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店主戯言041202  2004/12/11 〜2004/12/20 "There goes talkin' MOMO"


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2004/12/20 (月)  
【悪党・ハウルの動く城を観る】

7時起床。
浅草は曇り。

たぶん、やらなくてはならないことは山積で、ある意味追い込まれている状況なのだけれども、やはり気になるので、昨日、ハウルの動く城を観てきてしまった。

ハウルの動く城 オリジナル・サウンド・トラック

久石譲









しかし、この映画は、どう観たらよいのか。
すべてがばらばらで、展開が唐突過ぎる、というのが第一印象だ。

宮崎駿氏のオリジナルかと思いきや、原作は、ダイアナ・ウイン・ジョーンズという英国人の、『魔法使いハウルと火の悪魔』という作品であるらしく、勿論、そんなものは読んじゃいないし、ジョーンズさんもまったく知らないわけで、しょうがないので、ただ、観ることにした、のだけれども、「恋」を描いたにしても(ラブ・ストーリーだとの事前情報あり)、なにか展開が唐突なのだ。

「千と千尋の神隠」や「もののけ姫」にあった、フィロソフィア・ヤポニカ的な世界は当然にない。

上質なラブ・ストーリーにあるような、恋の芽生え、心の開放のようなものもが描かれているわけでもない。

唐突に恋が始まる。
それは過程がない、といってもよい。

唐突は「即」である。
哲学的思考の中では、「即」はそれこそ「即」行われる。

入口即出口、裏即表、のように。

しかし、エンターテイメント、芸の世界では、「即」はない。
それは常に身体性を伴うものを描くからだ。

だから、変身は過程を描かないとリアリティをもてない。
仮面ライダーも、ウルトラマンも変身を詳細に描くのだ。

日本的な芸能が、過程を描くものだとすれば、この映画には日本的芸能の妙はない(まあ、それは原作の問題だろうが)。
だとすれば、どう観るのか。

見方によれば、動く城は子宮のメタファーなのかもしれない。
それも四つの生みわけができるものとしてだ。

ここから考えていくとかなりの深読みができるのだけれども、そんなことをやっていたら、一日中考えていなくてはならない。

たとえば、ひとつやってみようか。
その城(子宮)の中に棲むのものは、この世のものでは、あらざるものたちである・・・。
ハウル(魔法使い)、カルシファー(火の悪魔)、マルクル(ハウルの弟子)、カブ(かかし)、荒地の魔女、ヒン(へんな犬)、そしてソフィー。

主人公のソフィーは、荒地の魔女の呪いで、18歳でありながら90歳の肉体(と心)をもつ。

18歳即90歳なのである。
しかし、宮崎駿は18歳と90歳という両極の間を、行き来する、年齢のないものとしてソフィーを描いている(映像にもそれは現れている)。

それは、年齢を持たざるものとしての、永遠の胎児でもあるようにだ。
それは、胞衣に包まれた胎児。

・・・まあ、こんなことを考えていたら、わたしの一日はそれだけで終わってしまう。

なので、ポジティブに感じたことでまとめてしまおう。

それは、接吻は素敵だ、ということだ。

ハウルの寝室は、まるでクリムトの絵にある、崩れ落ちそうな宝石の例えのように思えた。

ソフィーのキッスには、クリムトの描くようなエロスは微塵も感じないが、ハウルに心を与え、荒地の魔女のあらぶる欲望を抑え、かかしを王子に戻す。

それはまるで、変身のための装置のようにだ。

と言うよりも、
ここで先ほどの子宮のメタファーを引っ張り出せば、ソフィーのキッスは、第二の出産(誕生)の装置なのである。
そして、わたしには、この映画は、接吻の賛歌のように思えるのだ。
それは、第二の誕生の装置としてだ。


うどん☆人2号さまより。

すぎの味噌味うどんすきも、初めてでしたが、
七味唐辛子を沢山いれて、熱々をいただくのは
冬場に最高ですね。

夜自宅に戻ってから、大阪の人と話しをしましたが、
日頃「東京の...」というだけで、「なんや、けったくそ悪い」と
反感を持つ(笑)大阪人のくせに、
昨晩の事の話しや江戸の文化には大いに興味を持ったようです。
奈良で江戸文化を知る会?があるとおっしゃっていましたが、
なんとなくわかるような気がいたします。

様式(かたち)の事も、さにあらん...ですね。
もともと日本は柔道や茶道、華道...みな様式(かたち)から
入って習得していったのに、最近は
なにか簡単にそれらしき事ができてしまう仕組み?が提供されて、
「様式(かたち)」ではなく「〜風」「〜のような感じ」が反乱してしまっていると
つくづく思います。

私のお客様の中には建築パース(完成予想図などをパースペクティブに描く)
に関わるお仕事の方が沢山いらっしゃいますが、
同じパソコンを使ったCGでも、元々手書きでパースを描いてきてCGに移行・併用している方と
CGが普及して一定のパラメータを入力することで、誰でもできるようになってから始めた方とでは、
同じものを描いても全くちがう結果です。
手書きからのベース、徹底した図法・画法(様式)の習得をしてきた人の作品は、
たとえ平面的な画像であっても、そこに空気感があったり、透明感が感じられます。
様式(かたち)があるからこそ、できる表現ですね。

年末とはいえ、まだ納期が月末の件もあり、
どうも年末気分になれずにおります。
普段の御多忙の上に、さらにご多忙がかさなる時期、
風邪などおひきになりませんように。
また新年会を楽しみに伺わせていただきます。

御礼まで。

(p.s. 広島、大阪、二子玉川、浅草と続き、本日も忘年会でございます!)

新年会も、美由紀さんをお呼びしているので、また遊びにきてください。

2004/12/19 (日)  
【悪党・種に触れる】

7時40分起床。
浅草は晴れ。
でも、寒そうだ。

昨晩は、予定通り、わたしんちの忘年会で、気の置けない方々と、春風亭美由紀さまと一緒に、午後7時から12時までね、5時間ほど、まったりとした時間をすごした。

わたしはこれがやりたかったのだ。



皆さん、連夜の忘年会のようで、少々お疲れの様子だし、
だからね、まあ、こういうまったり、もよいだろうと。

そして、ほんとに、わたしは、まったりと―こくのある味わいが舌ざわりよく口の中に広がって行くような―時間を過ごしたのだ。

美由紀さんの芸は、確実に進化していて、昨晩初めて「踊り」をみせてもらった。
高座で、踊りを見せてくれる師匠連中も少なくなったことだし、色物として自分の芸に幅を持たせるにも、それは、とてもよいことだと思う。



そして思ったのは、芸っていうのは、「かたち」なのだ、ということだ。
様式の美なのだ。

それは、フォーマットではなく、様式(「かたち」)なのだ。
それがなくては、なにも成り立たないものとしての様式なのだ。

フォーマットが個を殺すものなら、様式(「かたち」)は、個を生み出すための基底なのだ。

様式を身につけるには、身体で覚えるしかない。
それは、繰り返し行われる、稽古であり訓練である。

身体で様式を覚える。
身体に様式を染み込ませる。

けれど、それは、個を殺すことはない。
それは、様式を身につけると同時に、それを足場とした個を主張させる。

己のどうしようもない身体としての特性は、表現の中に必ずいずる。
それが個性だろう。

つまり「個」の基底としての「種」が様式なのだと。
そして、様式という基底がなければ、芸を楽しむこと、つまりその個性を感じることさえもできない。

ああ、と思った。
酒で、壊れかけた脳みそで思った。

俺は、リアルな種に触れたかったのだ。

土曜の夜、浅草で、種の論理が一層のリアルさをもって鼓動を始めた。

宴が終わり、帰り道。
冷たい外気に触れながら、思うのは、日常における種の希薄さ。
(と同時に個性の希薄さ)
我われは、なにを種として生きているのだろう。

2004/12/18 (土)  
【帰宅】

とりあえず、無事に帰宅。

くりちゃんから。

からし、いいですね・・・・。
もう、うんこにしか見えないです、わたし。

北海道、すごいことになってるんですね!

くり、今HP作ってよかったなぁー、と思えることに
遭遇してます!たいしたこと?でもない感じのことですが、
縁は、ひょっこり現れるんですね・・・・

それでは、雪でコケんようにしてくださいね。

※ママさんかっこいいですね!!
うしろのオジサンは、なんだかなぁ・・・ですけどっ(笑)

ではでは股っ。

・・・・・・ (ーー;)


【悪党は北海道が好き(円環的文)】

8時起床。
千歳はキーンと寒く晴れ上がっている。

昨晩、午前2時ごろ、窓の外に滑走路を見れば、沢山の除雪車が稼動していた。
北のインフラはこうして守られているのだな、と感動した。


(↑)今朝の新千歳空港(午前8時ごろ)。
滑走路にはガスがかかっている。


(↑)一昨日食べた、岩見沢は三船のとり鍋。
これは何度かこの戯言に登場しているけれども、いつ食べてもおいしい。


(↑)昨日、空港に向かう途中にであった、キャタピラを装着した自衛隊の車両。
公道を走っていて、これも北海道らしい。



昨晩は、東京に帰れなかったわたしを不憫に思ってくれたのか、秋野さま、A木さま、UW@GOTOさま、まにあ・1号さまが、楽しい時間をつくってくださった。

千歳近辺で飲むはずが、結局はススキノに行ってしまっていた。
写真は、ススキノの誇る?「ラウンジいずる」のオーナーママ。
はっきり言って、大先輩。
けれども、とてもかっこよいし、尊敬している。

その後、まにあ・1号さまの運転で、新千歳空港のホテルに帰ったのだけれども、外気はマイナス6℃。
そして、ホテルの窓の外に滑走路を見れば、沢山の除雪車が稼動していた。

【追伸】

昨日行った、原田さんのお店、「渇」のカラシ。

2004/12/17 (金)  
【悪党・諦める】

新千歳空港は大荒れで、結局、予約した便は欠航。
空席待ちを午前中で諦め、明日の便に予約変更。

ターミナルビル内のホテルに部屋を取り、まったりと仕事をすることにした。



【悪党・心配する】

石見沢にて午前6時に目覚める。
岩見沢は穏やかな雪景色だけれども、札幌近辺は嵐のようだ。

果たして、帰りの飛行機は飛ぶのか。
岩見沢にて朝食をとりながら、心配しているのであった。



とりあえず、昨日食べた、岩見沢は三船の焼き鳥。
正肉とモツの二種類しかないのだけれれども、薀蓄を書いている時間もなくなってしまった。

8時には、まにあ・1号さまが迎えに来てくれる、ということなので、今日はここまで。

無事帰れれば、東京で
更新しましょう。
では。

2004/12/16 (木)  
【悪党・星を見て思う、若しくは空飛ぶピンクの豚】

6時起床。
外はまだ暗いけれども、浅草はよい天気のはず。
これから出かける札幌は、ん〜寒そうだ。

かつ美のホルモン定食
熊本は「かつ美」の馬ホルモン定食。桃熊会恒例の昼食である。
画像は、注文名「大中」。
つまり、ホルモンは大、ご飯は中だ。
これを大大中で食したのはこの方だ。→ハッシー
そして、今回は、この店での隠語をひとつ覚えた。
「あわ」 → ビールさ。
ああ、なんと気持ちのよい言葉の響きだろう。

和田亀さまより。
ごぶさたしております。栃建協の ”ボーズ宇都宮 "です。とは言ってもわからないでしょうね〜。

講習会⇒懇親会⇒二・三次会⇒何か食って帰る。この何か食って帰るときにたまにご一緒させて頂いております,ボーズ頭の(おーいお茶に似ている?)おとこです。

一番新しい記憶では、ぎょーざとあさりラーメン(辛いけど食べられますか?と聞いたら、ぜんぜん平気じゃ!とお答えになったが半分残した。)を食べに行ったような・・・・・。

まっ、そんなことはどうでもいい。なぜ私がペンをとったかといいますと、こんな文章を見つけたからなのです。


「僕らは子供達の世代に何を伝えていくのか?」

それがMGSシリーズの大きなテーマです。
MGS1では遺伝子(GENE)がテーマでした。親から子へ伝えられ、託される遺伝子、資質・・・。

ビッグボスのクローンであるスネークとリキッドの光と闇の戦い、それが示したものがまさしくGENEの可能性でした。MGS2では遺伝子情報には乗らないミームを扱いました。人の思想や感情、言葉、芸術、文化等・・・。

これらのミームをどう伝えていくのか?
アメリカ政府の規範が生物化した「愛国者達」はまさにそのMEMEを制御しようと画策して起こった大事件です。
では、我々が子供達に伝えるべきGENEやMEMEの基準は一体どこにあるのか? 基準はありません。時代によって時勢によって変わるからです。

MGS3ではそのGENEとMEMEの対情報を選択する上で重要な物差しとなる「時間/SCENE」をテーマにしています。
伝えるべき事の判断は常に時代によって変移するのです。
時代によって善も悪も、光も闇も、人の価値観も変わるのです。
そしてこの MEME + GENE + SCENE を体験して初めて「反核反戦」にたどり着くと思います。

歴史を知るものは未来をも創れる。
未来を創ることと、過去を語り伝えることは同じなのです。


これを読んで 『 MGS 』 がメタルギアソリッドとわかる人はよっぽどゲーム通ですね。

わたしはそれほどゲームはしませんが、このゲームだけはパート1、パート2と購入させていただきました。そんでもって近々パート3がでる!ときいたのでインターネットでさまよっていたところ上記のような文面に出くわしたしだいです。

こんなところで 『MEME』 なんて言葉に出会えて思わずにやけてしまった・・・・・・・。主人公のスネークの顔が桃様?に見えてきたらどうしたらいいんだ?

なんてくだらないことを考えながら、もう一度 『桃論 』を棚からひっぱりだした今日この頃です。深い深い・・・・・・・合掌

非常に、興味深いメールを、ありがとう。m(__)m

ミーム→←ムーミン
栃木では、沢山やりましたね。(笑)

「時間」について考えることは、とても面白いのですが、メールにある「時間/SCENE」というのは、時間というよりも、ある時間における場というか(哲学的な意味での)場所というか、つまり、自由な個の思考に対する拘束用件のことですね。

それをわたしは「種」と呼んでいるのです。

個は種のミームの中で育ち、種は個の変化によるニーム変化を内包している、ですね。

個は、「時間/SCENE」のミームの中で育ち、「時間/SCENE」は個の変化によるミーム変化を内包している、でもいいわけです。

つまり、転がる石たちの場(種)には、苔は生えない。
でもミームは、確かに進化(進歩ではない、ただ自己複製し累積進化)している。

個がどのように自由な存在であっても、基底を種に置かざるを得ないことで、個の思考はスコープされてしまいます。

スコープがなければ、それは無秩序であり、カオスでしょう。
でも、スコープが強すぎれば、それは専制や独裁といったものになるのでしょう。

しかし、どのような専制でも独裁でも、権力がなすべきことは、殺さずに生かしつづけることなので、生かしつづけながら統制するために、ミームを使うのです。

この「時間/SCENE」(種)による、個への拘束が強いほど、個は変化しないし、従って種も変化することはないように思えるでしょうが、それも長〜い目で見れば必ず変わる。

つまり、個が生きているということ自体が、種の否定の根源なので、どんなに拘束が強い種でも、永遠に変化しない種はないのですね。

「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。」ときたもんだ。(笑)

ただ、ビジネスにおいては、
平家物語の時代に比べ、環境変化のサイクルが短い(であろう)今という時代では、そして、「悪党」としての技術を駆使しようとする我われは、さらに言えば、資本の理論に触れてしまった我われは、その変化する種と個の関係(種の論理)をうまく活用しようとするのでしょう。

→ファロスの悦楽としての資本の増殖のためのコア・コンピタンス
→その増殖のために、我われは純粋贈与の領域にまで手を突っ込んでしまおうとしている。
→個の領域においてです。

変わるためにですよ。

じゃないとね、(特に)種にとっては、このスケール・フリー性の高い環境では、致命性になる確率が高いのだと思います。

種が永遠だとすれば(まあ、そんなものはないでしょうが)、それは運良く、変化し続けることができたから?程度のものかもしれないのです。

こう書くと、変わるのが種で、種がなにか意識を持って自主的に変化しているように思えるかもしれませんが、種は規模が大きくなればなるほど変わらない力学が働きはじめます(それは個が多様だからですが)。
つまり、変わるのは個でしかないのです。

たぶん、わたしは、生きている限り変わろうとするのでしょうが、わたしが生きている限り、不変なものもあるわけで。

天文ソフト「Stella Theater lite」で作成

ということで、今日は空知建協広報IT委員会。
夜は、忘年会。
今日のおもとはこれか。
正式名は、「ピッグ・エンジェル」。
でも、わたしが使うと、「空飛ぶピンクの豚」ってことだろう。

まあ、ぴったしだとは思うが。(笑)







2004/12/15 (水)  
【悪党・朝寝坊。でもちゃんと書く】

熊本にて8時30分起床。
熊本は晴れ。

くりちゃんから。
長いんですけど、わたしにはわかりやすい文章だったので、貼り付けます。(全文ではないですが、一部)
「現代建築研究所」というところの代表で、平野暁臣(あきおみ)さんという人の文章です。(六本木ヒルズのアリーナのプロデュースとか、しはった人だそうです)

(ざっくり)

アイデアが生まれるのは、往々にしてリラックスした会話に熱中しているときなのだ。
参加者が時間シンクロしている状況をつくり出せれば、会議は単なる情報共有に向けたコミュニケーションの場から、付加価値を生み出すコラボレーションの場になる。

(ざく)

                    ☆  ☆  ☆

『人の話を聞いているだけでは、決してコラボレーションは起こらない。
コミュニケーション、つまり情報の伝達ばかりに血道を上げても付加価値は生まれないのである。 』

というところが、普通に私には、わかりやすかって、
コミュニケーションと、コラボレーションは
なんだろうか、と。

なんか、こう、もう一歩前にでる、なにかありそうな感じがしたのですが・・・
それがなんかは、まだわかりません(笑)

でも、その、ももちさん関連の建設会社さんとか
ホームページとか、見たり、聞いたりとかしてると
そのコラボレーションしてってるってことなんかなぁ、とか。

あれこれ、試してやってみて、とか。
これは、続けていこうとか、もうちょい違う方法は?とか。
あ、建物建てるってこと自体、コラボですか。あー。


今日の店主戯言の
人生は、運命と偶然のハイブリッド

で、ハイブリッドて、あー!と思いました。
単語の意味は知ってても、なんというか、あたまの中で
植えつけられてない感じで、気持ち悪かったのですが、
今日ので、あー!って(笑)おそー。

「考えるIT化」は、コミュニケーションとコラボレーションをハイブリッド化してしまっている。つまり、そこでは、情報としてのミームである言葉をこう考えている。

言葉→コミュニケーション・ツール
 →コミュニケーション・ツールとしてのIT化
 →これは、効率化と合理化を求める

言葉→考えるツール
 →考えるツールとしてのIT化
 →これは、効率化と合理化を、第一義に求めることはない

こんな言葉の複数機能性は、私たちの脳が(少なくとも言葉に関する限り)、この二つの機能を同時に持ち、同時に稼動処理可能であることを示している。

そして、コラボレーションは、基本的にはハイブリッドな言葉による、環境(他者)を伴う、共進化であり、共振化であり、共深化でり、アイディアとインスピレーションが生まれいずる場であるだろう。(まあ、これが「考えるIT化」におけるイントラネットの意義だけれどもね)

これを、清水博氏に倣い「オリジネーション」(創出)と呼ぶなら、これは生命の本質にかかわるものだろう。

『生命システムが生きていくためには、環境のなかではじめて経験する未知の変化に適切に対応していく必要がある。環境における変化が起きた場合、その対応が適切であれば生命システムは生きのびることができる。環境は刻々と変化していくから、あらかじめ用意した情報だけで、新しい変化に対応することはできない。そこでオリジネーションが生命システムの重要な性質になる。』

『ここでオリジネーションというのは広い意味での自己デザイニングである。あるいは、別の言葉で言うと自己自身を表現すること、つまり新しい自己の状況を語ること(ナレーション)である。そのナレーションは、外からの情報に反射的に反応して表現することではない。それは、全体として完結した意味を持つ情報を、自分自身の内部に蓄えた知識をベースにして、一定の法則性に従っておきるその内在的なダイナミクスによってつくりながら外へあらわしていくことである。』

『ここで「完結した意味」ということが、生物のためにとくに重要である。それは筋(ストーリー)として意味をなしているということである。意味やはたらきのうえでまとまりがあるということが、生物が一つの独立した自己をもち、外界に対して適切に対応していくために必要であることを指摘しておきたい。』(清水博,p14-15)

生命と場所新版 生命と場所―創造する生命の原理

清水博(著)

1999年3月16日
NTT出版

3150円(税込)




本質は自己が自己を創出することにあり、それをソフト的に見れば、自ら情報を作り出し、その情報を表現する、ということなのである。

それは、玄田有史氏が言うように、語れるなにかを持つ人は、ステキだ、ということでもあり、この本質的なものが、広くて薄い紐帯を作り出すUHBとしての「私」の本質なのだ。

彼らが人をひきつけるのは、運命と偶然と意識のハイブリッドから派生する現実を直視し、打ちひしがれても、ぼろぼろになっても、飽くことなく、何かを繰返しながら、生きてきた人たちだからだ。

そんな方々の言葉は、無限小をまとう言霊となって響く。
その時、無限小を「パッション」と呼んでもよいだろう。

「パッション」が伝わり、情報を受ける方も「パッション」を持ちえる。
それは、生命的なダイナミズムを持った組織(種)や個に共有した特徴だろう。

ではそれは、何によって可能となるのだろうか、と考えると、それが、データの共有を超えた、「反省の行為の共有」という、イントラネット(やblogを)使った、「考えるIT化」に収斂しているのが、今の私。

ただ、「考えるIT化」は、哲学的な思考を伴うIT化という意味であり、こうすればああなる、というような機械的システムはもたない。

つまり、「考えるIT化」は、パッションを持ちえた方々のIT化であり、「考えるIT化」は、パッションを維持しながら新たなパッションを生み出すにはよく機能する。

しかし、まったく何もないところから、パッションを生み出す装置ではない。
なので、今のところ、パッション発生スイッチは、わたしの芸という位置づけ。だから、わたしは情熱を絶やせない。
まあ、そこが弱いところであることは十分承知しているけれども。

インスピレーションINSPIRATION

ポール・ゾロ(著)
丸山京子(訳)

2000年12月
アミューズブックス

2625円(税込)



コラボレーションによって生まれるだろうインスピレーションは、無意識から生まれいずる。しかし、ただ生まれることもない。
「全体として完結した意味を持つ情報を、自分自身の内部に蓄えた知識をベース」にする必要がある。

それは、12月12日の戯言に書いたS&Gのライブのように、音楽の世界でより顕著だろう。
キャリアとか、年輪とか、鍛錬とか、訓練とか、経験とか、そんな身体に染み込んでいるもの(身体で覚えるもの)が、その基底となっている。
(その意味では、逆に、若さ、未熟さも、美しい表象を生み出す可能性のある無意識であるのだろう)

しかし、そこにさえ、意識は必要なのだ、と思う。
それは、無意識を指向する深い意識とでもいうものだ。

例えば、感性は、磨ける。
意識的にだ。

磨かれた感性は無意識をさらに刺激するだろう。

それをわたしは、時代を「俯瞰」するポジティブな個の姿勢だと考えている(最近何度も出てくる「俯瞰」に関しては、後々詳しく書きたい)。

意識が、無意識に触れるところで、ポテンシャリティー(潜在力)は、ようやくその姿を見せてくれるものだろう。

それはオリジネーション(創出)への潜在力だ。
それは可能性ではなく、潜在力なのである。
ただ潜在している。
それは、あらかじめ備わっている(可能な)ものではない。
ただ潜在している。
それは、運命と偶然と意識のハイブリッドからうまれいずる。
しかしそれは、いずるべくしていずるものではない。
つまりそれは、自然的な発生でもない。
「意識的」とは素手であり、自然(無意識)に隠されたものを、わしづかみにしてあらわにしようとすうる技術だ。
だから、それを志向する者は、最初からハイデッガーのいう技術を孕むという意味で「悪党」なのだ。

その(「意識的」と無意識の)ハイブリッドの加減で、ようやく、なにものかが、その芽を息吹きだすのだろう。
それは、あらかじめわかりきっているベクトルをもつこともなく、ただ、うまれいずるだけだけれども。

しかしそのベクトルへの、私たちの「意識的」の、かすかな執着が、骰子一擲なのだろう、と思う。

だからこそ、ともすれば、悪党的なものへと走る欲望を、放し飼いにはできまい。
そこには、倫理も哲学も必要なのだ。(哲学のあるIT化)

だから、わたしは何時も思う。
わたしに孕む悪党的なものを含めて、わたしは、わたしの無意識を、「意識的」をもって飼いならしたい、と。

そして、それは、時代を俯瞰するポジティブな個の姿勢からしか生まれ得ない、と(そうしたところで、それはほんのわずかな変数でしかあり得ない、−だからなおさらなのだが)。

そしてその個の基底はいつも種にある。(種の論理)
桃組は、いつもそんな(バーチャル時々リアルな、ハイブリドな)種でありたいと思う。



ということで、これから人吉へ。
帰りは、鹿児島空港から最終のJAL便の予定。

2004/12/14 (火)  
【悪党はカオナシが嫌い】

午前5時20分起床。
外は真っ暗。今日は晴れの予定。
だいぶ声は戻ったけれども、本調子からは程遠い感じ。

(↓)仲見世にて浮遊してみる。
福助

ねえさんから。

はて、「匿名」と「芸名」の違いはなんだろぅ?

これは、昨日のblogの記述に対するものだろう、ということで、わたしの返信。

芸名は顔が見える。
ある意味、売れちまった芸名は、本名よりも強烈に、その個人を特定するのさ。

匿名は顔が見えない。
カオナシ。
匿顔性。
ここで個人は消えるのさ。

そしてねえさんからの返信。

誰かがカオナシの私と出会いたいと思っても、
それは現実、無理な話だもんね。

そうさ、
インターネットのリアリティの無さ、脆弱さは、匿顔性から生まれる。
つまり問題は、匿名というようも、匿顔(顔が見えない−カオナシ)にあるのだろう。

しかしそれは、逆の相からみれば、利点と思われているに違いない。
「目安箱」的なもの。

でも、わたしはこれを嫌う。

その「利点」を、わたしは、<私>が中心軸を放棄したくないための(自己中心性)、若しくは、まったくそれとは逆の相、つまり徹底した利他中心性(利他主義)のための、レトリックなのだと考えている。

それはどちらも、自己が生きる場面性の放棄だろう。
そのことによって、逆に自分の居場所を確保しようとするのだろうが、その居場所は、子宮の中か、おっぱいと、うんこと、おしっこの、裸の甲虫としての<私>のメタファーだろうか。

そのこころは、ほんとうの<私>はあるのだ、という思いだろうか。

でも、<私>という中心性など、じつはないのさ。
あるとすれば、それは現実界にうごめく、<私>のこころの深く暗いところでうごめく、欲望のようなものだろう。

人間は、最初から独立したバラバラな個でもないし、種との統一性だけに生きるものでもない。

「場面において、異種のものと、さまざまに結びつく生。
そこには守ろうとして固執する貧相な自己はない。神経症的に発動させる正義もない。
驚嘆すべき他者も神も、他界のヴィジョンも要請されることはない。それ自身が多種多様に、姿を変えながら生きつづけるもの」(桧垣立哉)。

そこに気づけば、それにしがみつこうとすればするほど、逆に<私>の顔はどこかへ消えてしまうことにも気づくだろう。
→種に溶ける個、若しくは種に存在しない個(ばらばらな個)

カオナシに残るのは、インターネットという閉じない系とは対極の、閉じた系(種)としてのクラスターか、孤独というカオスだろうか、欲望だけが一人歩きしている。

それは、このスケールフリー性の強い時代に、それをフツーに生きたい私たちにとって、何も生み出すことのない非フツーさでしかない。

カオナシは、他人の声で主張するだけで、自己否定することもないから、<私>は常に不変である。

たとえば組織(会社)がカオナシばかりだったらどうだろう。
当然に場(種)は常に不安が漂うだけで、自立的な変化ができるわけもなく、負のエネルギーを充満した風船のようなものになるだろう。
そして、種も個も、その普遍性−存在根拠−を失う。
ばーん!であるか、しぼむのか。

一方、ばらばらな個は、最初から種の存在でもなく、カオナシ人生まっしぐら、顔も声もないことで、自分を確認しているのだろうけれども、そのうち、自分の顔も声も忘れてしまい、いつの間にか世間に埋もれていくのだろう。欲望だけを抱えてね。

確かに、インターネットでは、日常的に、「作者の死」(バルト)のようなものが起きている。
個から切り離された言葉だけが一人歩きしている。
それは、カオナシの声としてだ。

その多くは、薄っぺらなテクストにしか過ぎなくて、無限小をまとわないただの文字列で、言霊になりきれない、迷える魂の破片だろう。
それらに触れるとき、読者は、いつもなにかの不安を感じる。

しかし、そこにF2Fのような、身体性(身体のイメージ)が伴うことで、またその言葉にリアリティが宿ることもある。
テクストに顔が見えるとき、言葉は無限小を再びまとうだろう。


ある意味、売れちまった芸名は、本名よりも強烈に、個を特定する。
それは「顔あり」だからだ
芸人は名を売り、顔を売る。

それは、名前と顔のイメージのマッチングが、対象となる個人を、ほかの誰でもない個人として認識して(思い出させて)くれるようにだ。

このとき芸人は、<私>という中心軸から、ずれているかもしれない、というかたぶんずれている。

でも、それでいいのさ。
本当の私なんて、深い暗闇の中でうごめく欲望じゃないのか。

だから<私>という中心軸を持たないわたしは、<他者>の中にいるんだ。
→のれん →人質としての信頼の担保

芸人は、それを最大に意識して行う技術を持った(持とうとする)悪党なわけで、そして<他者>の中に、<私>ではない「わたし」をつくり上げていく技術者なのだ(ハイデッガー的な技術の意味で)。

しかし、それもまた<私>以外の何者でもないのだけれどもね。
つまり、意識はたくさんの無意識に包まれている。

名前とは(芸名でも本名でも)、顔であり、<私>であらざるものを内包したハイブリッドなわたしの呼称だ。

それは、流れの中を俯瞰しながら、生きている、<私>という中心軸をもたない、しかし顔を持った個なのだ。

そのことを意識することで、リアリティは、あるように思えた途端に消えてしまうだろう。
けれど、ちょと目を離した途端に、またぼんやりと姿をあらわすんだわね。→超実数

その偏りのことを、<私>という中心軸からずれているからこそ、逆に強さ(リアリティ)を個に与えている、という意味で、匿名でない強さ→顔を持った強さ→バルネラブル、と考えてもよいだろう。

そして、その強さこそが、種と個の関係を形成する力なのだ、と思う。
カオナシには、この力は、ない。
カオナシの力は、いつも不安と隣あわせな、反省のない他人の声の自己主張だけで、そこに、時代を俯瞰するものの持つポテンシャリティーはないだろう。

しかし、始まりは、カオナシが造り上げる、閉じたクラスターやカオスであることも現実なのだわ。

それを、インターネットという閉じない世界に、かけがえのない個を意識しながら動く個が、開放しながらつないでいくことで、広くて薄い紐帯は生まれるだろう。

名前−確かに作者は<私>ではないものを孕む。
しかし、名前は(芸名でも、本名でも、ニックネームでも、ハンドルネームでもよい)、生きている限り、唯一無二なものとしての身体性(顔)を伴うことで、存在のリアリティを持つ。

わたしが、IT化において、広くて薄い紐帯といったとき、それは身体性を伴う、顔を持った個の紐帯である。

生きている私たちは、身体という枠をもったこころさ。
そして、まずは、身体(顔)にこそ「名前」がついているのさ。

ここにおいて問題は、顔を持った個は、種の中にいかに生まれるのか、なのだね。

閉じたクラスターの中にいるだけでは、カオナシはいつまでもカオナシのままだろう。

だから、では、どうしよう、なのだろう。
そして、少なからずの方々が、それには気づいていて、だから、芸人としてのわたしは、こうして存在できているのだろう、と思う。

そんな訳で(どんなわけだ?)、桃組は、F2Fを繰り返す。(笑)
身体性(顔)を確かめ合う。まるで野生動物だ。

そして、まるで子供のようにね、そのかけがえのない不恰好さ(これが個性だ)を確認しあう。

そうすることで、浮遊しようとする言葉は、少しだけ<私>に近づく。

と散々書いて、結局、落とし処はここ(↓)かい。(笑)(最低の落とし方だな)酒飲みの言い訳にしかなっていなかったりして。
2005新年会バナー

ということで、今日は桃熊会だ。
当然に今日は忘年会もある。
問題は、わたしの体調だけれども。
お気に入りのカエルのブローチ(その2)で出かけようか、と思う。

こいつは、少しだけ、ひきつけを起こしているけれども、今のわたしには、ちょうどよいだろう。ゲぇロ、ゲぇロ、だもんね。

2004/12/13 (月)  
【悪党、フォレスト・ガンプにマラルメをみる−骰子一擲−】

午前7時40分起床。
浅草は晴れ。

フォレスト・ガンプ Special Collector's Edition











昨日は、寒い日だった。

どこへも出かけず、2年ほど前に買った、「フォレスト・ガンプ Special Collector's Edition」を引っ張りだしてきて観ていた。

この映画については、何年か前に、一度、書いた記憶があるのだが、サイト内検索では見つからなかった。

たぶんそのときも、(↓)のフォレスト・ガンプのママの言葉を引用したはずだ。

「人生はチョコレートの箱のようなもの。食べるまで中身はわからない。」

有名な台詞なので、ご存知の方も多いことだろう。
わたしにとってこの言葉は、「骰子一擲 如何で 偶然を破棄すべき」(マラルメ)に匹敵するものだ。

というよりも、この映画は、マラルメの「骰子一擲」へのオマージュなのだと勝手に解釈している。

象徴的なシーンは、エビ取り船での嵐のシーンだろう。
ダン小隊長は嵐の中で神に挑戦する。
「この船はしずまんぞ!」と。

そして、彼らの船だけが被災を避け、フォレストとダン小隊長の船は大漁、そこからエビで会社を立ち上げ成功するわけだ。

(マラメルは、船長もろとも船を難破の海に沈めてしまうのだけれども、この作品で船を沈めないのは、神と喧嘩しているダン小隊長のことを知らなくてはならないだろう。それをここで書いている余裕はないけど、ひとつ書いておくと、彼はベトナムで両足をなくしている。まあ、知らない人は映画をみてね、と。)

そして、フォレストは、ジェニー(恋人→奥さん→豆と人参の関係)のお墓の前で言うのさ。

「僕たちには皆、運命があるのか。それともただ風に乗って彷徨っているのだろうか。」

「多分その両方だろう。その両方が同時に起きているんだ。」

(愛するものを失うのは、運命なのか、偶然なのか)

「死は生の中にある」(ママの言葉)

そうさ、人生は、運命と偶然のハイブリッドさ。

それは間違いではないだろう。
運命は遺伝子決定論か。
偶然は環境か。

でも、今のわたしは、ここにもうひとつの要因をプラスしたい。

時代を俯瞰するもののポテンシャリティー(潜在力)だ(ドゥルーズ−田邉元と書いてもよいだろう)。

ただ、これさえも偶然の支配が大きいのかもしれないけどもね、それは、ポジティブであることで、偶然とは違う。

そしてまたママの言葉。

「運命は自分で切り開くものよ。神様からの贈り物を生かしてね。」

「神様からの贈り物は自分で見つけるのよ」

骰子一擲
運命だろうが、偶然だろうが、わたしはそれを甘んじて受け容れよう。
そのポジティブさの中で、わたしは、わたしの思うような骰子の目をだしたい。

骰子一擲
如何に 運命と偶然を破棄すべき
されど 運命と偶然を 受け容れよう
わたしの 生として

そして 生きている限りの 無限ループ
全思考は出発する 骰子の一擲を


『桃論』へのメールをいただいた。
(ざっくり)

いきなりのメールで失礼かとは思いましたが、
桃論の存在を社員に教えられ通読したところ、非常に感激したため一言お礼をお伝えしたくメールいたしました。

(ざっくり)

(ざっくり)ばかりで申し訳ないけれども、この言葉をいただけただけでも、わたしは、『桃論』を書いてよかったな、と思う。
ありがとうございました。m(__)m

しか、先日、未来協議会の講演終了後、「種の論理」は、『桃論』に書かれていますか、と言う質問を受けた。

勿論、「種の論理」も、「骰子一擲」も、『桃論』後のわたしの思考であって、『桃論』にその姿はない。

「反省の行為としてのIT化」も、「考えるIT化」もそこには無いのだ。
2年も経てば、わたしも、変わってはいるのだね。

そこで、『桃論』後については、可能な限りこのサイトにまとめていきたいと考えている。

問題は、そのための時間であって、それをどうやって捻出するのかだ。
年末・年始で、ある程度やっつけてしまおうか、とも考えていたが、なかなか時間は取れないのが実情なのだ。


『桃論』後で、最近特に感じているのは、blogの可能性のようなものだ。
イントラネットが内向的で閉じたものである(それはそれで意味がある)のに対して、blogは開放系と向かう。

イントラネットで養った反省の行為、考えるIT化は、blogにおける<他者>の存在の中で試すのが早道かもしれない。
ただ、匿名性がどうしても気に入らないけれども、またそれも受け容れよう。

わたしも、一応ブログを開設してみたけれども、ここにこれだけ日記のようなものを書いていて、また別に書くのは時間的に無理だし、ここのものをそのままコピペするのも、あまりに芸がない。

それで、ちょっと違う使い方を試している(そのサイトは日記は別サイトを指定できる)。ヒントを書けば、それはレビューだ。

まだその場所は秘密だけれども(笑)、来年度の法大エクステンション・カレッジでは、今回開設したblogと同じものを、受講生の皆様にも使っていただこうかと考えている。

閉塞時における副次的矛盾の解決には、開放系に向かうのが一番の良薬だと考えている。
ただ、その問題解決方法は、もっぱら偶然に左右されるのは目に見えているのだが、だからこそ、反省の行為、考えるIT化にはうってつけなのだ。
「骰子一擲」
blogは、その身近で、簡単な実行手段としてあると考えている。

2004/12/12 (日)  
【悪党・感動する、若しくは、盲目的なS&G絶賛】

午前7時40分起床。
浅草は曇り。
まあ、まあの体調だけれども、まだ咳がおさまらない。






2005新春講演会&新年会のご案内を掲示しました。
浅草で、いつものように、楽しく、やりましょう。
沢山のお越しをお待ち申し上げております。


宇都宮の友人から朝鮮人参茶が届く。
彼は、わたしのこの戯言を読んでいて、朝鮮人参茶が切れたことを知って、わざわざ届けてくれたのだ。
贈り物には、使用価値以上のものがついてくる。


さて、問題は解決されるものではなく、常に提起されるものである、というはドゥルーズの言葉だったと思うけれども、そう考えれば、答えはいつでもないのだ。

ただ、時の断面だけがある。

時は流れ、その流れの中で、それを俯瞰し、私たちは如何にポジティブであるのか。

そんなことを、’03年12月に行なわれたサイモン&ガーファンクル(以下 S&G と記す)再結成ツアーの模様を収録したライブ・アルバムを聴きながら思った。

Old Friends Live On StageOld Friends Live On Stage

Simon&Garfunkel

2004年11月23日

Warner Brothers




Amazonに予約していたものが、予定通り9日に届いた。
DELUXE版を購入したので、ライブの模様を収めたDVDも付いていた。

DVDは、CDよりも収録曲は多いし、何よりも、CDにはない、二つのOpening Montage(それが素晴らしい、特にAct2の「Mrs.Robinson」への入りなんかゾクゾクする)が収録されている。

それに、CDではカットされた、The Everly Brothersのパフォーマンス 「Wake Up Little Susie」と「All I Have To Do Is Dream」 もちゃんと収録されていて、購入するなら、DELUXE版がお薦めだし、結局お徳だろう。


わたしは、小学生の頃に、初めてS&Gを聴いた。

それは、「El CondorPasa」(コンドルは飛んでゆく)で、当時住んでいた家の、二軒隣に住む年上の女性が聞いていたものだった。
天気の良い日曜日などには、よく聞こえてきたものだった。

美しいフォルクローレ(勿論その頃、これが南米の民謡だとは知る由もない)に、ただ、美しいメロディの曲だなぁ、と思った。
しかし、歌っているのが誰かなんて、興味も沸かなかった。

はっきりとS&Gというデュオを意識したのは、中学生の頃に聴いた、「The Boxer」だった。

それはある日、ラジオから流れてきた(私たちの音楽体験は、まるで「Yesterday once more」なんだよね)。
それは遺伝子が感じるとるインスピレーションのようなものだった。

ラジオから流れるその曲を、わたしの(たぶん)無意識の中にあるなにかが、しっかりと感じてしまった。

直ぐに、曲名とこのグループの名前をメモした。
この一曲で、わたしはS&Gにはまってしまったのだ。

それから(その頃、既に、S&Gは解散していたので)、後追い的に、わたしは彼らのアルバムを求め、むさぼるように聴いた。

そして、ソロ活動を続ける彼らと、同時代的に、彼らのインスピレーションの恩恵を受けながら、今まで、生きてきた。

年齢はだいぶ違うけれども、わたしは彼らと時代を共有していた。
(それは、王、長島と同時代を生きたと、いうような意味と同じ感覚としてだ)

そして、わたしの音楽遍歴は、基本的には彼らがHUBだった。
例えば、ポールの「母と個の絆」で、わたしはレゲィというジャマイカのリズムを知った。

それをきっかけに、わたしの民族音楽的興味はあふれ出した。
それは中南米からアフリカを越え、チョー・ヨンピル&テレサ・テンというアジアのポップ・スターまで及んだ。

それは今や、浪曲や、河内音頭や、新内、長唄、俗曲といった民族的な音にまで及んでしまっている。
(ゆえに、忘年会のゲストは春風亭美由紀さんなのだ?)

そして、2004年12月に(実際には、1年前の記録だけれども)、こうして、またS&Gのライブ・パフォーマンスに接することができた。

それは、わたしがかつて実際にみたり、ビデオで触れたりした彼らのライブ・パフォーマンスの中では、間違いなく最高のものだ。

美しいものを、思い出の中にしまっておいて、それをこっそりと開いてみることは楽しい。

しかし、生きるものの宿命として身体的な衰えは隠せない。
彼らは還暦を越え、わたしは46歳になった。
はっきり言って、ロック・ポップ的なものの中に身を置くには、いっさか歳をとり過ぎた。
アーティの声は衰え、ポールの頭は薄くなった。
それは、まごうことなき現実の重みだ。

しかし、ここにいる彼らは、時代を俯瞰するものとしてのポテンシャリティー(潜在力)を失う事のない、ロック・スターだ。

なによりもポール・サイモンのギターが素晴らしい!
(それはこのアルバムのジャケットが表象しているものだろう)

古い言葉をひっぱり出せば、彼のギターは
フォーク・ロック!
それも、21世紀に生きる、進化したフォーク・ロックだ。


「Kathys Song」のアーティの声とポールのギターがかもし出す、美しさ、せつなさは、なんだ。
(わたしにとって、このアルバムでの白眉は、「Kathys Song」と「The Only Living Boy in New York」」である)

わたしは少し前に、アーティのLIVE DVD「Across America」をみていたのだが、それは、極度に甘ったるすぎて、わたしには受け付けることができないケーキのようなものだった。

最近のアーティのソロは、衰えた声を補うように、アレンジに人口甘味料的な加工が過度に加えられていると思う(そんなわたしの、アーティのベストアルバムは「Watermark」)。

だから心配していたのだ。
このアルバムが、アーティ側に振れているのなら、わたしの中のS&Gは壊れてしまうだろう、と。

しかしその心配も、最初の「Old Friends/Bookends」で消えていた。
この「Old Friends Live On Stage」は、甘さが絶妙にコントロールされた芋羊羹のようなものだ。

アーティが、ソロで醸し出してしまうサッカリン的甘さは、ギリギリのところで押さえ込まれている。
そのことで、アーティのよさも、また、引き出されている。

それを可能にしているのは、二人の間に生まれる、良い意味での緊張感だろう。
それは、音楽家としてのポールのキャリアであり、
ポールのギターの素朴な響きであり、
そして二人とも良い意味で歳をとった、ということだろう、と思う。

この緊張感こそが、このデュオの魅力なのだ。
この緊張感こそが、わたしがこころのどこかで、長いこと待ち望んでいた、今という時代のS&Gなのだ。

それはまるで、彼ら自身がメロディであるかのように、だ。
メロディのリアルさは、それを構成する個々の単位に分割すると消滅してしまう。

それと同様に、二人の間の緊張感が生み出すリアリティは、ポールとアーティの、個々の構成要素に分割して、それをまた、単純に足し算しただけでは生まれえない。

個々のソロを聴いて、それを頭の中で足し算するようなことをしても、それはS&Gではない。

1+1>2
こんな陳腐なたとえが、このデュオには、リアリティを持つ。

音楽が楽しいものであり、一緒に歌うこと、コラボレーションすることが、ポジティブさを持つものであり、そしてそれが、ポテンシャリティー(潜在力)を生み出すことを、再確認させてくれる。

時は流れ、その流れの中で、それを俯瞰し、私たちは如何にポジティブであるのか。
彼らも「転がる石たち」なのだ。
興味が沸いたなら、是非お聞きくださいませ。

2004/12/11 (土)  
【悪党・喜ぶ】

一通のメールで、悪党は喜ぶのだ。
(ざく)
先生、大丈夫ですか?
昨日の先生は、とてもお加減がすぐれないご様子で、尋常な状態とは思えませんでした。
私どもに対するお気遣いでございましょう、食事会までもお付合いくださいましたが、これが先生の体調を悪くしてしまったのではないかと、気が気ではありません。
一見、豪放磊落ながら実はとても繊細な先生、どうかゆっくりとご養生ください。

昨日の勉強会は、とても評判の良いものでした。
企画者である菊地地区幹事は皆に「良い事業を実施した」と褒められておりました。
講義の内容も、解りやすい、興味を削がれることのない展開(たとえば先生自身のお話など)、エキサイティングな内容(ちょうど良い範囲でタブーに触れる)等々、とても楽しめるものであったと思います。
発注者の方々も、真剣にきいておられたようです。
協会側の出席者は、実はこれまで先生のお話を聞いた事の無い者が大半でした。
未来協議会の活動拠点である水戸からみれば辺境にあたる県西地区においては、全県規模での行事に出席するのが物理的に難しく、今回のように先進的な講義に触れる機会もなかなか無いのが現状です。
菊地幹事の英断により、今回、先生をお招きしての勉強会を開催できたことは、今後の地区会活動にとってもまことに有意義なものであったと思います。

先生、どうもありがとうございました。
(ざく)

桜井会長、菊池様、そして県西地区の皆様ありがとうございました。m(__)m



【悪党の卵(らん)壊れる】

8時起床。
浅草は晴れ。
声はますます枯れていく。

取り急ぎ、改ページをしてみた。
最近意識して画像を多用しているので、どうしてもページが重くなってしまう。


昨日の、茨城建協建設未来協議会県西地区さまでの講演は、近年稀にみる悪コンデション。

ご聴講の皆様には、お聞き苦しい声で、ご迷惑をかけてしまった。
とにかく声がでない。

流れの中に身を置き、その流れを俯瞰し、そこからのポテンシャリティーにかけるのが、わたしが築き上げようとしている芸だとすれば、全てはポジティブに、動き出すはずだった。

環境は、己のポジティブさによっては、敵にもなるが、味方にもなる、ということだ。
流れの中での俯瞰、ポテンシャリティー(潜在力)、それが骰子の一擲だ。

そのときのわたしは卵(らん)である。
卵としてのわたしのポテンシャリティーは、わたしの身体的不調を越えるはずだった。

しかし、そんな気持ちとは裏腹に、身体はいうことをきいてはくれない。
なんとか3時間の講演を終えたが(途中で咳止めの薬を飲む)、懇親会では、全く声が出なくなってしまっていた。

それはハッとする瞬間である。
自分の声を自分で聞いていて、違和感に包まれる。

声の出ない、喋る芸人を暖かく扱っていただいた、未来協議会の皆様には、深く感謝申し上げたい。m(__)m



20:16 東武動物公園発のりょうもう42号に滑り込み、9時前には浅草に戻った。
早めに休んだ。

ところで、東武鉄道のりょうもうは、行きと帰りでは、料金が違う。
行きは1070円、帰りは870円。
なぜだ?

今日は、これから、来年1月22日に予定されている新年会の案内を作成する予定(体調と相談しながらだけれども)。
お昼に来客あり。
町内会は、餅つき大会。

momo
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