チロルチョコの大人買い。

チロルチョコ午前6時起床、浅草はくもり。今日は北大の山岸俊男教授との打合せの為札幌へ飛んできた。

新千歳空港の宮越屋珈琲にて一服しようとしたら、新千歳空港の飲食街は全面的に禁煙になってしまっていて 今はホテルにチェックインして喫煙&時間調整中である。

札幌は雨上がりのくもり。十分に寒い。(笑) 

さて、先週のかっぱ橋道具まつりのとき、川原商店でチロルチョコを1箱大人買いしたのだが――1箱840円であるが金額は問題ではない――、その存在をすっかり忘れていた。

チロルチョコそのときは確かに欲しかったはずなのに、あれから1週間、その存在は私のなかではどうでもよくなっていたわけだ。

昨晩、お菓子箱――内にはお菓子箱がある――から引っ張り出してそれを眺めていたら、食べたくなったので食べてみたけれど、(おいしいなとは思うが)べつに嬉しくもなんともない。

ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起こるのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。(スラヴォイ・ジジェク:『斜めから見る』:p27)

私が子供の頃、まだこの国は貧しかったし、私は自由にチョコレートが買える環境にはなかった。大人買いは、その欠乏の反動のようなものえあることは自覚している。つまり私の〈現実界〉にはチョコレートの穴があいている。(笑)

しかしチロルチョコの発売は1979年であって、私はその頃既に学生であり、チロルチョコが欲しくてじたばたした覚えはないのである。 つまり私はチロルチョコが欲しかったわけではないのだ。

でもなぜ私はチロルチョコにじたばたしたのだろう。

それもその対象を手に入れてしまった途端――対象に近づきすぎて欠如そのものを失いそうになった途端、対象への欲望はどこかに消えてしまうような、だからといってこころが満たされるわけでもないような。

なぜなら〈対象a〉とは、まさにその歪曲の、つまり、欲望によっていわゆる「客観的現実」の中へと導入された混乱と錯綜の剰余の、具現化・物質化以上の何物でもないのである。〈対象a〉は客観的には無である。だがそれは、ある角度から見ると「何か」の形をとってあらわれる。(スラヴォイ・ジジェク:『斜めから見る』:p35)

そう、だから私はまた何かを大人買いするのかもしれないし、しないかもしれない。私の心の穴にはモノに対する欠乏が渦巻いている。それがどんな形で表出してしまうのかは自分ではわからない。

しかしそれさえ、以前に比べたらおとなしくなった(と私は思う)。つまり48年も生きていればモノ的欠乏への復讐も、諦めがついてきたのだろう。

つまり、何を買ってもこころは満たされない。 

想像界しかしまだおさまらないものはあって、それは「つながりたい」という気持ちなのだ(と思う)。

だいたいチロルチョコをブログの題材にすること自体がその欲望の表出みたいなもじゃないか。

私は自分の中の子供を自覚はしていて、つまりチロルチョコを欲しがったのもそいつなのだが、そいつは「つながりたい」というもっと根源的な欲望を持っている。

つまりその欲望の前では、消費はたんなる手段に過ぎない。

やっぱり〈想像界〉で、ただつながっていたいと思っている。へその緒のようにインターネットにつながっている子供である。(これが悪口じゃないことは「法大EC:考える技術講座」を読んでいただければわかるとは思う)。