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店主戯言050302  2005/3/16 〜2005/3/31 "There goes talkin' MOMO"


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2005/03/31 (木)  
【悪党・のネットワーク論】

午前7時10分起床。
浅草は晴れ。

昨日のサッカーは、勝ってよかった。


さて、読者の方からのメール。
「IT資本論/第65回 コンテンツ流通論(6) 観光と文化資本クラスター」なるものを見つけました。
http://pcweb.mycom.co.jp/column/itshihonron/065/
なかなか考えさせられる内容ですが、
それとは別にどこかで見たような表や文字が並んでます。(笑)

ここでは、所謂、ネットワーク論(グラフ理論)を使って ビジター産業を考えているようで、ネットワーク論を使って、「IT化」というものを考えているのがわたしなので、「どこかで見たような表や文字が並んでます。(笑)」ということなのだろう。

特に、わたしのIT化の目指すものが、個人の持つHUB能力、つまり「広くて薄い紐帯」(グラノベター)をつくる能力であることで、(特に対応策の設計においては)同じような展開になる。

たぶんマクロ的には、この方向で考えていくべきだと思うし、「公共工事という産業」から「地域」の問題を考えているわたしには、近勝彦先生のアプローチは大変興味深い。(ご紹介いただき感謝しています)

「強い紐帯」だけでは(求心力はあるが)、クラスターが閉じてしまうので、スモールワールドは作りにくい。

スモールワールド(6次の隔たり)の要は、あくまでも「弱い紐帯」にある。

ただ、この考え方だけでは、では(設計された)そのようなネットワークは如何にして構築可能なのか、という問題解決にはならない。

つまり、設計図は書けるのだが、その設計図に沿うように、このネットワークが機能するための理論を持たないのもたしかなのだ。

つまり、今回のような、ビジター産業や、経済的な問題(消費の意思決定の問題)に、ネットワーク理論を用いようとするとき、人間の集団的意思決定の問題と組み合わせる必要があるだろう、と考えている

それは集団における個々人の意定決定の閾値、とでもいうべきものなのだが、つまりこれを「相補均衡」(山岸俊男)の問題として考えてもいいだろう。

複雑系の科学は、確かに我々の集団的行動の中に、なにかしらのパターン化されたものがあることを示している。

それはまず「べき法則」であり、「スケール・フリー」性である。
実社会でそれを簡単に言ってしまえば、「すでによく知られていて多くのつながりをもっているものに人は引かれる」ということだ。

「金持ちはますます金持ちになる」の秘密もここにある。

しかし、このネットワーク(「スケール・フリー」)は、制約や限界のないネットワークであり(例えば現段階のインターネット)、実社会には制約が伴う。

それは平等主義的なネットワークの発生を意味するのだが、それは平均的な分布(釣鐘型)のグラフに近くなる(ただし完全にクラスターで閉じているわけではない)。

つまり、スモールワールドには二種類あるように思える。

そして人間社会にあるネットワークの多くは、このハイブリッド形、というよりもむしろ「スケール・フリー」だけではないもの、と考えている。それを「ひろくて薄い紐帯」とわたしは呼んでいる。

だから、なおさらHUBでありコネクター(グラッドウェル)であることが、実社会においても重要になると考えている。(もちろん、その基底としてのクラスターもだが)

HUBの存在こそが、「私」の属するクラスターが、ネットワークとして成長する秘密でもある。

HUBがHUBに相互作用的に影響を与えあうことで、クラスター同士が繋がっていく。

だから、わたしのような、実践的にことを考えなくてはならないコンサルタントが取り組まなくてはならない問題も、また明確なのだ。

つまり、「公共工事という産業」のようなクラスター型に閉じたネットワークが、今という時代にネットワークの中に存在するためには、「ではどうしたら私はHUBとして活動できるのだろうか」だ。

それは「私」だけの問題ではなく高度に相互依存的でもあるし、単純な線のつながりではなく、信頼や尊敬という横糸が必要な面としてのつながりとなるだろう。

それは常にティッピング・ポイントを作り出す能力、とでも言えようか。
それは絶えず変化している状況に、「私」も変化しながら、「私」をどう置くのかという問題と考えている。

ティッピング・ポイント(グラッドウェル)、物理でいう「臨海状態」の理解とは、つまり、「〜でもなく、〜でもなく」「〜でもあり、〜でもあり」の状態なのだ。

(「私」も「クラスター」もそうであること)
ということで、狡兎三窟に繋がるのね。(笑)

さて、ネットワーク理論についてのわかりやすい入門書が発売されたので紹介しておこう。

複雑な世界、単純な法則  ネットワーク科学の最前線

マーク・ブキャナン(著)
阪本芳久(約)

2005年3月3日
草思社

2310円(税込み)



こうして、またAmazonにリンクしてしまう。
Amazonは、ますます膨大なリンクをもつHUBになっていく。

2005/03/30 (水)  
【悪党・休業】

午前10時30分起床。

本日は、対バーレーン戦へのウォーミングアップのため休業でございます。m(__)m

3・24東京独演会の感想メールをご紹介。

先日の東京独演会および懇親会に関しては、私にとって非常に有意義なものでした。
店主戯言の内容が、私にはなかなか理解できませんでしたが、今回の独演会において、頭の中がすっきりと整理できたような気がします。
特に狡兎三窟の理論に関しては、うーんと唸るほどに感銘を受けました。
環境に適用する原理が何か、どこにあるのかを追求し、その原理を自らが使いこなすことができる人間がスケールフリーネットワークにおけるハブとなることができる。

桃知様が言うところの流動的知性を私は「感性」と言う言葉で考えてきました。
私のいうところの感性は係数aに他ならず、とにかく自分自身の感性を研ぎ澄ましていくことが私をどのような環境においても生きていける存在に
できるのだろう。
所属する組織の中で、私は『今昔物語』に出てくる両目の猿かもしれないと感じることがよくあります。片目の猿の国では、当たり前のことが当たり前のこととして通用せず、異端視される。片目の猿の国以外ではどんどん環境が変わっているのに、それがその国にいる片目の猿には全然見えず、その国のしきたりが最も大切にされる。

どんどん環境からかけ離れていることが自覚ができない。
私は少しでも両目の猿を増やして、片目の国を両目の国に変えていきたい。
そのために自分自身の感性=流動的知性を高めたい。
桃知様およびその仲間達と触れ合うことで、私が両目の猿であることを確認でき、自分自身に対する確信を持つことが出来ます。
桃知様のさらなる進化を改めて実感し、私も力が沸いてきました。また、懇親会に集う方々から力をいただきました。

ありがとうございます。m(__)m

2005/03/29 (火)  
【悪党・4・2地域再生フォーラム in網走の宣伝をする】

午前4時起床。
いくらなんでも、早起き過ぎるので、もう一度寝よう、と思ってはいる。(笑)

夜が明けてきた浅草は雲は若干多めだが、良い天気だ。

オープンセミナーのご案内に、2005年4月2日(土) 地域再生フォーラム in 網走2005! の案内を掲示した。

これは、2月26日に空知建設業協会さんで行なったものと同内容であり、高評価を得たものである。

このフォーラムの目指すところは、ずばり「地域再生」であり、地域再生という問題を考える、ということだ。

それはまず、「地域」を意識し、考えることなのである。
そしてその基底に流れる、地域の哲学(種の論理)を理解することだ。

その哲学を持って、地域で生きることを、日々の行動で(わたしの場合IT化を通じてとなるが)実践していく。

このフォーラムは、その実践への着火装置のようなものだと理解している。
つまり、動き出せ!えぶりばでぃ!のチャッカマンなのだ。(笑)


さて、3・24の東京独演についてのメールをいただいていた。

先日のセミナーは大変参考になりました。

題目が『イントラネット経営』−「インターネットとブログの時代」の経営哲学−だったので、ブログを使ってのビジネスなどの話が聞けると思ったのですが、
大違いでした。

哲学の話がメインだったので、最初は面食らいましたが、個人的には 大変刺激的なセミナーでした。

一番興味を引いたのはブログ(情報発信)することで、自分のシャドーの部分が見えてくるということです。

私もブログをやったことがありますが、人に見せる事を意識しすぎて3日坊主に終わりましたが、改めて情報発信して、自分のシャドー部分を覗いて見たい衝動に駆られ早速ブログを再開しました。

また、機会がありましたら、セミナーに参加したいと思いますので
よろしくお願いいたします。

わたしの話を聞いて、実践してくれる方がおられるというだけで、嬉しいメールだな、と感じた。

ありがとうございます。m(__)m

2005/03/28 (月)  
【悪党・矛盾の中で矛盾と一緒に生きる】

午前7時30分起床。
浅草は 雨。
今日は 三重県津市まで 日帰りの出張。

さて、以下のテクストは あるメールの返信を書いているうちに できてしまったものだ。
勿論、こんなものを メールで送るわけもなく 行き場を失ったこのテクストは ここに居場所を求めた。


 矛盾の中で 矛盾と一緒に生きる

ボードリヤールのいうことが正しければ
 全体としての社会は 民主主義の平等的原則と
特権と支配の維持という 根本的市場命令との 妥協から生じている

この分裂症的 妥協の中を
 我々は「自己の力を使い果たす」ことを願う(欲望の)生命体として
  生る だからそこ 生き続けてきた

今や 地場型中小建設業は 妥協 の存在である
 地方自治体の建設政策は 両極 の矛盾に支配され
  地方は「種」の存在で 在るが 故に
   国家的「類」に束縛されるとき それは さらに矛盾に満ちる

国の行なう 建設行政の目指すところは まずは 開発主義の終焉に偏重する
根本的市場の命令であるかのように 産業構造における (非効率としての)建設業の割合の 削減を 第一義の 目標としているように 見える

それは 民主主義の平等的原則ではなく むしろ ニュー・エコノミー的(そんなものがあればだが)を 生かそうとする (新しい)特権と支配 の維持という根本的市場命令からであろう

一方 地場経済の活性化と雇用の確保は
 消費社会における 民主主義的平等のシンボルとして
  その特権的意味を いまだに失ってはいない
 
 (特に)地方(種)の産業構造転換では
構造改革という スローガンは なんの意味も生まず
 経済的発展は望める状況ではなく 新たな雇用の受け皿も
  生み出されることはない

だから今更のように
  消費社会における「種」(地方)のシステムは
  「公共事業という産業」の抱える雇用と
   地場経済の活性化という意味を 容易に切り離すことをためらう

それはまた 民主主義的平等のシンボルを装うが じつは オールド・エコノミーを利用しようとする 特権と支配の維持という 根本的市場命令からであるようにも見える しかしそれがどうであれ 「種」としての地方行政が負わなくてはならない 宿命であることには変わりはない

そこでは 「種」としての地方行政は 矛盾の再生マシンと化すしかない
 そもそも「種」の抱える 不平等や差別や矛盾の調整役が
  「類」としての国家なのだが 

 現政府が それを放棄しているかのような 今
そして 自立や自己責任を「種」(地方)に強要している 今という時代に
 「種」(地方)の行なう 建設政策(つまり経済政策)は
 「類」(政府)からの  呪縛と 己の宿命という 二極化

          つまり 矛盾を抱えこむ

 正反対の極にある政策が いつもにも増してナイーブに 再生産されている

 (地場型中小建設業は 矛盾の中で 矛盾と一緒に生きなくてはならない)

 しかし そもそも 経済や社会的矛盾の 調整役的存在である
 地場型中小建設業は 妥協の象徴である がゆえに
 両極という矛盾の中で 混乱しながらも 
 自己調整を繰り返している事実を見逃してはならない

つまり 地場型中小建設業は 中庸の象徴であるかもしれないが
 「自己の力を使い果たす」ことを願う生命体の摂理から逃れるわけではなく
  つまり(欲望の主体として)行動し ただ漠然と 
   時の流れに身をゆだねているのではなく なんらかの行動をとる
    ただ それは 悲しいほどの 矛盾に満ちてしまう

    減り続ける工事量の中
     流動性重視の 経審を意識し
    可能な限りの 技術力の確保を目指し
     雇用の維持と 地域貢献を行なう

しかし これを 自律的に 調整しながら やろとしている 彼らこそ
       全体としての意味を見ながら 行動する
          流動的知性の持ち主である

   この 自律的調整(矛盾との葛藤との調整)の能力は
  地場型中小建設業者 自らが 中庸の存在としての己の位置を
 自己理解しているからこそ可能なのであり

 地場型中小建設業が なにもしない
  (つまり構造改革の足かせ)となっているという意見は
   全くの誤りである
    
  それは 実情を知らない机上の理論でしかない

 彼らは 矛盾に満ちた状況の中を
  分裂症ギリギリの位置で 耐え  自律的に 調整を試みる
   それは ア・プリオリ的でさえあり 無意識的でもある

(どんなに工事量が減っても 建設業従事者は減らない)
(M&Aや 新分野の進出は その意味では 特効薬でもなんでもないことを知っている)

それは 取り立てて立派なことでもないが かと言って 陳腐なことでもない

地方行政は 彼らの流動的な知性に 甘えているだけのようにしか見えない

そしてさらなる工事量の減少は この自律的調整さえも 不可能にするだろう
それは流動性知性の活動の終焉を意味し 単なる欲望だけが跋扈する 混乱の社会を作り出すだけになるだろう

(地方の公共工事の ダンピング受注になんの意味があるだろうか)
 (それは 破壊 を意味し 決して再生を意味しないだろう)

   地方の破壊と混乱は 政策が策定される前から
       始まってしまっているのである

以上 現状の概観 対策案は後ほどにでも

そしてこれは 経済合理性からの 分析ではなく
 (GDPが この問題に対して 何らかの意味を持つのだろうか)

全く違った論理からの分析である(斜めから見てみた) それは
 取り立てて立派なことでもないが かと言って 陳腐なことでもないだろう

2005/03/27 (日)  
【悪党・ローレライを見てきた】

午前7時起床。
浅草は、晴れ。

ローレライの構造

昨日は 錦糸町へ出かけ「ローレライ」を見てきた
 わたしはこの原作もしらなければ 監督がなにものかもしらない
  予備知識は 役所広司のひげが 私のに似ている
   ただそれだけであった

潜水艦(Submarine)には ずっと惹かれていて
 子供の頃 イ号潜水艦の模型をつくった
  近所の防火水槽で進水式を行い
   その日のうちに それは 深淵に消えてしまったけれども

船は女性の象徴であるが
 Submarineのそれは あからさまである 
  今回の主役 伊507は 子宮 の 象徴である

伊507は N式潜という胎児を孕んだ 妊婦であり 母である
 それは終戦という 古い日本の死と
  戦後という 新しい日本の誕生を孕んだ妊婦として描かれる

伊507は 終戦も近いある日 東京への原爆投下を阻止すべく
  決戦の場 テニアン島へ向かう
その戦域での戦いの中 ローレライは その役目を終える

ローレライことパウラ・A・エブナーと 操縦士 折笠征人を乗せた
  N式潜は 伊507から 切り離される
   
       出産 
  新しい生命(希望)の誕生

伊507とN式潜をつないだ接続装置が切り離されるとき
 臍の緒は切れた 
  新しい生命は 誕生したのだ

そして 伊507は 最後の戦いに挑む(それは死)
 が しかし N式潜にのった パウラと折笠は生き残る
  (それは最後の作家がでてくるシーンが暗示している)

   生まれたのは希望か

ローレライは 戦争映画でもあり
 潜水艦映画でもあり そして死と再生の映画でもある
N式潜は繭である
 それはモスラの繭であり
  希望という神の象徴であり
戦後の日本という 新しい生命でもあり それは 「私」なのだ

 そう考えるとき はたして「私」は
  「私」を生んでくれた 伊507の思いに 答えられているのだろか
それは
 答えているようでもあり ないようでもあり
という 曖昧 でしかない

> で。面白かったですか?

上に書いたのは ローレライという映画が持つ構造であって
 映画は それを内臓した表現体だから 
表現体として面白いかどうかは たしかに別問題であってもかまわない

 (わたしのように)戦争映画が好きだ とか 
潜水艦映画が好きだ という人間の多くは
 そのメカ(兵器:潜水艦)に対する思い入れの部分が大きいので
そういう意味では 伊507のデーテルは好きだし
 内部の構造描写は素晴らしい
合成(VFX)の技術は高いので 
 実写アニメとでも呼ばれるだろうこの作品の 兵器(ガシェット)は
視覚的には (兵器好きの)脳味噌を喜ばせているかな と思う

ただ 米軍の艦隊や 兵器は なにか伊507に比べると
 描写が陳腐だし
ストーリーは 上に書いた物語(構造)の 再生産であり
 特段評価すべきもの でもないだろうと思う

  潜水艦エンターティメントとして 楽しめばよい

主役は伊507であり
 ローレライ(という少女と一体化したシステム)であり
そのローレライというシステムを搭載した
 伊507が 動いている(ように見える)ことを 楽しむ
そういう映画だと思う

 (なにか 意味を これに求めちゃいけない 映画だと思う)

2005/03/26 (土)  
【悪党・のPPT】

午前6時30分起床。
浅草は晴れ。

子供がスキー教室の合宿に出かけるので、丸ビルの処まで送っていき、久しぶりに大丸の地下街で買い物をして帰ってきた。


3・24東京独演会のPPT をアップした
ダウンロードのページ

この物語は三部構成で
 この三つの物語が フラクタルな構造を持っている

近況Tでは CALS/ECの終焉の表徴からはじまり(合理化だけのIT化の終焉)
 ペルソナとシャドー(ユングの深層心理学)から
インターネットとウェブログの心理学的な位置づけを行う(考えるIT化のはじまり)

(これは4・12空地建協さまでの物語への試作)

近況Uは ボロメオの結び目 という構造を持った物語の型が
 重層的に フラクタル的に再生される

(これは4・2網走建協さまでの物語の試作)

そして考えるIT化は 先の二つの物語と同じ型を繰り返しながら
 フラクタル的に ハイブリッドを貫く IT化の哲学を語る

 対立ではなく 異質を認めながら 全体としての意味を
そこに 見つけ出す 情報を見る眼


このPPTからのinspirationは
 新たなミーム論 なのだが(これは、講演でも少しだけ触れたが)
 ミームのエージェントとしての「私」である

ミームマシンでもあり
 ミームヴィークルでもあり しかし
ただ、模倣だけでは ミームは ダーウィン的 アルゴリズムは刻まず
 そこにあるモノは 自率的な意思だ ということだ

つまり
 「うごきだせ! えぶりばでぃ!」への 着火装置

それは次回に!

2005/03/25 (金)  
【悪党・今日は盛岡へ】

午前7時30分起床。
浅草は曇り。

いやぁ、昨日は楽しかった。
聞いておられる方々の耳が肥えていた。

それにつきるだろう。
ということで、東京独演会の反省は、明日にでも書きたい。

今日は、これから盛岡へ 行かなくちゃいけない。

2005/03/24 (木)  
【悪党・白子酒に酔う】

午前8時30分起床。
浅草は、曇り。

昨晩は、気の置けない方と銀座で一献。
ふぐを食した。

焼きふぐ
 

生の材料の微小化は 最小限に抑えられ


にんにくの香りという 混乱を纏う

    大胆

  白子酒の 繊細


今日は 東京独演会。
目覚めてから、ずっと講演内容の再確認をしていた。

骰子一擲

2005/03/23 (水)  
【悪党・この国の希望はますますなくなっていると言う】

午前3時起床。
浅草は、雨なのか、曇りなのか、よくわからない。

昨日は息子の卒園式で、今日は息子の卒業式。
まあ、いろいろとあるわけだけれども、子供のためには、できるだけのことはやろう、と思う。

2月15日の戯言で、「希望格差社会」について書いた。

希望格差社会

山田昌弘(著)

2004年11月10日
筑摩書房

1995円(税込)




わたしの周辺には少ないのだが、夢見るフリーターとでもいうような方々にお会いすることは珍しくない。

彼らには確かに「夢」がある。
○○になりたいと言う。
そしてその実現にむかって努力している、と言う。

たしかに何かはしているのだ。
(していないまでも、そうなろうという、何らかの意思はある)

しかし、その多くは、挫折している。
それは、「なりたいもの」を聞けば、当然なのかもしれない。

多いのは音楽関係であり、表現をするすることを生業とするような職業、つまり芸能、芸術関係の希望が多い。

それは、特に希望格差社会じゃなくとも、かなえることの難しい夢である。
昔っから、その世界での成功は、一握りの才能のものだった。

それは今も変わらない。
多くは挫折して当然なのである。

ただ、今と「かつて」が違うのは、かつては、「夢破れてサラリーマン」というのが定番だったのに、今は、「夢破れてもフリーター」ということであろう。

多くは、優秀な低賃金労働者として、働いている。
そこには、人生設計という希望は働くのだろうか。

希望のある社会とは、夢がかなう社会のことではない。
それは、夢がかなわない、夢が破れたときにでも、また人生に希望をもてる、つまり己を知ることで、夢を再設計できる余力のある社会ではないだろうか。

それは夢を捨てたことにはならない。
夢が破れることは、ただ己の一部分を知っただけのことであり、「私」は希望を失ったわけではない。

社会というシステムが、希望をもって(つまり自分自身への信頼を失わないで)、また人生を再設計できるだけの、希望の再生産ができる仕組みを内包している、それが希望のある社会ではないだろうか。

建設産業は長い間、希望の再生産装置として機能してきた。

それは確かに底辺ではあったかもしれないが、多くの方々が、希望をもって(つまり自分自身への信頼を失わないで)、人生を設計できるだけの、希望の再生産ができる仕組みを内包していた。

しかし今その再生装置は、その役目を否定されている。
いわく、新分野への進出。
そこには希望が働いているのだろうか。

今、この国に足りないのは、そういう希望の再生産システムのように感じている。それは夢を持つことへの余力だ。

日増しに、遊びが少なくなっているこの時代に、「私」の夢はなんだろう。
夢や希望は、「私」の無意識からの欲望でしかない。

この遊びのない空間に、無意識は、抑圧されるだけで、希望を生み出すようには機能しないだろう。

そして、抑圧された無意識(欲望)だけが、たださまよっている。

2005/03/22 (火)  
【悪党・ミームについて久しぶりに書く】

午前7時30分起床。
浅草は曇り。

ダーウィン文化論―科学としてのミーム

ロバート・アンジェ (編集)
ダニエル・デネット他(著)
佐倉 統, 巌谷 薫, 鈴木崇史, 坪井 りん(翻訳)

2004年9月7日
産業図書

3780円(税込)


久しぶりにミームの本を読んでいた。
たぶん、これが一番新しい「ミーム」を扱った書籍だろうか。

この本は、ミーム論推進派ばかりでなく、ミーム論批判派の意見もあり、執筆者の専門分野も多彩だ。とても楽しい。

それはとりも直さず、今のわたしの立場のようなものだからだ。
じつは、最近の私は、ミームという言葉をあまり使わない。

勿論、ミーム論を捨てたのではなく、わたしはミーム論者であり、文化のダーウィン的アルゴリズムによる進化という(自己複製子の)概念への魅力一には惹かれつづけていた。

特に流行や風説伝播の理解に、ミームの概念は欠かせない。

ただ、わたしのI今の関心は、模倣によるミームの伝播というよりも、(表現が変だが)個体レベルでの精神的、技倆的(身体で覚える)進化、とその形成プロセスにあり(例えば芸の継承)、それをミーム論で考えていくといささか辛い部分がある。

それになによりも、ブラックモアのミーム定義によれば、学習で獲得するものはミームではないのでね、それをミームで考えるのは無理があるわけだ。

スーザン・ブラックモアのミーム定義

「遺伝的ではない手段、とくに模倣により伝えられる文化の単位」

つまり社風とか組織文化とかいう、比較的大雑把なものを考えるとき、ミームはそれなりの視座を与えてくれるが、必ずしも均質にならない個体レベルでの差異、つまりミクロ的な考察になると、ちょっと辛い(まあ、遺伝子や環境との関連で説明できないこともないけれども)。

それに、変化のダイナミズムをミームや遺伝子の自己複製子としてのエネルギーに還元してしまうのも、まだ今の段階では、わたしには辛いことなのだ。

それで今は、哲学やら、人類学やら、言語学やら、精神分析学やらに手を広げ、色々と考えてはいるのだけれども、それもまだ、全然自分のもにになっていないので、しんどいったらありゃしない。 しっかりしてくれよ、ミーム。

ということで、そのしんどい表現の一端。

さて、イントラネットでも、時々、匿名での書き込みを希望されることがある。
それは、3のパターン(自我として参加しながら自我を隠す)に近いものだろうか。

それは、自我を隠すことでの意見の出しやすさ、として理解されてきたものだが、その意味するところはもっと複雑なのかもしれない。

例えばそれは、抑圧された自己の表出、という意図を孕んでいるかもしれないし、また、嫉妬やスパイト行動に対する防御の意味もあるだろう(嫉妬は、やかれたら最後、対応策がない場合が多い)。

このような問題認識は、mixi では個人的特性として理解してきたものを、組織の問題として考えるきっかけを与えてくれるだろう。

それは、その組織に充満する「ちゃんと書く」ということに対する評価の低さと、組織内の信頼関係の欠如のあらわれなのである(「はいぶりっど」な組織文化の表出、組織内にそもそも信頼が育っていない→社風、ミーム) 。

そして、その裏を読めば、その現実的な原因は、一人ひとりが、自我としてのテクスト表現ができないことに原因があるのではないか、と考えている。

 それは、まず日本語入力の技倆であり
 文章を書くという能力である

つまり、キーボードを使って、論理的に書く(ロジカル・シンキング)の訓練ができていないことが「サイボウズを導入したけれどうまく動いていない」の大きな原因なのではないだろうか。

またそのことを軽視してきた(逆説的にはテクストとして表現しないことを助長してきた)組織文化(社風)にも原因があるように思える(どちらかといえばその方が大きな要因だろうが)。

サイボウズに流れる情報は、なによりもまず、キーボードから入力された「テクスト」なのだ。

テクストを書く行為は、万年筆で紙に書こうが、キーボードで入力しようが、大なり小なり、自我という反省の次元を経由する。

これには、当然に訓練と学習は必要で、ます、キーボード入力は当然のこととしなくてはならない。

さらに、ちゃんと文章を書くということは、例えばそれは、敬語を使うフォーマルな会話と、井戸端会議ぐらいの差はある。

なので、mixiにおいては、「2」(自我を隠す)の部分を重視する日記(テクスト)は、声的な文字(符号)が好まれることが多いが、サイボウズは原則「1」(自己としての参加)なのであり、そこには反省の次元は働かざるを得ないのだ。

そこから導き出される 考えるIT化は「種の論理」である。

        (日本語入力は当然の技倆)

そして反省の行為の実行としてテクストを作成する。
 これはテクストでなくてはならない。
 それは自己(無意識、影)を意識するとによって、自我を育てる。
    無意識を鍛える
    そこらら生まれる自己否定的変態
それが変化のダイナミズムであるとき
 個が変わることによって、組織文化(社風)も変わる(種の倫理)のだ。

2005/03/21 (月)  
【悪党・比較的平和な日々】

子供が連休前から水疱瘡にかかってしまっていて、この三連休は、子供と一緒に自宅で過ごした。

水疱瘡とはいっても、熱もなく、食欲もあり、元気なので、わたしには、自分の時間がただ増えただけであり、それはそれで有意義に使いこなそうとしていた。

午前中から今まで(間も無く午後5時)、PPTと論文書きに費やし、これからは、未読の本を読んでみようと思っている。

この連休は、なにもない、平和な日々であった。

昨日の図のinspirationの素。

とても素敵なトポロジーで、言語が既に決まったフィギュールを持つがゆえに、また新たな言葉の使い方は生まれている。

それをつくりだす無意識。

無意識さえも、二重性を持っている。
男性的なものと女性的なもの。
自我と自己。
個人的と集団的。

まあ、このあたりはゆっくりと進めている。
なによりも、わたしの脳味噌がとても疲れるのだ。

2005/03/20 (日)  
【悪党・考えている日】

午前7時30分起床。
浅草は曇り。

午前中は3・24 東京独演会用のPPTのまとめていた。

実は今朝、目覚めに 思いついたものをがあって、それをPPTに取り込もうとしていた。

(忘れないうちに)

サイボウズ=無意識とするのは 少々強引なところもあるが
  あるところに書いたコメント
(つまりそれは、わたしのインターネット観のひとつなのだが)

インターネットは
 人間の無意識 そのもののように見える
  それは己を偽ろうが 己を表出しようが
   必ず浮かび出てくるもの

からの inspiration  つまり インターネットにある さまざまなものは
 無意識の投影を 孕む

インターネットとは 我々の無意識だ という認識は 今回の独演会の主題のひとつだ

 そこからウェブログを解析する

ただ この無意識の理解はいささか面倒であることはたしかで
今回は 便宜的に ユングの自我と自己の理解を使おうと考えている

 それは便宜的どころか 大変な手抜きではあるが
無意識というものの機能の理解にはなるだろう

無意識は抑圧された影の渦巻くエネルギー
 抑圧の表出は 影の投影であり 怖い部分もある

しかし その無意識と意識の波打ち際から
 アイディアやinspirationは生まれるものだろう、とわたしは考えている

つまり 創造
         創造の母は 無意識にある

そして そこにある 無意識(自己)を鍛えるIT化
       考えるIT化

2005/03/19 (土)  
【悪党・己の性格についての自己分析】

午前6時起床。
浅草は晴れ。

昨晩は、流石に連休前の金曜日とでもいおうか、はやてとこまちは満席状態であり、しかたなくやまびこに乗る。

はやてに比べたら、1時間はのんびりとできる旅。
本も読めたし、眠たし、食べたし。


さて、昨日の盛岡での勉強会では、3・24東京独演会のためしうちを少ししてみた。
まだ完全に出来上がっていなくて、ホワイトボードを併用しながらの講演であった。

それは例えば、わたしが mixi で使っているハンドルネーム pinkhip とはなにものなのだろうか、と考えてみるということだ(つまり、わたしは自分の心しかわからないので、自分のことについて分析的に考えてみる)。

pinkhip
これは、わたしのメールアドレスの @ の左側であり、わたしがインターネットという仮想世界で暮らしてきた7年間、一環して使い続けてきた、わたしの象徴である。

pinkhip
それは 桃知利男である。
わたしとF2Fの付き合いのある方々の多くは、pinkhip=桃知利男での認識は容易であろう。

わたしの本性は「内向的感情型」と「内向的感覚型」のハイブリッドだ、と自己認識しているのだが、これれは多分、多くの方々が、pinkhip に持つ一般的なイメージとは逆のものだと思う。

わたしは、外交的に振る舞い、論理的に書き、日本中を駆け回り、講演もすれば、酒も飲み、外向けにコミュニケーションをし、自分を売ることも忘れない。

例えば哲学的なことを考えるにしても、先人の知恵や周囲の意見を取りいれ、事実とか現実の状況を重視する。経験則を大切にし、それを状況に当てはめて考えようとする。まあこれは「外交的思考型」の特性だ。

精神分析を受ければ、「外交的思考型」と「外交的直感型」とのハイブリッドがわたしの性格だ、と分析されるのだろうか。

まあ、それはペルソナ(仮面:心の一番外側にある殻のようなものであり、外向けのわたしの顔)であり、それはこの7年間に<他者>との関係で作ってきた「心の殻」だな、と思う。さらに言えば、その(意識して)つくってきたものが、今やわたしの主機能のように動いている。

では、わたしが自分の性格として認識している「内向的感情型」と「内向的感覚型」のハイブリッドとはなにか、といえば、これは「かつて」のわたしの主機能としての性格であり、今はわたしのペルソナに必要ないものとして切り捨てられた影(シャドー)だろうか。

ただ切り捨てたといっても、なくなってしまうわけもなく、ちゃんと無意識に存在し、つねに心の底にそれはあり、わたしの基底として機能し、そして時々は、ひょっこりと表に姿をあらわす(かつてはこれが自我にいた)。

つまり、この7年間で、わたしの主機能と劣等機能は逆転している(というようりは、もともとの性格に影を取り込んできた)のではないか、と最近思っている。

それは不思議なことなのである(性格は意識的に変えられるのか?)。
その上、この自我と影は、今のところはなかよくわたしの中に納まっていて、最近は影が悪さをすることもなく、つまりこの二つは、対立ではなく相互に補償的にわたしの中にいるのだ。

たしかに歳をとったせいもあろうが、心的に少しは成長することができたかな、と感じている。
 →自己否定的変態か?
まあ、それが説得力を持つには、わたしが少しなりとも成功している(なにに?)、と皆さんが感じてくれれば、だろうが。

それは何ゆえか、とまた性懲りもなく考えているわたしがいて(内向的だよ)、どう考えても、この7年間続けてきたのは、ウェブログに書くという行為と読書なのであり、それがこの性格のハイブリッドのようなものを可能にした、としか思えないのだ(それ以外に思い当たるものはない)。

ただわたしは書いていた。そして読んでいた。ただそれだけである(そしてそれを実践しようとした、という意思がこれに加わるのか)。

その「書く」も、感情(主観:好き嫌いや快、不快)で書くのではなく、思考として書くことを(たぶん無意識に)心がけてだ。

今は、その一連の行為が「反省」の行為である、と言うことはできるが、当然に7年前そんなことは知るはずもない。

そしてもうひとつ、このウェブログにいる pinkhip は、そもそも己の変身願望の表出だったとは思う(わたしは変わりたくてこうしたのだから)が、かと言って、それは「別のわたし」ではなかったということだろう。

それは常に現実のわたしと結びついていて、F2Fでは(ちょっと文章のイメージとは違うけかもしれないけれども)pinkhipとしてのわたしがそこにいる、ということだ。

そしてその肉体を伴うわたしと、わたしの書くテクストとは、スパイラル的にハイブリッドし、わたしのイメージを形作る。
つまりpinkhipとは、皆さんのイメージが作り上げたものだ。

それらが多分、わたしのIT化の主題である「広くて薄い紐帯」を作る能力、つまりHUB能力の秘密である「信頼と尊敬の関係」を可能にしているのではないだろうか、と思うのだ(そうであればだが・・・)。

じつは、こんな風に考えながら mixi を使っている。
そして皆さんの日記を読ませていただいている。
わたしも日記を書いている。

→だからわたしにとってのmixiは観察の場なのであり、ここで新たなつながりをつくることは主題にはない(まったくないこともないが)。それはリアルな場がメインである。

これがmixiのようなバーチャルなコミュニケーション中毒にならないためのコツかもしれない(と昨日の講演ではなした) 

2005/03/18 (金)  
【悪党・今日は盛岡へ主張】

午前6時起床。
浅草は晴れ。
今日は、盛岡へ行ってくる。

さて、年度末にもかかわらず、3月24日、東京独演会は、早々に14名さまのお申込みをいただき、ありがたき幸せ。残席はあと6つ。
良い席はお早めに。まあ自由席・・・ですが ^^;

3・24 東京独演会
 『イントラネット経営』−「インターネットとブログの時代」の経営哲学−


今回のセミナーで使う試作品のひとつに、ユングの心理的思考の8分法がある。

これは、精神分析をやろうとしているのではなく、狙いは「狡兎三窟」の補足にあり、つまり思考の蝶番としての、無意識(個人的無意識と集合的無意識) の理解に使おうと考えている。

無意識は、意識の中に閉じ込められているものではなく、意識は無意識という大洋に浮かぶ小船であること(これが「骰子一擲」の意味するところだと理解している)を説明するのに、用いようとしている。

私たちは意識の存在だけではない。

「考えるIT化」。
主機能(表に出てくる性格)の反対側、つまり己の影としての劣等機能の存在を意識し(それは無意識の中に抑圧されている)、それを自らの主機能に取り込むことで、無意識さえもコントロールしようとする、自己否定的変態のためのIT化を模索する。

実は、空知建協さまから 今年も新入社員研修をご依頼いただき、そこで使おうと考えていたものなのだが、まずは、3・24東京独演会で試射して見ようという魂胆。(策略)

2005/03/17 (木)  
【悪党・無理やりにつなげてみる】

午前6時30分起床。
浅草は晴れ。
しかし日中は天候が悪いらしい。

五重塔五重塔

幸田露伴(著)
岩波文庫








幸田露伴の「五重塔」を読んでいる。
「五重塔」は 永六輔氏曰く 「ものつくり」の教科書である。

主人公の大工 のっそり十兵衛、棟梁 川越源太郎,、そしてお施主 感応寺上人。 三人の主役が それぞれの立場をぶつけながら 立派な五重塔を作り上げていく。

「江都の住人十兵衛これを造り川越源太郎これを成す」
上人こう書いて五重塔に納めるラストシーン。

「・・・造り・・・を成す」
作る人だけでは成立しない。成す人がいて、はじめて仕事は完成する。

施主と棟梁と職人
スポンサーとプロデューサーとアーティスト
対立しながらも、和をわすれない「ものつくり」

対立しながらも、和をわすれないこと。これは、狡兎三窟であり、建設業の基本哲学だろうと思う。

この本をある勉強会で使おうか、と考えていた。
事前に感想文を提出していただく。

詳細はまだ秘密だし、予算の問題もあるので、実現できるかどうかわからないが、この「ものつくり」の考え方を組み込んだ勉強会ができれば、楽しいだろうな、と「思う」のだ。

さてこの「思う」というのは、未来へ向けての、なにか不確実性を孕んだ言い回しだ。
現場も、会社も、そしてわたしでさえ、未来に向けて、なにかしらの予定を立てている。

予定を立てる。
それは「五重塔」にある語彙を使えば、設計(つもり)である。
予定は、未来へ向かう意思の表出であり、わたしの意志は、この通り進むことを 望むが、内心では、予期せぬ事態を、すでに予感している。

それは、経験という過去の資産のなせる技であろうか。
身体で覚えること、つまり技倆(うで)があってこそ機能する思考であり、身体で覚えた間の取り方であり、あそびを持つということだ。
それ故、身体という無意識の思考は、隙間(あそび)を埋め込みながらの設計を好む。

予定を立てることは、また航海図のようなものである。
出来上がった工程表は、北極星を中心に回る星座のように 美しい。
しかし 航海士の真価は、その星座の幾何学のなかにはなく、それはいつも、難破の危機と隣り合わせにある

空をよみ 風をよみ 波をよむ 頼れるものは、ただ己の情報をみる眼
このとき (情報はいずこに) 
    その不確実性の中に情報が見えるのか。

情報を見るとはそういうことだ。
星座が見えるのではなく、星座を隠してしまおうとする、難破(ハザード)を見ることだ。

それが 繰り返す 骰子の一擲である。
    骰子一擲 如何で偶然を破棄すべき。

「骰子一擲」は「餃子一皿」に似ている。
(ちょっとくるしい。^^;)

浅草 末っ子の餃子

餃子一皿は常に「種」である。
餃子の一皿はひとつの餃子では成立しない。
常に複数個で提供されることで餃子は商品としての価値を持つ。
つまり商品としての餃子には自性はない。
自性がないとは他者との関係においてのみ己が存在しえるということだ。
しかしそれは「個」が「種」に埋没してしまうことではない。
ひとつの餃子はあんという混沌を内包した壁を持つひと房であり輪郭を失うことはないし餃子一皿を全部一緒に食べることはしない。
食べるときにはひとつひとつの「個」として口に運ばれる。
そのことによってのみ餃子は餃子である。

餃子一皿は常に「襞」である。
あんという細分化された野菜の屑と肉の破片と調味料という混沌を内包したひと房が重なりあうことで作り出す「襞」である。

それは自らの周辺を閉じるためにつくられた「襞」とフラクタルの構造を持つ。
そしてひと房に内包された混沌はまたなにかとフラクタルである。
それはたぶんわたしという自我が浮かぶ無意識の大洋とフラクタルなのであろうか。
餃子一皿は中華料理という大洋に浮かぶ小船であり混沌を内包したまま混沌に振り出された骰子の一擲である。

餃子一皿は思い出である。
それは父親とのかすかなふれあいの記憶である。
子供の頃餃子の一皿からひと房をわけてもらい一緒に食べた思い出せないけれども確かな記憶に輪郭を与えるパラメータである。
最近父の夢ばかりみる。
父は自転車をこぎわたしは父の背中から腕をまわしなにかに恐れるようにしがみついている。
彼は弁当を食べていたりただ座っていたりするのだがそれはいつも笑顔と一緒なのだ。

2005/03/16 (水)  
【悪党・食らう】

午前7時40分起床。
浅草は晴れ。

昨日の昼餉と夕餉

・昼餉
うどんを食らってきた
 こんぴらやは うちのご近所(浅草3丁目7番地)で
  若い夫婦がやっていてる 杉の女将が 
   昼間うどんを食うならここで食えぇ
              と薦めてくれた店だ
     当然に この推薦の裏には
 夜は うち(杉)で食え という脅迫が隠されているのだが (笑)

こんぴらうどん のセット 小さなどんぶり と おかずがつく
 屋号に金比羅がつくぐらいだから うどんは さぬき系
  汁は 江戸前にあるまじき 透明度を誇る 関西系

 きつね+たぬき+たまごとじ というハイブリッドを
       こんぴらうどん と称している

 それにミニ丼(カレー丼)と 高野豆腐の煮しめ
       しめて1100円也

 ここのカレーは うどんやにしちゃ 辛い
       具は 小さな豚肉が 布っ切れのように
   そして 申し訳なさそうに  入っているだけ だが
うまい

あのやかましい杉の女将のご推薦だけあって
    全てはそつなく なんなく完食


・夕餉
小柳

浅草は 食い物屋の名店には ことかかないのだが
 いざ うなぎを食おうか となると 困るのも また浅草である

  小柳は
 そんな浅草の中でも ちゃんとした しかし気取らない
   うなぎやである

 (うなぎやで酒を飲むっていうのは こうやるんだよ)

 まずは たまご焼き (突き出しは香の物)
  できればう巻でというところだろうが 
    なになに ここのたまご焼きは ちょっとものが違う
  甘すぎず かといって 薄味でもなく
    しかりと 出汁を内包した混合体は 襞を重ね
  黄身と白身の混沌は 深遠の淵をさまよう 妖精である


 そして 焼き鳥
  うなぎやに 焼き鳥
   不思議な組み合わせかもしれない が
  夜の酔客をあしらうには このぐらいの余技は必要なのだ

 ここの焼き鳥は 生肉とモツの二種類
  どちらも「たれ」であるが
   このたれがまるで みたらしだんごの それなのである 
  これこそが 小柳 だといったら 店主には 叱られるかもしれないが
   これそこが 小柳 さ


 そして真打は 蒲焼である
  やや甘めのたれで 丁寧に仕上げられた それは
   江戸前の掟を守り やわらかく でも 輪郭を崩さない
  これでね ちびりちびりと やってごらんなさいよ
   己の輪郭はすでに 店の一部として消え
    全ては 甘露

 締めは 肝焼
  輪郭はないが
   かといってそれは酩酊ではなく
     己の存在を失わないところにある 深淵 という味覚
小柳
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