隅田川花火大会。

午前3時40分起床。浅草はくもり。

別に早起きしたわけではなく、目が覚めてしまったのだ(眠るにも体力がいる、と云うのは本当のことのようだ)。

隅田川の花火大会

隅田川の花火大会昨晩の浅草は、隅田川の花火大会で賑わった。例年だと90万人程の人出になるのだが、昨晩はどうであったろうか。日中は、かなり賑やかな浅草だったが。  

浅草は、なにも生産しない街である。

ここにあるのは、子宮的再生産装置の浅草寺だけである(これについては、ブログの方でもまとめたいと思う)。

集客システム

この花火大会は、そんな無の周縁に生きる方々のための集客システムなのである。

浅草は、絶えずイベントを繰り返し、浅草寺の集客システムに増幅をかけている。そうして人を惹きつけ、お金を落としていただき、生活を成り立たせている公界なのである。

蕩尽(とうじん)

花火は、バタイユ的にいえば、蕩尽だろう。採算の取れないことに、お金を湯水のように使う。それは、経済合理的には馬鹿のやることだろうが、馬鹿がいなくなったら、世の中はつまらない。その馬鹿のおかげで浅草は活気付くのである。

少なからず浅草にはお金は落ちる。浅草地元経済は回る。

最近は、地方の花火大会は、縮小や、取り止めになっている処が多い、と聞く。世知辛い時代である。投資効果とか、収支のバランスとか、勘定が細かすぎて、おおようでない――これを世知辛いというのだが――。

だからアリとキリギリスの教訓宜しく、明日の生活を考えてしまうような状況では、馬鹿はできない。

希望

つまり、馬鹿ができる環境は、悪いものではない。それはなによりも希望がある、ということだ。明日はなんとかなるさ、が機能する、つまり希望のかけらがある。希望がなければ馬鹿はできない。

江戸っ子は、宵越しの金は持たないわけだが、それは金はなくとも何とかなるさ、が機能する、ということでもある。

地方の衰退と花火大会の縮小

地方における花火大会の衰退は、地方は疲弊を象徴しているのだろうが、それは、負のスパイラルとなるだろう――公共投資のあり方とよく似ている。

公共投資に対しては、北風が吹いている。曰く、投資効果がない。しかしその効果が出ないのは、お金が地元に回らないような投資だからだろう。

お金は使わなければ回らない。その使い方は、蕩尽のようなものもある。しかしそれが地元に落ちるのであれば、地元経済は回る。すなわち、パトリ・ケインズ経済学である。(笑)

ということで、今日はパトリ・足利へ。