桃知商店よりのお知らせ

(編集中&勉強中)

平面と遠近法でものを考えることはやめる必要がある。ここではふたつの円、ふたつの渦巻き、ふたつの球があると考えよう。このふたつの球は、わたしが素朴に生きている間は同心の球だが、わたしが自分に問いを投げ掛けると、互いにわずかに中心をずらせるのである。
(『メルロ=ポンティ・コレクション』:P130 :「絡み合いーキアスム」)


キアスム [仏] chiasme

全体を構成する二契機がギリシア文字Χ(ch)のように交叉し反転しあう関係。とくにchiasmeは語句の交叉配列を、ciiasmaは視神経交叉や染色分体交叉を意味する.。後期メルロ・ポンティは反転可能性・絡み合い・相互内属といった同義の用語とともにこれら両語によって,、あらゆる事象に汎通する存在論的な構造原理を表示し、実証的分析や構成的分析には捉えがたい事象の全体同時的な存在ついての理解をめざした。たとえば両手における触れる手と触れられる手の相互転換、身体における運動と知覚の絡み合った相互誘導、私と他者の相互的な投射‐取込みの関係、私と世界の相互的な包み‐包まれる関係など、いずれにおいても、一つの全体のうちで差異化する対の契機が、交互円環的に反転しあう関係態において開示されている。[篠 憲二]
(引用:『岩波哲学・思想事典』:p300‐3001)

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(図:中沢新一:『芸術人類学:p81)

「桃語」的な使用方法

―「状況を換える」 若しくは「全人格をもって出来事を引き受ける」。

私の使い方としては、「状況を換える」若しくは(その前工程として)「全人格をもって出来事を引き受ける」の意味で使っている。状況や出来事とは、経営(IT化)の方程式「経営(IT化)=環境×原理」では環境のことであり、つまり私たちは環境に対しては無力のようなのだが無力ではなく、(私たちは)環境に対して働きかけをしているのだし、相互作用的に環境を換えているということだ。

これを出来事といい換えても同じだろう。私たちは出来事に対しては無力のようなのだが無力ではなく、(私たちは)出来事に対して働きかけをしているのだし、相互作用的に出来事を換えている。

事例:絶対信頼〈半人まえ/一人まえ〉

〈半人まえ/一人まえ〉の二項区分を事例に説明を試みてみよう。 一人まえとは、私の言葉では絶対信頼(=全人格に対する信頼)を得ることだ。絶対信頼とは、簡単にいってしまえば、「君に任せた」といってもらえることだ。 つまり「一人まえ=絶対信頼」の関係である。
キアスム交差図式これをものすごく単純化してしまうとこうなる(神話のアルゴリズムを用いてみる)。

Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y)

Fx(a)は半人まえ=不信
Fa-1(y)は一人前=絶対信頼

では、それを反転してしまう交叉点(b)とはなんだろう。

ここでは、一人まえ=絶対信頼が機能する状況を考えてみよう。たとえば仕事で、(仕事を)「君に任せた」といってもらえる条件はなんだろううか。

信頼そこではなによりも信頼が必要なはずだ。信頼は交換におけるメタ情報である。

その信頼とは、まず技倆(スキル)に対してのもの、つまり「能力に対する信頼」があるだろう――そのために私たちは勉強したり研鑽したり資格をとったりしている――。 しかしそれだけで絶対信頼足り得るのかといえば、それだけでは足りないだろう。

なぜなら、仕事をこなす能力と、期待を裏切らず、それを誤魔化さずにちゃんとやり遂げる能力はとは別のものだからだ――耐震偽装問題は分かり易すぎる事例だろう――。このもう一つの信頼を「意図に対する信頼」とよぶことができれば、絶対信頼には「意図に対する信頼」も必要なのである。このふたつをもって「全人格に対する信頼」とよぶことができるだろう。

こう考えることで、交叉点(b)=トリックスターがなにものであるかが理解でるのではないだろうか。そう、交叉点(b)にいるのは私自身なのだ。 それも全人格としての私なのである。

全人格としての私

では全人格としての私自身とはなんだろう。それは判断する私である。ある出来事――例えば子供が川に流された――を受け止めておこなうキアスム的な判断は、ほとんどの場合瞬時のものだろう。咄嗟の出来事を受け止め、瞬時に判断をくだす必要があるとき、そこに全人格が表出する――助けに行くのか、行かないのか――。その判断は理論合理的な状況分析では間に合わないだろうし、規範に則するだけでもない。私の不合理性さえも孕む直感(直観)が機能する判断となる。つまりここで機能しているのはバイロジックなのである。

考える技術へ

バロックの館私たちが、出来事を受け止め、全人格を賭けておこなう判断がキアスムの交叉点であり、キアスム的実践(判断)が、バイロジックを必要とするなら、そしてそれを経営に活かそうとするなら、「考える技術」の実装は不可欠なのだと(私は)思う。

そして付け加えるなら、私とは、バロックの館としての「個」なのである。つまり一階部分としての(たとえば職業的)種=中景=象徴が機能しなくては、そもそも私の「能力に対する信頼」もままならない。

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