岩見沢にて。

午前5時30分起床。岩見沢はくもり。

昨晩は、岩見沢建設協会で、IT化のための、ステップ・アップ勉強会であった――その反省は後程書きたい、と思う――。午後六時から八時三十分迄。参加いただいた皆様、大変お疲れ様でした。

昨日、新千歳空港に着いた時、気温は18℃しかなかった。午後三時半過ぎのことである。湿度も低いので、蒸し暑さを感じる浅草から移動してきた私は、涼しさを超え、寒ささえ感じた。しかし七月二十二日なのである。北海道でも、盛夏でなくてはならない時期なのにだ。

今年は、全国的に、日照時間が少ないらしい。浅草に居てもそれは感じる。この戯言の書き出しも、「晴れ」と記述することが少ない。発達した梅雨前線による豪雨が、それを象徴しているかのように。

自然に対して、なにかがおかしい、と云うのは、そもそも間違っているのかもしれない。自然は神である。神であるなら、人間があれこれ云えるものではない。

しかしその神は、人間と共存できる神であるはずだ――現に人類はこうして生存してきた――。時には荒ぶり、時には恵みをもたらす。土木の技術、建築の技術は、本来、その共存の技術と云えるものだろう。

今回の集中豪雨や、例えば地震のように、自然は、時に、荒ぶる神である。その脅威から、われわれは身を守る術を、外部技術として――つまりミーム――として蓄積してきた(過去把持)。建設の技術とは、自然と云う神との共存のプロセスであろう。

それを否定して、こころだけ動物化しても、われわれはもはや野生ではない。コンビニを自分の冷蔵庫のように使い、心地のよい子宮(自宅)で、ゲームやDVDを観賞するのは、もはや野生ではない。その野生ではない、われわれは、何をもって、自然と共存しようと云うのだろうか。

それは、「技術」でしかないだろう。その「技術」とは、(不合理性さえ孕んだ)神との対話の術を持った技術である。人はそれをカンとか直感とか直観と呼んできた。公共事業という産業は、少なくともそれを忘れてはならない。合理性に無自覚にひざまずいてはならない。神との会話の術を忘れてはならない。

そして、世間にある、公共事業に対するナイーブは否定とは、自然との共存の術を忘れた、神を忘れた、驕れる人間の"こころ"のように、私は、思う。

と云うことで、これから朝食をとり、帰り仕度である。