることはない。
けれども、この思考方法は、ここ掘れワンワンの「ポチ」であり、わたしの環境把握の基底にある。
ミームは最初、言葉として私たちに宿る。
寄生する、と言ってもいいだろう。
それは、ラカンのいう人間の虚勢である。
その言葉によって、私たちは思考を開始する。
そして<他者>とつながり、ネットワークを作り、文化的に進化する。
さらには言葉で語りつくせない表象さえ可能とする。
そして言葉で語りつくせない表象を感じることさえ可能とする。
→芸術。
ミーム論が言うのは、もはや、人間の行動、社会を考えるとき、遺伝子の影響を考えるのであれば、ミームの影響を考えた方がよい、ということだ。
ミームで考える。
しかしミームは問題発見ツールであり、問題解決方法ではない。
それは、環境×原理の環境を見るためのツールであり、ミーム自体が原理であることはない。
原理を知るために、私たちは論理(哲学)と数学と科学を駆使する。
しかしそれでさえ、ミームを使わざるを得ないものであることで、本当のところはわからないのかもしれない。
イントラネットは、私に、そして己の組織(ネットワーク)に宿るミームを見るための眼鏡として存在する。
ピュア(インターネット的)なシステムはミームを持たない。
だから、ミームがあらわになる。
帳票はミームを持つ。
なので、帳票に記載されたテクストは、帳票の持つミームに上塗りされる。
故に、私に、そして己の組織(ネットワーク)に宿るミームが見えない。
だから、フリーハンドで書く。
ということで、今日は盛岡へ。
仙台でのPPTは明日にでもアップ予定。
仙台講演に参加いただきました皆様には心から感謝申し上げます。
2004/10/26 (火) ▲ ▼
【今日は仙台独演会】
6時45分起床。
浅草はくもり。
本日は、10・26仙台独演会なので、当然に仙台へ移動。
昨晩、札幌から戻ったのは午後11時過ぎだったものだから、今朝起きるのもなにか辛かったし、いまだ身体がシャキとしてくれない。
でも、やるんだなぁ。
2004/10/25 (月) ▲ ▼
【@岩見沢四日目の朝】
7時35分起床。
岩見沢はくもり。
昨日は、芦別市で行われた、星の降る里芦別映画学校へちょことお邪魔した。
ローカルなイベントなのかと思えば、ビデオ大賞への応募は全国から(海外もあった)であり、もう既に12回開催しておられるようで、なかなか大きなイベントなのであった。
私たち(秋野さん、まにあ・1号さん、桃知)は、赤平で植村真美さまに山田御殿にてそばをご馳走になってからの参加なので、芦別に到着したのは午後1時を過ぎていた。
映画学校は既に始まっていて、ビデオ大賞の表彰をしているとろだった。
作品も上映されるので、興味深く見ていた。
お題は「ふるさと」
わたしのことばだと「種」である。
「種」は生まれたところであり、育ったところであり、住んでいた(いる)ところであり、思想であり、宗教であり、愛であり、空気であり、海であり、宇宙であり、音楽であり、ことばであるかもしれない。
そういう良くも悪くも今のわたしがあることの基底にあるものを「ふるさと」と呼んでいいのだろうなぁ、と思う。
映画学校は、幸せな時間であった。
あらゆる思考と精神は、表現の宇宙を飛び回っていた。
その後美唄の温泉で一風呂浴び、〆は「たつみ」にて焼き鳥食べながら、生ビール2杯と、3人でワイン3本。
まにあ・1号さまは飲まないので、この3人には含まれていない。
そこには別の方がお待ちであったのだ。
とても感度のよい方で楽しいひと時を過ごせた。感謝。
今日は午後から空知建協にて一仕事して帰京の予定。
帰宅は深夜だろう。
2004/10/24 (日) ▲ ▼
【@岩見沢三日目の朝】
新潟での大きな地震。
被害にあわれた皆さまには、心からお見舞いを申し上げます。
午前6時40分起床。
岩見沢はくもり。
昨日は、初雪(というか初あられ)を見た。
木島建設さんの徒然草を読んでいて、郡上も災害で大変だなぁ、などと思っていたら、新潟では大きな地震があって(それをわたしは家人の電話で知ったのだけれども ―例によって私の家は大揺れだったらしい)、これも大変だ。
新潟も知人が沢山おられる。
安否が心配なのである。
岩見沢では、揺れは感じなかった。
けれども、道内は一足先に冬の到来。
冬タイヤの着用が既に義務付けられているところもあるようだ。
度重なる台風の被害、今回の地震での被害。
自然の力。
その土地土地で、固有の問題を抱えながらも、我々は生きている。
「地域」とは、テリトリーを基底に持つ「種」であり、「種」に内在する不平等とは、テリトリーを根底に持ったものだ、ということを、災害や季節の変わり目の度に実感させられるのだ。
多くの方々は、テリトリー(土地)とともに生きている。
そこには不平等もある。
例えば、台風がくる。地震が起こる。雪が降る。
しかし、全然関係のない地域もある。
この不平等が、自然の力に起因するものであっても、難破の底で、私たちは無力さに呆然とすることもない。
人間は個々人の意志と精神の可能性をもって、でききる限りそれを是正しようとする。そしてしてきた。
そのような個の存在によって変質した種が類であり、国家である。
それはこういう仕事をしていて、日本全国を旅していることで、感じることだ。
報道される地名が鮮明にイメージできる。
そしてそこでであった愛すべき方々の顔もだ。
彼らは種を基底にすることで、種の文化を土台にし、アイデンティティを育む。
それゆえにわたしは彼らを忘れられないし、愛し続けている。
今日は休日。
芦別で行われている映画祭に顔を出し、美唄の温泉に行き、美唄で焼き鳥を食べる予定。
明日も岩見沢で仕事。
2004/10/23 (土) ▲ ▼
【@岩見沢】
岩見沢で午前7時ごろ起床。
岩見沢の天候はよくない。(笑)
外は寒そうだ。
今日は薄手のセーターを着ている。
空知建協さんのホームページが間もなく77777になる。
もちろんきり番のお祭もあるので(景品はじゃがいもか?)、是非覗いてみていただきたい。
昨日から風邪のような状態で頭が痛かった。
それでも昨晩はしっかりと飲んだ。
体調が悪かったせいか、あっという間に酔いがまわり、昨晩は早々に寝てしまったものだから、今朝はこころなし調子が良いか、と起きた瞬間は思ったのだけれども、錯覚だった。
今日は「葉月桃塾補講」
こんな体調で大丈夫なのだろうか。
2004/10/22 (金) ▲ ▼
【今日から北海道】
6時40分起床。
浅草は晴れ。
今日から暫く北海道へいってくる。
今日の目的地である岩見沢は、「晴れのち雨か雷雨」という予報で、一体どんな天候なのだろうか。
東京との気温差は、最低気温で11度、最高気温では5度程度。
なので、洋服にはそんなに気を使わなくても良いかもしれない。
ただ、夜飲みに出かけたら、雷打たれて、寒くて凍え死ぬようなことのないようにしたい。
『ワンダフル・ライフ』
スティーブン・ジェイ・グールド(著)
渡辺政隆(訳)
2000年3月31日
早川書房
987円(税込)
グールドが一昨年に亡くなってしまっていることを、昨日知った。
それは浅草のパスタ屋でランチを食べながら、日経ビジネスアソシエ 2004年11月2日号の「Books」欄を眺めているときだった。
『一昨年に60歳で死去したこの古生物学者が・・・』という一文を見た時、特に驚いたわけではないが、昔ちょっとだけお世話になった方の訃報を聞くような感覚を感じた。
グールドはご存知のように、「ミーム」の生みの親である、ドーキンスのライバルであった。
わたしはドーキンスの熱心な読者ではあったけれど、グールドの熱心な読者ではなかったわけで、唯一読んだ本が『ワンダフル・ライフ』なのであった。
利己的な遺伝子の熱心な信奉者であったわたしには、グールドの偶然を肯定する世界観がどうもなじめなかったのである。
例えば、グールドは進化のなかに進歩はない、と言う。
それは、、いかなる基本計画も、目的地も、設計者も、進化には存在しないということだ。
彼(グールド)にかかれば、わたし(人間)なんて、必然的にこの世に存在するのではなく、偶然の産物にすぎなくなってしまう。
当時(といってもちょっと前だが)のわたしは、例えば、約40億年前原始スープしかなかったのにもかかわらず、現在あらゆる種類の生物が現存している複雑な世界に生きていることで、進歩はあるのだ、と考えていた。
でも今は違う。
というようりも、進歩の肯定即否定で考えることができている。
進歩の肯定即否定、否定即肯定。
それは、人間の意志と精神の進歩としてだ。
平気で遺伝子とミームは違う、とか、我われがDNAによって記述された一生を送るのなら、骰子の一擲などしないだろう、などとのたまっているわたしにとって、グールドの言っていることも含めて「進歩」を考えることができる(ような気になってはいる)。(笑)
まあ、おそるべしはマラルメであるが。
グールドが、マラルメ流に偶然を肯定している人であることを知ったのは、わたしがラマメルに触れたからである。
だからグールドも人の意志と精神を否定はしていない。
『それ(人が歩む道のこと)は忍従の道ではなく、自分たち自身が選ぶやりかたで成功したり失敗したりする自由が最大限に保証された道である』(グールド,p571)
でも、偶然の前では、失敗もある。
しかし、失敗さえも楽しんでしまう意志と精神。
それが自由だということだろう。
「自由とは思想の自由である」(村上泰亮)
→ミーム
ということで、ミーム論と言えば、10・26仙台独演会は開催も間近である。
詳細とお申込はこちらから。
→ http://sekoukeikaku.com/modules/eguide/event.php?eid=1
骰子の一擲を楽しみましょう。
2004/10/21 (水) ▲ ▼
【スケールフリーネットワークを疑う(自己否定的な思考)】
台風23号の被害にあわれた皆様にお見舞いを申し上げます。
7時25分起床。
浅草はくもり。
■11・09大阪三人会
おまたせしました。11・09大阪三人会開催のお知らせです。
詳細とお申込みは(↓)から。
→ http://www.uketsuke.jp/show_event_detail.php?uno=154
今回のわたしの出し物は「哲学のあるIT化」(ショートバージョン)。
11・04第3回実験的勉強会(東京・サイボウズ社セミナールーム)と演題は同じですが、内容は見事に違う予定。(笑)
短い時間ですから、あんまりかたい話はする予定はなくて、楽しい話で、皆様の脳味噌にお邪魔したく思います。
今年最初で最後の大阪講演(の予定)。
もちろんしっかりと懇親会も開催。
皆さん、是非あそびに来てください。
■スケールフリーネットワークを疑う(自己否定的な思考)
さて今日は、一昨日の出来事から書きなじめよう。
雨の中、早めに飯田に到着したので、飯田駅舎内にある、喫茶店兼軽食の店で、ホテルのチェックインができる時間まで珈琲を飲んで時間つぶしをしていた。
そこには先客が1名さまおられた。
年の頃は五十代前半ぐらいだろうか。
カウンターに座り、従業員と言葉を交わしている内容や身なりから、旅人ではなく、地元の方であることは直ぐにわかった。
カウンターに座り、缶ビールをグラスに注ぎ、有り合わせのものを肴にして一献しておられた。
時は午後2時を少し過ぎたぐらいなので、日の高いうちからいい身分だなぁ、と思いながら、わたしはメールチェックをしていた。
暫くしてから、そこにもう1名の客が現れた。
この方は、先の方の知り合いらしく隣に座ると、同じように缶ビールを注文し、同じように飲み始めた。
年の頃は、先客よりも少し若いように見える。
たぶん、四十代後半、わたしと同世代だろうか。
飯田というところは、日の高いうちから飲んでいられるようなところなのか、まるで浅草だな、などと呑気なことを考えていたのだけれども、聞こえている二人の話は、呑気なものではなかった。
どうやら二人とも失業中のようなのだ。
聞こえてくる話では、以前は建設現場で働いていたようのだ。
けれども、今は働く現場も無く、なかなか仕事も見つからず、まあ、自虐的な冗談なのだろうが、首をくくらなきゃなんない、というような話もされていた。
地方は疲弊している。
それは長野県に限らず、わたしの知る限り全国どこででもだ。
確かに、ベキ法則は勤勉に働いている。
丸田一氏のいうように地域間構造もベキ法則に従っている。
(↓http://www.can.or.jp/archives/articles/20030527-01/より引用)
地域間構造は、就職、教育、環境等々、著しい不平等の世界である。
だから、現実的には、丸田一氏のいうように、地域間構造さえベキ法則は働いていることを前提に、我われは余計なことは考えずに、この世界に適応することだけを考えればよいのかもしれない。
わたしのIT化においても、「個」のベースでは、スケール・フリーネットワークの理論を前提とした適応度につていての言及となっていることも確かだ。
しかし、法大ECの補講でわたしはこう言った。
スケールフリー・ネットワークが今という時代の現実であることは疑いも無い。
ベキ法則は機能している。不平等は広がり、金持ちは益々金持ちになり、貧乏人は益々貧乏になる。
リンク数の多い者が勝者である。
広くて薄い紐帯も、スケールフリーというネットワークの世界でしか機能しないだろう。
しかしだ、ただそれは、人間社会の普遍的な特徴なのではなく、「資本の理論」が働いているときにの特徴のように思える。
つまり、スケールフリー・ネットワークが、人間社会の普遍法則としてのネットワーク形態なのではなく、「資本の理論」が強く働いている社会の特徴が、スケールフリー・ネットワークなのだろう、と。
地域の疲弊、それを公共工事の削減のせいだけにする気はないが、その原因のひとつであることはたしかだろう。
というよりも、地方の公共工事の削減を誘導している「資本の理論」と「マーケット・ソリューション」という問題解決方法、そしてヘゲモニーを握っている某国家のローカルルールでしかないものを「グウローバル・スタンダード」として標榜する「種化した類」としての政府のあり方に問題がある、と「種の論理」を基底に思考する者としては思うのだ。
「類」としての国家は、どんな状況にあろうとも、ランダム・ネットワークの世界観を捨てることはない。
それは「類」(国家)が持つ倫理としての平等への志向である。
平等を志向しない「類」(国家)は、そもそも「類」では有得なく、普遍性を持つ国家でもない。
しかし、わが国では、平等は空虚な欺瞞に陥り、実際には不平等が前面に広がっている。
それは、「資本の理論」に支配されたスケールフリー・ネットワークが機能していることで明確である。
『新ネットワーク思考』,p103より引用加工
ランダムネットワーク持つ世界観は、それが「類」が平等を志向す社会であることで肯定され、しかし「個」が「種」に溶けてしまう(→山岸流で言えば安心社会→既得権益を生み出す→信頼がない)ことで否定されるものだろ考えている。
逆説的だが、「個」が「種」に溶けてしまわない為には、「個」がスケールフリーの世界への適応度を高めていくしかない。
ただ、それは「資本の理論」としてのスケールフリーというよりも、情報が価値を持つ、テリトリー性のないスケールフリー(つまり、インターネット社会)においてだ(それがわたしの「個」のIT化論となっている)。
こうして、ランダムとスケールフリーという二つのグラフを見ていると、それはまるで、「ヒエラルキー・ソリューション」と「マーケット・ソリューション」の対立図のようにも見える。
しかし、この二つの方法は、どちらかが偏重されることで、常に問題を抱えてきた。
それはまるで中間の思想(ハイブリッド)を持てない思考的欠陥のようにだ。
・ヒエラルキーソリューション→それが「類」が平等を志向す社会であることで肯定され、しかし「個」が「種」に溶けてしまう(既得権益を生み出す)ことで否定される。
・マーケットソリューション→信頼を前提にすることで肯定され、しかしベキ法則に収斂していくことで、平等を生み出せないことで否定される(→地方の衰退)。
→その意味で、金子郁容の「コミュニティ・ソリューション」は、ハイブリッドな問題解決方法の提案であったのだな、といまさらながら納得させられている。
「類」としての国家が、平等を志向するのは、「種」としての「地域」が、そもそもその生い立ちにから不平等を内在しているからだ。
「地域」とは、そもそもテリトリーを基底に持つ「種」である(どのような地域でも土地に縛られている)。
「種」に内在する不平等とは、テリトリーを根底に持ったものだ。
なぜならテリトリーは所有とその価値の格差を生む。
→所有とその価値の格差は、その価値が換金性で計られる時、「資本の理論」のスケールフリー・ネットワークの世界に溶け込む。
地域とは、本来、そのテリトリーこそが価値を持つのである。
その価値を認めることは「多様性」を認めることだ。
しかし、「資本の理論」にとって、そもそも「種」の多様性の存在は障害である。
「資本の理論」は「種的基体」の平準化を推し進める。
「種」が多様体であることが「資本の理論」に立ち塞がる障害であることで、「グローバルスタンダード」という米国派遣の片棒を担ぐ「種化した類」がそれ(「種」)を破壊している。
今や国と地方政府(都道府県)の多くは、地方のテリトリー化(種の特性)を否定しようとしている。
前近代の否定である近代(モダン)とは、そしてマラルメが「骰子一擲」に託した偶然の破棄とは、偶然の破棄というようりも、不平等の破棄のことなのじゃないのか、と今日のわたしは考えている。
→この意味で、法大EC補講PPTは、まだまだ考察が足りない。
→未熟者である。
そうであれば、近代的(モダン)な思考とは、むしろランダムネットワークの構築をどこかで志向していても不思議ではないのだ。→開発主義もそのようなものであるかもしれないし、民主主義というヒエラルキーソリューションもそうだろう。
それらは、「骰子一擲」なのだ。
それは偶然を否定もしなければ肯定もしない。
向かうのは、倫理としての平等であり、不平等の否定である。
そこには人間の意志と精神が働く。
つまり、「種の論理」を機能させようとする「個」がある。
骰子の一擲が意味を持つ
であれば、「開発主義」はこの文脈で肯定され、既得権益(種に溶けた個)を生み出すことで否定される。ここを考えればよいのだろう。
ただ否定するだけではなにも生まれない。→フィードバック。
そこで今日のわたしの到達点なのだけれども、スケール・フリーネットワークの問題は、偶然の否定という問題ではない、ということだ。
スケールフリーもまた、偶然の肯定でもなければ否定でもない。
ただそれは、「資本の理論」法則性をもつ。
問題は、それを野放しにしていることで国家の機能だという「種化した類」としての国家のあり方の問題なのかもしれないし、その国家に対して「個」の機能を発揮できない我われの「種に溶けた個」の問題なのかもしれない。
「種」とは、本来、「個」に対して働きかける無意識の束縛性(ミームである)を持って、自由に動こうとする「個」の自主性のと間に、「束縛即自由」の均衡を保つものだ。
→であれば「個」は「種」に溶けることはない。
そのため、「種」は「個」の自主自由な活動によっても、それ自身のトポロジーを変えない。
しかし、
『「個」は「種」に対する否定性を媒介としてなりたつものであるから、多様体にへばりついていてその構造のままに生きていることはできない。』
『このような自主自由な「個」によって、「種」に内在する不平等が否定されていくとき、「種」は自身で「類」に飛躍していくことが可能となる』(中沢新一,『フィロソフィア・ヤポニカ』 ,p158)
「類」とは国家である。
『国家に止揚させられた種は、個の平等化を媒介としてそれ自身も平等化せられ、種の異別を含んで一様なる人類の特殊普遍的なる統一を形造る。』(田邉元の言葉)(中沢新一,『フィロソフィア・ヤポニカ』 ,p159)
しよう(シヤウ)【止揚】―する二つの矛盾した概念を、一層高い段階で調和統一すること。アウフヘーベン。(↑)ハイブリッドだね。Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997
つまり、国家に押し付けられた「資本の理論」や「マーケット・ソリューション」や「グウローバル・スタンダード」は、『このような自主自由な「個」』の存在を許さないのだ。
それは、開発主義のような「ヒエラルキー・ソリューション」と同様な帰結であるが、なぜ「マーケット・ソリューション」もまた、自主自由な「個」の存在を許さないのか。
それがなぜかといえば、そもそも「資本の理論」が「種」を否定するからであり、「個」は「種的基体」にあることで「個」であるからだ。
「地域」は「種的基体」のひとつであることで、今も「個」の基体なのである。
「地域」という「種」が平準化(破壊と言ってもよいだろう)されることで、「個」もまた「種の論理」における自主自由な「個」ではなくなり、彷徨える魂と化すのではないだろうか
すべての個人が、例えばわたしのように可能な限り「地域」を捨てて生きていけるのだろうか(全部は捨てていない)。
それは否だろう、と思う。
ということで、今日は朝から頭の体操なのであった。
たぶん、「地方」の現状がわからないと、なんでこんなことで悩んでいるだと思われるだろうけれども、「種の論理」がわからないとお前は馬鹿か、と思われるだろうけれども、わたしのIT化論では、ずっと続いてきている思考であり、「公共工事という産業」を考えるには、まだまだ続ける思考なのである。
「種の論理」の理解は(↓)を読むしかない。
『フィロソフィア・ヤポニカ』
中沢新一(著)
2001年3月10日
集英社
2730円(税込)
2004/10/20 (水) ▲ ▼
【台風と競争しながら帰ろう】
6時40分起床。
飯田はくもり。雨は一時降るのを止めている。
昨晩食べたもの。
「団欒」にて。「参鶏湯」である。沸騰している。
これにカクテキを入れて食べるのだな。
ものすごくうまい。
「飯田屋台ラーメン」にて。「スペシャル」である。これで〆。
この後のせサクサクの天ぷらのチープさと言ったらたまらないぜ。
それから、ひとつ忘れていた。
熊谷さん、誕生日おめでとう。
彼は、たぶん昨日が誕生日だったはずで、お祝いをいうのを忘れていた。m(__)m
ということで、今日は取り急ぎ台風と競争しながら帰京する。
中央線は、台風には弱い路線なので、なるべく早K帰ろう。
2004/10/19 (火) ▲ ▼
【@飯島町】
午前7時起床。
飯島町は雨。ものすご〜く寒い。
今日は飯田に一泊して一献する予定でいたが、台風の影響を考えると今日中に帰京した方がよいかもしれない。
昨日の浅草寺は、菊供養の日なので、金龍の舞が奉納された。
息子が出ている関係もあって、午前中、浅草寺にてこのイベントをみて、昇竜にあやかろうと、鱗をぺたぺたと触り、いつもの喫茶店(その2)で昼食をとり、地下鉄、山手線と乗り継ぎ新宿駅へ。
特急あずさにて茅野駅まで移動し、その後は、レンタカーでのんびりと飯島町商工会館まで中央道を移動した。
■飯島町での講演
昨晩は、午後6時30分から2時間程、飯島町商工会・中川村商工会 両建設業部会合同の経営講演会にてお話をさせていただいた。
「IT視点からの県内建設業の未来」というお題をいただいていたので、IT化の話をさせていただいた。
※IT化とは、環境変化への適応度を高める、ということである。
わたしのIT化論は、「IT化=環境×原理」という方程式を使いその、環境の把握にミームを使い、原理の理解に哲学(論理)と数学を使う。
昨日は、最近使っている、「3つのミーム」から、長野県の現状という話をした。
それは、
・ネットワーク論(ランダムとフリースケールそして広くて薄い紐帯)
・インターネット社会におけるGC空間
・インターネット社会の生物学的観察
である。
そしてそこを貫くキーワードは「信頼」である。
講演終了後、皆さんで一献。
とても元気な方々が多い。
愛すべき方々たちである。
でも、地元の仕事さえも自分たちでできない。
テリトリーを破壊された種では個が揮発する。
この話は明日にでも書こう。
■FTPツールの不調
昨日はホームページビルダー付属のFTPツールの調子が悪くて、朝一番の更新ができないでいた。
LISTコマンドでエラーがでて、うまく繋がらないのである。
どうやら、サーバー側の情報を得る段階で止まってしまっているようなのだ。
そこでFFFTPを使ってアクセスしてみたら、これがあっさりと繋がる。
サーバーの使用容量を調べたら、50MB弱あったけれども、まだまだ空きは十分あるわけで、サーバーが満腹でないことは確かだ。
そこで、少しファイルを削除して、サーバー側の総ファイル量を46MB程度にしてみたら、これが繋がってしまうのであった。
仮説、ホームページビルダー(Ver.4)付属のFTPツールは、サーバー側の容量が50MBまでしか対応できないのじゃないだろうか。
■法政大学エクステンション・カレッジ補講(1)
今日は、まさたろうさんからのまとめ。
・まさたろう的まとめ
2,3年前に、当の社長が「これからは貧乏様、大臣様の時代が復活する」と言っていた事が「勝ち組、負け組」の事なのか?と思ってはいたものの、結果として「複雑系」の事なんだなぁ。。との結論に達するのである。
何故「勝ち組、負け組」なのか、その違いは何なのか?といった事にある程度結論が出たように思うのである。
(中略)
建設業協会としてはランダムネットワークを基としたクラスター(スモールワールド)を構築しなければいけないのであるが、その反面「個」の企業に対してはスケールフリーネットワークの中でのハブになれるような、指導をしていかないといけない。
それを見極めながら、やっていかないと協会としての種は自己矛盾を抱えていずれは崩壊してしまうから、非常に高度(揺らぎの無い視座、哲学)かつ難解(個の格差に対する柔軟性)な対応が求められるのである。
それが出来た時には建設協会としての「確固たる安心の世界」の再構築と「地域との信頼を基とした個々の建設業者」が生まれるのである。
(中略)
村上龍が「恋愛の格差」の中で「格差」や「不透明性」という言葉を使っているが、山岸の話を聞いている私たちにとっては、納得のいく話なので余り触れないが、「普通」という価値観が根底から変わってしまっている今の時代に、今までのようなデカルト的パラダイムに立脚した要素還元主義の方法論では答えを見つけ出す事は出来ないのである。いや、答えを求めようとする事自体が
違うのかもしれないのである。
つまり協会からみる「個」としての私たちはホロニックな存在でなくてはならないし、また会社の中での個人も同様にホロニックな存在でなくてはいけないという事になるのである。
これは師匠の言う「種の理論」であるから、今更説明の必要性は無いと思うのである。
種(会社)の個(個人)に対する方向や、進むべきかと思われる道筋もぼんやりとではあるが見えてきたような気がしているのである。
しかし、それを市場に対してどうするのか?と考えると不安な所なのである。
私たちの生きる公共建設市場において、ロックインというものが有るのだろうか?という疑問である。正のフィードバックが効くのか?という疑問と言っても良いのであるが、がしかし、それは今答えを出せるべき物では無いだろうという感じもあるのである。
何故なら、それも要素還元主義的な手法しか持ち得ない私にとっては答えを得る手法を持たないからなのである。
よって、「腹を据えて動き出せ、えぶりばでぃ」しか無いのである。
複雑系に答えは無い、しかし動かなくては環境が変わらないのである。
動く事によって出た答えがどうであれ良いのである。受け入れるだけである。
良い事にこした事はないが、あまり大した事では無いかもしれないのである。
良いのである。いづれの結果にせよ「語れる何か」が得られる事は間違いないのである。
わたしからの解説は明日にでも。
2004/10/18 (月) ▲ ▼
【法政大学エクステンション・カレッジ補講(1)】
午前6時40分起床。
浅草は快晴。
昨日は、中華街のよしもと面白水族館をみて、同發というお店で昼食を取り、石川町駅から、のんびりと帰宅した。
よしもと面白水族館は予想していた以上によくできている。
小さなスペースに小さな水槽が並び小さな魚が泳いでいる。
その展示は、ひとひねりもふたひねりもしてある。
水槽にはすべて出題がある。
しかしこの問題には答えはなく、曰く「答えは、あなたの頭の中と水槽の中にあります。じっくりと観察してみてください。」なのである。
センス・オブ・ワンダー。
センス・オブ・ワンダーといえば、懇親会を行った安楽園も、それを再確認させていただいた。
面白水族館とは目と鼻の先にあるので、日中の写真を撮りにいった。
場所は、中華大通り沿いの一等地である。
きらびやかな極彩色の店舗が立ち並ぶその中で、頑なに客が入るのを拒むように存在するその姿は、感動的でさえある。
本当は、内部も負けず劣らず感動的なのだが、まあ、中華街にお寄りの際は、是非自分で確かめていただきたい。
さて、法政大学エクステンション・カレッジ補講での、わたしの講義内容をPPTにまとめてみた。
これは、補講の前に作ったものではなく、終了後に話の内容をまとめたものなので、充分ではないが、話の筋は通っている、と思う。
興味のある方は、ダウンロードして、是非にご覧いただきたい。
たぶん、11・04第3回実験的勉強会(東京・サイボウズ社セミナールーム)での講演は、これを下敷きにしたものになるかと思う。
→BD041016.zip
しかし、このPPTには、とても理解しにくいところがあるはずだ。
それは、ステファヌ・マラルメの「骰子一擲」という詩に触れた部分である。
「骰子一擲」という詩が、円環的構造を持つことで、そしてマラルメの形而上学的思考が「偶然性」の理解への挑戦にあることで、それをわたしは、正のフィードバックという複雑系の理論と結び付けようとしている。
だが、たぶん、実際にこの詩に触れてみないことには、それはまず理解できないだろう。
「骰子一擲」は、偶然を否定もしなければ、肯定もしない。
この思考は、「あれかこれか」というような、風見鶏的な思考方法そのものを否定しているという意味で高度である。
そして、「でもあり、でもある」 「でもなく、でもない」というような、田邉元の種の倫理や、中沢新一のいう「ハイブリッド」と同じような思考を、わたしはそこに感じている。
『マラルメ詩が小さな帆船に乗り込んで漕ぎ出した、近代の荒れ狂う多様体の海は、百年後には比較的穏やかな気流となって、表層の全域にそのカオス運動を繰り広げるようになった。そのことは、もはや「高踏的」な知的エリートばかりでなく、インターネットを手にした多くの大衆の体験し、知るところとなったのだ。』
『マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張りめぐらせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した。』
『これに対して、ネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省の次元に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなているに過ぎないのだ。』
『それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。ハイブリッドの氾濫、それはまぎれもない事実であり、十九世紀末にマラルメのような人物がはじめて意識した問題は、いまや今日の大衆の実感となっている
』(中沢新一,『フィロソフィア・ヤポニカ』 ,p365)
しかし、これを「骰子一擲」から読み取るためには、同じくマラルメの遡ること約30年前の作品「イジチュール」を知らなくてはならない。
「種の論理」や「ハイブリッド」を知るために、少なくとも『フィロソフィア・ヤポニカ』は読んでおかなくてはならない。
なので、たぶん理解しにくいだろう、と思う。
さて、今回の講義の軸は、この「骰子一擲」からの形而上学的インスピレーションである「偶然」である。
注意しなくてはならないのは、マラルメの言う「骰子一擲」は、「偶然」の肯定ではない、ということだ。
骰子の一擲も、確率が働く世界である。
それは、一見ランダムに散る夜空の星が、北極星を中心としてある法則の元で運動しているようなものである。
まずは、ここに注意していただかないと、理解は全く逆の方向へと流れてしまう。
骰子一擲とは、人間の意志と精神(と能力)のことである。
骰子一揆とは、『マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張りめぐらせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した。』(『フィロソフィア・ヤポニカ』)ということである。
だから、『全思考は出発する骰子一擲を』なのだ。
ということで、今日はマニア1号さまのレポートを掲示し、わたしの解説は後日に。
【骰子一擲の哲学】
桃知さんのマラルメ解説的補講
偶然を繰り返していくうちに必然になる。(つまり偶然を否定する)
これが2030年ほど前のマラルメの考え方であった。(注:訂正は桃知。講義では20年前と言ったけれども、「イジチュール」は約30年程前の作品である)
しかし、死の一年前に「偶然も、必然もある」というようになった。
我々はどうしても、黒か白かの両局に走る。
マラルメや田辺、中沢の哲学は両局にはしり偏るものではなく、「入口即出口」あるいは「無限ループ」のように両極を行き来するものである。
特にマラルメは、一見して普通に読むと偶然を肯定しているように見えるが、実は偶然を肯定しているようにみえて否定している。
バラバシのネットワーク理論
つながり(Network)は偶然である。これをランダムネットワークという。
→(つながりの)すべてが偶然によって支配されている。
我々が前提にしているネットワークはコレ。
偶然に支配されているネットワークは平等。偶然に身をゆだねているから。
→「大半のノードはほぼ同数のリンクをもち、多くのリンクをもつノードは少ない」
→これはヒエラルキーソリューション。
ランダムネットワークではない世界
・ネットワーク→広くて薄い紐帯。
広くて薄い紐帯には「楔」の存在がある。→HUB。
楔という人間の存在はHUBとなり「クラスタ型」ネットワークを構成する。
HUBになりうる人間が存在しないと「クラスタ」同士がつながらない。
玄田によると、「語れる何か」をもてる事がとても大事だという。
偶然性を破棄する要素・・・明るさ・・・語れる何かを持つ・・・という。
これが偶然性の破棄のひとつの表現形。
ランダムネットワークだから偶然に身を委ねられる。
偶然に身を委ねられれば、明るさも語れる何かも要らない。
しかし、現実はランダムネットワークや偶然だけでは語りきれない。
そこで、スケールフリーネットワーク(偶然を否定する)がどうしても必要になる。
法則性=パレートの法則(80:20の法則)上には上がいる、下には下がいる。
中間層は・・・ない。
大半のノードはごく少数のリンクである。少数のハブが膨大なリンクを持つ。
→金持ちはますます金持ちに、貧乏人はもっと貧乏人にという世界。
【そこで、建設業協会を考える】
建設業協会・・・これは、ランダムネットワークを前提にしたクラスタである。
協会員には出来るだけ平等に仕事を持ってくる為のもの。
しかし、個々の企業はスケールフリーに対応しないといけない。
つまり、そもそも自己矛盾してしまう。
この自己矛盾のなかでやっていくには「種の理論」を理解しないといけない。
協会がぼろぼろになると→低入札の繰り返し→自分で自分の首をしめる。
→みんながぼろぼろになる。
個々の企業がスケールフリーに対応しようと生きていく事で、結果としてランダムの世界に生きる建設業協会を救うことになる。
本来個は「スケールフリー」に働かなくてはならない(広くて薄い紐帯)
個が「ランダム」にはたらく安心の世界に走ってしまう事。
→個が種に溶けた状態。(個のエッジがなくなってしまう状態)
協会は内側に対しては徹底した「安心・平等」を提供する。
個々の企業はどんどんスケールフリーに、「薄くて広い紐帯」を作り出していかなくてはならない。
スケールフリーに適応できる能力
・友人を作る(玄田)
・消費者を捕まえる能力(バラバシ)
【 個々の企業を考える 】
スケールフリーに適応するにはどうしたらよいか?→答えは簡単
「リンク数」を多くする。たくさんリンクを持ったものが勝ち。
スケールフリーの特徴:方向性がある。ある強力なリンクをもつHUBに向かう。
たくさんリンクを持っている人(桃知さんのいう「楔さん」)の特徴
高信頼者:相手が信頼できる人物かどうかを見極める力が高い。
相手に信頼してもらえる能力が高い
→情報が見える能力が高い
どうしたら多くのリンクをもてるのか(HUB)になれるのか?
Y=aX 係数a、マリアビリティを高める。
情報を発信する能力を高める。
ここにIT化の指針を持ってくる。
●所感
骰子一擲・いかで偶然を破棄するか・・・・
(↑)を読み返してみると、自分としては「わかった」ような気にはなれる。
しかし、これを他人にわかりやすく説明できるか・・・というと明らかに無理であろうと考える。
つまり、「偶然に支配されている狭く小さい自らのネットワーク」を、「無数のリンク(人とのつながり)がある(広くて薄い)ネットワーク」に開放する。
骰子一擲とはその自らの「行動」(具体的には「語る」、「語る力をつける」)の定義である、と理解した。
企業という「種」においてはそれを構成する社員という「個」がそれぞれ、どんどん「自分という個」を広くて薄い紐帯に開放してゆく。
社員個々がそうしてスケールフリーに向かって突き進む事で、会社という「種」も環境変化という現実に対応が可能になる。
建設業協会という「種」においては、「信頼」の必要のない世界を構築する事がその目的の全てである。つまり、お互いがお互いを裏切らないと「安心」できる(他者(他社)を疑う必要性が存在しない)関係性を作り上げること。これがその目的の全てであると。
【長野県建設業界の状況 宮澤建設・宮澤さん】
長野県の最近の具体的事例をもとに、素朴ながら非常にわかり易く長野の建設業界の現状説明をしてくださる。
●所感
事例発表の枝葉に拘泥せず、現実を肌で感じる受講態度に徹して聞いた。
田中知事就任直後の、相互疑心暗鬼に基づくヒステリックな状況からは落ち着いてきている様子が伝わってきた。ただ、落ち着いてきたとは言え、落札率はとても利益が確保できるものではなく、相当の利益を見込んだ札ではとても落札できない。長野の業界全体が疲弊しきっているは実感を伴って伝わってくる。
行政・建設業者・県民、相互の信頼関係が崩壊するとこうなってしまうという姿がここにある。つまり誰も得をしていない、本当に誰も得にも幸せにもなっていない。
宮澤さんが思わず語った一言がとても印象に残る。
「目先の仕事を取る事に汲々として、他の事を深く考える余裕がない。」
これが全てなのかもしれないと思った。そして、
「事が起こってからでは遅すぎる。長野の轍を絶対に踏まない為に今すぐに行動を!」
という言葉には実感を通り越して「凄み」すら感じられた。そして最後に受講者に向け
「他県の悪い例を見聞きしておきながら何もしなかった長野の同業者を教訓として信頼の構築に向かわなければいけない」
と、いう言葉でまとめられた。桃知さんの最近のフレーズ
「動き出せ、えぶりばでぃ!」が実感を伴って伝わってきた発表だった。
ということで、今日は、飯島町商工会館で講演。
長野県である。
2004/10/17 (日) ▲ ▼
【@浅草】
横浜にて午前7時に起床。
青空が広がる良いお天気である。
これから、お風呂に入って、朝食を食べ、中華街の吉本経営の水族館を見て(昨晩行ったら閉館した後だった)、帰る。
京浜東北線でうだうだと移動したところで、小一時間。
のんびりと帰ろう。
昨日の、わたしのはなしは、帰ってからでもまとめたく思う。
では、良い休日を。
2004/10/16 (土) ▲ ▼
【今日は横浜へ】
午前4時10分起床。
浅草は真っ暗。
たぶん薄曇だとは思う。
今日は法政大学エクステンションカレッジの補習で横浜へ。
各地の現状をお聞きする予定。
たぶん、傷口を舐めあうようなものになるかもしれないけれど、
今、それを否定する必要もないだろう。
深く感じ入ろう、と思う。
現状を直視しないことには、骰子一擲は機能しない。
環境を理解しないことには、あらゆる方法論はただ水泡に帰すだけだろう。
ということで、今日のわたしのはなしは「骰子一擲」の予定。
マラルメのこの詩の日本語訳を、皆さんに配布できるように段取りしている。
だから、出かけるときに、上野のキンコーズに寄って、モノを受け取っていかなくてはならないのだけれども。
今日の会場はSGSさんからご提供を受けている。
懇親会は、中華街の安楽園。
そして横浜に宿を取っている。
今朝は、ずっと爪切りを探しているのだけれども、どうも見つからない。
▼
■桃知商店謹製■
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