「街的」ということ。

午前5時起床。浅草はくもり。目の調子はまだ戻らず、意外と梃子摺っている。完治するには時間がかかりそうだ。

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「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ「街的」ということ――お好み焼き屋は街の学校だ

江 弘毅(著)
2006年8月20日
講談社
720円+税

「地元」というのは、まさに自分が立っている地面そのものの範疇の場所で、いつも「自分」に含まれている。(江弘毅:『「街的」ということ』:p24-25)

こんなフレーズは、よほど思考の軸がしっかりとしていないと書けるわけがない。

私はこのフレーズをもってこの本(つまり著者である江弘毅氏)を信頼することとした。 バロックの館

「街的」とは、私的文法(桃語)では「バロックの館」のことだ。

つまり『自分が立っている地面そのものの範疇の場所で、いつも「自分」に含まれている』。つまり身体性を伴った――生活する――〈私〉のことである。

それはまた「浅草的」でもあり、「パトリ」でもあり、アジール性をもった「中景」でもある。つまり、「街的」とは、

寿司と洋食と蕎麦は、近所のがいちばんうまい。

と云うことだが、これが記号としてしか伝わらないのも事実で、私にとってこの説明はなんとも悩ましいものなのである。それは、

日の高いうちから居酒屋浩司でスジの煮込みでホッピーを飲んでいる。

ということが、なぜ浅草では罷り通るのかを説明しなくてはならないようなものである。

こんなことを説明するのに四苦八苦している奴はあんまし居ないだろうなとは思っていたが、それが居たのだ――それがつまりこの本の著者である。

この本では、その真っ黒くろすけのような、見える人には見えるが、見えない人にはぜったいに見えない――このぜったいに見えない奴を「いなかもの」という――という厄介なものを、具体例を示しながら説明を試みている。

その具体例は江さんのパトリである京阪神のものではあるが――彼の絶対パトリは岸和田だが――、たぶんここに書かれていることは全国津々浦々に同じようにまだ生き残っているはずである。多くの場合それは非合理性さえ孕みながらだ。

僕の日常は貴方の非日常。

つまり「街的」とは、己の立ち位置であり、強烈なバイナリーコード(二項操作法)を持った生き方なのである。〈街的/非街的〉、〈日常/非日常〉、〈浅草的/非浅草的〉、〈パトリ/非パトリ〉。

この感覚(街的)がなければ(理解できなければ)、地域再生なんていうのは砂上の楼閣にしか過ぎないと私は思っているわけで――つまりパトリじゃないものをパトリとして感じることはできない――、私としてはたくさんの方に読んでもらいたい本だと思っている。