Web2.0と創造性と信頼―情報技術への信頼。

ウェブ進化論

ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる

梅田望夫(著)
2006年2月10日
筑摩書房

午前7時起床。浅草は小糠雨。先に、『ウェブ進化論』はやたらと楽観的だと書いた。その楽観性はなにを根拠にしているのだろうかと思う。

楽観できることは、〈他者〉に対する信頼があることであって、なにかすごいことだと(私は)思う。 IT社会でも信頼が不要であるはずもなく、それも(牽制装置付きの)安心ではなく、(人格的な)信頼でなくてはならないはずだ。

しかし『ウェブ進化論』にある楽観性の根拠は(人格的な)信頼であるとは思えない。Webが進化したからといって、みんな突然に善人になるわけでもないだろう。

たしかにWebでは、情報を見る能力の高い一部の方々が持つ「信頼の能力」は露呈しやすい。 しかし『ウェブ進化論』にある楽観性は、人格ではなく情報技術に対する信頼なのである。つまりWebが進化しても善人が増えるわけではなく、もしかしたらWebは私のような悪党の巣窟かもしれない。そんなところで、「ウェブの進化」を語ったところで、ちゃんちゃらおかしいのである。

ではその不信をどうやって克服できるのか、という前提が情報技術への信頼なのだ。つまり、不信を情報技術をもって排除していこう、信頼を情報技術をもって獲得していこう、というのが、例えばWeb2.0の試みなのだと考えることができる。

それはバタリアニズム的なユートピア観に裏打ちされてもいるのだが、情報技術の実装によってはじめて可能となる安心のようなものだろう。つまり、「万人の万人による戦い」を回避するための契約、中央政府的な管理機能が、情報技術によってより容易となる。情報技術を、ゲイテッドコミュニティの塀にように実装することで、安心は機能しはじめる。

そのとき、管理主体の存在はどうでもよいのである。政府であろうが、民間企業であろうが、NPOであろうが、個人であろうが、なんでもよい。安心を望んでいるのは他ならぬ〈私〉なのであり、そこで生まれる安心は「意図に対する信頼」であることには違いない。しかしそれは「牽制装置付き」だということだ――「人格的な信頼」ではない――だから「安心」なのである。

そこでは、安心/信頼の区分は必要ない――つまり安心も信頼も機能等価なのであり、人格的に〈他者〉を信頼するのも、法律や制度や(ウェブ上の)技術をもって信頼を担保するのも、機能的には違わない。

Web2.0では安心と信頼が機能等価的に同質であるように思える。その上、その牽制機能装置はやがて空気のように、フーコーのいうパノプティコンのように、見えない存在となる。情報技術の本質はブラックボックス化にある。

人格的な信頼に頼らなくても、情報技術によって実現される安心のシステムに依存することで、安全と自由は確保できる、というのが『ウェブ進化論』がもつ信頼に対する楽観性の拠所じゃないのだろうか.。ITがフツーにある時代とは、たぶんそんな方向に進もうとしている時代のことなのだろうと思う。

ましてや日本はそもそもが安心社会(山岸俊男)なのである。その時代変化に違和感を感じる方々は少ないのではないだろうか――しかし確実にシステムは変わりつつある。それは(時代は)環境管理型権力や、マクドナルド化とよばれているものへ向かっているということだ。

そして私たちは、その人為的につくられた環境に知らず知らずに慣らされていく――そこにはかつての「権力」の姿はなく、私たちはなんとなく安全で自由であることを享受する。それを東弘毅は動物化と呼ぶのだろうし、そこでは、(情報を)消費するだけなら、創造性なんて必要もないのかもしれない。

「考える技術」なんてお笑い種である――なにしろ、おたく的な想像力なんて、放っておいても勝手に働くのだから。つまり、もしおたく的な想像力が働くことが環境適応であり、IT化の生来なら、「考える技術」なんていらない。

創造力とは〈他者〉を思う「こころ」であり、〈他者〉を経由して自らが〈私〉を知ろうとすることだと(私は)信じている。 けれど、動物化では、〈他者〉を経由して自らが〈私〉を知ろうなんていうまどろっこしいことをする必要もない――〈私〉はWeb2.0という環境から名指しされる。たとえば4月1日の店主戯言を参照してほしい。
 → http://www.momoti.com/myself/self060401.htm#060401

それはやがてくるWeb型ムラ社会でしかないだろう。

だからといって(私は)動物化をナイーブに否定しようとも思わない。動物化の文脈にある安心と自由が、良いことなのか悪いことなのかがよくわからないのである。本当は西田幾多郎のように、「~でなければならない。」とはっきり、きっぱり決め付けたい。

「創造力こそが人間の絶対条件でなければならない。」と宣言してみたい。しかし、安全と自由があるのなら、毎日、なんだかわからない創造なんてものに追い立てられるよりも、マニュアル通りに決められたことだけをしている方がはるかに楽であり、合理的な生き方だと考えて悪いわけもない。

(私も)その誘惑にはいつも負けそうなのである(なのであえて毎日なにかしら書いているのかもしれない)。そしてなによりも、それを批判したところで、自由は自由なのである。(思想の自由が保障されているかどうかは定かではないが)その自由を(私は)否定するつもりはないし、できもしない。

しかし、私はずっと建設業について考えてきた。そして「公共事業という産業」の中で、この動物化が進むことを批判してきた――私の比喩は動物ではなく金魚だったのだけれども――。

増え続ける規制、マニュアル化の進展、合理に合理を重ね塗りし続けている。規制緩和なんてどこにもない。私がそれに批判的なのは、その環境はたんなる淘汰圧力としてしか機能せず、なによりも「現場」という仕事場から創造力を奪い取ってしまうからだ。

そしてこの文脈で建設業の「絶対信頼」は確立可能なのだろうか、と考えたとき、それはありえない、と(私は)思う――創造力こそが絶対信頼の条件でなければならない。

なぜならば、現場という仕事場は常に創造力が機能しなくてはならない場であるからだ。造る人も、地域の人も、利用者も、そこに関わる全ての人々の創造力が機能しなくてはならない。新しい道路ができるとき、新しい橋がかかるとき、新しい公共の建物が建つとき、造る人は地域や利用者や自然のことを考える。

つまりそれが現場のことであり、現場のことをを考えるのは、それは創造力である。地域の人や利用者は、また現場を見て自らの創造力を働かせる。そこにある新しい可能性に創造力を働かせることでしか、構築物は機能を全う出来ない。それに関わる全ての人々の創造力が働らくことで、技術は機能を全うし、自らの絶対信頼を得ることができる。

これはなにも、建設業に限ることではないだろう――創造力とは〈他者〉を思う「こころ」であり、〈他者〉を経由して自らが〈私〉を知ろうとすることだ。ということで、取り急ぎ決着をつけてみたたわけだ。(笑)