モンティ・ホール・ジレンマとバイロジック
午前6時57分起床。浅草はくもり。今朝は突拍子もない問題から。
問題:
A、B、C、3つのドアがあり、当たりは1つだけである。ドアを1つ選ぶと、残りの2つのドアのうちはずれの方が知らされる。そして、最初の選択を変更するチャンスが与えられるとする。
では、最初にAのドアを選択したとして、いまCのドアがはずれだと分かった場合、ドアの選択を変更した方がよいのか、それとも変更しない方がよいのだろうか。
正解は「変更しなさい」である。
ん?と思った方が多いのではないだろうか。 私の最初の答えも「変えない」であった。なぜなら、Cははずれだとわかった段階で、残りふたつのどちらかが正解である確率は1/2であろうと……。であれば変更しない方が当たりそうな気がする……。(笑)
しかし、数学的に云えば違うのだ。まず最初にAを選択したとき、Aが当たるは確率は1/3である。そしてBまたはCが当たる確率は2/3である。そしてCははずれであることがわかった。であればBが当たる確率は2/3になり、選択を変えた方がよいことになるわけだ。(↓)の表で考えてみてほしい。
A | B | C | |
1 | 当たり | はずれ | はずれ |
2 | はずれ | 当たり | はずれ |
3 | はずれ | はずれ | 当たり |
出展:『行動経済学』 友野典男 2006年5月20日 光文社 950円+税
私と同じ選択(「変えない」)をした方は多いと思う。それは直観や感情という非合理性と、数学的な知識(科学的、合理的性)のハイブリッドとしてのものだろう。つまり「えいや!」ではあるが、ちゃんと(しかも中途半端に)確率1/2ぐらいは知っているという、そこそこの合理性を直観のように使ったわけだ。(笑)
だから厳密にいえば間違っている。でもこれが日常というものじゃないだろうか。つまりわたしたちは、いちいち厳密な確率計算なんかしていないし、それでも合理的だと思って(結局は)直観で生きている。だからといってなにか特別困ったこともない。
ではなぜそれが可能なのだろうか。それは身体で覚えたもの(経験とか知識:結晶知能)があるからだ。これを二重フィルタ理論では、システム1というのだけれども、それは直観や感情が支配する場所で、動物にも人間にもあるものだ。それに対して科学的とか論理的とかいう合理性をシステム2というのだけれども、これは後天的に身につけたものだ。
このシステム1をシステム2のレベルまで沈殿させることを身体で覚えるという――職人的技術とか、スポーツ選手の技術とか、年の功とか、勉強して身につけたものはこれだね――。つまりバイロジック(中沢新一のいう意味で)である。
たとえば今回はモンティ・ホール・ジレンマという科学的な?知識(システム2)を知ったので(それがシステム1のレベルまで沈殿していれば)次に同じような選択をしなくてはならないときには、それを使って当たりの確率を上げることができる(かもしれない)。
その確率を上げることを(私は)骰子一擲と呼んでいる。骰子一擲は偶然性を破棄しない。つまり偶然性を孕んだ確率向上がバイロジックであり、それは日常のものだということだ。
であれば、ちょっと効率よく仕事をしようと思うのなら、バイロジックを鍛えればよいことは(なんとなく)わかるだろう。それは合理性の追求だけでは得られないが、かといって合理性を否定しても得られない。鍛えるのは非合理性(システム1)なのだが、非合理性を鍛えるには合理性も要る。つまり非合理に合理を上書きする。
これが2006年9月11日サイボウズセミナー(東京独演会)のメインテーマであって、つまりそれは、バイロジックの実装――システム2をシステム1のレベルまで沈殿させること――をIT化のレベルで考えてみるということ.だ。つまりは、まあこんな話ですので、お気軽においでくださいませ、ということ。しかも無料だし。(笑)
コメント
タロサ
ボクの場合。
自分のクジ運の無さを自覚しているので、最初に自分が選んだドアは確実にハズレだろうから、変更すると思われます(爆)
it1127
momoさん こんにちは。
半日悩み(楽しみ!?)ました(笑)。
>鍛えるのは非合理性(システムⅠ)なのだが、非合理性を鍛えるには合理性も要る。つまり非合理に合理を上書きする。
これは理解も納得もできました。非合理というのは、合理の繰り返しによって沈殿したものなんですね。そういう意味で、理解はできるが納得できないのが、モンティ・ホール・ジレンマの問題。
どうしても確率1/2のバカの壁から抜け出れません。なぜ直観が確率2/3ではなく確率1/2と間違ってしまうのか?
きっと、日常生活で経験するのはモンティ・ホール・ジレンマのような問題ではなく、二者択一の五分五分の問題が多く、それに慣れ親しんでいる結果なのかなと思った次第。
もし、モンティ・ホール・ジレンマの問題が、
「100個のドアがあり、当たりは1つだけである。ドアを1つ選ぶと、残りのドアのうち98個のはずれのドアが知らされる。そして、最初の選択を変更するチャンスが与えられるとする。」
であったなら、多分、「選択を変えた方が得」という直観が正しく働いたのではないかと思います。
it1127
それから、
>バイロジックの実装――システムⅡをシステムⅠのレベルまで沈殿させること
非常に興味深いテーマなのに、体調がいま一つで参加できないのが残念です。ご紹介の「行動経済学」は是日読んでみようと思います。ちょうど、「オデッセウスの鎖」とかに興味があったので今回のテーマはタイミング的にばっちりでした(笑)。
momo
タロサ>
タロサの云っていることも一理あるね。それもバイアスのひとつなんだけれど経験から学んでいるわっけね。でもたぶんそれも気のせいだよ。(笑)
momo
>it1127さん
コメントありがとうございます。行動経済学はカーネマンがノーベル賞もらちゃって一躍脚光を浴びたものですが、要は新古典主義の経済学(たとえば竹中平蔵氏の立場)が想定する「経済人」なんてありえないってことの論証から始まっているのだと思います。
そのありえない「経済人」を想定して経済政策をやられたらたまらないわけで、私はずっとそれを批判してきましいたた。
それは、厳密に間違っているよりは、大雑把に正しい方が役に立つのだというようなものですが。(笑)
まあ、そのおかげで社会心理学とか、進化心理学とか色々とかじる羽目になってしまったのですが、それはそれで学際的でおもしろいのですね。飽きません。(笑)