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店主戯言050501 2005/5/1 〜2005/5/15 "There goes talkin' MOMO"


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IT化を通して建設業に貢献する

2005/05/15 (日)  
【おもしれぇなぁ 人間は】

午前6時起床
 浅草は くもり
 
今年の 法政大学エクステンション・カレッジもまた
 新しい同調と創出の場となってくれそうです

わたしは 酔っぱらって帰った昨晩
 mixi の日記にこう書きました

 俺は今日
  法政大学エクステンションカレッジを
  開講してよかったと つくづくと思ったよ
  おもしれぇなぁ 人間は

さて 昨日の講義要点及びPPTは
 明日の戯言にまとめたいと思います

では よき休日をお過ごしくださますように

2005/05/14 (土)  
【今日は 法政大学エクステンション・カレッジ】

午前7時起床
 浅草はくもり

さて今日から 2005年度前期 法政大学エクステンション・カレッジが始まります
 集客の苦戦は当初から予想されていましたが
 7名の皆さまの受講申込みをいただき 無事開催できることを感謝したいと思います

地方の建設業の疲弊は ある意味突破局面を迎えています

 
情報社会学序説 p39)

これは例えば 「ビジョナリー・カンパニー 2」にある
 「弾み車の概念」と同じようなものですが
 突破の局面は いい意味でも起こるし また 悪い意味でも起こるということです
 (図に描かれていることを ひとつでも逆に読めばよいのです)

発注量全体が減り 自社の受注量が減り
 経営を圧迫していくなかで 環境の変化という現実の直視と
 準備段階を踏んでいなかった 経営マインドは
 業界の突破局面同様に 負のベクトルへS次波をなぞるでしょう

そして 心理的なある突破を迎えます
 それは 希望の喪失 情熱の喪失 規律の喪失です
 それは カオスを生み出します

このS字波の流れは 不可逆的ですから 元に戻ることはできませ
 ですから ただそのアルゴリズムに沿って
 疲弊のまま定着してしまうのかもしれませんが

わたしはあえて ここに新しいS次波を描こうとしています
 なぜなら S次波は 重複する連続性だからです
 つまり 今の突破の局面は 新しいS次波の 形成若しくは出現の局面です

情報社会学序説 p40)

では その新しいS次波が 疲れ果てた経営マインドを再び奮い立たせ
 希望と 情熱と 規律のアルゴリズムをきざみはじめるにはどうしたらよいのか
 わたしのIT化論は そんなところにいます
 ですので だいぶ前から CALSではありません 

2005/05/13 (金)  
【守・破・離】

午前6時30分起床
 浅草はくもり

ビジョナリー・カンパニー ― 時代を超える生存の原則

ジェームズ・C. コリンズ, ジェリー・I. ポラス (著)
山岡 洋一 (訳)

1995年9月29日
日経BP出版センター

2039円(税込)



ビジョナリー・カンパニー 2 - 飛躍の法則

ジェームズ・C. コリンズ(著)
山岡 洋一 (訳)

2001年12月21日
日経BP出版センター

2310円(税込)



14日から始まる 政大学エクステンション・カレッジにむけて
 わたしの三窟的思考方法を
  「ジャンケンの経営学」とでも呼べるようなものとしてまとめていました

そのまとめの作業の中で
 三窟的思考方法に もっとも近い考え方をしている経営学の本は
 上記の二冊であり
 そして 伊丹先生の 「場のマネジメント」 かな と再確認しておりました

場のマネジメント―経営の新パラダイム

伊丹博之(著)
1999年1月30日

NTT出版
1890円(税込)




「ビジョナリー・カンパニー 」で言われている グレート・カンパニーの特質は
 それらの企業の持つ 「規律の文化」です

「ビジョナリー・カンパニー 2」の巻末解説で 野中郁次郎先生は
 『私には「規律の文化」とは「型」であると思われる』
 と書いておられますが まあ わたしも講演でお話しているように
 「型」つまり 基本こそが 大切なのよ ということだと思います

「型」は人を枠にはめますが 個性とは
 心ではなく まずはゲノムですから
 枠にはめることで ゲノム的個性(つまり躰ですね)を通して
 表現としての個性は生まれます

さらに 優れた「型」を体得することは 動きに無駄がありませんので
 逆に 自由が保障されます
 (参考)春風亭美由紀さんの芸と「かたち」についての戯言
 http://www.momoti.com/myself/self041202.htm#041219

ただ「型」と言っても これはマニュアル人間になることを意味するのではなく
  「型」であるには条件があります
 それは 「型」の中に 不断のフィードバックがある ということです

それを 「守・破・離」と言いますが これは 自己超越プロセスです

 守(しゅ)=ひたすら学ぶ時期
 破(は)=教えの言葉から抜け出し真意を会得する時期
 離(り)=型に一切とらわれず自由に飛翔する境地

わたしのIT化論の実践は じつはとても単純ですが
 ちゃんと このコードを持っています

例えばその「守」 つまり「枠」は ただ「書くこと」です
 ウェブログを 三日坊主にならず できるだけ毎日書く習慣をつけること
 そして それが「反省の次元」に触れるようにしていくこと
 
わたしはこれを 7年間守ってきました
 7年間 ウェブログを書き続けてきました
 そして内にこもらないようにしてきました
 
しかし ……こう書くと たいした「守」ではありませんねぇ (笑)

そして今は 「破」をやってもいいのかなぁ とおそるおそる
 その真意を 確かめる作業をしているようなものだ と思います

まあ 落語で言えば 二つ目のようなものでしょうか
 「離」は 希望的観測では 3年後を目指してはおりますが (笑)
 はたして 「離」になるのかどうかは まったくわかりません


それはさておき では 「ビジョナリー・カンパニー」
 何ゆえに 「ジャンケンの経営学」なのかです

李御寧先生が 「ジャンケン文明論」でも書いておられますが
 それは 「ORの圧力」をはねのけ 「ANDの才能」を活かす という
 経営哲学を 持っているからです

 ・変化か 安定か
 ・慎重か 大胆か
 ・低コストか 高品質か
 ・創造的な自主性か 徹底した管理か
 ・未来に投資するか 目先の利益に投資するか
 ・綿密な計画か 臨機応変か
 ・株主の富を生み出すのか 会社の役に立つのか
 ・価値観を大切にする理想仕儀か 利益を追求する現実主義か

経営における このような二項対立を 「OR」ではなく 「AND」で考えようとします
そのトポロジーは ジャンケンと同じ 太極の図形になります

グーとパーの白黒が ハサミのチョキによって S字型に絡み合う
 こうなると 二項は対立ぜずに 対象性を持って共存することになります

この図は 維持すべきものとしての
 基本的価値観 基本的な目的 という基本理念
 (つまり「場」を生成させるものであり 「種」であり「型」です)と

変化すべきものとしての
 文化と業務の慣行 個別の目的と戦略
 (つまり「場のマネジメント」でいう 経営の手段・変数)の関係を
 表していますが

それらは 対立させて どっちを選ぶのか というようなものではなく
 共存することでこそ強みを持つ ということです
 
ここまでくると 核心に近づいてきます
 それは では当社(私でもいいですよ)には 維持すべきものとしての
 基本的価値観 基本的な目的 つまり基本理念はあるのか ということです

「ビジョナリー・カンパニー」の主張の要は ここにあります

そして その見つけ方も 親切にも(?)書いてあります
 それを図示したものが (↓)です

  
これを「針鼠の概念と三つの円」とコリンズは呼んでいますが
 まんま 三窟のトポロジーであることが わかるかと思います

ただし これは答えではありません
 答えを見出すための プロセスです
 答えは 自分で探さなくてはならないのも わたしのIT化論と同じです

わたしは  三窟的な思考方法を 試し始めてから
 個人事業主としてのわたしの 経営指針のようなものを
 これとよく似た方法で 考えてきました

それを 簡単に書けば
 自分が語れるなにかを持てるとすれば それはなにか を考えることです
 それは勿論  売り上げでも 利益でもなく
 語れるなにかとして 一番になれるものです

でもそれだけでは たぶん ご飯は食べられないかもしれませんから
 それで 生計を立てようとすれば (経済的原動力)
 その語れるなにかとは なにがしたいのか ではなく
 わたしの能力で なにができるのか により近づくことになります
 
では その経済的原動力と 夢や希望のようなものの妥協が答えなのか
 と言えば それだけでは 現実に束縛され
 目先の利益に翻弄されてしまいまうことでしょう
 わたしの場合 個人事業主でしから 型としての組織(種)がありませんので
 「守・破・離」も 機能してくれそうにもありません

ですから 自分が語れるなにかとしての 一番になれるものという
 目標 であり 夢でもあり 希望でもあり しかし現実でもあることで
 自分自身が 情熱を持てるものは 必要なのだ と考えています
 
これから先は 「秘すれば花」のものですから ここには書きません…(笑)
 (でも 政大学エクステンション・カレッジでは たぶんお話します)

ということで 明日は 時代を見る眼のひとつである
 三窟的思考方法の理解として ここからはじめることになるかと思います
 なんとか 間に合った ということでしょうか


※ 気になるところ (特に「ビジョナリー・カンパニー 2」
 コリンズは 三つの輪の交差部分(針鼠の概念)を 単純化と考えており
 フロイトは無意識に ダーウィンは自然選択に マルクスは階級闘争に
 アインシュタインは相対性理論に アダム・スミスは分業に関心を集中させた
 という例を挙げています
 しかし これらの事例(複雑なものを単純に)は
 非対称性の思考の特徴であり それは ジャンケンの太極の図形が持つ
 対象性の思考方法とは 違うものです
 (経営学の本にありがちな 深い部分で論理矛盾が見られます)
 このあたりは注意して読まれるとよいかと思います

2005/05/12 (木)  
【今のところ なんの役にも立ちません】

午前6時20分起床
 浅草は 曇

フルハウス 生命の全容―四割打者の絶滅と進化の逆説

スティーブン・ジェイ・グールド(著)
渡辺政隆(訳)

2003年11月30日
早川書房
924円(税込)





昨日は 午後8時過ぎに 浅草に戻りました
 新千歳空港の気温は10度で
 昨日は 東京も寒い日だったようですが
 北海道の 春は 何か例年に無く遅く感じられました

室蘭では 八重桜でしょうか
 桜を観ることができ なにか得したような気持ちにはなりましたが

浅草に戻ると
 この時期  三社祭にむけて稽古している お囃子の音が聞こえてきます
 なにか 気持ちが高揚する季節になってまいりました

昨日 飛行機での移動時間は
 グールドの「フルハウス」を読んでいました

グールドは生前 私たちのミーム師匠である
 リチャード・ドーキンスの論敵 と呼ばれた人ですが
 あらためて 読み直してみると 論敵どころか TOM&JERRYよろしく
 仲良く喧嘩していた 盟友であることがわかります

二人とも 真正のダーウィニストであり
 遺伝子と ミーム(グールドはミームという言葉を使いません 文化です)は
 違う進化プロセスを持つことを 知っていました

今読めば グールドの方が よりわたしの 三窟的思考方法に
 近い立場にいることがわかります

まあ それはともかく この本を再読していたのは
 グールドには「右の壁」論とでも呼べる理論があるのですが
 (これが四割打者の絶滅の秘密なのです)

それが ダンカン・ワッツが 「スモールワールド・ネットワーク」で提示していた
 スケール・フリーのカットダウンモデル(つまり80:20じゃなくなるのね)と
 なにか 関係がありそうだな というインスピレーションからです

それは それで関係はありそうに 思えましたが
 では それがなにか 役に立つのか?と聞かれるとですね
 今のところ なんの役にも立ちません というようなものです(笑)

でも ちゃんと書くなら
 最初から 価値があるとか 無意味だとか 振り分けて考えることこそが
 あんまり頭のよいやり方ではない ということでしょうね

2005/05/11 (水)  
【ジャンケン文明論】

午前5時起床
 浅草は曇
 ちょと頭痛
 今日は 室蘭まで 日帰り出張です


この図は 前回の東京独演会で使用しました
 ミームエージェント としての個人観です
 個人は 信念と目標という
 「二重フィルター」アーキテクチャーを持っているとされています

でも 信念も目標も 個人の内部で 勝手に作り出しているわけではなく
 <他者>との間に(間主観的に) うまれてくるものです

<私>だけでなく <他社>もいる という感覚は
 私たち日本人にとっては フツーの感覚のように思われます
 (当たり前すぎるのかもしれません)

たとえばそれは  ジャンケンに 顕著です
 なによりも ジャンケンは ひとりではできません
 かならず相手がいます
 その上 相手の心を読まなくてはなりません

二項対立コードではないので あいこ があったりします
 そして 結果は 偶然性に満ちていますが 恨みっこなしです

それは 西欧的なコイン投げとは
 違ったコードで動いていることがわかります
 結果は 同じように偶然性に満ち 恨みっこなしですが
 プロセスが違います

コイン投げは 道具(コイン)を必要とします
 (ジャンケンの道具は 手であり躰ですから モノは必要ではありません)
 相手の心を読む必要もありませんし ひとりでもできます
 そして 白黒(表裏) という 二項対立が基本コードです

このプロセスの違いが 欧米的な経営と 日本的な経営の
 経営観の違いとなって表出しているかと思いますが
 今や日本的な経営は
  時代遅れのようなものに思われています

しかし そのエッセンスを きちんと見極めることができれば
 そこには ミーム論における「二重フィルター」アーキテクチャーのように
 西欧的な科学が 今頃気がついた当たり前なことは
 ずっと以前から存在していたことに気がつくでしょうし

それはまるで ジャンケンが単なる子供の遊びなどではなく
 私たちは ジャンケンが持っている
 それこそ 先達が大切にしていた生きる技術としての社会哲学を
 忘れてしまっていることに 気がつくことなのだと思います


ジャンケン文明論

李御寧 (著)

2005年4月20日
新潮新書

756円(税込)





これは 「三窟的トポロジー」という思考方法について
 わかりやすく書かれた本です

岩井国土交通副大臣は 講演の際
 彼の持つ 社会哲学である 「あるべきようは」
 (白でもなく 黒でもなく 黒でもあり 白でもある)
 について その例えとして ジャンケン・コードを使われましたが
 
それが腑に落ちるのは わたしの 「三窟」も ジャンケン・コードだからです
 ジャンケンは そもそもが 「三窟」ですし
 無意識の構造は
 ジャンケン・コードなのだろうな と考えています

わたしの手法で ジャンケンのトポロジーを表せば
 下の図のようになります


Scissors cut, paper covers, rock's braking the shining scissors

この トポロジーの最初の理解(の要)は
 グーにパーが勝つという コードです

紙が石に勝つなんていうことは
 科学的に考えれば 到底 合点がいきませんね

しかし 石(グー)が意味する 剛や武力に対しての
 紙(パー)の意味する 柔や文徳の優位性とか

たとえば 孫悟空(グーであり石ですね)が
 お釈迦雅の手の平(これはそのままパーですね)から
 逃れることができなかった というような アジア的な例え話には

ああ なるほどな と納得できるかと思います
 (できない方は 是非 この本をお読みください…(笑))

ただ 紙が石に勝ってしまうという 直線的なコードでは
 わざわざ負けるほうを選ぶことはしないでしょうから
 グーとパーという 二項対立だけでは ジャンケンは成立しません
 
しかし ここにチョキ(ハサミ)が 介在すると 関係(トポロジー)は一変します
 紙は石に勝っても ハサミには切られてしまいますから
 石の武力も 紙の文徳も 世を支配する絶対的な力ではなくなります

つまり ハサミが 紙と石の二項対立に介在することで
 どれも勝って 同時にどれも負ける という
 ジャンケン・コードのリアリティが生まれてきます
 (と同時に 二項対立は 存在しながら 存在しなくなります)

李先生は「ジャンケン文明論」において
 ジャンケン・コードが 極めてアジア的思考(対象性・非線形思考)であることを
 折り重なる襞のように 説明していきますが

まずは ジャンケン・コードというような
 西欧的なコイン投げ(トッシング・コイン)の持つ
 表と裏から 一つを選ぶ二項対立関係の思考とは 違った思考手法が
 じつは 現実味を持って 存在していることを
 理解していただければ と思うのです

たとえば 5月8日に紹介しました
 「SYNC」(スティーブン・ストロガッツ)という本は
 西欧的な 二項対立の科学が行き着いた先としての
 非線形物理学について書かれています

それは 差異を差異として認めながらも 全体として意味を スパイラル的に
 そして 自己組織化しながら 創発してしまう
 (ある意味)思考の技術(手法)のようなものでもあるのですが
 そういうものが 欧米において 注目を浴びている(流行している)ことは
 意味深なのだと 思います

勿論 そのときに 私たちが引っ張り出さなくてはいけない チョキとは
 わたしが「IT化論」で 「無意識」 と呼んでいるもの だと思います

それを 推し進めていくと
 わたしが 馬鹿みたいに 丸を三つ書いていて説明しようとしている
 「IT化論」のトポロジー(場)が 生まれてきますが
 (たとえば下図 は事業者団体ベースのIT化の基本です)
 これも ジャンケン・コードのような ものであることは言うまでもありません


2005/05/10 (火)  
【公文式と 赤い文化住宅の初子】

午前5時20分起床
 浅草は 曇

情報社会学序説情報社会学序説―ラストモダンの時代を生きる

公文俊平(著)

2004年10月28日

NTT出版
2100円(税込)




14日からはじまる 
 法政大学エクステンション・カレッジ で使う教科書です
 再読しながら 講義内容を仕上げる作業をしています

公文先生は 今と言う時代を 「ラストモダン」と表現しています
 それは 公文式 (笑)
 「社会変化を捉える眼」である S次波という
 社会をみる眼鏡(手法・技術)に 基づくものです

それを 最近のわたしの手法で現せば
 下図のようなトポロジーになるかと思います
公私共のトポロジー

これは IT化の方程式(IT化=環境×原理)では
必要不可欠な 環境と 原理 を探し出す手法ですし
 この三窟的な トポロジーが 掛け算そのものを表現しています
 
公文先生の言う ラストモダンとは 近代化の成熟局面として
 ポストモダンの突破段階との 重複局面として位置づけられています

公文式(笑)は この時代背景と 原理を 徹底して考察することで
 先を読むのですが
 (その時代を読む力は ずば抜けていると思います)
 
その手法は わたしの ポストモダン的な? 思考手法と
  違和感が少ないのです(無いとは言いません)
 (それが 本書を 教科書に選んだ 大きな理由です)

今回はまず このS次波や トポロジー的な  「社会変化を捉える眼」という技術を
 身につけていただこうと 考えています
 (それは 情報を 見る眼 ということです)

そして そこから 考えられるIT化を
 より実行力の備わるものとしていきたく思います

ただ この教科書は 超COOLなのですが
 いささか人間臭さには 欠けるところがあります
 汗臭くない 人間味がないのです
 (そんなことを 本書に求めること自体
  意味がないことは 十分承知しておりますが…)

 ただ わたしとしては COOLに しかし 浪花節的に 根性論で
 講義をすすめたいものですから いささか ものたりません(笑)

なので 鳴物と お囃子は必需品として 各種準備していることころです

(鳴物候補……^_^;)

赤い文化住宅の初子

松田洋子(著)

2003年7月5日
太田出版

1000円(税込)





この本は 若者たちに何が起こっているのか」(中西新太郎)の あとがきで
 「負け組」の世界 「正直者が馬鹿を見る」現実が
 如実に映し出されている と紹介されていたものです

わたしは マンガ という表現について
 語れるなにかを あいにくと 持ち合わせては おりませんが
 それが 現実というものを 映し出す鏡としての 評価をしてよいものなら
 (その意味では)
  この作品は 高い評価を得てしかるべきものなのだ と思います

中西新太郎氏が
『身もふたもないみじめな現実をそうなるしかないものとして描くマンガは、いまや珍しくない。マンガが変わったのではなく、現実の方が変わったからだろう。』と言う現実が

表題の 「赤い文化住宅の初子」もう一つの作品 「PAINT IT BLUE」には
 誇張されたものとしてではなく
 リアルな生活の描写として 描かれていると思います

そのリアリティは それを傍観者として見ている<私>を
 また 際立たせもするのですが
 その傍観者は たとえば よくできたエンターティメントの ありえなさを
 無邪気にを楽しんでいる <私>ではなく

社会を 偶然斜めから見た時に  「なにか」が見えてしまって困惑している
 心優しく 「いい人」である <私>に気づき
 その 不恰好さに 「お前もまあ こんなものか!」と
 自分自身に 軽蔑の一撃を食らわせているような <私>です

「誰もがニートになるかもしれない」という 玄田有史氏の言葉のように
 わたしもまた 初子の家庭 を生み出す父親であり
 まじめに働いていても 工場を潰してしまう
 PAINT IT BLUEな 工場主なんだなと
 そんな 妙なリアリティを孕みながら
 「赤い文化住宅の初子」 は <私>にのしかかってくるのです 

2005/05/09 (月)  
【ニート】

午前5時20分起床
 浅草は 曇

ニートニート―フリーターでもなく失業者でもなく

玄田有史(著)
曲沼美恵(著)

2004年7月10日
幻灯社

1575円(税込)



この本を購入したのは
 「希望格差社会」(山田昌弘(著)2004年11月10日 筑摩書房)
 と同じ日でしから 2月の中旬でした
 http://www.momoti.com/myself/self050201.htm#050215

購入理由は なによりも
 玄田有史氏が著者としてクレジットされていたからですが
 目次を見れば 期待はずれ的に 彼のページは少ないし

当時のわたしの関心は
 ハイブリドな思考方法のトポロジー(狡兎三窟)に集中していましたので
 いままで お蔵入りしていたものです
 
それを いまさらのように 引っ張り出させたのは
 5月4日の店主戯言で 若者たちに何が起こっているのか」
 (中西新太郎(著) 2004年7月25日 花伝社)
 について書いた際 不用意に使った ニートという言葉でした

わたしは ニートについては 新聞を読める程度の理解しかありません
 それが ニートという言葉を使って
 ある種の若者たちを マーキングしてしまったことに
 なにか 罪悪感のようなものを 感じはじめたのです

それで いまさらながら ニートについて 知らなくては と
 この本( 「ニート」)を引っ張り出しました

しかし この本は ある意味期待はずれだったかもしれません
 若者たちに何が起こっているのか」読んでしまっていることで
 すべては 理解済 と なりかねないのです
 それも本当は ニートについては よくわかってはいないのに です
 読む順番を間違えた のかもしれません (笑)

ただし 玄田氏が書かれた 「第6章 誰もがニートになるかもしれない」
 だけは 強烈に心に響きます
 いつもの冷静沈着に思える 玄田氏のテクストとは違った
 あきらめにも似た 自らへ投げつけるような 言葉遣いが 印象的です

ニートの現実と その克服の 困難さは 玄田有史にして
 こんなテクストを 書かせるのか と思うと
 その問題の深さが 強烈に伝わってきます

わたしは ニートと呼ばれる方々との接点はありませんし
 その現実を 実感を持って感じているわけではありませんが

わたしの身の回りの現実でさえ
  「誰もがニートになるかもしれない」という
 玄田氏の言葉 そのものかもしれない と感じています

たとえば 公共工事依存型の 地方の中小建設業は
 減り続ける公共事業という 将来性のなさという 安心の崩壊に
 「動きたくない」のではなく 「動きだすことができない」ように思えます

それは 自らの力では どうしようもないと思える程絶望感が強い環境の前では
 「働きたくない」のではなく
 「働くために動き出すことができない」という ニートの文脈とそっくりです

わたしのIT化は 建設業(で働く方々)の社会化 つまり
 社会的適応を 中心に考えていますが
 建設業界の「動きだすことができない」 という現実の前では
 わたし自身が くじけそうになることも度々です

なぜ 「動きだすことができない」のか ということを
 還元論的に 解を言う人たちもおりますし
 わたしは それをずっと考えてきましたから
 かなり 複合的で 複雑な解のようなものを それなりに話すこともできますが
 わたしの実感としては 本当は よくわからないのです

しかし その「わからない」という 現実を認めながらも
 それでもあきらめずに なぜ? と考え
 ただ 骰子一擲を  あきもせずに 繰り返すことでしか
 わたしの「IT化」は
 動き出すためのきっかけには なれないのだと考えています

2005/05/08 (日)  
【政治的なもの 科学的なもの】

午前6時起床
 浅草は 曇

今朝は 時事放談を見ていました
 ゲストは 加藤紘一氏と ジェラルド・カーティス氏です

加藤氏は 福島に住んでいたころ
 地元の選挙の関係で何度かお話を聞いたことがありますが
 こうして 改めて話を聞くと
 かつての盟友であった 小泉首相とは一線を画しているのがはっきりしていて
 正直 おもしろい人だなぁ と感じました

これからは 外交でも 内政でも 政治的な中心におくのは
 日本人の自然観 が核になるだろう と彼は言います
 
それは 明治維新をきっかけに 崩れはじめ
 西欧のキャッチアップ
 グローバリゼーションとやらにのみ とらわれているのが今でしょう と

そして今 日本人は 日本の再発見をしようとしている
 書店に 行けば 日本探しとでもいうような
 地政学的な本 哲学の本 (彼はそれを頭が痛くなるような本といっていました)
 が 大きな売り場を占めているでしょう と

講演では 日本 自然 そういうものと 年金問題を組み合わせてお話しをすると
 皆さんの反応がよいようだ とも言います

これは 年金問題に関して 彼が 東京のような 大都市中心思考での
 問題解決方法ではなく
 (大都市住民の)老後の居住地候補としての
 地方を生かすような 政策を考えている ということのようです

そのためには 地方を切り捨てず 地方の再生をはかることと
 老後の 暮らし方(それは 年金の問題に直結します)というような
 より 人間の行動 こころもち というようなモノを含んだ
 複合的な問題解決方法を考えて いることを うかがわせるものでした

加藤氏は たぶんですが 地方と公共事業のありかたについて
 私達と 非常に近い 問題解決アプローチを持っているように思えます
 今の立場は「負け組」なのでしょうが だからそこ?
 彼の考え方を きとんと 聞いてみたいと 思いました


SYNC

スティーブン・ストロガッツ(著)
蔵元 由紀(監)
長尾 力(訳)

2005年3月31日
早川書房

2310円(税込)



スティーブン・ストロガッツの 「SYNC」
 翻訳がでれば 読むしかありあせん

既に いろいろなところで 彼と ダンカン・ワッツの
 スモールワールド・ネットワーク理論は 紹介されており
 科学にも 流行というものがあるなら
 まさに 彼らは 流行の発信者であり その最先端にいて
 その 影響度は 音楽業界で言えば ミリオンセラー でしょう

ただし 日本における認識は 表面的であり
 その真意の ミーム的広がりは これからでしょうが
 今と言う時代の 政治的 経済的 空気(ミーム)からすれば
 ずっと無視されるかもしれません (笑)

スモールワールド・ネットワークスモールワールド・ネットワーク

ダンカン・ワッツ(著)
辻 竜平/友知政樹(訳)

2004年10月28日
阪急コミュニケーションズ

2940円(税込)



ストロガッツとワッツ それに バラバシの 「新ネットワーク思考」が加われば
 わたしの「IT化」にある ネットワーク論は 十分に網羅されてしまい
 その上  おつりがくることになります

そして そのおつりは IT化では 中沢新一的な場で 使えるのですが
 まあ それはおいておいても

新ネットワーク思考新ネットワーク思考

アルバート=ラズロ・バラバシ(著)
青木薫(訳)

2002年12月20日
NHK出版

1995円(税込)



これらの本は 専門書というよりも
 一般的な読み物としての体をなしていてることに 特徴があります
 少々の 数学や 物理の知識はあったにこしたことはありませんが
 そんなものを 知らなくても 読めるように工夫されています

つまり 研究者向けではなく 一般向けに書かれているのですが
 こんな面倒なものが 一般向けに出版されていることが
 この分野が 流行の科学であることを(というか なることを)
 証明しているのでしょう

わたしは スモールワールド ネットワークの理論を
 IT化の設計において 使おうとし 実際にも 使ってもいますが
 それは 多様体としての人間の SYNCを考えることです
 つまり「種の論理」です

そしてこれらは 加藤氏がいう 日本探しの本でもあるのです

2005/05/07 (土)  
【美しい記憶】

午前6時30分起床
 浅草は 雨

5月5日は 端午の節句 でしたので うちでも 菖蒲湯にしました
 菖蒲の香りと一緒に 早めの風呂を浴びるのは 気持ちのよいものです
 
しかし 都内では こいのぼりを見ることも めっきり少なくなりましたし
 マンション生活者である わたしの家でも こいのぼりは ありません

ただ 菖蒲湯 という伝統的なミームが 残っているだけですが
 このミームも 淘汰に向かっているのだろうなぁ と思うと
 寂しい気持ちになります

(菖蒲は 花屋で購入しました これで350円です)
「端午の節句」
陰の気を払うため、ショウブ・ヨモギを軒にさしてする節句。男子の節句。
Shin Meikai Kokugo Dictionary, 5th edition (C) Sanseido Co., Ltd. 1972,1974,1981,1989,1997

最近は こんなものもあります


わたしは 高度経済成長期に 工場労働者である
 共働きの両親のもとで 育ちましたので
 こどもの日に 両親は仕事であることが多く
 日中に一緒に過ごした思い出はありません

5月5日 が ハレの日であることを 実感できたのは
 こいのぼりと 夜の 菖蒲湯 だったのです

その思い出は 今では わたしの中で 美化されてしまっているのでしょうが
 ただ そのようなものでも うれしかった という記憶があります

今の時代を その時代と比べることは 意味のないことかもしれませんし
 貧困であるがゆえに 少ない楽しみにも 幸せを感じていたのも 事実でしょうが
 毎日が ハレのような日々を過ごす 今の子供たちが

何を 美しい記憶として こころの中に残しながら
 将来を生きていくのだろうか と考えると
 不安な 気持ちになるのも たしかなのです

2005/05/06 (金)  
【なにができないのかではなく なにができるのか を】

午前6時15分起床
 浅草は 曇

インターネットにおける行動と心理インターネットにおける行動と心理

アダム N.ジョインソン (著)
三浦 麻子  畦地 真太郎   田中 敦 (訳)

2004年2月20日
北大路書房

2940円(税込)





一昨日にも書いたように わたしの「IT化」の特徴は
 私たちが生きる 生活を営む という意味で
 否が応でも直面しなくてはならない 今と言う時代の
 社会化(例えば 環境変化への適応と言ってもよい)において

インターネット 特に
 CMC(コンピューター媒介型コミュニケーション)は
 どうしたら もっと その役に立つことがてきるのだろうか
 と考えていることにある

それはなによりも 桃知利男 という
 かつては ただの失業者であった わたし自身の
 (再)社会化の過程に対する 興味から生まれており

わたしが行う 特徴的な日々の行為
 つまり インターネットに ホームページを持ち
 毎日 ウェブログを書き続けることが

わたし自身の バーチャルばかりでなく リアルな社会での
 社会化と どう関係しているのかを
 自らの実践を通じながら考えている ということでもある

と同時に その興味の中心が 人間の行う相互作用であることで
 わたしのIT化の考察は
 コンピューター・サイエンスは当然のこととして
 人間の相互作用に対する 研究や 概念を 横断的に 利用する

哲学 社会心理学 深層心理学 民俗学 生物学
 言語学 人類学 経済学 経営学 数学
 進化論 ミーム論 ネットワーク論 メディア論 等

けれど このような 点として存在している研究や 概念を
 線で結びながら  面を構築していくような作業は
 インターネットに関して言えば

それが まだ若く 発展途上のメディアのせいもあるのか
 また誕生時に 技術的 経済的側面にばかり 注目されてきたせいか
 極端に少ないのも確かであり
 なので 仕方がないので 自分自身の興味について
 自分で 地を這うように 考えてきたわけだ

「インターネットにおける行動と心理」は 心理学という領域から
 インターネットと社会化を考えようとしている
 それは サイバー心理学とでも呼べるようなもので
 インターネットと社会化についての 研究の仕方
 アプローチの仕方を示してくれている

なので 読み物としては 書かれていないし
 実験を繰り返す 社会心理学的アプローチの面白さはあるものの
 (これは既に 山岸俊男氏の研究でおなじみ)
 今の わたしの「IT化」から見れば その研究結果に
 特段 新しい発見があるわけでもないので
 読書の対象としては 少々退屈してしまうが(日本語訳も 下手である)

わたしの「IT化」に対するアプローチと 同様の視点をもった
 とても興味深い 研究アプローチであることは確かであり
 今後の このアプローチの進展には とても興味をそそられている

少なくとも インターネットに対して
 人間の社会化 という 心理的なものと行動という
 それも なにができないのか ではなく なにができるのか を
 考えようとする そのアプローチは 素敵だと思う 

2005/05/05 (木)  
【他人の不幸は蜜の味】

午前6時20分起床
 浅草は 晴

「裸のサル」の幸福論「裸のサル」の幸福論

デズモンド・モリス(著)
横田一久(訳)

2005年4月20日
新潮新書

714円(税込)





「裸のサル」論者 モリス博士によれば 幸福とは
 「物事がよくなった時に我々が感じる突然わきあがってくる喜びの感情」
 であって 継続的に満足している状態ではない
 
つまり 強い幸福は 変化と 密接な関係があるため
 長続きするものではなく むしろうつろいやすいものだ
 そして 幸福を 次の 17のパターンに分類してみせる

  1 標的の幸福
  2 競争の幸福
  3 協力の幸福
  4 遺伝の幸福
  5 官能の幸福
  6 脳の幸福
  7 リズムの幸福
  8 痛みの幸福
  9 危険の幸福
 10 こだわりの幸福
 11 静寂の幸福
 12 献身の幸福
 13 消極的幸福
 14 化学的幸福
 15 ファンタジーの幸福
 16 可笑しさの幸福
 17 偶然の幸福

この分類に どの程度の 信憑性や 意味があるのかは わからない
 そして モリス博士は
 幸福の進化論的研究から導かれる 一つの法則をいう

それは 我々が身を置いている状況が
 人間性の何らかの基本的様相に ぴったりと調和している時
 幸福が訪れる機会は 劇的に増える ということだ

それは 間違いでは ないと思うし
 であれば
 この17の分類は 我々の 基本的様相なのだろう

 この分類だけを見ても
 人間は 矛盾に満ち溢れ 複雑なプログラムを施された
 生物であることが わかるだろう

この薄っぺらな新書に なんらかの価値があるとすれば
 幸福を感じる方法なんて たくさんあるのさ ってことを
 あっさりと 書いてくれていることだろうが

例えば 「私」の幸福が <他者>の不幸を導き出すものなら
 それを 幸福と呼んでいいのかどうかは
 どこにも 書かれていない

わたしはそれを 幸福とは 考えてはいないが
 人が 「幸福」とやらを感じるとき 親和的なものばかりではなく
 「他人の不幸は蜜の味」という 皮肉な感情があることも またたしかだろう

わたしは この本を読んで
 幸福の 別の分類を してみたい衝動に駆られた

それは エロスとタナトスの幸福
 生産の幸福と 消尽の幸福 というものである
 まあ これにも
 「他人の不幸は蜜の味」という 皮肉な内容が 含まれていることも たしかだが

であれば 人間性の何らかの基本的様相とは
 親和的であろうとすると同時に 「他人の不幸は蜜の味」に喜びを感じたりする
 矛盾したものだ ということだろう

だから 個の強調は いつでも 合成の誤謬と うらはら なんだろう と思う

2005/05/04 (水)  
【何が起こっているのか】

午前5時起床
 浅草は晴

昨日は 下町つながり お隣は足立区の
 こども科学館へ行ってきた
 
科学館への入場料は 昨日(たぶんGW期間中)は無料
 ただし お目当てのプラネタリウムは入場料が必要
 とはいえ さすがは足立区立 ただ同然
 大人200円 子供100円

昨日は このプラネタリウムで
 「なっとく!これが星座だ」という GW特別企画があった

子供向けに 動画や PPTを駆使し
 星座についての ギリシャ神話を語り
 クイズ形式で 星座を 説明したり

いつもの静かな プラネタリウムの常識を超えて
 子供たちの 声が響く  楽しいものだった

昨晩 星を見たけれども
 うちのベランダからは 木星と 土星が 見える程度

こぼれるような 満天の星が みたいと思った


若者たちに何が起こっているのか若者たちに何が起こっているのか

中西新太郎(著)

2004年7月25日
花伝社

2520円(税込)




例えば わたしが考えている IT化では
 道具としてのITや
 コンピュータ や インターネットの存在が 可能とした
 コンピューター媒介型コミュニケーション
 (computer-mediated communication:CMC)が
 
人間の行う 社会的相互作用
 つまり 社会化(<他者>との関係の成立=自我の確認)に
 どのような 心理的な影響を与え
 その心的なものが生み出す 行動と その可能性 について考えている
 それは メリットも デメリットも である

では 今と言う時代の心的な特徴(ミーム)を考察するとき
 今日を 象徴するだろう
 フリーターや ニートの存在 切れる若者たち
 恵まれた社会の怠け者 というような
 (大人たちの見解としての) 若者像を  どこかで
 自分なりに理解しておく必要を感じていた

例えば 彼らの行動に
 道具としての  ITや CMCのような 新しいコミュニケーション手法は
 影響を与えているのか と考えるとき
 
ITやCMCは むしろ 多くの方々が考えているような
 行動の 原因としてあるものではなく
 社会的緑辺化という 彼らの置かれている状況では
 彼らが直面せざるをえない 何らかの社会化(つまり 適応と葛藤克服)への
 アフォード的な 道具としての 存在意義が大きいのではないか と考えている

 (まあ それはまた 彼らの心理や 行動への影響を持つことになるのだが)

この認識は IT化への メリットを強調こそすれ
 デメリットを いうものでは ない
 (まあ わたしの立場では当然だけれども)

若者たちを 考えれるとき 70年代以降の子供たちの成長は
 「消費社会を どう生きるか」という課題をふくんでいる
 と言う 中西先生の指摘は 重要だと思う

自分を どう社会に適応させ 生きていくのか は
 政治的 経済的な道具としての制度(環境)が生み出すものと
 無関係ではなく
 むしろ その影響に 若者たちは 翻弄され続けてきた

戦後日本の 性急な消費社会化は 文化の進化的には ネオテニーを孕み
 消費を主体とした サブカルチャーを生み出しもしたし (オタクの誕生)
 それは サブのカルチャー であり
 つまり 文化的な 断層を生み出してもいる

しかしそれは 単独で生まれるはずもなく
 学校を卒業すれば あたかも 決められた
 レールに乗っているように 就職することで 社会化する という
 企業社会のシステムを 足場として成立してきたものだ (大衆消費社会)

企業社会は  旧来の共同体に代わり(若しくは一体化し)
 若者たちの 社会化という 機能を 企業で働くことに置き換えることで
 人間の 社会化においての 立場を強化し
 会社人間なるものを 再生産しながら
 同時に 消費する市民(消費者)も 再生産するシステムとして
 機能してきた

このことは 「企業社会−消費社会」というシステムの最中に
 生まれた 若者たちにとっては
 消費することに ただ意味があるような サブカルチャーへの適応と
 就職を機会とする 企業社会への適応という
 社会化の二重構造が存在することを 意味していた

つまり 「企業社会−消費社会」という構造は それ相応に
 若者たちの行動に 影響を与え 企業社会という
 経済的な「安心」を背景に
 ある意味 多様な若者文化を 生み出しもしたし
 親の世代とは あきらかに違う 文化的な 断層も生み出してきた
 
しかし 90年代後半以降 この二重構造に支えられたシステムは
 大きく崩れてしまう
 レールに乗るような 入学−卒業−就職 と
 それによる社会化という 企業社会の 図式が 崩壊してしまう
 今や 若者の 社会的緑辺化は著しい

つまり フリーターやニートとよばれる 層が 生まれ 増大し
 就職すること=社会化 という図式があることで生まれていた
 経済的な 「安心」の成立が 困難になってきている

彼らは そんな中でも 無邪気かつ 無意識に 「強くあれ」 とあおる
 新自由主義の空気を 精一杯吸って 生きねばならない(自己責任)

そしてなによりも 消費社会への適応は
 物心がついたときから の必需なものとして存在し
 子供たちは 消費を あおるシステムに埋め尽くされている

つまり サブカルチャーは 彼らにとっては サブではなく メイン なのだ

そんな環境の中で 若者たちの 心理的な変化と
 その心的な変化が生み出す 行動とはどのようなものとなるのか

「若者たちに何が起こっているのか」は そのような アプローチをもって
 それを 詳細に探求している
  −自らの透明化 −という 行動

このような アプローチは 「公共工事という産業」とは
 無関係なものではないし 意味のないことでは ない

なぜなら 企業社会システム(企業社会−消費社会」とは
 これはつまり 「公共工事という産業」を支えた 開発主義の
 別名でしかないからだ

では ここで IT化は なにができるのか である

2005/05/03 (火)  
【合成の誤謬】

午前7時起床
 浅草は 曇

経済が社会を破壊する―いかにして人間が育つ社会をつくるか

正村 公宏(著)

2005年2月27日
NTT出版

1680円(税込)





「合成の誤謬」とは
 一人一人の行動としては 「善」であることを
 皆が行うと 全体としては(つまり社会としては)
 誤った行動になることをいう

「公共工事という産業」を取り巻く 環境
 そして そこで行われている ミクロ的な 行動とは
 まさに この状況 「合成の誤謬」である

この主たる原因は 政府の  経済政策への 偏りにあり
 いつでもそれは 経済の中だけで カネを回そうとし
 例えば 構造改革では 企業をしごき 労働者をしごき
 地域や 家庭を崩壊させ
 揚げ句に 経済も停滞させている というのが 正村先生の 主張だ

それは 『桃論』の主張にも つながるものだが
 ただ 今のわたしと 違うのは
 時代背景(つまり環境)の把握の仕方
 つまり 消費社会としての 今と言う時代 の考慮は
 あまり行われていない ということだろうか

それは 問題解決策としての コミュニティ・ソリューションや
 「広くて薄い紐帯」の 必要性を 際立たせる
 (二項対立は いつでも 政府の失策を 繰り返させている)

なぜならそれが インターネット社会(今と言う時代)に
 我々が お金というメタ欲望に とらわれず
 人間と社会の再生産を可能とするための
 最低必要条件だからだ
 
政府の政策は なによりも重要だが
 その政策を 引き出すには
 我々(つまり 地場型中小建設業 と自治体)の
  コミュニティを視野に入れた活動は 不可欠だ

だか 個々の企業や自治体が
 それぞれの自己責任とやらで行っている
 自らの目先の利益のための 行動は
 決して 地域というコミュニティの 利益にはつながらず
 矛盾に満ち溢れ
 結果的に 地域社会の崩壊と
 人間 と社会 の再生産システムの 崩壊に寄与してしまっている

それは そのシステムの一端を担っていた
 「公共工事という産業」の 不要論にもつながり
 つまり 多くの地場型中小建設業は
 自分で自分の首を絞めているだけだろう

ここで 事業者団体ベースのIT化の必要性を わたしは言うのだが
 それは一見 自らの利害とは パラドキシカルに見えるため
 ナイーブな エコノミストの言説に惑わされ
 多くは また「合成の誤謬」への道をすすむ

ということが この本を読めば いくらかは 理解できるだろう
 と わたしは思う

2005/05/02 (月)  
【落ち込む】

午前6時45分起床
 浅草は 晴

ちょっと気分的に 落ち込むことが重なり
 書けない状況になってしまっている

厄払いでもしたい気分だ

次の骰子一擲を しなくてはならないのだが
 そんな気分でもなく 本当に まいっている

午後は 始まったばかりだし
 なにやら 今日は もっと落ち込む事態が
 やってきそうな気配だし

まあ 落ち込むときは とことん 落ち込んでやろう
 と覚悟を決めた

2005/05/01 (日)  
【GW】

午前7時起床
 浅草は 曇

GWである
 昨日から 子供に付き合うふりをして 自分で楽しんでいる

「メリー・ゴー・ラウンド」
 という書き方は 山下達郎氏の 曲名 そのものなのだが
 真夜中の遊園地 は
 ふたりきりでなくとも 十分に 現実離れしている

その現実離れは 再生装置としての 浮世との断絶であり
 フラクタルに 構築される 子宮的構造が
 イベントとして 再生されて
 また擬似的に わたしを 再生してくれる
 
中心にあるお城から
 放射状に 遠近法を使いながら 広がるその敷地は
 ただでさえ
 再生装置としての 構造をもつが

夜の闇は
 単純な 乗り物
 単純な イベントほど それを強調する


私たちは いつでも どこかで
 再生を願っていて その装置を手に入れようと やっきだ
 音楽も スポーツも インターネットも TVゲームも
 しかし 多くは すぐに飽きてしまう

今やそれは
 合法的には 夜の遊園地にしか 残っていないのかもしれない

GWは 今や ハレとしての 再生を約束する時間でなく
 ハレとケの 境界のなくなった 日常に
 夜の遊園地だけが その装置として わずかな 光を放っている
 非日常として
 
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桃知商店
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