バロックの館―モナド

ライプニッツ的個

「襞によって変化をつけた布」を張りめぐらせた閉じた個室

「いくらかの小さい開口部のある共同の部屋:五感

バロックの館
(アレゴリー)

(ジル・ドゥールーズ:『襞―ライプニッツとバロック』:p11)

バロックの館


単子(モナド)と同じように、そのような個体にはいわば「窓がない」。異なる個体同士を包摂して、そこにコミュニケーションを実現してくれるような、一切の安易な回路はそこにははじめから存在してはいない。このような個体性を、外延として表現してみれば、それはまさしく「点」にほかならない。このような点には、もちろんのこと窓とてなく、点と点を結びつける媒質も、想像界によらないかぎりは、現実(リアル)としてはない。(中沢新一:『フィロソフィア・ヤポニカ』:p321)

「桃語」的な使用方法

つまり〈私〉は如何にして〈私〉であるのか、〈個〉はいかにして〈個〉であるのか、そして〈私〉が〈他者〉とつながる(コミュニケーションする)ということはどういうことなのか、そして会社や協会(職業)や地域社会という中景はどうあるべきなのかを考える際に使用している。

バロックの館これの 最初のインスピレーションは、ライプニッツの「モナド」からのものだが、例によって勝手に拡大解釈して使っている。(笑)

まず〈私〉がかけがえのない〈私〉であるためには、〈私〉が〈種〉に溶けずにいなくてはならない――その意味で〈私〉は窓の無い二階部分である――。

しかしそれを可能にするのは〈個〉と〈種〉(一階部分)の矛盾的な関係である。であればそこには〈個〉と〈種〉の相互作用的な変化をみることができるだろう――「種の論理」――。しかしその変化を可能としているのは、まず依って立つ大地としての一階部分(〈種〉)があってこそなのだというのが私の考え方である。

つまり〈個〉(〈私〉)は、すくなくとも〈種〉から生まれてくる(つまり矛盾を抱えて生まれてくる)。それは難しい理解ではない。たとえば、「桃語:キアスム」で書いた職業的な一人前を読んでもらえればよいだろう。この一階部分を象徴とか中景とか〈種〉と(私は)よんでいて、私のIT化はまず最初にこの一階部分のためのものとなる。

バロックの館のトポロジー

つまりトポロジー的には下の図のようになる。これが意味しているところは、一階と二階を含めて〈私〉だということであり。一階と二階を含めて〈種〉であるということだ。つまり個は種のミームの中で育ち、また種は個の変化によるミームの変化を内包している

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(図:中沢新一:『芸術人類学』:p91)  

〈私〉がかけがえのない〈私〉であるということは、〈私〉はトーラスとしての円環である。しかし〈私〉が仕事や表現を通じて〈私〉であるとき、〈私〉は外とつながっている。その外とつながる窓のある一階部分がメビウスの帯である。

つまり〈私〉が〈私〉であるというとき依って立つ大地としての一階部分はなくてはならないものだ。そしてその一階部分は、外とつながるための窓をあけておく必要があるだろう。その窓のトポロジーはメビウスの帯でありキアスムでありひねりである。

であれば、窓をあけるのは〈私〉でしかない。つまりキアスム的なひねりは〈私〉がおこなうものだ。そのことによって〈種〉(会社、協会、地域社会)もまた窓をあけることが可能となる(つまり変化する)――であれば経営者の仕事は社員にひねりための環境をつくりだしてやることでしかない――。

種に溶けないこと

こう云ってしまうと、〈私〉とは〈種〉であり〈種〉とは〈私〉であるという云い方も可能になってしまうのだが――まさに可能でなのあり全体主義的な発想はここから生まれやすい――、大事なことは、〈私〉がかけがえのない〈個〉であるという意味では〈私〉は閉じている――トーラス=窓のない二階――ということだ。つまり〈私〉が〈種〉に溶けてはならない。

それには、「考える技術」と私が呼ぶもの、キアスム的なひねり、バイロジックの実装は――必要不可欠なのだと、(私は)思う。それは「全人格をもって出来事を引き受ける」ことでもある。出来事とは一階部分つまり五感で感じるものである。

一階部分と象徴界

つまり「種の論理」は、一階部分が国家でなくてなならないなどと云っているのではない。地政学的に云えばせいぜいパトリで十分であろう――国家は〈類〉でなくてはならない――。それが私の地域再生の基本的な考え方だ。

一階部分とは、理想的には職業的種基体や地域的種的基体である。かつては予定調和のようにそれらが象徴界を埋めていた――象徴や中景や種とて機能していた――。しかしそれはいまや絶滅危惧種でしかないのもたしかだ(中景の喪失)。

しかし斉藤環がいうように、象徴界はなくなりはしないのなら、そして、であれば、Web2.0の時代に象徴界を埋めているものはなにかと考えることで、この時代の概観(つまり環境)をつかまえようと試みている――ベルナール・スティグレールの仕事(『象徴の貧困』)とはそんな試みなのだと理解している――。

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つまり、いまの時代にも通用する種的基体(会社や協会や地域社会)を考えなくてはならない。それはキアスムでいう、「現実を全人格を賭けて受け入れる」ためにである――経営(IT化)=環境×原理

当サイト内での使用例(一部)

参考文献