映画「カーズ」その神話のアルゴリズム。

午前6時25分起床。浅草は晴れ。

映画という非日常

「カーズ」パンフレット映画「カーズ」を観てきた。

映画は最も安上がりな非日常体験(アジール的空間)なのだが、かつての映画の街、浅草にはカーズの上演館はなく、Olinas内のTOHOシネマズ錦糸町に、バスに乗って出かけた。

錦糸町には楽天地もあり、今や、下町の映画軸は錦糸町に移ってしまった。浅草にかつての面影がないのは、寂しい限りだ。

カーズの簡単な感想

それはさておき、感想を書こう。何よりも映像(CG)が綺麗だ。いつもと同じ日常としての田舎の風景、それを囲む美しい峡谷と、そこを這うように走る道路がある。そしてそれと対比するかのような――田舎/都会のバイナリー・コード――、高速道路、サーキット、光るボディ、回転するタイヤ、失踪するレースカーが美しく描かれている。エキゾーストノードは心地よい。

基本的にこれは、アメリカンヒーロー物語であり、心理描写は最小限に抑えられ、その分、テンポよく物語は進行する。それを素敵な音楽が加速している。それにマニアックなくすぐり処(おいしい処)がうまく挿入されていて、あっという間に時間が過ぎてしまう。監督(ジョン・ラセター)は自動車が大好きなのだろうな、と思う。

そして、この映画の面白さの極め付けは、アメリカの生活的象徴である自動車を、モノとしではなく、アメリカ人に擬人化して描いていることにだろう。つまり、この擬人化とは、機能分化的に、アメリカ人を自動車が象徴している、と云うことなのだが、それはいかにもアメリカらしい。戦争帰りの軍人も居れば(ジープ)、ヒッピー崩れも居るし(VWワゴン)、イタリア移民(フィアット500)まで出てくる。弁護士はポルシェだ。

古きよき時代への憧れ

そして、この映画に一貫して感じられるのは、よい意味での――私が若い頃憧れた、明るい、自由の国としての――アメリカへの望郷の想いだ。それは、田舎/都会、国道/高速道路のバイナリー・コード、自動車の種類で表徴できる、機能分化した社会――進展するフラット化では、この機能分化は消えてしまうだろう――。

そんな機能分化した個人が、家族のように暮す田舎町。それを表徴する、田舎の風景、峡谷/エンジン音とオイルの匂い、と云うバイナリー・コード。きっと彼らは、こう云うアメリカに恋焦がれているのだ――米国のバロックの館の一階部分として――。

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神話のアルゴリズム

さて今回は、そんなおいしいところには触れず、(無粋にも)神話のアルゴリズム

Fx(a):Fy(b)=Fx(b):Fa-1(y) (:はアナロジー関係)

的に、この映画の構造を見てみたい――考える技術の演習のようなものだ――。

この映画では、二つの大きなキアスムが流れている――ひとつの映画を形作る表裏として――。

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マックイーン編

それはまず、主人公のライトニング・マックイーンのものだ。

彼はルーキー・イヤーに、ピストン・カップを狙える実力を持つ程の才能の持ち主だ。ただ、我侭な自信家であり、レースに勝つことしか考えていないところがあり――世界で一番速いのはこの僕だ――、信頼できるスタッフも友人もいない。これが―Fx(a)。

そんな彼が、ふとしたことから、疲弊した田舎街、キャブレター郡、ラジエター・スプリングス(以下「RS」と記す)の住人たちと関わりあう。ここの住人たちは、かなり世間ずれしているのだが、街はまるで、ひとつの家族のように暮らしている――中景が機能している――。

それは、レース漬けの日常とは違う日常――つまり、非日常――であり、それがマックイーンに変化を与える。これが―Fy(b)。そして、RSの住人たちも、そんなマックイーンから影響を受ける。これが―Fx(b)。

つまり、ここでのトリックスター(b)は、RSの住人たちであって、彼(女)たちは、夫々に、そして時には一体となって、マックイーンに"ひねり"を加える。それは、相互作用的に、マックイーンもまた、RSの住人たちに"ひねり”を加えていることでもあり、そのキアスム的展開としてストーリーは流れ 、マックイーンは、チャンピオン決定レースに望む。

勿論、闘うのは今や彼ひとりではなく、信頼できるRSの仲間たちが一緒である。レース最終周、ほぼ勝利を手中にした彼だが、ゴール直前で立ち止まってしまう。踵を返した彼は、ヒックスによってクラッシュさせられた偉大なるチャンピオン、キングを後押ししながらゴールする。

そこにはもう、レースに勝つことだけに執着するマックイーンは居ない。その代わり、信頼できるスタッフであり、親友であり、恋人であるRSの住人たちと一緒の彼が居る。これが―Fa-1(y)。

ラジエター・スプリングス編

そして、もうひとつの神話のアルゴリズムは、RSの住人たちのものだ――つまり(a)と(b)は、相互作用的に表裏の関係にある――。本当は一人ひとり(と云うか、一台一台だろうな)にキアスムがある――その複数のキアスムのハイブリッドが映画の"おいしい処"となる――のだが、ここでは便宜上、RSの住人たち、とひとまとめにしてはなしを進める。

RSはかつて、R66の交通の要所として栄えた街だが、今では10分間を短縮するための高速道路――「今は楽しみを求めて走っているが、昔は楽しみながら走っていた」という台詞が印象的だ――ができたおかげで、閑古鳥の鳴く、地図からさえ消えた、疲弊した街である。これが―Fx(a)。

そこにふとしたことから、"レーシングカー"マックイーンが現れる。彼は、あることで、道路を壊してしまうのだが、その罰として、道路の修繕を命じられ、紆余曲折はあるが、道路をピカピカに修繕してしまう。そして、RSの住人たちに仕事をオーダーし、ついでにネオン・サインまで直して、かつての繁栄の頃のように、街に明かりが蘇る。それはRSの住人たちにも、なにかかつての賑やかだった頃を思い出させる。これが―Fy(b)とFx(b)である。

つまり、ここでのトリックスター(b)は、マックイーンである。マックイーンと云うトリックスターが、RSの住人に刺激を与え("ひねり"を加え)、再び活気をもたらす――マックイーンが隠匿していた街、そしてこれからの彼のレーシング・チームの本拠地として、RSは再び活気を取り戻す。これが―Fa-1(y)。

「カーズ」は地域再生映画である

私は仕事柄、後者の視点でこの映画をずっと観ていた。つまり疲弊した街が、あるトリックスターの出現によって、キアスム的に転回し、再び活気を取り戻す。そう、この映画は「地域再生」の映画でもある。

この映画において、RSは、マックイーンにとっては、子宮的構造を持つことに気が付く。子宮的構造とは、そこへ行き、一端「私」は擬似的に死に、新しい私の生まれる――再生する――ところである。

R66はその産道である。日本におけるそれが、浅草寺のような寺社仏閣であるなら、アメリカのそれは、国道沿いの田舎街なのかもしれない。そしてそれは、恋人サリー(ポルシェ)に象徴される。彼女もまた都会(ロサンゼルス)の生活に疲れ、RSの峡谷に恋したのだが、サリーと彼女の住むRSが、マックイーンの「一階部分」(基底)となることで、彼は個体化していく。

それは懐かしいものへの望郷であろう。つまり、冒頭に書いた、アメリカらしいアメリカを支えていたもの、アメリカの一階部分への望郷である。 (「アメリカの一階部分」については、「資料―法大EC2006第5回講座資料」をご参照いただきたい。)