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店主戯言051001 2005/10/01 〜2005/10/15 "There goes talkin' MOMO"


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IT化を通して建設業に貢献する
考える技術を伝える

【当サイトについて】

2005/10/15 (土)  
【11・5日横浜セミナーの宿題】

午前6時30分起床
浅草はくもり

今日は新潟へ向かう
上野 10:18 *Maxとき 313号 新潟 12:17
久しぶりに新潟県電気工事工業組合にお伺いする

10月5日に11・19地域再生フォーラムin山鹿の打ち合わせで訪問した
岩井國臣国土交通副大臣との記念写真が届いた
 
わたしがいちばん太い(笑)

昨日は岩手県建設業協会のIT委員会に出席
お昼は向井田さんに盛楼閣の冷麺をご馳走になる
 
盛楼閣の冷麺はなんといわれようが写真を載せたい
わたしはこの冷麺が好きなのではない
愛しているのである

だけどモノへの愛は分散してなんぼである
だから他にも愛しているモノはたくさんある(笑)

愛用のThinkpadのことも愛している
だから「愛用」なのだ

最近骨折したり 直ぐに眠ったりして 体力不足が目立ったきたので
とりあえずバッテリーを新品に換えてあげた

そのプレゼント効果は絶大だった
上野-盛岡間 片道2時間24分を余裕でクリアしまだまだ余裕があった

わかりやすい反応は なんとも嬉しい
でも「機械だからできることだよね」という声も
頭の上 二時の方向から聞こえてくるのもたしかだ(笑)

盛楼閣の冷麺もThinkpadも「0.5」の存在である
それは擬人化できるものだが そうすることで
モノに対して「愛している」という表現が可能となる

「1.5」の関係を考えていて
(つまり「コミュニケーション」の変容を考えていて)
昨日とても興味深い文章に出会ってしまった
出所は後々明らかにするけれども まずは読んでみてほしい
 私はまず、つきあっている男性と、そうでない男性をうまく使って恋愛を楽しんでいる。私はつきあうとどうもその男性に深く入れこんでしまうタイプで、つくしてしまい、相手の男性には「あ、この女は自分のことをすごく好きでいてくれている」という安心感をもたれ、ちょっとくらい放っておいても大丈夫だろうという気持ちを持たれてしまう。私は、つきあいを楽しむには「主導権」を握らなければならないと思う。これを握ることによって相手は自分に没頭してくれる。しかし入れこんでしまうタイプの私は相手にこれを握られがちだ。

 だから、私はいつも私に好意を持ってくれる人と遊んだりしながら本命の人のことを考える時間を減らし、あまり連絡をしないようにする。すると本命の相手は自分への関心を深めてくれるのだ。私はいつもこれを「愛情の分散」とよんでいる。「愛情の分散」をすることによって本命の人が自分のことをすごく好きになってくれる。そして他の人とも遊べるというオマケがついてなんだか二つの恋愛期間が一度に味わえてすごく楽しい。私は恋愛のかけひきが下手で、いつもブレーキがかからず自分の感情をおしつけがちだ。だから私はいつもこうして恋愛を楽しんでいる。

「愛の分散」である(笑)
別名「二股をかける」とも言う

まるでゲームを楽しんでいるようにも思える
(一途な愛はゲームにはならない)

マーケティングの極意のようにも思える
(要は他者の欲望を如何に「私」に向けるかの技術だもの)

わたしはこれは「1.5」の関係を作り出している事例だと思う
そこで質問である

ではこのとき「0.5」はどっちでしょうね
これが11・5日横浜セミナーの宿題である(笑)

これは意外と難しい
「彼」でもあるし 「私」(彼女)自身でもあるように思える

みなさんはどう思われるだろうか?
まあ考えてみてほしい

ただ一つだけ癪に障ることがあるのでわたしの感想を書いておこう

『私は恋愛のかけひきが下手で……』

どこが下手なんだよ!
このぐらいの突込みをしておいてもいいだろう(笑)

2005/10/14 (金)  
【半人前の欲望】

午前6時起床 浅草は快晴
今日は 盛岡出張(日帰り)

依存リンク山鹿市管工事業協同組合さんを追加
ご要望もあり分類は「謎?」で

11・19地域再生フォーラムin山鹿のパンフレットを掲載いただいた
ああ 動いているなぁと思う


さて昨日のはなしだ
午前7時54分に尾道駅を出た普通列車は
なにか とても懐かしいにおいがしていた

通学の高校生で充満した車両は
山手線や京浜東北線のラッシュ時のおやじ臭さではなく
若い汗のにおいが充満していた
しかしそれは不思議と不快感のないものだった

歳を重ねると体臭は強くきつくなるもので
わたしも自分の加齢臭が気になる程に歳をとった

それは若いの頃の汗のにおいとは根本的に異なるにおいであり
それは生物的な衰え(若しくは成熟)のにおいであり
己の業の蓄積のにおいのように感じている自分がいて
そして それを嫌悪する自分がいる

わたしは「ボディミント」という
飲む「キムコ」のようなものを愛用している軟弱者だ

まあ気休めのようなものだ

尾道の「一口」で同世代の店主の息子さんとこんな話しをした

「自分では若いと思っているけれども もう五十が見えてきているだよねぇ」

年齢だけは人並みに重ねてきてしまった
いつの間にか子供も大きくなってしまった

しかし 精神的にはまだ子供のようなものであることは自分自身が痛感している

「一人前」という言葉を使えば
わたしはまだ「半人前」なのだと思って生きている
つまり自分は(精神的には)まだ若いと思っているのだろう

わたしがこの歳になって本を読み続けているのは
「半人前」から脱出したいという気持ちと その反面
いつまでも「半人前」である自分を楽しんでいるのだろうとも思う
つまり自分はまだ成長できると思っている

しかし「半人前」であろうとなかろうと
身体は歳を重ねていく 生物として衰えていく

と同時に歳を重ねる毎に己の業は増えていく
それを「半人前」の精神が後押ししている

そんなものはどこかへ捨ててしまいたいと思うときがある
体臭を消すようにだ

しかし捨てようとしても捨てられないのが人間の業ってものだろう
それは自然の(生物としての)わたしなのでもあり
わたしの内部は(精神的にも肉体的にも)外とつながっていることで
自分の中にさまざまな汚いものを抱え込んで生きている
きれいなものも汚いものも共にもっている

立川談志が「落語とは人間の業の肯定である」というように
その捨てきれないものを肯定してもらえるなら それはカタルシスになりえる

『そもそも、きれいなものも汚いものも共にもっているのが人間なのに、自分の中にある汚いものを一切否定するという心理に取り付かれている』(小此木啓吾,『ケータイ・ネット人間」の精神分析』,p150-151)

今の時代の潔癖症は業を自ら肯定できない
それは精神的な未熟さなのかもしれないが
わたしはむしろ その未熟さへの執着がどこかにあるのだろうと思う

それは精神的な幼稚さというよりうも若さへの執着であり
可能性への執着であるようにも思える
それがたぶん欲望だ

人工環境といってもよい時代環境の中で育った私達の世代は
精神的に未熟かもしれない
しかし未熟な精神を自覚することで
ようやく希望を(夢を)持ち続けていることができているのではないだろうかとも思う

自分はまだ「半人前」なのだと思っている それは嫌悪の対象かもしれないが
しかしまた死ぬまで成長できるという自覚なのかと思う

それは単なる思い込みかもしれないが(想像界)
しかしそれがたぶん 今という時代の「救い」なのだと思う
動き出す原動力なのだと思う

ものわかりのいいおやじにはなりたくないと思う
永遠の「半人前」で世間様に迷惑を振りまきながら
可能性ってやつを欲望していきたいと思う

2005/10/13 (木)  
【尾道にて】

午前5時15分起床
尾道は 快晴

昨晩は わたしが 恋焦がれていたものに出会えた
まずは「一口」 お店の名前である
 
何度か訪ねてはいたのだが 繁盛店故 満席でいつも入れなかったのだ

「一口」は 串かつの店ではあるが魚介類を揚げてくれる
串かつ屋で魚介類を種にしているところは めずらしい
さすが天然の生簀 瀬戸内海を抱えた尾道というところだろうか

「一口」は けっして大きな店ではなく
コの字型のカウンターだけの小さな店である

しかしそこには 東京の下町の凛とした店に通じるたたずまいを感じる
それはなによりもまず
店中のステンレスがピカピカだからだ
 
 
 
食器をはじめ店中のステンレスがよく磨かれている
油を扱う店は こうでなくてはいけない

受け皿は創業当時から使われているそうである
昭和39年の創業だそうだから 40年以上だ

以前にも書いたけれども こういう道具の手入れの行き届いた店に
はずれはないのである
職人の心構えが表徴されている

だから味は言うまでもない
うまくてあたりまえなのである

尾道へ行く機会があれば是非によってみてほしい

「一口」
住所 尾道市久保2-20-2
電話 0848-37-9723
営業時間 17:30〜23:00
定休日 日曜日
座席数 15名
http://www.bisan.co.jp/gourmet/gourmet1/hitokuchi.html

そしてもう一つはこれ(↓)

フルーツ牛乳(笑)

一口」に向かう途中フツーに売っていた

一本100円
MEGMILK製(笑)



















2005/10/12 (水)  
【今日は尾道へ】

午前6時20分起床
浅草は くもり

11・19「地域再生フォーラムin山鹿」の未定だった山鹿市関係者のパネリストが決定した
中嶋憲生氏 なんと山鹿市長さんである

 パネリスト(予定)
  岩井國臣氏
  桃知利男
  中嶋憲生氏(山鹿市長)
  本田雅晴氏(山鹿商工会議所副会頭)
  砂子邦弘氏(空知建設業協会 広報・IT委員長)
 コーディネーター
  内田安弘氏(熊本県鹿地域振興局次長)

……わたしがかすんでしまったではないか(笑)

さて昨晩は 久しぶりに銭湯へ行って来た(曙湯だ)
子供が膝小僧をすりむいてしまい しばらく銭湯通いは中止していたのだが
もう大丈夫という本人申請により再開することになったのだ

しかしだ それは下町の銭湯だから 刺青をしている人もいて当然なのだが
うちの餓鬼はそれを見て ねぶた祭りみたいだね なんて言うから
こっちは内心冷や汗をかいていたりするわけだ

銭湯帰りに喜美松一杯
喜美松の天才 ハツのあらい
作成直後(↓)
 
わたしにぐちゃぐちゃにされたもの(↓)
 
つまり こうして食うとうまいのだ
マナーコード(?)はない……と思う

さて今日は尾道出張である
尾道は大好きな処だ  けれども少々遠い(笑)
東京 9:13 のぞみ 47号 福山 12:54
福山 13:03 山陽本線 東尾道 13:15
でもこの移動時間は 読書の時間でもあるし
時間をかけて行くからこそ楽しいということもある

今回は次のふたつの本を持参していくことにした

網状言論F改網状言論F改―ポストモダン・オタク・セクシュアリティ

東浩紀(編集)
斎藤環(著), 竹熊健太郎 著), 永山薫(著), 伊藤剛(著), 小谷真理(著)

2003年1月10日
青土社

1470円(税込)




ケイタイ・ネット人間の精神分析「ケータイ・ネット人間」の精神分析

小此木啓吾(著)

2005年1月30日
朝日文庫

714円(税込)






『網状言論F改』は昨日の続きのようなもので 今年の法大ECでも資料として使っている
ただ読みきれない(つまり意味がわかんない)部分があって
かなりいい加減な読み方をしてそのままにしていたのだ
今回は一昨日 『戦闘美少女の精神分析』を読んだことでの勢いである

ただこの手の「現代思想」はいい加減にしておいて丁度なのだと思う
「テキトーな深入り」とでもいうような距離感は必要で
つまり なに言ってんだかわかんなければ ほっぽり投げておけばよい

そのうち あああれか と気づくこともある
つまり「データベースモデル」ね(笑)

一方『ケータイ・ネット人間の精神分析』11・5 横浜セミナーのテキストとして指定しているので 教科書的にどう使うのか どう使えるのか今から考えるのね(おそまつm(__)m)

ということで では行って来ます

2005/10/11 (火)  
【召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか】

午前6時起床
浅草は 小雨

あるアプリケーションのバージョンアップをしようとしたら
ユーザー登録した際のパスワードを失念してしまった
メールで問い合わせたところ 次のような内容のメールが届いた

2.■プライバシーポリシー 個人情報の提供の原則の項目内に
 ございます「個人情報請求フォーム(PDF形式):personal-data.pdf」
 のリンクをクリックしていただき、「個人情報の開示請求書」を
 開いて印刷してください。

3.印刷していただいた開示請求書にご記入いただき、運転免許証または
 パスポート等の公的書類のコピーを添えて、開示請求書にも記載が
 ございます下記の宛先までご郵送ください。

※なお、個人情報を登録された方と別の方がパスワード等を照会する場合は、
 代理人による登録情報開示請求となります。
 その際は、公的書類のコピーに加え、代理人への委任状と印鑑証明書を
 同封していただく必要がございます。

これじゃまるで「代書屋」じゃないか と思った(笑)

わたしは個人情報を ユーザーサポートに開示する義務はあるのか?と思う人だし
その上今回は「運転免許証またはパスポート等の公的書類のコピーを添えて」である
なんでそこまで個人情報を開示しなきゃ使えないのだと思う

納得がいかないので わたしはこのソフトを使うことを諦めた
まあ それで気が治まるのだから
たいした問題じゃないのかもしれないけれども……(笑)


さて閑話休題
戦闘美少女の精神分析

斉藤環(著)

2000年4月25日
太田出版

2100円(税込)

装丁:村上隆 HIROPON FACTORY





斉藤環さんは この戯言にも時々出てくるラカン派の精神科医だ
彼の仕事には このような「おたく」的なものの研究もあり それはわたしが「ニートの文脈」を考えるときや 「考える技術」特に「反転と3分の1切断モデル」(おたく的才能)や 「1.5の関係」を考える時には参考にさせていただいている

昨日は『戦闘美少女の精神分析』を読んでいた
この本はいまさら紹介するまでもない有名な本だが ただこの本の装丁が「村上隆 HIROPON FACTORY」とクレジットされているってことに今まで気がつかないでいた

たしかに表紙に使われているフィギュアは「S.M.Pko2」だ
(この数字の2は二乗の2 古い話しだが小泉今日子の「キョンキョン」のアレである)

村上隆さんの 『召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』を参照すると
たぶんこれでいいのだろう(↓)(一部)

『召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』

2001年10月10日
カイカイキキ

2079円(税込)










わたし自身 この作品にはかなり惹かれるものがあるが しかし今日の戯言は「S.M.Pko2」について書くわけではない

本題は 村上隆の次の言葉だ

召喚するか?
summon monsters?

『徹底的にペラペラで2Dなアニメ絵を、現実に3D化していかなければならない「おたく」の人々の欲望と、その欲望に突き動かされた末に出来上がって来た新しい「美、エロス、彫刻」の基準点の検索と解析、そのコンテクストの再構築。それが10年にわたって検証し続けた、私にとってのフィギュア「おたく」プロジェクトなのです。』

村上隆は斉藤環が精神分析の文脈を駆使して「言葉」でやろうとしたことを『フィギュア「おたく」プロジェクト』でやろうとしたのだと思う 時代というものの 社会というものの変容を敏感に感じとりそれを(批判性を持って)表現しようとしてきたのだろう

おたく化はある特定の集団のものではなく 今や社会全体がおたく化しているのだろうとわたしは考えている

そして「0.5人称」の2Dをいくら3D化してフィギュア化しても「0,5人称」のままであるように 社会のおたく化は「1.5の関係」がより強調される社会でもあると考えている

これは「IT化を通して建設業に貢献する」(つまり建設業の社会化)を考えているわたしにとっては重要なことだ

つまり『徹底的にペラペラで2Dなモノを、現実に3D化していかなければならないのは』なにもおたくだけじゃなく 建設業も同じでなのではないかと思うのだ
そしてそれは「1.5の関係」社会においてさらに強調されるだろう

こう書くと「おたくと建設業を一緒にするな!」とお叱りを受けるかもしれない
しかし怒る前に考えてほしい
今や 「おたく」の人々の方が 「公共事業という産業」の人々よりも元気があるように見えるのはなぜだろうか? と
(どちらも社会的にはパッシングの対象であるにもかかわらずだ)

公共構築物も同じ「0,5人称」としての可能性を追求することは可能ではないのだろうか
『新しい「美、エロス、彫刻」の基準点』を持つことは可能ではないだろうか
そしてそのことによって 「公共事業という産業」の可能性は広がるのではないのだろうか

「0.5人称」とは モノへの愛であり 技術への愛である(それ故の怖さも承知している)
しかし「公共事業という産業」は「0.5人称」ではあるけれども 他者の愛の対象(村上の言葉では『新しい「美、エロス、彫刻」の基準点』)ではない(すべてがとは言わないが……)

なに故にそうなのだろうか と考えている(そこにわたしの「おたく」へのアプローチがある)
今や 「公共事業という問題」を考えるということは そういうことなのだ
(お涙頂戴の浪花節だけでは戦略にもならない)
(「考える技術」というのはそういうところから生まれたものだ)

わたしは 今必要なことは まずなによりも「創出のメカニズム」なのだと思う
それは『新しい「美、エロス、彫刻」の基準点』の創出であり その創出を支える技術(信頼)の創出である

今の公共建設政策にその取り組みが無いとは言わないが それは単なる市場原理の導入か ただの放置であることが多い
(市場原理は「創出」の源なのではなく それは「創出」の一部要素が機能しやすい経済システムであるだけだ それは開発主義も同様である)

公共建設政策の行き詰まりは今や顕著である
それは 「公共事業という産業」を指導してきた行政自体が「創出のメカニズム」を喪失していまっているからだ

わたしが「おたく」に注目しているのはその「創出のメカニズム」に対してである

「おたく的才能」とは 「象徴界」(中景:(c) 別役実)の喪失であり 不安定な象徴が特徴である

そしてその「象徴界」の不安定さと引き換えに 安定した「想像界」と「現実界」が機能している(もちろんメディアとの関係で構築されたデータベースの存在も大きいが) それが「創出のメカニズム」だ

それは虚構かもしれないし 「中景」という大切な種的基底を失っているのも確かだろう(おたく的社会の欠点も また多くの識者が指摘するように明らかにあるし それは十分に視野に入っている) しかしここからかは新しい何かは生まれてくる 「公共事業という産業」よりもはるかにダイナミズムは働いている

一方 「公共事業という産業」は 象徴界(権威)の安定した産業として存在し続けてきた 「安定した」というようりも「支配された」が言葉としては適切かもしれないが それは「中景」という大切な種的基底が安定して機能してきた社会だ そのため「想像界」と「現実界」はさほど機能しなくても つまり「創出」がなくとも気にする必要の無い世界であった

それはステロタイプを生み出す閉じた円環でしかないのだが それこそが現実だ!と信じていればよかった(その信仰が象徴である)

しかし今や「象徴界」が不安定だと言われていた「おたく」の人々の方が 「象徴界」が安定しているはずの「公共事業という産業」の人々よりも元気なのはなぜだろう

これが今のわたしの考える文脈である

  『召喚するかドアを開けるか回復するか全滅するか』

これは くるりの「LV30」(レベル30)という曲の一節だ
「1.5の世界」を歌ったものだろう

  『書き換えするか』

書き換えも リセットもできない
それが 我々に課せられた「一人称」の人生のつらさだ

しかし「公共事業という産業」は 象徴を書き換えするぐらいの気構えがなくては ただ滅びるだけの産業となるだろう

しかし  これもよく見られる極論でしかない
このような発言は大して意味はない

おたく的な社会にも問題は多いが いいところもある
開発主義的政策が作り出した社会にも いいところはあるが問題も多い

今という時代を生きるには どっちがよいかではないのだ
それは 我々が生身の「一人称」の人生を背負って生きなくてはならないからだ

「考える」こととは選択をすることかもしれないが 白黒を付けることではない
ただ 己の可能性の「骰子一擲」―ハイブリッドの思考(考える技術)なのだと思う
表層を浮遊する「わかりやすさ」を追いかけるだけではなく ハイブリッド的に深く考えることも時には必要なのだ

それが白黒付けることとなにが違うのか理解ができない方は
茂木健一郎さんの『「脳」整理法』を是非読んでいただきたく思うのだ
2005/10/08 (土) 【店主戯言】ねぎま鍋と「脳」整理法

2005/10/10 (月)  
【ミニ檸檬(85%)】

午前8時35分起床
浅草は 雨

真夜中の弥次さん喜多さん

宮藤官九郎(監督)
長瀬智也, 中村七之助, その他(出演)

2005年10月7日
角川エンタテインメント

3990円(税込)




昨晩は『真夜中の弥次さん喜多さん』をDVDで観ていた


立川談志が「落語はイリュージョンだ」というのなら この作品は落語である
立川談志が「落語とは人間の業の肯定である」というのなら この作品は落語である

談志の言葉がわからない者が観たら これはただのどたばたホモ映画にしか見えないだろう
なぜ江戸時代なのか なぜホモなのか なぜ薬中なのか なぜハーレーなのか
(まあそれだけでも十分に楽しいが……)

クドカンは映画でイリュージョンを創出して見せてくれた
クドカンは映画で業の肯定を創出して見せてくれた

クドカンは映画で落語に追いつき悠々と超えようとしているように思えた
なんて凄いやつなんだ!と思う
(頑張れ!落語!)


ラピタ11月号の付録に 万年筆が特別付録でついていると教えてくれたのは 中山次郎さんだった
ラピタ2005年11月号
万年筆マニアではないが 万年筆でメモをとることを日常としているわたしは とても興味惹かれる話だったので 土曜日に錦糸町アルカキットの石原書店へ出かけた
勿論調達にである

そしたら無かったのだ!

お店の方に聞いたところ 土曜日に8冊入ってきて即日完売してしまったとのこと
「ぬぁにぃ!」なのであるがが 暴れても

無い……

この欲しかったのに手に入らないという悔しさは わたしの幼児性物欲を加速させた
それはまるで駄々子のように こころの中で 欲望の塊となってしまったのだ

そんなわけで昨日は浅草中の本屋を探しまくろうと決めていた
実に恐ろしきは物欲である

しかしその欲望も 最初に訪れた浅草松屋の書籍売り場であっさりと充足されてしまった
「ラピタ」はちゃんと売られていて わたしはあっさりと目的のモノを入れることができた
書籍代の980円で

この万年筆には名前がある
「ミニ檸檬」という

原型は1999年に丸善から限定発売された「檸檬」という万年筆らしい
しかし そんなことはどうでもよかったのだ

ただ原型の85%の大きさというサイズにピンとくるものがあった
もしかしたら これはわたしのお気に入りの「デルタドルチェビータミニと」同じサイズじゃないのか と直感が働いたのだ

 115ミリ
案の定同じサイズだった
(してやったり)
フィールドワーク用には このサイズがベストなのだ

まあ全体としては付録とは思えないほど良く出来ている
檸檬色もなかなかキュートだ(実物は写真よりもかなり明るい黄色である)

持った感じは 「ドルチェビータミニ」より若干細く 若干重い
質感はそれなりだが その重さが気に入らないのもたしかだ

書き味は悪くはないが 「ドルチェビータミニ」が細字であったのに対してこれは中字
メモ書き用のミニとしては ちょっと気に入らない太さだ
元々万年筆には向かないモールスキンとの愛称は中字だとさらに悪くなってしまうのだ

ただ 「ドルチェビータミニ」が修理のためにイタリアに旅立ってからはや3ヶ月
わたしの欲求不満は結構高まっていて 同じものを買おうか と考え続けていたわけで
つかの間の気晴らしにはなっている

はたしてこの「ミニ檸檬」が その穴ぼこを完全に埋めてくれるかどうかはわからないが
でもしばらくは遊んでみようと思うのだ
気に入らなかったら当然に「ポイ」であるが……
0.5人称なわけだもの(笑)

2005/10/09 (日)  
【哲学的落語家】

午前7時30分起床 浅草は小雨?

哲学的落語家!

平岡正明(著)

2005年9月20日

筑摩書房
2310円(税込)






平岡正明氏による落語論は 桂枝雀論であった
わたしが枝雀をリアルタイムに聞いたのは まだ餓鬼の頃で 勿論古典落語なんか知らない(枝雀は古典しかやらないのね)頃なので ただ面白いおっさんやなぁと 爆笑していた

落語論を読むときには とにかく実際に噺を聞いていなくてはどうにもならないのだが 噺の内容まで覚えているわけもなく この本を読むために 枝雀のCDを買い求めた

なにしろご本人は既に泉下におられる DVDかCDか 記録に頼るしかない
そして 聞いては読み 読んでは聞くのである
まったく手間のかかる読書になるが それはそれで楽しい時間でもあった

「代書」(「代書屋」)にしびれた

枝雀落語大全(35)

桂枝雀

1・代書
2・いらつの愛宕詣り

2001年4月25日
東芝EMI

2300円(税込)





『男の名は松本留五郎。数え年四十六歳。太閤はんと一緒の一月一日生れとされる。本籍は大阪の浪速区日本橋三丁目二十六番地、向いが風呂屋で隣りが駄菓子屋。現住所も本籍地と同じ。学歴は小学校二年で中退。職歴は河太郎、河川に埋没したる廃品を回収して生計を立つ。賞罰、特技、特にないが、三年前、町内の大食い大会でボタ餅を八十六個食べて人間の限界を超えたと顔写真つきで新聞に載ったことがある。そういう履歴書を代書屋に書いてもらいにくる。』(平岡,p232)

「代書」とはそれだけの落語だ 原作は枝雀の師匠桂米朝の師匠桂米團治
米團治の「代書」は聞いたことはないが 米朝に教わったという 立川談志の「代書屋」は聞いたことがある

枝雀の「代書」は骨格は原作を残してはいるのだろうが ほとんど枝雀が創作したような 爆笑落語に仕立て直されている
そして誰よりもアナーキズムに満ち溢れている

代書屋とは今では司法書士とか行政書士である
行政の代理人である「代書屋」は 最初尊厳な態度をとる まあ 権力の表徴だ

「儲かった日も代書屋の同じ顔」

文字の書けない松本留五郎は そこで履歴書を書いてもらうわけだが
履歴書である 姓名 生年月日 現住所 学歴 職歴を代書屋に伝えなくてはならない

しかし これさえ松本留五郎は 意味がわからないのだ
そんな留五郎を 最初は代書屋が見下す しかしだんだんと様子は変わってくる
そして職業をたずねるに及んで攻守は逆転する

代「……一行抹消…判を…………あんた、どない言うたらわかってもらえます。つまりね、思ただけ、一日、半日や、んなこと、どうでもよろしい。大体それで生活をしてたあんたの本職、何だんねん」

留「わたい、それなら河太郎(ガタロ)だんねん」

代「え?」

留「ガタロだんねん」

代「ガタロ……ガタロちゅうたらどんなもんです」

留「あんた、こんな商売してて、あんまりものを知りまへんねえ。一遍や二遍見たことあると思うけど、ここらまでもある長靴履いて川ん中ヘゴーソゴーソ入っていって、金網で川底ゴソーッとすくって、鉄骨の折れたやつちゃとか、こう長靴のかたつぽ、こう出してるやつおまつしゃろ。あれ、ガタロちゅうんです.私、なかなか腕のええガタロでした。ガタロです。ガタロです」

代「……ガタロ……いよいよわからんわなあ。ウーン、川の……」

留「書きようが難しいですか。初めてですか、こういうのは、初めて……ガタロ商を営む」

代「いやちょっとガタロ商てな商がおまっか?」

留「…ンッ、難しいかな…ンーッ、川の中に勤める、ちゅうのはどうです?」

代「黙ってなはれ。川の中に勤める人がおますかい。川の中やけどなあ。ンッ、ンーッ、河川に埋没したる廃品を回収し生計を立つ、と、こうしときまひよか」

留「フハハパパハハハハ。うまいもんだんなもし、え一。商売、商売やなあ」

そしてとどめの賞罰である

代「いや、もうこれでよろし、ほで、賞罰おまへんやろ」

留「えっ、何です」

代「賞罰おまへんやろ」

留「いやつ、正月はあんた、わたいでも年に……」

代「正月と違います。賞罰。悪い……あのね、あの、なんですねや、悪いことして警察へ引っ張られたとか」

留「ああた、私をそんな人だと思うんですか」

代「いや、別に思いまへんけど、あったら言うとくなはれちゅうて。んな、なかったらよろしいんで。褒められたこともおまへんな」

留「褒められたんなら、わたい、一遍だけおまんねん」

代「いや、あの、ちさい時分に隣のオバチャンに『賢い賢い』ちゃなことをいうて煎餅二枚もろたちゃあ、そんなんと違いまっせ。何ぞこう大きいことあって、賞状をもうたとか、新聞に載ったとか、そういう……」

留「私ね、こんな大きな賞状をもうてああた。新聞に写真入りで載ったんでっせ」

代「へ?あんたが……。嬉しいな。そういうことがあんなら、ちょっとこれに書いておくと心証が違います。どういうこってす」

留「三年前のこってす、ヘェ。新聞社主催の大食会ちゅうて、ああた、大食いの会あったんです。そのとき、わたい、こんな大きなぼた餅八十六食べたんです。『人間の限界を超えたー』言うて、みんなにせんど褒めてもろて、こんな大きな賞状をもうて、新聞に写真……」

代「んな、アホなことがのせられるかい」


茂木健一郎の言葉を借りれば 落語は「パフォーマティブ」である

『思想における議論においては、ときに、「パフォーマティヴ」と呼ばれるような態度がとられることがあります。「パフォーマティヴ」とは、事実もしくは真理にもとづいて自分の議論を淡々と述べるのではなく、それが論壇において、あるいは現実社会においてどのような効果を与えるのかを、あらかじめ計算して言葉を選ぶ態度を指します。』(茂木,p139)

言葉の芸術である落語は「パフォーマティブ」でなくてはならない しかし 枝雀はここに「ディタッチメント」という道具(科学的世界観―あたかも「神の視点」に立つかのように自らの立場を離れて世界を見ること)を取り入れようとして(というか自分に課していた)いたのだと思う

彼はこう言う(それも高座で客席に向かってである)

「落語というものは若しくは笑いとは 緊張の緩和 若しくは 緊張と緩和の同居である」

これは彼の落語に対する構造分析であり哲学の表明だ

「代書」では 代書屋が緊張 留五郎が緩和として表徴されている
その緊張としての代書屋が 河太郎の段にいたっては 一挙に落とされるのである
権力が落とされるのだ 緩和だ

留「あんた、こんな商売してて、あんまりものを知りまへんねえ。」

笑うしかないのである 

2005/10/08 (土)  
【ねぎま鍋と「脳」整理法】

午前6時起床 浅草はくもり
昨日までと違って なぜか気の抜けた朝だ

肌寒くなってくると やはり鍋が恋しい
昨晩は お客様と一緒に 一文本店で ねぎま鍋を食べた
 
ねぎま鍋は通常 マグロの赤身の部分 それもカマの部分とか 切り落としの部分とか 刺身になり損ねた部分を使うのだけれども 昨晩は発作的にトロでやってもらった
 
煮込まないで じゃぶしゃぶ状態というか 外は暖かく中は冷たい
そんな状態で食べたら それはたまりませんわ
〆は稲庭うどんをたまごとじにした

しかしこれだと赤身の倍のお値段になる
けれども こういう馬鹿な消費をしてみたくなるのは 泡経済を経験してしまった脳みそのせいなのだろうか などと反省してみる(反省になるわけもないが)


さて 茂木健一郎さんは 脳科学界の有名人だ
「世界一受けたい授業」というテレビ番組にも出演されているのでご存知の方も多いだろう
この戯言でも何度かその著作を紹介しいている

「脳」整理法「脳」整理法

茂木健一郎(著)

2005年9月10日

筑摩書房
735円(税込)






今回のこの本はやさいい言葉遣いが印象的で読み易い(新書だものね)
しかし内容は深遠で わたしはこれは 茂木健一郎が書いた 「骰子一擲」だと感じた
読んでいてわくわくした

 「骰子一擲 如何で 偶然を破棄すべき」(マラルメ)

しかしそれは 偶然を否定することではない
むしろ偶然さえも楽しみながら 必然も受け入れ
己の可能性をまた楽しむ というハイブリッドな思考方法であって

だからそこから導き出せるものは
自ら動き出さなければなにも生まれない!
失敗もある けれども自ら動き出すこところにしか可能性は実を結ばない
ただ己の意志の力を研ぎ澄ませて 動き出せ!えぶりばでぃ! なのである

 必然だけなら ただ座して待てばよい
 偶然があるから わたしは 動くのだ

この本でのキーワードは まずは「遇有性」(ぐうゆうせい)である
聞きなれない言葉だが それこそ「骰子一擲」の意味するものだと思う

それは半ば偶然に 半ば必然に起こる リアルな我々の「一人称」の人生である
脳は この遇有性を整理する臓器だし 遇有性は脳の栄養なのだと茂木は言う
そして それは偶然と必然のハイブリッドな思考を要求する

『その一方で、二度とくり返すことのできない「一人称」の人生を引き受けて生きることを考えるとき、科学がいい加減だと切り捨ててしまいがちな、さまざまな思考ツールが役に立つ局面も実際多いのです。「統計的真理」の上に立つ、科学の厳密性、普遍性を参照しつつ、自らの個の文脈を引き受けるうえで、思想や宗教、文学などの成果も参照する。とりあえずは、そのようなハイブリッドのスタイルでやっていくしかないのでしょう。』(p36)

わたしは この文章だけでもこの科学者を信頼してしまうのだが 次キーワードである「セレンディピティ」(serendipity)で それは決定的になってしまった

「セレンディピティ」とは 「偶然の幸運に出会う能力」のことだ
少々長いけれども ここでは茂木の説明を引用したい

『セレンディピティとは、いったい、どのような脳の働かせ方を指すのでしょうか。より一般的な議論をする前に、ウォルポールがこの言葉を「発明」する際に参照した『セレンディプの三人の王子』に即して考えてみましょう。』

(『セレンディプの三人の王子』は 王子たちは旅をする中で 自分たちが求めていたものではないものに出会う しかし その偶然の出会いが結果として王子たちに幸運をもたらしたという童話)

『まず、「果報は寝て待て」ではなく、とにかく何か具体的な行動を起こすことが肝心です(「行動」)。三人の王子は何かを「求めて」旅に出ました。もし、何も求めず、また旅にも出ないでじっとしていたら、予想外のものに出会うこともなかったでしょう。世界の中を移動するからこそ、異質な他者や、自分が思ってもいなかったような「外部性」との出会いもあるのです。』

『第二に、王子たちは、偶然の出会いがあったときに、まずその出会い自体に気づくことができました(「気づき」)。そのような「気づき」は、自分の外で起こっていることや、自分が心の中で感じていることに対する注意深い観察力があって、はじめて可能になります。観察は、自分の体験から学ぶプロセスの出発点なのです。』

『第三に、王子たちは、意外なものとの出会いに際して、自分がそれまで抱いていた「このようなものが欲しい」という仮説にこだわらずに、素直にその意外なものを受け入れることができました(「受容」)。脳の中にすでにある仮説をダイナミックに修正し、それを自己の中に受容することができてこそ、私たちは体験からの学習を完成させることができるのです。』

『「セレンディプの三人の王子」に即した以上の分析は、より一般に、私たちの日常生活におけるさまざまな局面にも適用することができます。これらの三つの要素、すなわち、「行動」、「気づき」、「受容」が、「偶然を必然にする」セレンディピティを高めるために必要なのです。

『ただし、これらの三つの能力がすべてそろっていても、それだけでは、偶然の幸運に出会う準備ができたにすぎません。肝心な「偶然の出会い」そのものは、自分ではコントロールできないかたちで起こります。セレンディピティとは、偶然の出会いがあったときに、「それを生かす準備ができている」、また「事後にそれを生かすことができる」能力を指すのです。』(以上 p112〜113)

これは 「情報が見える目」を持って 動き出せ!えぶりばでぃ!って言い続けている わたしの「IT化論」と同じ視座にある

「行動」は動き出せ!えぶりばでぃ!であり
「気づき」は情報が見えなくてはできない
「受容」はハイブリッドの思考がなければできない

だから当然に「考える技術」も出てくる
それは「ディタッチメント」という道具(科学的世界観―あたかも「神の視点」に立つかのように自らの立場を離れて世界を見ること)を生活の中に少し取り入れてみるというものだ

それを私達は「反省」と呼んでいる
わたしの「IT化論」「考える技術」はその実践であるけれど
そして それを あえて他者に晒すのは 他者こそ遇有性だからだ

ということで この本を読めば
「考える技術」がなにものなのかが 少しはわかるはず… たぶん…
おすすめ!

2005/10/07 (金)  
【ちゃんと日記風】

午前6時40分起床 浅草はくもり

まずは11・19日 地域再生フォーラムin山鹿のお知らせ(詳細)を掲示した
開催の経緯は 10月5日6日の戯言でお知らせした通りだけれども
あとは開催日までの無事を祈りながら 広報につとめたいと思う

昨日は 午前中関与先さんのサイボウズの設定等まじめに仕事をする
11時30分から 子供の通う小学校が一般公開日だったので 足を運ぶ
1年生っていうのはまだ動物なんだなってことを再確認

図工の時間 とにかく秩序は長続きしない
秩序の裂け目から カオスは直ぐに顔を出す
しかし 見ている分にはそれは楽しい
わたしのやっているコンサルティングの時間(特にサイボウズの操作講習)なんて
これに比べたらほんとうに行儀がいいよなぁ
大人なんだなぁ と再確認した次第

お昼は 弁天で「天ぷらそば」
帰り際 浅香光代さんが入って来れれた
男物の着物をきりっと着こなしておられて かっこいいなぁと思う

5656会館の裏道にはNHKの中継車がとまっていて
常盤ホールでなにかやっているのかな と思うだけでそまま家に戻った

それからまた仕事に戻る 関与先さんへの対応を中心に
途中岩井副大臣の秘書さんから電話 10・24日中沢新一について
Amazonから 頼んでいた桂枝雀のCDと チョコレート工場のDVDが届くが
それを楽しむ時間もなく
タクシーで上野駅へ出て 17時14分発の「なすの」で宇都宮へ移動

上野駅で茂木健一郎の新書本と『池波正太郎の食卓』という単行本を購入
午後の紅茶の短いペットボトル
40分そこそこの移動だけれども 喫煙車両でタバコをのみながら
本を斜め読みする

宇都宮駅東口で 北海道のA木さんと轟さんと八木沢さんと合流
東口は 例の餃子の皮につつまれたビーナスがあって
遠目に見るとやっぱり あの足はおかしいと思う

宴会は「うたかた」という店 そこまでタクシーで移動
住宅街のマンションの一階にその店はあって 焼酎と九州風の料理をだす
そこで栃木組の皆さんと合流 男ばかり総勢8名
北海道のA木さまを囲んで酒宴 桃組らしい酒席である

生ビール二杯 芋焼酎沢山
例によってとりとめのないはなしを肴にする
秋葉のメイド喫茶について
公共事業はおたく化が必要であるについて
消費されないことの大切さについて…などなど

楽しい時間はあっという間に過ぎてしまい
後ろ髪をひかれながら 22時53分の最終で帰る
上野駅には23時38分の着
タクシーで自宅に戻ったのは 午前0時ちょと前であった

お土産に 轟さんからクイーンのケーキと 「うたかた」の味噌(ちゃんこやでいう力士味噌だね)をいただいてきた
それは今日の楽しみってとこだろうね

2005/10/06 (木)  
【11・19八千代座に向けて(2)】

午前7時20分起床
浅草は 小雨
すこしだけ二日酔いの朝だ

昨日は山鹿からおいでになられた有働さん 内田さんと
予定通り岩井國臣国土交通副大臣を訪問し
11月19日の八千代座での「地域再生フォーラムin山鹿」の打ち合わせを行った

打ち合わせは順調に進み 恒例の記念撮影をしての帰り際
10月24日に東京l国際フォーラムで開催される中沢新一氏の講演会のことを副大臣に耳打ち(笑)

わたしと岩井副大臣の関係っていうのは「中沢新一つながり」なのだが
でもじつを言えば ふたりとも中沢新一氏にあったことがない(笑)
ならば なのである

副大臣は10・24のことは知らなかったようなので メールで詳細をお知らせすることにしたけれども
サイトを見ると チケットは完売のようだ
ん〜 どこかで手に入れることはできないだろうか

夜は浅草で一献 「杉」へ
昨晩は味噌味のうどんすき
 
飲むとあんまり食べないわたしでも 二杯食べた

杉を出から 有働理事長とわたしは性懲りもなく向島の「岩手屋」へ
ハイボール二杯に いつもの目玉焼き

有働さんは こんな店 山鹿にもない! と喜んでくれた(笑)

帰宅すると午前0時ちょっと前
いつものように爆睡!

2005/10/05 (水) 
【11・19八千代座に向けて】

午前6時30分起床
浅草は 雨

今日は 岩井國臣国土交通副大臣を訪問する
(本会議中なので時間の調整が大変そうなのだが 時間をつくっていただいた)

11月19日(土)に山鹿市の八千代座で行われる「地域再生フォーラムin山鹿」に岩井副大臣が参加していただけるので そのご挨拶と打ち合わせである
この「地域再生フォーラムin山鹿」の詳細については今後逐次お知らせしていきたいと思う

山鹿の八千代座はすばらしい施設だ
ここで講演ができることは とても幸せなことだと思っている
芸人冥利につきる

しかし この展開があるのも 桃熊会を続けてきた皆さんのおかげだし そこで山鹿市管工事業協同組合の皆様と知り合わなければ
そして今年二月 空知建協での岩井副大臣とのコラボがなければ実現できなかったものだ
この縁に感謝しなくてはならない

さらには 熊本県鹿本地域振興局をはじめとする多くの行政関係のご協力もいただけることになったし 多くの地元の皆さんのご協力もいただけるようになった

広くて薄い紐帯の力は 確実に働いている

因果律があるのかどうかはわからない しかし因果関係はある 相互作用は起こる
それは 己の意志の力とでも呼べるものの力をもって
「骰子一擲 如何で 偶然を破棄すべき」(マラルメ『骰子一擲』)を可能とする
偶然さえも楽しみながら 己の意志の力の可能性をまた楽しむ

自ら動き出さなければなにも生まれない!
失敗もある けれども自ら動き出すこところにしか可能性は実を結ばない
ただ己の意志の力を研ぎ澄ませて 動き出せ!えぶりばでぃ!

「IT化」の実践は リアルに実を結ぶ
そしてこれもまた はじまりのはじまりなのだ
そこには まだ「希望」という言葉が機能している

全国から 沢山の皆さんにおいでいただけるよう
そして熱い一日になるよう 開催日まで関係者の皆さんと頑張りたいと思う

そしてなによりも 山鹿はいいところなのだ!
山鹿市のホームページ
→ http://www.city.yamaga.kumamoto.jp/

今朝 山鹿からメールをいただいた
この方の 名字はすぐにお分かりいただけるだろう(笑)
『店主の戯言』ですが、わかる範囲で最近読んでます
(以前、時々訪れた頃は、見てました)
9月27日版・28日版で立花隆が登場しますが
『立花隆って
なにかエラソー過ぎてあんまり好きじゃないけれども』
『まるで山鹿の八千代座のようだ(笑)』
で、立花隆では無く、立花は云々だが、が続きます(呼び捨て)

こんな時はフルネームで書いていただけませんか?(笑)

存在場所、脳内細胞の次元の違いは十分理解できてます
あきらかに、おいらじゃない、とわかって読み進みながらも
複雑でした。たぶん、大いにデリケートなんでしょうね(笑)

(…なるほどねぇ) 大変失礼いたしました(笑)

ということで今日は 山鹿からのお客様を羽田まで迎えに行かなくてはならない
午前中 やれることはやってしまおう
夜は浅草で一献の予定だ

2005/10/04 (火)  
【横浜セミナー】

午前4時40分起床 浅草は小雨
昨日は一日中まじめに事務仕事をしていた

最初に仕事を書き出す(ToDo)
そして ひとつひとつの仕事を アナログにノートに記録しながら進めていく
でも予定の半分も終わらなかったのは予想外だった
まあ今日の予報は雨だし 一日引篭りながら 張り切ってみようと思う朝だ

昨日の昼は「こんぴらや」でカレーうどんを食べる
ご飯を一緒に頼むが それはうどんの受け皿のようなもので 徐々にご飯に染み込むカレー汁が重要なのだ
白米とカレー汁のハイブリッド体が最後の楽しみとなる
なんとも貧乏臭い食べ方であるが うどんもたのしみ ご飯もたのしむ 一粒で二度おいしいこれは やめられない

夜は来客があり「清司」へ
寿司を食べたのも久しぶり 相変らずのちゃんとした仕事ぶりが心地よい
こころが凛とする仕事だ
 

「清司」を出てもう一件! 性懲りも無く「岩手屋」へ
 
わたしは目玉焼をつまみに ハイボールを二杯 合計900円!
お客様は NHKで「ハルとナツ」を見たいとのことで 早々に切り上げ帰宅した

わたしもこの橋田寿賀子ドラマをみた 昭和一桁の時代から戦争へ 時代に翻弄された姉妹の物語か(?)
それは わたしたちの記憶にはない時代の物語ではある

人生 波乱万丈 いろいろなことがある 予想もしなかったことも起こる
いいこともあれば悪いことが繰り返し起こることもある

たしかに人は与えられた家族や社会という環境の中でしか生きられない
その流れの中で懸命に真摯に生きてるから人間は尊い ということは今も昔も同じなのだなと思う
ちょっと後を引くドラマであって 続きはビデオにでも撮っておこうかと思う(連ドラなのだ)


さて オープンセミナーのお知らせをしなくてはならない
2005年11月5日(土)横浜セミナー(2005年度法政大学エクステンションカレッジ補習)の受付を開始した

 IT化を通して建設業に貢献する
 考える技術を伝える


今のわたしは 徹底してこのことにこだわりたい
今回の「横浜セミナー」も「考える技術」を伝えようとする試みだ

今回の主題は「1.5の関係」である
「 1.5の関係」は批判的に考察することで 自らを「0.5」の立場にするというマーケッティング理論が見えてくる



たしかにそれは 中景の喪失を意味するものだし 「反転と3分の1切断モデル」つまり「おたく的才能」とわたしが呼んでいるものだ

しかしそれはただ批判の対象であるというだけではなく 「一の関係」「二の関係」「三の関係」を理解した上で使うことで わたしたちのビジネスや 「IT化」つまり「適応」の問題でも有効に機能できるものだと考えてる

それは「反転と2分の1切断×2モデル」の応用系として存在することで 「哲学のあるわかりやすさ」」というべきものに置き換えが可能だと考えている(それが「考える技術」だ)

つまりだ 「1.5の関係」は享楽の位置にある
その享楽は「女の悦楽」だ

それはまた純生産の位置にある
創出の位置にあることで決して陳腐なものでもない

それは今と言う時代に強調される 「モノとの愛」なのであり 「技術への愛」なのだ
それは中沢新一がcover 『フィロソフィア・ヤポニカ』 で 田邉元の「種の論理」を現代によみがえらせて考察しようとした「ハイブリッド」なのである

たしかにこれを毛嫌いする方も多い
つまりこれは「萌え」の原理だし スーパーフラット(二次元への愛)でもあるからだ

しかしそれは 前回の総選挙での自民党が大勝した仕組みと同根のものなのだといったらどうだろう
秋葉原のメイド喫茶の繁盛も 小泉自民党の大勝も じつは同じ仕組みで出来上がっているといったらどうだろう

「1.5の関係」の支配 それが今と言う時代なのだ
そしてわたしたちはこの環境の中でしか生きられない

その流れの中で懸命に真摯に生きてるから人間は尊いのであれば わたしも懸命にそして真摯に生きてみようと思うのだ
そのために「考える技術」を使う
しかし「考える技術」は残念ながら まだ「0.5」ではないのである(笑)

2005/10/03 (月)  
【当サイトについての改訂】

午前7時12分起床 浅草はくもり
今週は外へ出かけるのは少なくて来客週間である
毎日お客様がいらっしゃる
地元にいると気が緩むのもたしかで 暴飲暴食には注意だな

さて今朝は 【当サイトについて】を大幅に改訂した
これは 【初心者の皆さんへ】と題されていたもので 2001/02/25に最後の改訂をしたままにななっていたものだ

わたし自身 当時とは大なり小なり(良くも悪くも)変化しているし その内容も今のわたしには即していないなと判断したので 今回は大幅に書き換え ついでに表題も変えてしまった

そこにも書いたことだけれども 「店主戯言」は 極めて私的な日記(ウェブログ)だし わたしの興味の対象がかなり(いい加減に)広範囲であるため まったくIT化に関係のないように思われる内容も多く そのことを指摘してくださる方もおられる

しかし わたしの「IT化」策である「考える技術」は 反省の行為 つまり書くこと(それもITを活用して)を中心に構成されたハイブリッドの「技術」だし その実践を 日々わたし自身が行っているのが「店主戯言」なので IT化と無縁のものはなにもないのだね というのが本人の弁なわけだ

以下 【当サイトについて】から引用

現在のわたしの中心的な仕事(コンサルテーション)も次のふたつに要約されています。

 IT化を通して建設業に貢献する
 考える技術を伝える


ここで言う「IT化」とは「社会化」と同義です。
つまりIT化社会への「適応」です。

適応には大きく分けてふたつあります。
一つは環境に自らをあわせる。
一つは自らが変化することで環境へ働きかける。

現在のわたしのコンサルテーションの目標は、このふたつの適応を、「ハイブリッド」的に自分のものとしていただくことにあります。
そして、その精度を上げるための、可能な限りの技術を、わたし自身が身に付けようとしています。

つまり、わたし自身の「適応」の問題として、「考える技術」の実践を繰り返し行っています。それが 毎日更新している「店主戯言」です。

(引用終了)

なんか言い訳じみているけれども これも偽りのないわたしの本心なのでね そう書いてみたのだ

【当サイトについて】をお読みいただければ幸甚なのでした

2005/10/02 (日)  
【ゆでぴー】

午前8時起床 浅草は晴天
かるく二日酔いの朝だ

昨晩は 曙湯(銭湯)へ出かけ 45度熱湯甲子園遊びをし
皮膚を真っ赤にしながら 帰り道に「杉」へ寄った
5日に遠方からの来客を予定していたので予約を兼ねての夕餉である

ゆでぴーを出してもらった
「ゆでぴー」は そのものずばり 茹でたピーナッツだ
生ピーナッツを茹でると はんなりしながらもさくさくとした食感になる
それは たまらない とまらないなのであり この時期のビールには 最高のおともだ

子供に ピーナッツってどんな風に生っているのか知っているかと聞いたところ
木にりんごのように生っているとの答え

一度ピーナッツ掘りに連れて行かなきゃいかないなと思う
 
最後に 例の極太うどんすきを食べ 夕餉は終了

わたしは 向島の岩手屋まで移動しひきつづき…
ハイボールを三本 おつまみは れんこんチーズ
これはいけた!
 

それからカラオケにお誘いを受けたので 向島四丁目まで移動し
テレサ・テンを涙ながらに歌い 日付が変わってから帰宅した

そして二日酔いの朝食
  

2005/10/01 (土)  
【再利用日記】

午前7時20分起床
浅草は 快晴!

さて 今朝の日記は 昨日「mixi」に都度アップしていた日記(記録)の再利用(つまりリサイクル)である

いつもの朝は この店主戯言に書いたものを 「mixi」にアップしているのだけれども 今朝はその逆をやってみようとしているわけだ

リサイクルというと 資源ゴミに代表されるように 物質のリサイクルが強調されているけれども 表徴された思考とか記録 つまり情報のリサイクルというようなものがあってもいいだろうし あるべきだと考えているわけで 今朝はその試みである

それは 情報や思考や思想や そして人間そのものさえも
ただ消費されてしまうことのむなしさへの ささやかな抵抗のようなものとしてだ


昨日は 仕事を終えてから 室蘭市中央町の「天勝」に寄り道し 軽く腹ごしらえをした 一昨日も寄ってみたのだけれども 生憎と定休日で 楽しみにしていた天勝の天ぷらが食えなかったので  再度挑戦してみたのだ
(室蘭へ来て 天勝で食えないことは とても残念なことなのだ)

わたしは 「天ちら」ならぬ「天ぷら盛合せ」に 「もり」を頼んだ
写真 写真

「天勝」は蕎麦屋じゃなくて 天麩羅屋であり ウリは天丼なのだけれども この組み合わせも十分にいける

そばと天ぷらなら フツーに天ざるを頼めばいいじゃないの という意見もあるだろうが わたしは 天ざるの天ぷらを そばつゆにつけるのが嫌いなのだ

それはハイブリッドなのかも知れないが あぶらの浮いたそばつゆに そばをつけてしまうのは そばに申し訳ないと考えている

あぶらっぽいのが食べたければ 定石通り (温かい)天ぷらそばにすればよいわけで 冷たいそばに天ぷらなら わたしは「天ちら」に「もり」を頼む

こうして 天ぷらとそばを別々に頼むと それぞれの「つゆ」がもらえる
わたしは 天ぷらのつゆをそばつゆだと勘違いしてしまったけれども(笑)

久しぶりに訪れた天勝は あいかわらずとても気持ちのよい店だった
けっして新しい店舗ではないけれども 店に入ると凛とする そういう店だ

それはなによりも 厨房のステンレスがピカピカに磨きこまれているからで 客席から見えるステンレスというステンレスが 汚れひとつなく 使い込まれているれども白く光るその清々しいさは どんなサービスよりも最上の持成しだ

わたしは こんな風にきちんと掃除の行き届いている店が(というよりも磨き抜かれた道具というものが) なによりも大好きなのだ
(そういえば 鳥辰中島店の厨房もピカピカだった)

店が終わってから 毎日ちゃんと手入れをしていなければそうはなわらいわけで そこには飲食店の料理人の「掟」が表徴されている こういう店は 客に食い物を出す ということの意味がわかっている とわたしは思う
そして総じて繁盛している


天勝で腹を満たして まにあ・1号さんに新千歳空港まで送ってもらい 20時35分発のANA便で帰路に着いた 羽田には22時10分 定刻の到着

それから 財布の中の最後の諭吉をふりしぼり 「高速+タクシー」で浅草へ戻った 羽田-浅草間  22分! 7460円也 時間を金で買う

帰ってみると 人吉の福元さんから 一勝地梨が届いていた
福元さんありがとう (^O^)/
写真 写真
一勝地梨は 球磨の梨 つまり球磨梨の総称だ
写真の梨は 新高梨で 親木は新潟県と高知県のハイブリッドである
それぞれの県の名前の頭の字をとって「新高梨」というらしい

新高梨は なんと言っても でかい!フツーの梨の三倍はあるだろう
さっそくひとつ食してみたけれども 見た目よりはずっとジューシーで繊細な甘さであった おもわず「うひゃひゃひゃひゃ」と東を向いて笑う

はつものをいただいたら 東を向いて笑うのだ
これは じいさんから教わったわたしの掟である
  インデックス

IT化を通して建設業に貢献する
考える技術を創出する
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