公共財ゲーム

公共財ゲーム

「公共財ゲーム」は桃語的には使われてはいない。しかし今後多用しそうな言葉なので、あらかじめ「桃語」に登録しておくことにした。

公共財ゲームは皆で力を合わせて仕事をすれば大きな成果が得られるが、誰もが他者の働きに期待して怠ける(フリーライドしようとする)誘因がある状況をつくりだし、人間の行動をみようとする実験(ゲーム)で、「囚人のジレンマゲーム」の多人数版であり、より社会的なゲームである。

ルール

たとえば4人でグループをつくり、初期値として各人は1000円づつ与えられる。各人は1000円のうちいくらをグループ(公共)のために支出(貢献)するかを決める。実験者は各人の公共への貢献額を合計し、たとえばそれを2倍して、それを全員に均等に配分する。

例1:各自が400円ずつ貢献する。合計は1600円になり、その2倍の3200円を4人に均等に配布する。各人は配分の800円と手持ちの600円で合計1400円を保有することになり、このときこのグループ全体の保有額は5400円になる。

例2:1人が全く貢献せずに、他の3人が全額貢献する。配分額合計は3000円×2=6000円になり、各人への配分は6000円÷4=1500円で、貢献しない1人の保有額が2500円になり、このような「ただ乗り」(フリーライド)は魅力的である。このときグループ全体の保有額は7000円になる。

例3:1人が手持ちの1000円を全額貢献する。他の3人は0円の場合。配分額合計は1000円×2=2000円になり、各人への配分は2000円÷4=500円になる。全額貢献した1人の保有額は初期値より減ってしまうが、他の3人は500円ずつ増える。グループ全体の保有額は5000円になる。

つまりだれもがフリーライダーになる誘因をもつ。

例4:全員が全額を貢献する。配分額合計は4000円×2=8000円になり、各人への配分は8000円÷4=2000円で、各人が2000円の保有額になる。グループ全体の保有額は8000円で、フリーライダーがいる場合より大きくなる。

例5:全員がフリーライドする(他者の貢献をあてにして貢献しない)。配分は0円であるので、各人の保有額は初期値1000円のままであり、当然にグループ全体の保有額も4000円のままである。

結果

公共財ゲームでは、おおよそ次のような結果が得られる。

毎回違うメンバーと10回繰り返しおこなうと、初回は平均して初期保有額の30~40%の貢献という協力行動が見られるが、協力の度合いは次第に減少して、10回目には10%にまで落ち込む。

同じメンバーでおこなう場合でも、最初は50%という大きな協力が見られるが、やはり協力は次第に減少し、最終回では15%まで減少する。つまり、協力関係というのはほっておけば低下する。

条件付協力

実験では、約半数は他の人も協力するなら自分も協力するという行動をとる。つまりは、相補均衡をもたらす相互依存関係的行動なのだけれども、それもじつは完全ではなく、多くは他のメンバーの貢献額(の予想値)の平均値よりやや低い額の貢献をする。

これを「条件付協力」と呼ぶのだが、この弱い条件付協力者とと利己的行動をとる人(約30%はフリーライダーになる)が約80%を占めているわけで、繰り返しの状況では、協力関係は次第に衰退しやがて崩壊する。

公平

では協力関係はどうすれば成立し、何によって維持されるのだろうかと云えば、これがまずは「公平」であること。つまり不平等回避性が働くわけで、自分と他者の利得がなるべく小さいことで公平と見なす。

ただこの他者とは一般的な他者ではなく、

……自分と関わりの深い周りにいる人のことである。地域社会や勤務先、学校などの同僚、友人、知人なのどの人々のことである。(友野典男:『行動経済学』:p291)

なわけで、この関わりの深い他者を「参照グループ」というのだが、それはつまりは「中景」のことだ。 TVでお金持ちの生活を見ても別にうらやましとも思わないが、わたしたちは、いつでも「隣の芝生は青い」のである。

処罰

そして協力関係を維持するもうひとつのものが「処罰」なのだ。公共財ゲームでも処罰を導入すると協力関係は劇的に上昇することが知られている、

ただこの「処罰」だけれども、「公平」でも見たように、いちばん身近な(実生活と関わる)システム(中景・組織)とのかかわりが大きい。

共同体モデル(中景)

たとえば古い共同体モデルであれば、そこでは村八分的な処罰が有効に機能するだろう。古い談合モデルでは、(一般的他者に位置に存在する)独禁法という法律よりも、むしろ中景内の針千本マシンが強く機能することで、そのシステムの協力関係を維持しようとする――協力の誘因が利己的であり、それは仕事の配分をする人(機能)を裏切らないことであって、裏切ればしっぺ返しがあるし自己の損失が増えると考える――。

つまりある種のシステム的、中景的な処罰は、一次フィルター的に協力関係の維持に機能するのだろうが、それはじつは弱い条件付協力者やフリーライドなどの、利己的な理由が多いのも事実なので、いったん外的な審級(独禁法の発動)が発動されると中景的協力関係(安心)――下の図の第四象限――は簡単に壊れてしまう。 それがグローバルなものであれば尚更であろう。

中景(安心)の貧困

quadrants.jpg中景的協力関係(安心)は、法律という合理性から見れば、非合理性にしか見えない。しかし当事者間では実践合理性として機能しているわけで、ましてやわれわれの関心は「参照グループ」にしかないのであれば、それはそれでなにか意味があるわけだ。

しかし中景的機能を重視しないいまの時代の政策では、第三者の審級としての法律こそが、協力を維持する「処罰」として振舞うことになる。しかし多くの共同体においては、それは中景的協力関係(安心)を破壊するものであることで、いまの経済システムに乗れない中景(地方)は、疲弊と混沌の時代とななっているのだと(私は)思う。

つまり、私たちは中景的な安心感を恋しがりながらも、むりやり一般的な信頼を強要されているわけだ。これは精神的にはかなり辛いものだと思う。それははたして(将来的に)高くつくものなのか、それとも安上がりなのだろうか――つまりわれわれは仮説の中で右往左往してきた。その象徴が前長野県知事だったということだろう――。

参考文献

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行動経済学 経済は「感情」で動いている

友野典男(著)
2006年5月20日
光文社
950円+税