言語矛盾:ボランティア活動を義務付ける。

午前5時起床。盛岡は晴れ。一昨日、14日の盛岡のホテルを予約しようと、いつものように「旅窓」で検索したら、見事にひとつしか部屋は空いていなくて、急ぎ予約をした。盛岡で学会でもあるのかなと思っていたら、昨日その原因がはっきりした。(↓)である。

開店準備の方々が全国から盛岡に押し寄せているようだ。

街的」――私のことばでは、「浅草的」若しくはアジール性を孕んだパトリ――とは、なによりも店に宿る。

日本という国は公務員の数は少ない。政策も荒っぽい。しかしまがりなりにもそれで成果を得てきたのは、「中景」(家庭、会社、地域社会、地元商店街、事業者団体等)が機能してきたからだ。しかしそれはいまやクローンばかりの絶滅危惧種である――その消えゆくものへの愛おしさを、私は「浅草的」として書き続けようと、このブログを続けている――。

盛岡のイオン系大規模ショッピングセンターはふたつめである。私的には、盛岡という稀有な「街的」を壊すものがまたひとつできたとしか思えないのだが、「消費者」は「選択肢が増えてうれしい」のだろう。素晴らしい自由の国だ。

ところで、TVを見ていたら、安倍官房長官が教育改革にふれて、大学の入学は9月からにしようと、そして入学までの間ボランティア活動を義務付けようと云っておられた。

「ボランティア活動を義務付ける」は言語矛盾である。いまや自発性さえ義務付けしなくては機能しない国なのだろうか。戦後民主主義の成れの果てがこれだとしたら、かなり怖い。