リバタリアニズムのOS化の象徴としての談合問題

 午前6時起床。浅草は晴れ。

9月5日付のコラム「新生面」で建設業界の談合の話題に触れたのですが、その際、御著書「桃論-」のほんのさわりだけ紹介させていただきました。ご報告申し上げます。 著者名の読みを尋ねられたので、「モモシリオトコ」であると答えましたところ、「ふざけた本なのではないか」と怪しまれました。「その通り」と答える訳にもいかず苦慮しました(^^)

とメールが届いた。たしかに『桃論』はふざけた本であるが(笑)、どなたか熊本日日新聞を読んだ方はおられるだろうか。

談合問題を支えるもの

談合の問題は、できれば触れたくない、というのが本音であって、それは理詰めの議論展開が難しいからだ。この問題は、公共事業という狭い領域で考えたところで閉塞するだけだろう。

談合は悪いものもあれば、良いものもある(と私は思う)。法律はそこをちゃんと議論して、われわれの「公平」にそぐわないものであれば変えればよいだけなのに、なぜかこの問題は感情論になってしまう。

これは(「公共財ゲーム」で書いたように)、「象徴の貧困」の国の、第三者の審級(処罰)の地位の争いなのである。それはミームの生存競争のようなもので、「公平」の価値基準ををめぐる争いである。そこにはそれをどう考えるかという、文化的な背景が大きく関わってしまう。

しかし「象徴の貧困」とはいえ、われわれの象徴界が空であることはなく、そこには「感情」(世間)が居座っている(という斉藤環の意見を私は支持している)。

つまりは談合が良いも悪いも「感情」の問題なのだ――だから『行動経済学』のようなアプローチを私は支持している――。

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リバタリアニズムのOS化

いまの時代の大きな流れは、リバタリアニズムがOS化していることであり、談合が社会悪であるというのは、そのOS化の象徴のようなものだろう――つまり談合は中景的協力関係(安心)の象徴なのである――。

それ(社会悪としての談合)は神聖化され、特に発注者にとってはアンタッチャブルな問題になってしまっている――役人は世間(感情)に弱い――。

こんな按配なので、中景的協力関係(安心)は滅び行くものでしかないのかもしれない。しかし人間(日本人)はそれに耐えられるのか、というのが私の問題意識なのであって、その文脈上に(私の)談合の問題はあるということだ。

Web2.0におけるRadical Trust

たしかに、中景的な象徴機能がなくても、なんらかの安心や信頼は機能するのかもしれない。それが「動物化」なのか、山岸俊男先生が一般的信頼と呼んでいるものなのかはよくわからない(多分両方だろう)。

私は、リバタリアニズムのOS化を、(象徴的に)Web2.0ミームにみているわけで、このミームは信頼に対する楽観に溢れている(Radical Trust)。

しかしその信頼の根拠もじつはよくわからないのである。それは動物化も一般的な信頼も深く結びついているように思うのだが、それは「9月11日東京独演会:2.0的社会の歩き方」で考察してみたと思う。

そして、その信頼に対する楽観が、キアスム的にハイブリッドされるリアルな世界とはどんなものかも考えてみたい。

私の主観的な観察では、ウェブの世界にも中景的協力関係(の機能代替品)は存在しているように思う。だから象徴界が空であることがないのであれば、問題はそこに居座るミームなのである。

Web2.0の Radical Trust は、動物化+一般的信頼+中景的協力関係の外的連関じゃなのか、というのが一応(私の)仮説であって、それは一体何を意味しているのだろうか、というのも「9月11日東京独演会:2.0的社会の歩き方」でふれてみたい。

ということで今朝は移動なのでここまで。