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建設業に貢献するIT化
考える技術!

店主戯言(浅草的思考)060203 2006/2/21〜2006/2/28 "There goes talkin' MOMO"


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2006/02/28 (火)  
【費用逓増/費用逓減】

午前7時20分起床。浅草はくもり。

■なるとのプルコギ

昨晩は、近所にある韓国家庭料理のお店「なると」さんで、プルコギを食べました。
ここのプルコギの特徴は、それは「鍋だ!」ということです。(写真は三人前)
 
 
お肉は鍋の最下層にあり見えませんが、ベースになっているテールスープがよい出来で、煮込めば煮込むほど、うまさ(楽しさ)は深まります。
 
今回は〆はおじやにしましたが(うどんも可)、ここにも強烈なパトリを感じました。(店内では、フツーに韓国語が飛び交っていました)


■二月末日雑感

さて、もう47回経験しているはずなのに(最初の数年間は無意識の中に消えていますが)、二月の終わりの早さには、いつも驚かされます。如月は今日で終わりです。

今日は山鹿へ向かいます。051119「地域再生フォーラムin山鹿」の反省会(?)があります。明日は、山鹿市管工事業協同組合さんのイントラネット研修会です。

わたしはおかげさまで、こうした地域にコミットした仕事をさせていただいていますが、最近は地域を経済学的な二元論(〈市場/配分〉の二分コード)で語ることは、本当に難しいなぁ、と感じています。その難しさとは、「開発主義」の終焉の難しさと言い換えることができるかと思います。

特に、北海道の皆さんとのお付き合いが深まる中で感じてきたのは、北海道を〈市場/配分〉の二分コードで語ることの難しさです。

北海道の(日没しない)開発主義の特殊さは、結局それが費用逓減(収穫逓増)産業ではなく、費用逓増(収穫逓減)産業へ向けられた産業政策であることで極まります。

開発主義は産業政策を持ちますが、その産業化のターゲットは、費用逓減(収穫逓増)産業でなくてはなりません。

だからこそ将来的な産業の独り立ち(国際的な競争力を持つ産業となる)が可能になるわけですし、資本のルールに乗ることが可能です。現に日本の製造業はそうして力をつけ、独り立ちしてきました。

しかし北海道は違います。北海道の産業化のターゲットは、常に(費用逓増産業である)農業であり、公共事業という産業も基本的には農業のためにあります。

(北海道における製造業の事業所数は少ないのですが、それは本来の意味での開発主義がここでは機能していなかったからだと考えています)

農業を産業化のターゲットとする特殊性は(それを産業とみたとき農業は)、本来、費用逓増(収穫逓減)産業であるということです。

つまり一定の土地に労働・資本を注ぎ込んでも収穫の増加分は減ってしまうことが多いのが農業です。

産業化とは、マクロ的にみた一人当たり生産性の持続的向上であり、それは費用逓減を意味します。細かい説明は省きますが、産業化とは、費用逓減傾向を意味するものです。

そしてこの費用逓減傾向を持続させるためには、継続的な技術革新が必要になります。

大量生産を行う工業製品の多くはこの傾向を持ち、(戦後の開発主義政策の結果)日本の「ものづくり」は国際的な競争力を持つに至りましたが、残念ながら(基本的に)農業はそうはならないのです。

例えば(幼稚な解説ですが)、ある農産物が一人の労働力によって、1haあたり1t 収穫でき、100万円の収入があったとして、そこで労働力を二倍、三倍に増やしても(費用逓増)、収穫量や収入は二倍、三倍にはならないのです(収穫逓減)。

ここで開発主義的政策を行うなら、農業の大量生産型工業化(企業化)=フォーディズムしかないのです。(以上、経済学的な語彙の範疇で)

それでは農業のフォーディズムがその解なのか、といえば、(社会学的には)そうでもないんだなぁ、というのが、費用逓増産業を産業化ターゲットとする政策の難しさなのですが、今朝はここまでです。


■開発主義について

村上泰亮による開発主義政策のプロトタイプ・モデルは次の8項目からなります。(村上泰亮, 『反古典の経済学』(下),中央公論社,1992,p98-9)

1・私有財産制に基づく市場競争を原則とする
2・政府は、産業政策を実行する
3・新規有望産業の中には輸出指向型の製造業を含めておく
4・小規模企業の育成を重視する
5・配分を平等化して、大衆消費中心の国内需要を育てる
6・配分平等化の一助という意味も含めて、農地の平等型配分をはかる
7・少なくとも中等教育までの教育制度を充実する
8・公平で有能な、ネポティズムを超えた近代的官僚制を作る

『桃論』からの引用。
 開発主義は産業化の裏側で、農村部の変化を最小限にするような仕組みをもっていたということです。そのひとつが地方へ公共事業の形で配分をおこなう配分政策であり、実際に配分をする役目を担ってきたのが中小建設業なのです。これを次にまとめてみましょう。

 1・地方への公共事業投資は、産業化が生み出す急激な社会的変化−地方の農村部から都市部へ人口が大量流出する−の中で、地方の衰退を最低限に止めました。

 2・さらには、農家は建設作業員として兼業農家になることで、同じ土を扱う仕事としての雇用の確保を実現し、所得を確保することを可能とし、開発による地価の上昇は農家の資産価値の上昇をもたらしました。

 3・そして彼らは「新中間大衆」として国内需要を支えたことは事実でしかありません。

 つまり、開発主義的な政策のおかげで、日本国中とりあえずみんな豊かになったし、豊かになったおかげで、車も、電化製品も売れたのです。「新中間大衆」は国内需要を支える形で国内産業の発展にちゃんと寄与してきたわけです。

 この流れのなかで、中小建設業は配分の機能の一端を担ってきました。それは戦後のすべてが貧しい時代からの出発では決して誤りではなかったと思いますし、地方に対する公共投資も、結果の平等を目指す中では、決して誤った政策ではなかったということです。

 つまり、中小建設業は、このような「ヒエラルキー・ソリューション」(開発主義は典型的なヒエラルキー・ソリューションです)の文脈において、地方への資源の再配分(それはわが国の元気の素であった)を担う機能のひとつとしてその存在を確立してきたのです。それはまるで人体の隅々まで栄養分を送る「毛細血管」のようにです。この意味で私はこういうのです。

〈中小建設業は政策的に生み出された産業でしかない〉

2006/02/27 (月)  
【ジュー】

午前5時30分起床。浅草は曇り。暖かい朝です。

途中からですが、朝鮮人参茶を飲みながら、トリノの閉会式をみていました。
イタリアっていう国は、おもしれぇですね。

さて、昨晩の我が家は鉄板焼きで、新年会のビンゴの景品に秋野さんからいただいたトンデンファームのベーコンは、なんの芸もなく、ただ焼かれたのでした。
 
しかし、その脂がなんともいい香りがしますので、その辺にあった野菜を炒めてみました。
  
このベーコンは、生に近い状態よりも、カリカリに焼くと、そのすごさがはっきりしてきます。
これはなにか逆のような感じがしますが、(確かに火を通さない状態でもかなりいけますが)しっかり焼いた時の弾力感も素晴らしいのですよ。

一緒に骨付きソーセージも食べました。(^O^)/
 
朝から、なんとも脂っぽい日記になってしまいました。


さて、このベーコンやソーセージは、昨日書いた能登の食べ物のような、強いパトリを感じることはできないかと思います。

むしろ強く感じるのは「トンデンファーム」というブランドです。

それは、これがトンデンファームの製品であって、しかし、トンデンファームが北海道にあることの必然性が語りきれていないからだと思います。

わたしは北海道での地域再生について考える機会をいただいていますが、その問題に取り組むとき、壁のように感じられるものが、このパトリの薄さなのです。

それを「歴史の浅さ」ということは簡単ですが、しかしそれだけですむ問題なら、考える必要はないでしょう。

わたしは、北海道にパトリはある、と考えています。
それは昨日能登について書いたフレーズを引用するならこうなります。

北海道で生きることはずっと過酷で厳しいものだと思います。

しかし、そこに住む方々が、その場所を離れずに、一見かたくなに地域にしがみついて生きているのは、なによりもその厳しさの中で耐え抜いてきた自信があるからだと思うのです。

では、そのパトリをどうやって表出させたらいいのか、このあたりを3月8日までに、ある程度まとめきれればな、と思うのです。

2006/02/26 (日)  
【のとだらぼち】

午前7時35分起床。浅草は雨。

一昨日の夜は、銀座の8丁目の「のとだらぼち」で一献。このお店は先日金沢へ行った際に教えていただいたお店で、能登の食材を楽しむことができます。

かぶら寿司です。
 

金沢を故郷(パトリ)とする野水さんによれば、かぶら寿司は武士階級用の高級品であり、庶民は大根寿司なのだそうです。

大根寿司も食べてみたかったのですが、残念ながらこの店にはありませんでした。しかし「のどぐろ」もいただきましたし、能登の郷土料理や地酒もたくさんいただきました。

特筆すべきは能登の地酒で、軽やかさはないものの、なにか縄文的とでもいうような力強さがあって、わたしはそれを思わず「土建屋的」と表現してしまいました。

能登料理は、金沢の料理とは違って、味付けは濃い目ですから、浅草的になってしまっているわたしの舌にも違和感はありません。

そんな中でも、一番の驚きであったのが、「たらの子付け」です。
 

「たらの子付け」は、たらの刺身にたら子をまぶしたものです。

そもそもわたしは、たらの刺身を食べた経験はありませんから、(たらを生で食べることに対しては)強烈な異文化性(能登のパトリ)=〈差異〉〉を感じたのはいうまでもありません。

それは、わたの心に中に芽生える違和感と同時に〈差異〉としての「楽しさ」です。

〈差異〉は、能登の地勢的(閉じによって生み出された)文化に対して、(能登の人間ではない)わたしがコミュニケーション接続を通すことで感じられるものです。

つまり閉じたことで生まれたこの食文化は、地域のアイデンティティであり、わたしと能登のコミュニケーションの端緒なのです。(コミュニケーション=〈情報/伝達〉の差異の理解)

つまり、この〈差異〉がなければ、この店は銀座にあることはないでしょうし、そもそも「能登料理」というカテゴリも生まれません。そして能登の産品が経済のシステムに乗ることもないでしょう。

つまり地域は地勢的(気候風土、文化的)に閉じているものです。
そうでなければ〈差異〉は生まれません。

しかしこの〈差異〉も、コミュニケーション接続がなければ(実際に食べてみなければ、金沢でこの店を教えてもらわなければ、さらにいえば、2月3日の東京独演会に水内さんがおいでになっていなければ)、(わたしの心に)生まれはしなかったものです。

つまり「のとだらぼち」は、能登と東京を結ぶように銀座に置かれたハブ(HUB)なのですが、わたしがそのHUBに接続できたのも、能登という地域が、情報を発信しているからこそです。


しかし、わたしが感じたこの〈差異(楽しさ)〉も、たぶん能登に住んでいる皆さんにとっては、伝統的に続いてきた日常であり、「ケ」なのだと思います。

それは退屈なものかもしれませんし、できれば逃げ出したい日常なのかもしれません。東京のような大都市部に比べれば、能登で生きることはずっと過酷で厳しいものだと思います。

しかし、そこに住む方々が、その場所を離れずに、一見かたくなに地域にしがみついて生きているのは、なによりもその厳しさの中で耐え抜いてきた自信があるからだと思うのです。

それは故郷を離れ、東京という「快適」な空間で暮らす、パトリ欠乏症のわたしのようなものにとっては、一生涯もちえないものです。

それはパトリへの執着であり、パトリの誇りであり、そしてなによりも、そこで生活をしてきた自己への自信です。

その地勢的、地層的な強さこそが、〈差異〉を表出させる根源であり、地域再生の拠所なのだとわたしは考えています。


例えば、能登の皆さんにとっては、マクドナルドやジャスコのようなものの方が、非日常としての「楽しさ」を演出してくれているのだと思います。

マクドナルドやジャスコのような「合理性と効率性」の塊が、日本全国どこへ進出しても、それなりに受け入れられてしまうのは、それがパトリにおいては〈差異〉であり「ハレ」だからです。(郊外化)

地域再生を語る多くの方々は、郊外化の影響(市街地の疲弊)等から、それを批判しますが、今のわたしは素朴にそれを批判する気にはなれません。(かつては素朴に批判していました)

わたしが銀座で能登を味わうように、能登のみなさんが普通にマクドナルドを食べ、ジャスコで買い物することを否定できる人はいないはずです(出来るとすれば、今の時代は唯一自己だけでしょう。かつては「神」がいましたが……)。

しかし、パトリはそんなものでは消えはしないのだ、とわたしは思います。
パトリは圧倒的な「ケ」の中にあります。


そして、「のとだらぼち」は銀座にあって、能登では「ケ」としての情報を発信しています。

それはパトリへの執着であり、パトリの誇りであり、そしてなによりも、そこで生活をしてきた自己への自信という情報です。

それは境界を超えてコミュニケーション接続されるとき、他者にとっての〈差異〉、他者にとっての「ハレ」になる可能性を孕みます。

〈日常/非日常〉、〈ケ/ハレ〉の反転は、境界を超えた瞬間に起こります。(「ひねり」)
つまり、境界がなければ、〈日常/非日常〉、〈ケ/ハレ〉の反転は生まれないということです。

地域は、境界のある(つまりパトリとしての地勢学的特徴を持った)日常を生きます。
そう生きるしかないのです。

であれば、そう生きるしかない人生に、パトリへの執着、パトリの誇り、そしてなによりも、そこで生活をしてきた自己への自信が保たれることを、地域再生の命題として考えたい、と今のわたしは思っています。

「のとだらぼち」からは、沢山のヒントをいただきました。

2006/02/25 (土)  
【わたしが住んでいるところ】

午前6時起床。浅草はくもり。

昨日のお昼は、久しぶりに浅草におりましたので、弁天で天ぷらそばを食べました。
 
天ぷらがね、熱いのですよ。はふはふいわないと口に入らない。こういうのは癖になるわけです。

蕎麦と洋食と寿司屋は、近所が一番うまい、のは定理です。
パトリの定理なわけです。それが「わたしが住んでいるところ」ということです。

蕎麦を食べてから、本郷までタクシーで移動し、3月8日(水)空地建設業協会「地域再生フォーラムV」の打ち合わせをしてきました。


『経済効果やイノベーションの力は、長期的にみると社会システムや文化や持続的な自然収支に依存しています。この考え方は、資本主義体制が文化的なシステムとそれに付随した連帯感や管理なしには成立しないという、マックス ウェーバーの理論に基づいていますが、持続的な地域発展は、このように相互依存的な発展であるといえます。』(デトルフ・イプセン講演,『やまがた村山学』,p104)

今のわたしの「地域再生」に対する考え方は、このデトルフ・イプセン教授の言葉に収斂されています。つまり「ナイーブな合理性や効率性の追求だけではかえって地域を疲弊させる」ということです。(これは会社の経営にもいえます)

 

近代化(「フォーディズム」といってもよいでしょう)が持つ、合理性と効率化の志向は、〈合理/非合理性〉の二分コードをもって、非合理性を排除しようとします。

しかし非合理性はとらえどころのないものです。

そのとらえどころのないものをなくそうとする力は、その「非合理性」を生み出している(とされている)実存的要素、実践合理性、つまり共同体性(第四象限)を潰そうとします。

つまり、『フォードが合理的に車を生産しただけではなくて、人々の暮らす空間も大きく合理化されました。』(同,p108)

それが共同体性=「地域(パトリ)」を疲弊させているものです。

しかし、マックス・ウェーバー研究者の多くがいうように、その崩壊された「実存的要素、実践合理性、つまり共同体性(第四象限)」こそが、資本主義体制を支えてきたのも事実なのです。

近代化と資本主義化は、そもそもこのような矛盾をもった運動ですから、地域再生を考えるとき、経済といった狭い視野だけでは、「地域再生」は語れなくなっています。

つまり、経済合理性を追求する中で共同体性=「地域(パトリ)」は疲弊します。

そこからポスト・モダン的な考え方も生まれます。

そのひとつの解がリゾームです。
しかしわたしは、それは日本では使えない、といいます(当たり前のことです。リゾームは第四象限の崩壊を前提にしています)。

それじゃどうするのか、という議論はデトルフ・イプセン教授のいうように、非常に相互依存的なものとなりますが、このあたりは白黒思考しか出来ない方々には難しいものとなります。

ついでに、「グローバル化」のナイーブな強調に対して…。

グローバル化は形式合理性と理論合理性といった認知的要素(つまりマニュアル化の類)だけではありません。

表出的要素としての非合理性も同時にグローバル性を持ちます。(第三象限)

それは、「芸術性」や「楽しさ」やのような昂揚や眩暈、つまりミメーシスです。

そしてそれが、表出的要素としての「非合理性」でしかないことを、そしてそれが、合理主義が潰そうとしてきた「第四象限」からも生まれてくるもことを示しておけば十分でしょうか。

ついでに書けば、日本的経営の強みとはここにあったわけです。
それは非合理性さえも「ある」ものとするシステムです。

それを「超合理性」といいます。

2006/02/24 (金)  
【ミメーシス】

午前5時起床。浅草は曇り。

今朝はもちろん、フィギュアスケートを応援するための早起きです。荒川静香さんの完成度の高い演技には涙が出そうになりました。本当に素晴らしかった。神々しささえありました。わたしはそれを言葉で表現する術を持ちません。

このスポーツはプラトンのいうミメーシスを色濃く持っています。氷上の舞踏であり芸術ですね。そこに競技性が加わることで、芸術としての舞踏よりも「わかりやすさ」(複雑性の縮減)があります。

『プラトン以前、文字が市民に普及する以前のギリシャは、教育も伝承も娯楽も、舞踏と朗読によってなされていました。文字が存在しない状態での記憶の便宜という機能がメインですが、それが可能であるというのも、舞踏と朗読といった身体技法が昂揚や眩暈、すなわちプラトンのいうミメーシス(模倣・感染)と、表裏一体だからですね。』(宮台真司,『限界の思考』,p94


昨日のランチは、神部さんご推薦のスープ・カリーのお店「メディスンマン」でした。「食」もまたミメーシスです。

このお店は、昨年一度訪れたのですが、開店を10分程過ぎただけなのに、既に満席だったため食するのを断念したお店です。今回はリベンジということになりました。

今回は早めに到着し、寒い中、まにあ・1号さんが開店前の行列に並んでくれたため、無事に入店することができました。

 

これが二年越しでお目にかかることのできたメディスンマンのスープカレーです。「チキン、辛さ2」です。
 

辛さ2は、(わたしにとっては)相当に辛いのですが(むせながら食べました)、その辛さの中に「うまさ」の輪郭がはっきりとみえます。

つまり一口目から辛い!そして、うまい!

どちらかといえば、スープカリーは、食べ進むうちに器の中で食材同士のハイブリッドが進んで、うまみが出てくるタイプが多いのですが、これは、最初から辛さと一緒にうまみがエッジを立てていて、それが最後まで持続します。

そしてライスに添えられたレモン。このひと絞りが、うまさの化学反応を誘発します。今回はライスに絞り食べましたが、味はよりマイルドに激変します。「一粒で二度おいしい!」グリコ型スープカリーでもありました。

 

というわけで、これを書きながらも、「ああ、食いたい!」と思うのです。しかし、「あえない時間が愛育てるのさ」(「よろしく哀愁」)なのでございます。

2006/02/23 (木)  
【得した気もち】

午前6時30分起床。札幌は晴れ。
ちょっと疲れが蓄積してきたかな、と感じる朝です。

昨日、新千歳へ向かう機内からは富士山がきれいに見えていて、それはなんとなく得した気もちにさせられます。
 
富士山がきれいに見えたからといって、一円もお金は入ってきませんし、飛行機代が安くなるわけではありませんが、でも、「得した気もち」にはなれるのです。

お昼は、室蘭の天勝さんにて天丼を食べました。
 
この天勝さんのあるアーケードは、昼でも人通り少ない寂しい商店街なのですが、天勝の店内はまるで「区界」であり、異次元の胃袋なのでした。

わたしの地元の浅草にも名の通った天ぷら屋は沢山ありますが、わたしは天勝の天丼は浅草のどの店の天丼よりも好きです。室蘭にきたことで「得した気もち」にはなれる店なのです。

夜は札幌へ移動し、札幌の桃組の皆さんと、黄金寿司(揚子江)さんで宴会をしました。
写真は活ヤリイカのおつくりです。
 
このお店は、店名からもわかるように、和食と中華のハイブリッドです。寿司屋としても中華料理屋としても機能します。こんな新鮮なおつくりを食べた後に、チャーハンを食べることができます。(それだけでも「得した気もち」になれます)

つまり、料理はちゃんと〈和食/中華〉の区分コードを持っていて、基本的にはそれぞれのカテゴリで閉じています。つまり、料理がハイブリッドしているわけではありません(例えば「チャーハン寿司」というようなゲテモノを出す店ではありません)。

そして、〈ローコスト/ハイクオリティ〉の対立を止揚させている弁証法的なお店であることで、お勘定の時には、もっと得した気もちになれるのでした。

ということで8時30分です。今朝はここまで。

今日は空知建協さんへおじゃまし、夜の便で浅草へ帰ります。

2006/02/22 (水)  
【カッコのうた】

午前5時30分起床。浅草は晴れ。

昨日は盛岡市での講演でした。
講演の反省は、久しぶりにPhotoCinemaを使ってみます。
つまりミメーシスです。(音が出ますのでご注意ください)

 → http://www.momoti.com/BD060221/index.html
 (これは期間限定での掲示とさせていただきます)

使われている画像に新鮮味はありませんし、ほとんど意味は持たせていません。
むしろ狙いは使われている曲にありまして、カオリーニョ藤原と彼のボサノムーチョの「カッコのうた」です。「システム論的歌謡」とわたしが勝手に名付けています。(笑)

演歌BOSSA

カオリーニョ藤原と彼のボサノムーチョ

1998年5月10日
Pヴァイン・レコード -

2310円(税込)





そして、昨晩の本命! 盛楼閣の冷麺です。
世界一うまい!と思います。

ということで、今朝は室蘭に向けて出発です。

2006/02/21 (火)  
【今日は「俺の話を聞け」です。】

午前6時30分起床。浅草はくもり。

今朝は連絡事項から。

今年も空知建設業協会では、空地建設業協会「地域再生フォーラムV」を開催いたします。3月8日(水)が開催日で、あいにくと週の中日ではありますが、ご都合がつく方は、是非岩見沢でお会いいたしましょう。

詳しくは空知建協のホームページで。
 → http://www.ku-ken.net/news/index.html

そして、2月18日に行われた大阪三人会で使ったPPTを公開いたします。
  → http://briefcase.yahoo.co.jp/pinkhip
 「講演用資料」フォルダ、BD060218.swf ファイルです(FlashPaperファイル)。

講演では時間の関係もあり、準備したPPTの一部を使った、という程度ですが、今回も経済学の語彙を極力使わずに、社会システム論、コミュニケーション論から、IT化へのアプローチを試みています。

それは今日の仕事にも反映される予定で―今日は盛岡にて、「新分野進出と環境ビジネス」という講演をします―つまり、それもシステム論を下敷きにしてお話する予定です。

システム論を使うと、じつは(わたしのIT化では重要な概念である)「信頼」という語彙を使う必要がなくなります。(というよりもその呪縛から開放されます)

その代わりに使われるのは、〈システム/環境〉であり、〈コミュニケーション接続〉であり、〈反省/行為/機能〉であり、〈合理性/非合理性〉であり、〈蓋然性/偶発性〉になります。

とは言っても、これらの言葉をそのまま使うわけはなく、ある対象を考えるときの概念(めがね)として導入するだけですから、話は難しいものとするつもりはありません。

どうしたら私達は(仕事を通じて)〈他者〉とつながるのか、という、わたしのIT化の核心部分を、わたし自身の経験をもとに、起業の仕組(新分野進出の仕組)が、よりはっきりと見えるようなお話をしたいと思います。

それは何よりも、わたし自身が建設業界からの転出であり、そして「中小建設業のIT化(事業者団体ベースのIT化」」という市場を自ら創造し(それも営業をしないという方法で)、新分野進出に関しては先駆者であるからですね。(笑)
  インデックス

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桃知商店 桃知利男
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