一お連専用カウンター次の切番は1000000→


店主戯言050301  2005/3/1 〜2005/3/15 "There goes talkin' MOMO"


インデックスSelf Talking INDEX| 今日の戯言 | 2005年2月下旬へ | 2005年3月下旬へ著作権店主へメール
ももこむ通信About桃知利男ダウンロード依存リンク店主経歴


2005/03/15 (火)  
【悪党・ウェブログについて考える(2)】

午前7時起床。
浅草は曇り。

風邪を引いたのか、寒気がし、下痢である。
体調はよくないので、今日は昨日の続きを、やや遅めに更新なのである。

ブログで見られる表現形として 面白く思うのは
      日記とそのコメントが
 一体の表現体(エリクチュール)となるものだ

つまりそれは
    <他者>の参加を最初から予定した 最初の一撃と
 即興的につながるテクストを吐き出し続けることで成る
      集合としてのエリクチュール(表現体)
 
     (私も何度か試してはみた)

日記とは本来
  一人の人間の 自己完結型のテクストである
   しかし この表現体は 完結することを否定する
 
むしろ最初の一撃は つぎなるコメントの呼び水であり
   そのために 単純な画像と テクストで形成されることを
  よしとする
 それとて 日付があるから日記ではある
                 (わたしの定義では だが)
  しかしそれは 反省の次元に触れることのない 日記である
          
 それに続くコメントも同様に ブログには溢れている
       (はいぶりっど) が

 それは現代の「連歌」のようなものか
  もちろん正式な連歌の手続きなど踏むはずもないのだが
 それはちゃんとフィギュール(型・パターン)を持つ
        連歌なのだ      そのフィギュールは

取り立てて 高尚なものではないが それほど陳腐なものでもない

 ただそのフィギュール(型)は 日常会話の延長系であるように
  自由なテクストとして書かれているように思えるが
 しかしその実 ちゃんとパターン化されている

  そしてそのパターン化(フィギュール:型)が
   コメントしやすさの安心を担保する

  最初からコメントをくれる人間を想定する
  なるべく短文の方がよい
  難しいつっこみはご法度である
  面倒な話題にふれてはいけない
  なるべく共通認識のしやすい話題にする
  直感的  等々

   それは井戸端会議的な声的な文字の羅列である
 このログを保存しておけば
  10年後ぐらいには 今という世情をあらわす
     なにかの資料にはなるかもしれないが
 エリクチュールとしては
  前対象を前対象のまま 反省の次元を経由しないで繰り返す
   表現に留まる 「はいぶりっど」

このエリクチュールを司っているのは
 スピードであり それは同時性の確認であろう
   同じ時を過ごしていることの確認こそが
    このフィギュールを成立させている  

  このとき [ synchronize] は
はたして おきているのだろうか という疑問

そして ここでの言葉が 声的なもの
 であるが故に そのテクストも
  まるで浮遊する会話のように ただ消滅へと向かう
 
  発せられた途端に消え行く運命を背負う
 テクストではあるがテクストではなく
  文字ではあるが文字ではなく
  
            符号

 このフィギュール(型)で書かれた符号は
     繋がりたいという欲望の表出

 それはログとして残るかもしれないが
  読み手の心からは ただ消えていくテクストだ
   その上 書いた私にさえ 記憶には残らない
    
          (弱いミーム)

    この消えていくものにすがる心とはなんだろう

     ただ記憶に残るのは そのテクストが生み出す
          人格のような輪郭

   そして、それは
 取り立てて高尚なものではないが
      それほど陳腐なものでもない 現実

2005/03/14 (月)  
【悪党・ウェブログについて考える(1)】

午前7時30分起床。
浅草は晴れ。

今、インターネットの花形のひとつは、ブログである。
ただそれは、技術的には、なにやら新しいものを纏ってはいるが、その深層にあるものは、たいして新しいものでもないだろう。

インターネットは、技術的なものに目を奪われてしまうと、それは陳腐な知識で終わりかねない。

ブログとて、あと3ヵ月後、半年後、1年後には、どうなっているかはわからない。

技術に目を向ける以上に、その技術を使おうとする、人間の心理のようなものを見ようとするとき、インターネットとはなにものなのか、また、その情報の技術を利用しようとする「私」とはなにものなのか、またインターネットを抱え込むこの時代とはなにものなのかが、おぼろげながらも見えてくるだろう。それは環境を知る、ということと同義であろう。

ウェブログの心理学

山下清美/川浦康至/川上善郎/三浦麻子(著)

2005年3月25日
NTT出版

2310円(税込)




ブログはなにか新しいもののような印象をもった用語だが(たしかに技術的には日々改良、工夫が組み込まれていく)、その行動としてのスタイルは、日本ではとりたてて新しいもの、というようなものではなく、例えばパソコン通信は、メディアを使った、自己開示とそれに基づく相互交流の場であったし、またインターネットにおいては、ウェブ日記と呼ばれる自意識の場も、10年ほど前からちゃんと存在していた。

例えばこの「店主戯言」もウェブ日記であり、ウェブログである。
1998年の3月末に始まったこれは、既にまる7年の蓄積となってここに存在している。

「ウェブログ」という言葉は、狭義のブログばかりではなく、ホームページを使った日記の総称だそうだ。

わたしの日記の定義は簡単で、日付が入っていること
 のひとつだけだが、本来、内向的に己の内に向かって書かれる日記を、わざわざ、だれでもが閲覧可能なインターネットに置くことの意味はなんだろう。

わたしの場合、まずそれは、日本語入力の練習であった。
当時、わたしのタイピングは、悲惨なぐらい不確実で遅かったのだ。

そしてそれは、「ももちどっとこむ」(このサイトの総称)の、アクセス数の増加のための「撒き餌」であった。

それは、毎日更新する(情報を常に新しく保つ)ことで、アクセス数を伸ばそうとする戦略であり、その「毎日更新する」もっとも簡単で現実的な方法が、日記の公開だったのだ。

そしてもうひとつは、自己開示による自己顕示であった。
わたしの存在を、誰かに知ってもらいたい、という欲求のようなものだろうか。

「私」が常に<他者>の中にあることで「わたし」なのだとすれば、<他者>とのつながりを持とうとする、つまりコミュニケーションに対する欲求だと言ってもよいのかもしれないし、それは本能的なものだったと思う。

(当時のわたしは孤独な失業者だったのだ)

ただそれは、日記で、というよりも、他のコンテンツで担うことを考えていたのも事実だったので、この日記(最初は「桃知の独り言」という名称を持っていた)は、あくまでも、このサイト全体のアクセス数増加のための「撒き餌」の意味が大きかったように思う。

やがて、このサイト全体に対して(日記だけではない)反応が起こる。
勿論電子メールでである。
(いまだに、このサイトには、コメントの機能もトラックバックの機能もない)

その反応は小さなものだったが、その小さなつながりのようなものを大切にしていくことで、面識のない方々から、多大な支援を得ることが可能となり、このサイトで主張することが、やがて仕事のようなものとなった。

(それが可能だったのは、わたしの主張が、まがりなりにも<他者>に伝わったということであり、このサイトが明確な意思を持っていたことの結果だと思う)

そしてそれは、「講演」や「コンサルテーション」や「執筆」という、さらなる表現方法をわたしに与えてくれることになった。

それは、時間的、物理的に、リアルな世界(仕事、実務)に時間を取られることを意味し、サイト全体の更新が難しくなる事態を生むのだが、その頃から、「ももちどっとこむ」は、日記(店主戯言)を中心としたサイトへと変化することとなる。

(F2Fでおあいする方々の多くは、店主戯言だけは毎日読んでいます、と声を掛けてくれる)

このような経緯から、日記(店主戯言)は、わたしの(もうひとつの)表現空間という意味合いが大きくなってくる。

それは、「ももちどっとこむ」がわたしの表現の一形態であり、日記(店主戯言)が「ももちどっとこむ」の全てである、とわたしが意識して書く、というような状況だ。
つまり、今で言う「ブログ」のようなものに近づく。

それはいまだに続くことなのだが、そうすることで、また新たなものが生まれてくる。
また誰かと薄く繋がっていることを実感する。

それがなにものなのかは、また別の機会に書こうと思うが、一つだけたしかなことは、表現の一手段として日記を書き続けること、その推進エンジンは、<他者>からの、ポジティブなフィードバックである、ということだ。

(それは、わたしの場合、バーチャルは勿論、リアルな場にも生まれてくるのだが)

そして、付け加えるならば、ただ書き続けることで、何かは生まれている。
その何かのひとつは、読み手がもつ物語の一部に、わたしが居るということだ。

ということで、今日は海老名(神奈川県)で講演。 

2005/03/13 (日)  
【悪党・近所の博物館へ行ってきた】

午前6時30分起床。
浅草は晴れ。

昨日は、東京国立博物館へ足を運び
踊るサテュロスと中宮寺 国宝 菩薩半跏像をみてきた。
踊るサテュロスは 回転する運動体の 瞬間
 刹那の表現体(エクリチュール)であった

それは
  何千年もの間 深淵で 回り続けてきた

そして 今でもその運動の継続を止めぬ
  躍動のエクリチュール

ただ、その躍動は尋常ではなく
    旋風のような回転 意思なき回転
 
頭髪はなびき
  焦点は天空を浮遊し
 口 わずかに開き
   背後に著しく投げ出された頭部
        高く持ち上がられた 足  という不自然
見えない腕は 高くかかげられていることだろう

       酩酊
 
 そして その快楽の表現としての  舞踏

     サテュロスは 「酔っ払い」

知ったかぶりで かみさんへ質問してみる
 「なぜに サテュロスは 包茎なのか わかるかい」

「ファロスの快楽」ではなく「ファロスの夢」
 若しくは 「ファロスの知恵」さ


 それは 「幸福」という概念の エクリチュール

       (母性的保護機能)

 包皮に包まれたペニスは 
  胞衣をかぶって生まれた子供の表徴

「ファロスの快楽」ではなく ファロスの夢であり知恵であり
       精霊の表徴でもある

 母の胎内にあったときのように
  胞衣のごとき包皮に包まれ 太古の夢をまどろむ
   むきだしになった亀頭が すでに忘れ去った神話の夢を
  まだ見失っていない 
 深々とかぶったずきんの中に 子供と老人の知性が守られ
息づく 
 故に (サテュロスは)「森の精」であり
  葡萄酒と享楽の神 バッカスに 仕えるもの

そして 中宮寺 国宝 菩薩半跏像

この優しく 静かな 美しい表現体を 拝み
 うかつにも 涙が こぼれそうに なった
 
という 陳腐な表現しか 思い浮かばない 己の俗人

哀れ
  しめやか
       愛情
         思考

  全ての言葉は 意味を持たない のかも知れない
と 書くしかない 己の俗筆

2005/03/12 (土)  
【悪党・符号化した文字を考える】

午前6時起床。
浅草は、晴れか。
ガスがかかっている。

今日は、東京国立博物館に「踊るサチュロス」を見に行く予定。
そして、「中宮寺 国宝 菩薩半跏像」を拝んでくる。

3・24 東京独演会では、「インターネットとブログの時代」という、時代背景、環境の考察を準備している。

それが、まだどこでもやっていない実験的な内容を孕むのだが、今朝はその一端を書こう。

伝言

永 六輔(著)

2004年2月20日
岩波新書

735円(税込)




『労働者諸君!
 稼ぐに追いつく貧乏なし
   けっこー、けっこー
 けっこー 毛だらけ 猫 はいだらけ
おしりのまわりは くそだらけってか!』(車 寅次郎)

話し言葉の持つニュアンスを テクストで伝えることは
 とても難しい なぜなら

話し言葉は 何よりも 音 であるからだ

 音は、個人の身体的な特徴を反映し
  心の具合を反映する
   それは 質感を伴い 色合い 調子 意味を 纏う

    話し言葉は
   語彙という実数に 音という無限小がまとわりつく
 超実数という言霊である

 それをテクスト(文字・文章)にし 色合い 調子 意味を 纏わせることは
  とても難しい

   さらに 話し言葉が 音を纏う語彙 であることは
  それが 動物的なものであることと
 表裏のものである危険性を 孕む
 音 声 音波 周波数
  動物的なもの
   己に宿る 無意識に孕む 抑圧された 欲情

さかりのついた猫が にゃー にゃー とやる
 それは 言葉 ではない

  (言葉は人間だけのものだ)

それは 動物的な 符号(サイン) である
 話し言葉のテクスト化は ともすると 動物的な符号化へ向かう

  顔文字 (^O^)/

インターネットの時代 ブログの時代に
 符号化した文字が氾濫する
  ブログは 反省を経由しない 欲望を孕む 符号化した文字の
羅列か

されど「言葉」なのである
 それはハイブリッドな 前対象の氾濫

 言葉であるが 言葉でもなく 符号あるが 符号でもなく

言葉を覚えたばかりの子供が それを語彙としてではなく
 符号としての音を使って コミュニケーションを試みるように
幼児のように
 小さな自己意識の浮遊 ハイブリッドな前対象に浮遊

 その自己意識の周辺に集まってくる
  無数の前対象を 反省に送り返すことなく
   イメージ化することによっておこなう 現実の表現

       符号化した文字

 符号化した文字での コミュニケーション
それは とりたてて すばらしいことではないが
  かといって 陳腐なことでもない

  ハイブリッドな前対象の氾濫 それはまぎれもない現実である
が、それが、私たちの世界に危機をつくりだしている (中沢新一)

インターネットの時代 ブログの時代 とは
 プレ・モダンからモダンへの過程の 早回しのフイルムのようなものか

言葉を覚えたばかりの幼児のようなものから
 やがて 反省 を使う テクスト表現者への自己否定的変態の
  過程 のようなものか
それとも
 さらなるハイブリッドな表現が生まれる 過程なのだろうか

 その過程(混沌)への リアルな伝言

『労働者諸君!
 稼ぐに追いつく貧乏なし
   けっこー、けっこー
 けっこー 毛だらけ 猫 はいだらけ
おしりのまわりは くそだらけってか!』(車 寅次郎) 

『香具師には日本語の達人が多い。啖呵売の言葉でだまされたって、怒ってはいけない。寅さんは品物を売るのではなく、言葉を売っているのだ。』(「伝言」,p41)

2005/03/11 (金)  
3・24東京独演会

取り急ぎ、3・24東京独演の開催をご連絡。
急な告知であり、年度末という悪条件なのだが
あえて、やってみようと、骰子一擲。

今回の講演内容は、特に建設業というカテゴリを設けていない。
IT化、イントラネット経営に関しての、一般的に通用する噺にしようと考えていた。
勿論、わたしの第一義的な視野は、建設業のIT化にあることには変わりはないのだが・・・
これも骰子一擲。

それから、今回、セミナー申込みは、サイボウズのセミナーストリートというシステムを使っている。
http://seminar.cybozu.net/
自主興行には大いに役立ちそうだ。

■2005年3月24日(木)3・24 東京独演会(サイボウズ社セミナー)
『イントラネット経営』−「インターネットとブログの時代」の経営哲学−
【日 時】 3月24日(木)15:00〜17:00
【受講料】 無料
【会 場】 サイボウズ株式会社セミナールーム
      〒112-0004
      東京都文京区後楽1-4-14 後楽森ビル12階
      TEL 03-5805-9035(代表) FAX 03-5805-9036
      http://cybozu.co.jp/company/info/map_tokyo.html
【定 員】 20名
【概 要】 講師:桃知利男
      演題:『イントラネット経営』
          −「インターネットとブログの時代」の経営哲学−
         ・「インターネットとブログの時代」とは何か
         ・時代背景という環境を持った「経営としてのIT化」
         ・イントラネット、その情報の持つ意味
         ・情報を見る眼を養う
         ・狡兎三窟−IT化の基底に流れる哲学
【主催等】 主催:桃知商店       http://www.momoti.com
       協力:サイボウズ株式会社  http://cybozu.co.jp/
【お問合せ先】店主へメールでお願いいたします。
      mailto:pinkhip@dc4.so-net.ne.jp
【申込方法】
     下記URLからお願いいたします
     → https://seminar.cybozu.net/associate/seminar.bsp?id=406
  【懇親会】 当然におこないます。
     (別途ご連絡いたします)



【悪党・にわか民俗学】

午前6時30分起床。
浅草は、曇り。

さて、昨日のことである。
ホテルから、人吉産交のバス乗り場へ向かう途中に、立派な神社がある。
気にはなっていたものの いつもは、ただ素通りしていた。

昨日は、思うところがあり、お参りに寄ってみた。
そこには、とても立派な神社があった。

青井阿蘇神社という。
表戸である。

境内には鶏が遊び
桃山様式のその構造は、とても素晴らしいものだ。

本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門は
それぞれ国指定重要文化財である。

商売繁盛
家内安全
桃組の皆様の活躍を祈願した。






しかし、この立派な表戸だけに、わたしの興味があったわけではなく、心は「後戸」に向かっていた。
これだけの神社であれば、たぶん、なにか後戸のようなものが、控えておられるだろう、と感じるものがあったからだ。

神舎の裏に廻り
まず見つけたのは、猿田彦大神である。

猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)は、道祖神であり、道の神、道案内の神、旅人の神である。
謎の多い大神だが、元々は、天孫降臨の際に、邇邇芸命(ににぎのみこと)をご案内した大神だ。

その容姿は、多分に縄文の特徴を持つと考えられ、妻となる天宇受売神(あめのうずめのかみ)が弥生系の特徴を持つことから、この夫婦は、日本人の生い立ちを示唆する大神とも考えられている。

そして、もう一つ。
これも、後戸ではないか、と思えるもの。

これは、先の猿田彦大神よりも、もっと古い神ではないだろうか。
しかし、なにものかは、わからない。
ただ、後戸に、ひっそりと、控えめに、構えておられた。

中沢新一氏が 「精霊の王」 で紹介していた、石神(シャグジ)のようなものかもれないな、などと考えては、思わず笑ってしまう。

精霊の王
精霊の王

中沢新一(著)

2003年11月20日
講談社

2415円(税込)



何しろ、すぐ近くには「天照大神」が奉られるていて、これは「春日」か、などと考えてしまうのだ。

こうして
   10分ほどの、にわか民俗学は終え
バス乗り場へと急いだ

今までは、何気に素通りしていたところを
 なにかをきっかけに
    見て見ようとし
 ある程度は
「これはなにものなのかが」 見えるようになってくる

それは まだまだ 曇った 眼(まなこ)だが
 しかし、陰影を持ったモノとして
見えるようになってくる

それを、「情報を見る眼」と呼んでいる

その 「これはなにを意味しているのだろうか」
 と、頭をよぎる、疑問符は 無意識をくすぐる

2005/03/10 (木)  
悪党・人吉で心から楽しむ

午前7時10分起床。
人吉は、春の雨。

昨日は、高速バスにて、人吉へ入り、その後、(社)熊本建協人吉支部さまで、IT推進委員会。
熊本−人吉間を結ぶ高速バスは、新八代駅を経由するため、以前よりも時間がかかるようになった。
所要時間、約1時間53分。

人吉支部でのIT推進委員会は、今年度の締めと来年度への活動指針をまとめる。
辛い時代ではあるが、少しでも希望のあるIT化を志向していこう。

夜は、懇親会。
今回は、わたしのリクエストで、市房食堂(錦町)。

市房食堂の思い出。
レバ刺
ケジャン 世界最強の生春巻き
豚足 ホルモン
特筆すべきは、何気に「ホルモン」、とメニューに記載された、茹でられたセンマイ。

これは、胃袋の襞である。
茹でたての、温かいものを
     塩で食べる。
茹でられた襞 と
    塩 それは ただただ 潔い。
混じり気のない、複雑さ、という味覚。

襞は その内に 混沌を 孕んでいたのだ。

また、来る。


二次会。
ホンモノとニセモノとの混沌。
それが
 ホンモノであることの証は  じつは どこにもない

この晩の、その証は ただ太陽によって照らされた 月という対比

ホンモノは
 ニセモノが それを 照らしだしたとき  輝きを示した に過ぎない

ただ、ニセモノは ホンモノよりも 強く輝く 故に
 ホンモノを 照らし出す

となると より強く輝いていたのは じつは、ニセモノなのだ

 ホンモノであるが ホンモノではない

 ニセモノではあるが ニセモノでもない

 ホンモノはニセモノ ニセモノはホンモノ

 酩酊という深淵に沈む 難破の中  その混沌の中で
じつは 本物は どこにもない 

人吉の皆さん、楽しかった。
また、来る。

2005/03/09 (水)  
【悪党・八千代座に酔う】

午前7時30分起床。
熊本は、晴れ。

山鹿の 八千代座を 訪れる。




歴史 良き時代
 大正  商人(あきんど)  旦那衆
製糸産業  菊池川 温泉 商業

昭和 暗い時代  戦争 

終戦
 良き時代  講談
     芸人 演芸
   バブル  歴史の否定

歴史の復活
  地元 地域 ボランティア
歌舞伎  能 落語  舞 ジャズ
   演芸 大衆演劇 芸人

芸能というものが後戸に持つ
 混沌の子宮が
   山鹿の地に残っていることに
     心から感謝しよう。





わたしは、せりで登場し、廻り舞台で、ぐるりと回るのだろうか。
それとも、
花道を こそこそと、登場するのだろうか。

桃熊会では、八千代座を使った、イベントを企画中である。

昨日は、山鹿市管工事業協同組合の皆様には、大変にお世話になった。
見学後の酒宴。

イイダコ、馬刺しのある、お造り。

熊本に戻り、桃熊会の宴。
いつもの方々と、また、一献。
新しいであいもあり、心から楽しむ。

感謝。

2005/03/08 (火)  
【悪党・意識して書くについて書く】

午前5時50分起床。
浅草は晴れ。

今日は熊本へ飛び、山鹿へと向かい、あれこれと打ち合わせを行い、その後熊本へ戻り、気の置けない方々と一献設ける予定。

今朝は、出発の準備。

さて、おかげさまで、
この「店主戯言」には、毎日、沢山の皆様においでいただいている。
感謝。

それは、とても嬉しいことで、なぜなら、わたしは、読んでもらうために、ここに毎日テクストを、画像を、そして記号を埋め込んでいるいるからだ。

それは、わたしの表現であり、表現型のひとつとしてである。

ここで言う「表現」とは、自己変態(の表出)のことだ。
つまり、「私」の変化が、目に見えてあきらかになること、が「表現」なのだ。

「私」の変化は、肉体的には毎日起きている。
この歳になれば、わたしは毎日、肉体的には衰える。

この変化は自然であろう。

また、抑圧された無意識(現実界)が、表出することで起こるものも、自然としての表現だろう。

一方、「私」の変化は、違う面でも毎日起きている。

それは、多分に意図的なものであり、わたしという自然が、自然のままでは決して自ら表出しないものを、表出しようとする意思によって、可能となるものだし、自然が自然のままに表出するものの、形態や性格を変化させようとするものだ。

それは、学習であり、訓練であり、稽古によってもたらされる、己の変化である。

身体で覚える、思考、心の変化。
鍛える。

それは、自然では、ない。
自然である「私」を認めながらも、その自然と同居しようとする「私」の意志だ。
共生。

運命的なもの、恣意的なもの、偶然に左右される部分もあろうが、それさえも楽しみながら、そして克服しようとする、意思だ。

意識してそうしている。
その意図的なものを、わたしは、「あえて」IT化の基底に置いていている。

つまり、それは「情報を発信する」ことを中心としたIT化なのだが、ただ、そこには「反省」の行為は必要だろう、というのだ。

反省とは、
「マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張りめぐらせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した。」(中沢新一)
ということだ。

学習と反省のフィードバックループ。
そこから生まれる表現
それが、IT化でいう、自己否定的変態の基底になくてはならない、と考えている。


いまや、インターネットには、テクストが氾濫している。

blog

でも、その多くは
「ネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているにすぎない。」
という、中沢新一の指摘の範疇にしかないように感じている。

「それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。ハイブリッドの氾濫、それはまぎれもない現実である。」(中沢)

だからこそ、
「ハイブリッドな前対象の氾濫が、私たちの世界に危機をつくりだしている。」(中沢)
という現実を直視しなくてはならない。

特に、中小建設業の経営者は、だ。

2005/03/07 (月)  
【悪党・食を語る】

午前7時30分起床。
浅草は、曇り。

昨晩の食物。

昨晩のmixiの記述からの引用。

・・・ITだ、インターネットの時代だ、と言ったところで
      食う
という行為は、生物的基本活動として
         だれも否定できるわけではなく
今晩もまた、何かしら食ったのだが
       こうして
食卓を他人様にばらしてしまうというのも
     なかなかに下品ではあるな、と思う。

そう思いながらも、今晩のデリバリーを
        またしても、こうして
     お披露目してしまうのは
  さて「食卓」とは
 この家庭の何を表徴しているものなのだろうか
などと、たわけたことを考ようとしているからであり
 それは他人様の食卓を見て
  あれこれ言及するわけにもいかないから
    結局、我が家の食卓を見ながら、

さて、これはなにものなのか、と考える、悲しい行為である。

(引用終了)

ロラン・バルトには、
「現代における食品摂取の社会心理学のために」(『物語の構造分析』
という記述がある。

バルトは、こう言う。

『ものを食べるという行動は、その本来の目的を越えて展開し、他の行動にとって代わり、他の行動を要約し、表示する。この点でまさに記号なのである。』

活動、労働、スポーツ、努力、余暇、祝祭・・・バルトはこのような行動を要約すると事例的にあげているが、
彼が指摘するように、「他のすべての行動」を要約し、表示するのであれば、ものを食べるという行動が、表徴として表示する意味は、それだけではあるまい。

嗜好、志向、指向
家庭の平和、不和
健康状態、健康状態
不安、欲求、欲情

まあ、難しく考えなくとも、食卓の画像、記述という記号は、その時点での「私」であることには違いないのだ。

例えば、昨日の、「私」のお昼ごはんの記述(これもmixiから)。

・・・・・・・・
今日の、お昼ごはんは、私がつくった。

      約束

まにあ・3号さんのご支援による、スープカリー。

素は、ハウス「スープカリーの匠」
これに、ジャガイモ、人参、それからソーセージを加え
ぶなぴー
それから豆腐(絹ごし)
素揚げのお茄子とピーマン

教わったとおりに作る。でも、
かみさんの体調がよくなってきていたので
ジャガイモの皮と人参の皮は、かみさんに剥いてもらった・・・

      反則

ジャガイモと人参を煮る
豆腐は水切りをしておく
お茄子は、縦に二つに切り、すだれ状に切れ目を入れた
シーズ・ザ・ディを思い出しながら

お茄子とピーマンを素揚げして、油を切っておく。

ジャガイモと人参が煮えたら
「スープカリーの匠」付属の具とスープを入れた鍋に、これを移す。
それに、ソーセージとぶなぴーと豆腐を入れて煮込む。

今回は、「スープカリーの匠」の具も入れてしまったが、入れなかった方がよかったみたい。
(やはりレトルトの具はまずい)

      反省

仕上げに、付属のソースを入れて、少し煮込む。
絹ごしが崩れないように。

器(今回は後片付けが面倒なので「スープカリーの匠」のものを使う)に
煮込んだ具を入れ
油を切った、素揚げしたお茄子とピーマンを入れる。
後はスープを注ぐ

      完成

そして 麦飯
うますぎる米は、スープカリーには、あわない。
それは実証済み。
同じ轍は踏まない

野菜がおいしい!
お茄子が甘い 人参も甘い
 ジャガイモが甘い
家族の反応は上々。

      うふっ。(笑)

2005/03/06 (日)  
【悪党・相変わらず「骰子一擲」を真似る】

午前7時30分起床。
浅草は、曇り。

なにもできない週末となってしまった。

本日も昨日のmixi日記の引用から。


骰子一擲
いかで、インフルエンザと戦うか・・・

今や、流行性感冒A型の培地となった我が家
     かみさんの熱は40℃を超え
   息子は復活に近づき
 わたしは奇跡的に感染を免れているのか
   ほぼ平熱

しかし、病の二人、食欲だけは衰えず
 なれば、昨日に引き続き、晩飯の賽は私に委ねられ、
    骰子一擲
         デリバリー
              今晩は「釜飯」という 賭け

上から、いくら、豚角煮、明太ささみ
 右のグルグルのどんぶりは
       おだまき蒸しという 小船

電話したらやってくる
 まったく便利すぎて気味が悪い
   しかし
     その便利さと引き換えに、私は少し弱る 6040円なり。(T_T)

  出費という   難破・・・(笑)

これでまずかったら、内は、ますます深淵に沈む難破船
 しかし、奇跡的に おいしい という 星座

 しかし、内のエンゲル係数はどうなるのだろう、という
   
           難破
 
それにしても、明日の私は、どうなっているのだろうという 不安
 それでも、夫婦は同じ布団で寝る
 という 賭け

 全思考は出発する
    骰子の一擲を  (笑)


ということなのだ。
わたしは、潜伏期間中なのか、まだ発病していないのが唯一の救いだ。
まあ、たいして役に立つわけではない・・・が。

さて、この「骰子一擲」に対して、
「いやー今日はまた飛びっきりの詩人だわ・・・・ 」
というコメントをいただいていた。

それは、昨日も解説したように、これが、マラルメの詩、「骰子一擲」の内容を意識して書いる習作、というか「パロディ」だからだろう。

だから、たしかに、それらしくはなる。

わたしが、こうしてマラルメを意識した書き方をするには、わけがある。
中沢新一氏の次の指摘(少々長いが)が発端である。

『マラルメ詩が小さな帆船に乗り込んで漕ぎ出した、近代の荒れ狂う多様体の海は、百年後には比較的に穏やかな乱流となった、表層の全域にそのカオス運動を繰り広げるようになった。そのことは、もはや「高踏的」な知的エリートばかりではなく、インターネットを手にした多くの大衆の経験し、知るところとなったのだ。マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張りめぐらせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した。これに対して、ネットワーク化した社会を生きる大衆は、小さな自己意識の周辺に集まってくる無数の前対象を、反省に送り返すことなくイメージ化することによって、現実の表現をおこなっているにすぎない。それはとりたててすばらしいことではないが、かといって陳腐なことでもない。ハイブリッドの氾濫、それはまぎれもない現実であり、十九世紀末にマラルメのような人物がはじめて意識した問題は、いまや今日の大衆の実感となっている。』

『このような、主体でもなく対象でもない、社会でもなく自然でもない、人間であると同時にモノであり、愛であると同時に量子的現実であり、グローバルでありながらローカルでもある、ハイブリッドな前対象の氾濫が、私たちの世界に危機をつくりだしている。カントは人間的なものとモノ自体を分離することによって、近代世界を基礎づける哲学を創造したが、このような分離や純粋化を推し進めたことの結果として、ハイブリッドの氾濫というパラドキシカルな現実は生み出されたのだ。そして、そのような事態に対処するために生まれた、ハイデッガー敵な脱構築もテキスト論も言語主義ももろももろのポストモダンの思想も、最終的にはモダン制度の内部の出来事に留まってしまっている。』(フィロソフィア・ヤポニカ,p365-366)

cover 『フィロソフィア・ヤポニカ』

中沢新一(著)
2001年3月10日
集英社
2730円(税込)






つまり、いまさらなのだが、『マラルメはその多様体の隅々にいたるまで意識のネットワークを張りめぐらせ、大切な接続点でおこっていることのすべてを言語化しようと努力した』ということが、どういうことなのかを、実感してみたい、と思ったのだ。

それがどういうことなのかを、少しでも感じてみたいと思ったのだ。
それは無理は承知のことではあるが(その原因の殆どは、わたしの能力不足だ)

だから、そしてそこは、参考書がある。
しかし、この参考書がまた難しい。(笑)

マラルメ-書物と山高帽

立仙 順朗(著)

2005年1月30日
水声社

4200円(税込)






2005/03/05 (土)  
【悪党・土曜日の朝に思う】

午前8時起床。
浅草は曇り。

家族が流行性感冒に病む。
わたしは、たぶん同じウイルスに犯されてはいるのだろうが、まだ発病もせず、比較的元気。

昨晩のmixiには、こう書いた。
これは今日の晩飯だが、晩飯ではない。

これは、pinkhipの悲しみの表徴である。

北海道から戻れば、
息子はインフルエンザA型に感染し
(ただし、予防接種と特効薬のせいか、なぜか元気)、

かみさんは、息子から伝染したのか、発熱し寝込んでいた。

しかし不思議なことに、二人とも、食欲だけはあるらしい。
そうなると(比較的)元気な私に、晩飯の準備の賽は振られる。

インフルエンザA型という大洋に
腹が減ったという小船で漕ぎ出す
いちかばちかの料理という賭け
しかし自炊能力ゼロの深淵
          
          難破

当然に選択肢は限られる、コンビニ弁当か、出前か、さもなければ焼きそば弁当か・・・。

外へ出るのは億劫だし、焼きそば弁当では、
深淵はますます深みとなり、
この夫婦関係は、二度と浮かび上がることもできそうにない。

          難破

骰子一擲

デリバリーを選んだ。

デリバリーと言えばピザがメジャーか。
若しくは清司の鮨っていうのもいいな、と考えた。けれども、
今回は、中華のデリバリーである。
東向島に専門店がある。

早速、電話。まつこと50分。
なんだか悲しい料理の星座。
5930円なり。当然私持ち。(T_T)

これは今日の晩飯だが、晩飯ではない。
これは、pinkhipの悲しみの表徴である。


このテクストは、マラルメの詩、「骰子一擲」の内容を意識して書いた習作だ。

それは先に紹介した
創作力トレーニング

原 和久(著)

2005年1月20日
岩波ジュニア新書

819円(税込)





に書かれていたことの、わたしなりの実践としてである。

日記を書くことを、IT化の中でも、わたしは推奨しているけれども、ただ書くのではなく、テーマを持って取り組むことは、反省の実践とその効果を、より大きくしてくれるだろう。


さて、今朝は、息子はすっかり回復。
かみさんは病院へ。

次の話題。

次郎さんからいただいた北海道土産。
「御祝鯛」(いわいたい)

中身はタイ型のアップルパイである。
しかし、これはアップルパイではなく、次郎さんの純粋贈与を孕んだ
御祝いの表徴である。

「受賞祝い、お子様のご卒業祝いでございます。」

こうなると食べるのも惜しい。

2005/03/04 (金)  
【悪党・羽田を心配する】

午前7時40分起床。
札幌は晴れ。

東京は雪が降っているようで、空のダイヤも乱れているようだ。
普段とは逆に、新千歳ではなく、羽田の雪を心配しなくてはならないとは、なにかの皮肉か。

昨晩も、『生涯の一日を無駄にすること、それと知りつつ、いくらか死ぬことではないか。』(マラルメ)と感じながらも、IT化は飲むことだ、を繰り返していた。

今朝は頭が痛い。

YOUさんから、メールをいただいた。
桃知さん、こんにちは。
久しぶりにHPを拝見していました。

随分リンクが増えましたね。
それも「F」増えているのが良いなと。

加えてカウンタがもうすぐ大台ではありませんか。
どんどん進化しているんだなあと感心しています。

私は相変わらず事務仕事に勤しんでいます。

★*゜*☆*゜*★*゜*☆*゜*★
『生涯の一日を無駄にすること、それと知りつつ、いくらか死ぬことではないか。』
(マラルメ)

たしかに、そういう酩酊を繰り返しながら
しかしその深淵で
私たちは、対話という賭けを繰り返している。

その賭けの中から、わたしはこうして、テクストをひねり出す。
こうして、毎日
わたしは、陳腐な言葉の羅列で、私宛の手紙を書く。
★*゜*☆*゜*★*゜*☆*゜*★

桃知さんの日記のこの言葉がストンと胸に落ちました。
たぶん私も毎日書いているからかもしれません。
陳腐な言葉の羅列ばかり続けているわけですが、ときどきその言葉に誘われるかのように
面白い人と出会えるのが楽しいです。

全ての人たちと長く交流ができるわけでもありません。
結局リアルな場で共に時を過ごした経験のある人としか続かないんですよね。

だけどそれでも書き続けてしまう私がそこにいます。

では、どうぞお元気で。
またお便りします。

>陳腐な言葉の羅列ばかり続けているわけですが、ときどきその言葉に誘われるかのように
>面白い人と出会えるのが楽しいです。

>全ての人たちと長く交流ができるわけでもありません。
>結局リアルな場で共に時を過ごした経験のある人としか続かないんですよね。

YOUさんのこの指摘は、よくわかる(ような気がする)。
「広くて薄い紐帯」の可能性を追い求めているのが、わたしのIT化だとすれば、その秘密のひとつは、YOUさんの言葉の中にあるのは確かだろう。

リアルとバーチャルは、生い立ちからして対立的な概念であり、差異として存在し続けてきた。
確かにこれは、違うものだ。

だが、この差異としての二項のハイブリッドは、対立ではなく、新しい意味を生むだろう。

それが「広くて薄い紐帯」の可能性(意味)ではないのか、と考え、いつも、それを追い求め続けている。

そして、『生涯の一日を無駄にすること、それと知りつつ、いくらか死ぬことではないか。』と思いながらも、繰り返す酩酊という深淵・・・か。

昨日のわたし。
HUB。

2005/03/03 (木)  
【悪党・ロラン・バルトが大好き】

午前6時30分起床。
浅草は曇り。そして寒い。

今日は、これから羽田へ。
羽田で、宮崎地区建設業協会のIT委員会の方々と合流し、空知建設業協会さんへ、研修に向かう。


今朝は、いつも一緒にいる、文庫本の紹介。

表徴の帝国表徴の帝国

ロラン・バルト(著)
宗 左近(訳)

1996年11月7日
筑摩書房

1050円(税込)



わたしの蔵書の中で、一番著作の多い作者は、宮本常一であり、二番目は中沢新一である。

それで三番目はというと、ロラン・バルトなのである。
バルトについては、殆どこの戯言では紹介してはいないかと思うし、講演で引用することもないし、純粋な意味で、彼の考え方を全て受け入れがたいのも事実だ。

しかし、バルトの書くテクストには、なんともいえない魅力を感じてしまっていて、どうしようもないぐらいに、彼の書くテクストが好きだ。

mixiでの、わたしの記号としての画像(アバター?)は、ずっと下の画像である。

この写真の中の幼児はバルトである。

バルトは、
「彼自身によるロラン・バルト」という著作の中で、この写真(正確には、これはその一部分)に、

『鏡像段階。「お前が、これだ。」』

というテクストを添えている。

わたしはこれを見たとき、心の奥底から湧き出る何かが押さえきれなかった。
涙がこぼれそうになった。

そう、わたしもまた、これなのだ、と。
(残念ながら、わたしには、この時代の写真が残っていない)

バルトのテクストは、いつでも挑発的である。
「小僧、テクストっていうのは、こういうものを言うんだぜ!」と、挑発してくる。

たまりかねず、わたしは、その文体を模倣して、戯言を書いたことさえある。

【悪党・「生の材料」若しくは火を囲むエロスについて語る】

【悪党・カマンベールもんじゃについて語る】

の二つだ。

彼のテクストは、いつも、自分自身を外から見るように書くことで(コギト)、「ここにあるいっさいは、小説の一登場人物によって語られているものと見なされるべきである」(作者の死だっけか?)と、言う。

しかし、逆にその態度は、このテクストの作者が、バルトであることを際出させているにすぎない。

彼は決して長い文章を書くわけじゃない。
けれども、その凝縮された、というか、圧縮されたテクストの持つ表現力は圧倒的だ。
(まあ、正確には、翻訳されたテクストを読んでいるに過ぎないのだが、それにしても、である。)

ただ、専門用語は多用され、その専門用語も、読み手を混乱させることを楽しむように、彼が自由に意味、意義を持たせて使うので、慣れが必要なことも確かだが。

「表徴の帝国」は、バルトが日本滞在中の印象を書いたもので、彼は例によって、特定の国のことを書いたものではない、という。
けれどもそれは、バルトが書いた日本そのものだ。

この本は、文庫本なので、なぜか今年になってからは、どこへ行くにも一緒である。
時々は、お風呂にも一緒に入っていたりする。
なので、処によっては、水に濡れてぶよぶよに脹らんでいる。

そして、今日も、これと一緒に北海道へと向かうのだ。
多分、機中、これを読んでいることだろう。

ロラン・バルト、彼のテクストが、大好きだ。

2005/03/02 (水)    
【悪党・両親とあってきた】

遅めの更新である。
昨日の夕方から、両親を訪ね、浅草へ戻った。
今年は正月にも、あっていなかったので、しばらくぶりにあった。

両親は、二人とも既に歳は70歳を越えており、メールは以前教えたのだけれども、さっぱりだし、なにか電話っていうのもしっりこないので、足を運んでみた。

別にたいした用事があったわけではないが、子供(彼らにしてみれば孫)のこととか、岐阜から褒めてもらったこととか、空知で副大臣とコラボしたことなどを、取りとめもなく話してきた。

わたしは、三人兄弟の長男だけれど、兄弟の中では一番両親と顔をあわせる時間の少ない不良長男だし、両親にしてみれば、常に心配をかけまくる一番できの悪い息子なわけで、まあお小言は素直に聞いてきた。

朝飯をご馳走になり、帰り際、また来るから、それまで死ぬなよ!と声を掛けてきた。
私の後戸は、にっこりと笑って手を振っていた。


インターネットの時代になって、地域コミュニティに基底を置かない、わたしのような生き方が、もてはやされているのは確かだけれども、それでも、まだわたしは、そのの基底に、家族的なものを求めて止まない。

それは無意識レベルでの、つまりラカンのいう現実界からの情動なのかな、と思う。

そんなことも含めて、インターネットってなんだろう、とまた考えさせられるのだ。

2005/03/01 (火)  
【悪党・「IT化は飲むことだ」について書く】

午前2時近くに就寝。
午前6時20分起床。
浅草は曇り。

ああ、三月だ。
確定申告の季節、気が重い。

「IT化は飲むことだ」について、昨日mixiに書いた。
今日は、その使いまわし的記述なのだが、ちょっとひねってみよう。


IT化と、飲むことは、当然に同義ではなく、ふたつは対立してあるように思える。

というか、IT化にも、飲むことにも、関係のない方もいるわけで、その意味では、その対立は
「ある」けれども、「ない」
「ない」けれども「ある」

しかし、「IT化は飲むことだ」が「ある」とき
それが対立ではなく、ハイブリッド的に結合されるとき、
つまり、両方が対称的に「ある」ことで、

酔っ払いの集団、そしてインターネットという大洋
気の置けない仲間(桃組)という小船
対話という賭け
酩酊という深淵
言葉(テクスト)という星座をそなえた
「骰子一擲」(マラルメの詩)の構造をもつことができる
と考えている。

「飲むことだ」が行っていることは、再生産のための活力である、というよりも
ただの泥酔であり
アル中化であり
生命の消尽でしかないだろう。

『生涯の一日を無駄にすること、それと知りつつ、いくらか死ぬことではないか。』(マラルメ)

たしかに、そういう酩酊を繰り返しながら
しかしその深淵で
私たちは、対話という賭けを繰り返している。

その賭けの中から、わたしはこうして、テクストをひねり出す。
こうして、毎日
わたしは、陳腐な言葉の羅列で、私宛の手紙を書く。

それはまた、わたしの存在を消し去りながらも
消し去ることで、浮かび上がる
なにものかが、<他者>の心と、シンクロする。
それはわたしの意志を遥かに超えて。

それは、マラルメのような、己に厳しい、ストイックな詩人の行為ではないだろう。
それは、ITという道具を、わたし自身が持ち得なかったら、決して、できなかったことでもあろう。

しかしわたしは、今、ITという道具を手にし
はきちがえるな
と言われるのは、百も承知で

酔っ払いの集団、そしてインターネットという大洋に
気の置けない仲間(桃組)という小船で漕ぎ出し
対話という賭けを繰り返し
酩酊という深淵に沈む

          難破

そして、言葉(テクスト)という星座をみつめながら
その実践の中で、
マラルメのいう
「骰子一擲 いかで偶然を破棄すべき」
を、少しでも実感できているのか、と考える。

それは、わたしが生まれてから、死ぬまで続く
円環的構造であり
偶然さえも楽しもうとする
今の時代という大洋に浮かぶわたしの、航海術(知恵)のようなものだろうか。
  インデックス

momo
桃知商店謹製
(c) Copyright TOSIO MOMOTI 1998-2005.All rights reserved.


インデックスSelf Talking INDEX| 今日の戯言 | 2005年2月下旬へ | 2005年3月下旬へ著作権店主へメール
ももこむ通信About桃知利男ダウンロード依存リンク店主経歴