飲酒運転と中景(飲酒運転は止めようぜ)

午前6時30分起床。浅草はくもり。

飲酒運転を容認した同乗者には責任があると思う。90%
お酒を提供した飲食店にも責任があると思う。60%

流しっぱなしのTVからはこんな話題が流れていた。

これが、あのとき「自己責任」を云っていた大衆の意識というものだろうか、と私は苦笑してしまったのだが、勿論私も、同乗者にも飲食店にも責任はあるべきだと思う。

それは、この国には良質のソーシャル・キャピタル(社会資本)が必要なことを示唆しているにすぎない。つまり中景が機能しなければいたずらに秩序が乱れてしまう国なのだ。

ジャック・ラカンが、日本人には精神分析が必要ない、と云ったことを思い出してみれば、日本語の構造的に、われわれはパロールにおいて無意識が露呈している。

それをもって、近代化先進国からみれば、この国は近代の未熟であり、個人の概念も未熟でしかない――つまり自己責任なんてありもしない――、と云うことだろう(だからと云ってわれわれが創造性において欧米から劣らないことは、今年の法大ECのテーマであった――。

それを前提としてシステム(法律・政策等)は設計されるべきで、米国の受け売りのよなものをただ並べただけでは、社会的なコストはいたずらに高まるだけだろう。

飲酒運転は止めようぜ!と何の外連味も無く私は云ってしまうが、それは私が車を運転しないからだけれども、それ以上に車に轢かれるのは嫌だからだわ。(笑)