非日常と車の中

午前6時50分起床。浅草はくもり。

おかげさまで、四十八歳の誕生日の朝を迎えることができた。ここまで来ると、年齢はどうでもよくなってしまう。これから先、どこまで生きるのかはわからないし、なにがどうできるのかはわからない。でも、死ぬまで、私は私について語り続けて生きたいと思う――私がやってきたことは、ただそれだけだ――。

キティホークの居る非日常

さて、小樽でのこと。寄港中の米海軍の空母、キティホークを見かけた。

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(走る車の中からの撮影、クリックで画像大へ。艦載機が見える。)

たしかにこれは、非日常の風景である。 しかし私の感性は壊れているのだろうか、キティホークはまるで、実物大のプラモデルのようにしか見えなかった。非日常としてのリアリティ性(へんな云い方だが…)がまったく感じられなかった。

隣に実物大のガンダムが居たとしても、違和感を感じなかっただろう。これが本物の破壊の道具であるにもかかわらずだ。これはどうしてだろうか。

車の中と云う子宮的構造

それは、車の中から見たからである。自動車は典型的な子宮的構造を持ち、「1.5の世界」を簡単に作り出す装置である。車の中では、想像界(2)と現実界(1)が直結しやすい――下の図では近景(2)と遠景(1)である――。

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装具に取り巻かれた節足動物のように、あたかも装具的な外骨格に筋肉が覆われているかのように、車に覆われた消費者はまるで貝を被った滑稽なヤドカリのようなものです。(ベルナール・スティグレール:『象徴の貧困』:p152

そこでは、リアリティをリアリティとして感じることが難しくなる。車の中は、外気が熱くとも寒くとも快適な空間なのである。匂いもしない。そんな子宮的空間から、ウィンドウ越しに見える風景は、映像メディアに慣れさせられた脳には、まるで映画やアニメと機能等価的なものでしかなくなる。BGMがあれば完璧だろうか。

非日常性に隠匿される非日常性

しかしこれも、創造性‐無意識のなせる業なのだ。外的連関としてのコミュニケーションは、この「1.5の関係」においてつくりやすい。例えば私の世代だと、空母が寄港するとなれば、反対活動の一つやふたつあっても不思議ではない、と思うのだが、そんな人々の姿は何処にもなく――つまりイデオロギー的象徴は、今や殆ど機能していない――、小樽の街は、この空母を見学する人々で、ただ混雑していた。

それは平和な非日常のようなもの、と云うか、演出された非日常――つまり何処かディズニーランド的なのだ――であり、何処かにリアリティは隠蔽されている。

それは小樽の街にも云えることであり、小樽の街は演出された非日常――ディズニーランド的――である。本来の意味で機能していない運河がシンボル(象徴)なのである。

キティホークが小樽を寄港地としたのは、軍事的な意味合いが強いのだろうが、私は非日常に溶け込む非日常としての意味合いが大きいのではないのかと思った。それはこの小さな1.5の国――ジル・ドゥルーズの云う「コントロール社会」――に対しては有効な戦略なのだと思う。

前日、スカイバスで遊覧していた私たちに、ススキノの白いかもめたちは、手を振ってくれていた。それは、私の非日常の物語のつづきのように、違和感無くそこに居た。

私はこの感覚は決して嫌いではないけれども、このリアリティの無さ、機能について語らないコミュニケーションには不気味さを感じている――どこかに悪意が時限爆弾のように仕込まれている時、この1.5の国は、そのナイーブさを曝け出す――。ましてやそれを利用されるような、(非日常を利用した)コントロール社会の持つ不気味さには、いつでも敏感でありたいと思っている。