桃知商店よりのお知らせ

アジール

共同体性を保ちながら、いかに経済活動に接続するのか。

アジール [独] Asyl

本来の意味は、俗界と区別された聖域であって、なんらかの理由で追求されている者が、そこへ逃げ込むこととで、一定期間追求を逃れ、安全を保証される機能を果たす場である(例えばその昔の駆け込み寺とかね)。普通名詞的には、隠れ場、避難所、保護収容施設を意味している。法律的なアジール権とは「庇護権」であって、外交特権や亡命者保護、赤十字等はアジールの精神が基底にある。


「桃語」的な使用方法

私は、中沢新一の『アースダイバー』からの引用としてこの言葉を使い始めた。時々、網野善彦の『無縁・公界・楽』からの引用で、「公界」という言葉で置き換えるときもあるが、同じ意味で使っている。

それは「祭り」に例えられる、何らかの結界を持った、世俗から隔離された非日常性の場であり、バタイユの言葉を使えば蕩尽(贈与の原理)が支配する空間(場)であり、呪術的な芸術の空間でもある聖域のこととしてだ。

お祭りが都市を活気付けてきたのは、それが国家とも政治とも経済とも、本来は無関係だからである。お祭りは徹頭徹尾、無駄な遊びであるからこそ、人の心によろこびと興奮を与えることができたのだ。とくにいまのように、生活のすみずみまで管理が行き届いてしまい、あらゆる面に効率や利益を重視する経済原理の支配が浸透してしまった時代であればこそ、お祭りはますます大切なものになっている。権力や経済原理の及んでこれない「アジール」の空間は、都市の中に生きることがむずかしくなってきている。そういう時代に、なんの実利ももたらさいことを最高の美徳にすえている。お祭りの存在意義はとてつもなく大きいのではないだろうか。(中沢新一:『アースダイバー』:p216)

身近なアジール

アジール的な空間は特別なものではなく、現代も身近なものとしてある。

例えば「桃組」では、「IT化は飲むことだ!」というすさまじいテーゼが機能している。その飲むこと、つまり宴会――その最高峰としての「無礼講」は、アジールなのである。

……ところが、日本人の場合はどうしてもそれをやりたいんですね。いまならカラオケですが.どこへ行ったってやりたいわけです。実はそこでいろんなことが決まってしまうという事情があって、宴会に参加もせず酔っ払えないヤツはダメだというような一種の加入儀礼になっています。

ヨーロッパの場合は、宴会の場はアジールですから、そこへ仇が飛び込んできても、みんなと何かを食べてしまったら、その男を殺すことはできません。宴会の場は、一種の無縁の場をも体現しfているわけで、宴会の変化はヨーロッパにおける無縁の世界の変化をも表しているという意味で.、網野さんの問題と重なってくると思うのです。(阿部謹也:『中世の再発見』:p137)

宴会はアジールなのである。

最近は宴会を嫌う若者も多いと聞く。アジール性が衰退してしまっているのだろうと思う。それはどこか「象徴の貧困」、欲望の衰退とオーバーラップしてくる。

アジールの原理―組合の原理

この空間を支配する原理は「組合(アソシエーション)の原理」である。それは次のようなものだ。

  • 組合は非農業的、縁の作り出す社会的束縛からの自由の空間。平等。アジール。同一性をもたないトポス。
  • 非農業民。非定着、無縁。「原始・未開以来の自由の伝統を生きるもの」。(網野善彦)
  • 「数の原理」で組織される。年齢階梯性(年齢や年次や受けたイニシェーションの回数など)。
  • 「同一性」にかわっての差異を尊重。個性の重視。共同体との断絶
  • 霊的ではあるが肉体性をそなえた神。
  • 未知のものを表現する芸術の神、文学の神。
    (中沢新一:『芸術人類学』を要約)

Web2.0ミームとの類似性

この原理の代表的なものが「楽(楽市・楽座)」である。楽市・楽座は、そもそも公界(アジール)であり、組合の原理の具現化だった。貨幣の持つ匿名性や「数の原理」、そしてクラインの壷的な貨幣の運動はその一端である。そして既存の縁からの自由。

これはなにかWeb2.0ミーム的な現代性を備えている、といえるのではないだろうか。私がこの言葉に執着する理由のひとつはここにある。それは経済活動にゆうゆうと接続してしまうことだ。

つまり、アジールの持つ無縁性は、今のように ITが普通にある時代の経済活動に接続しやすい、ということであり、尚且つWeb2.0的な現代性を備えているということだ( Web2.0の持つ経済活動は、いままでの経済原理とは違ってどこかお祭り的である)。

ただそこに問題もある。それは私が取り組んでいる中景(共同体性)の再構築において、この概念をどう位置づけるかということだ。つまり「組合の原理」と対立するのが、中景を支配してきた「共同体の原理」なのである。

対立概念―「共同体の原理」

  • 共同体は農村的「有縁」の世界。安定した同一性をそなえた空間。
  • 農業民。定着。土地に人々は結びつき、それを土台として権力は成り立つ。
  • 人々を結びつけるさまざまな「縁」でできている。
  • 人の社会的地位はその縁によって決定される。
  • 強力な「同一性」の原理が働く(縁でできた集団は、自分たちを外の人々から区別しようとする)。
  • 個性をならして均質なものにする。
  • 排他的な超越する神。「正しさ」を支える法の神。共同体の内部コミュニケーションを維持する。
    (中沢新一:『芸術人類学』を要約)

「中景」が、この共同体性のものである、となるとアジールは使えない。多くはここで二項を対立させて、どちらかを選択しようとしてしまう「一の原理」の罠にはまる。公共事業という産業も、地域も、この選択の過程で疲弊してきたといってよいだろう。しかし中沢新一はこういうのだ。

組合の原理と共同体の原理は、おたがいを否定しあうような関係にあるのですが、組合というような考え方がじっさいに生きていた社会では、共同体は自分を否定する組合を内部に抱え込み、組合は共同体の土台に花を咲かせいるというような、弁証法的な関係がうまく作動していたようです。(中沢新一:『芸術人類学』:p365)

これはまさに「種の論理」である。私がこの「アジール」という概念を重視しているのは、中沢新一の上の言葉にあるように、組合の原理と共同体の原理のハイブリッド(弁証法的な関係)に、経営における、そして地域再生における、共同体性を保ちながらの経済原理の接続(それを「超合理性」と呼んでもよいだろう)の可能性を探しているからだ。

新しい共同体性の概念へ

つまり、私の考えている共同体(中景)とは、組合の原理と共同体の原理のハイブリッドである――そのモデルのひとつとしてのイエの原理

トポロジー―トーラスとメビウスの帯のハイブリッド 
(図:中沢新一:『芸術人類学』:p91)

それを、「非合理性に合理性を上書きする」と表現してきたわけだが、合理だけでは中景(会社や協会や地域社会という共同体)はうまく機能しない。アジールの持つような非合理も必要なのである。若しくは合理のシステムをうまく機能させるには、非合理的な基底が必要だということでもある。

つまり、今の時代に機能するだろう「中景」(会社や協会や地域社会という共同体)は、そういわれ、私たちがそうだと思わされ続けてきた「農村共同体」的なモノというよりも、「公界の原理」を孕んだハイブリッドであることで、うまく機能するのではないか、という仮説である。

参考(書)

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