『桃論』:建設業の種的信頼。

桃論ひできさんが、ご自身のブログ―KEN: (仮称)建築屋の社長ブログ 「建設業の信頼とは?」で、『桃論』について書いてくださった。

この本を書いた当事者とすれば、とても嬉しく、そしてありがたいことだと感謝している。

桃論』は既に過去の書物でしかない。いまやAmazonのロングテールの一画を成しているに過ぎないものだ。

しかしひできさんが書いてくださったように、いまという時代に、まだ読まれる価値は(少しは)あるのかも知れない。

その内容は、2002年の時点では(多くの方々には)実感としてとらえきれなかったのだろうと思う。

だからといって、いまの時点で通用するとも思ってはいない――その実践の多くは、いまでは遅すぎる――。

なにしろ主題は「信頼」――いまの私の語彙では「種的信頼」――であり、建設業の「信頼」は地に落ちてしまっているからだ。

「信頼」はまるで空気のようなものだが、それは自然には生まれてくるものではない。

建設業界は「信頼」(「種的信頼」――ソーシャルキャピタル――)を、空気のようなもの――自然にあるもの――と勘違いしてきた。

建設業界は「種的信頼」を大切に扱ってこなかった(というかその存在にさえ気付かなかったのかもしれない)。

そして建設業界の信頼はいまや絶滅危惧種なのである。

いったん失った「信頼」も「自然」も、その回復には多大な労力(エネルギー)を必要とする――絶滅した種はよみがえらないように――。

どうしようもないことに、経済的な取引においてさえ、「信頼」はメタ情報――空気のようにかけがえのないもの――であることは、いまもむかしも変わらない。

しかし『桃論』は、それを伝え切れなかった。

その表現においてコミュニケーション接続に失敗していると素直に反省している。

が、「信頼」のメタ情報性についてはいまも考えは変わらない。「信頼」は(コミュニケーションの)複雑性を縮減する。

私がこのブログに日々書いていることは、「種的信頼」(地域に根ざした信頼、職業的な信頼)に収斂されてしまうだろう。

私自身を含めて建設屋の社長は「地元のお陰で」とか「地元のために」とか公の場所で口にします。しかし、本当にどれだけこの信頼によって自分の商売が成り立っていることを自覚しているでしょうか?(引用:「建設業の信頼とは?」

私たちは、建設業の信頼は、地に落ちてしまった、という処からはじめなくてはならない。

そのことを自覚しなくてはならない。

であればそこにはキアスム的転換が可能となる――不信から信頼への転換として――。

まずは自覚なのだと思う。つまり自分というもの(機能)を自覚することなのだと思う。

だからまた自己言及が必要なのだと書いてしまうのは、それが「全人格をもって出来事を引き受ける」というキアスムのはじまりでもあるからだ。

ということで、いまは(仮称)『桃論Ⅱ』を書いてはいる。だが、ぜんぜんはかどらないし心はほとんど折れている。

私の場合、ブログにごちゃごちゃ書いていた方がお似合いなのかな、と最近はつくづくと思うのだ。(笑)