浅草は利己的な街なのである。だからこそ戦略的に利他的なのである。

午前7時起床。浅草はくもり。深夜うちのマンションで事件があって、外は朝から騒がしいのだけれども、私は今日の独演会の構想で(いまだに)じたばたしているのである。

ミーム的に集団主義じゃない

今日の独演会の結論じみたものを書いてしまえば、正直は最大の戦略である。日本人は遺伝子的に(ミーム的に)共同体性が必要なのである。ということになってしまうのだが、特に後者は異論を訴えるひとは多いだろうなと思う。

それはもうほとんど開き直りなのかもしれないれど、昨夜書いた『12月9日に大阪で講演いただく江さんからのコメントは「ビールな実存」だ。』にもあるように、日本人はそう出来ているとしか思えないのである。

それは例えば、山岸俊男先生が、日本人は実験してみると集団主義じゃないのよ、ということが大きなヒントになっている。

――ちなみに、「ビールな実存だ」は、今日の独演会の構成を考えている最中に書いたので、今日の独演会の内容を色濃く反映している(と思う)。

利己的な日本人のための共同体性

利己的に出来ている日本人は、その弱点を補いながら、つまり利他戦略の方が適応度は高いので、利他性の戦略をとるようになった、と(私は)思う。

それにはパトリ(共同体性)は必要不可欠なのであって(そこには情動・悲哀の愛が機能している)、それを否定してしまう資本の運動にただ流されることは、日本人としての弱みの露顕でしかない。

私は日本人はとても利己的な特性を持つ人々なのだと思う。

浅草は利己的な街である

浅草をして皆さんは、日本人の人情が残っている、とかいわれるけれども、けっしてそんなことはなくて、浅草は利己的な街なのである。

だからこそ、みんながよってたかってたずさわれるもの祭り)をでっちあげ、迷宮的な中心(浅草寺)もでっちあげ、その子宮的構造をみんなでよってたかって大事にしている。

それゆえに、浅草はパトリとして機能していているのだと(私は)考えている。

パトリ(中景)は、ほっておけば崩壊してしまうのはゲーム理論では自明のことでしかない(「公共財ゲーム」 を参照のこと)。それは、それは育み、培わねばならないものなのだ。つまり、「機械アルモノハ必ず機事アリ。しかし欲望をあきらめてはならない。」のである。

パトリを失えば利己性は加速する

それを、グローバル化や市場原理主義や個人主義の強調が加速している今という時代に、欧米流へのナイーブな追随だけで解決しようとしても、できるわけはないのだ。

なぜなら、欧米流は、われわれよりも集団主義的なのであり、信頼しやすい特性を持っているのである、というのが山岸俊男先生に教わった最も理解しにくい指摘だったわけじゃないか。

パトリを失った日本人は、とても利己的にふるまうのである。だから、無意識的な協調戦略が取れないような政策は、その社会的な環境を助長する。

そして利己性ばかりが溢れることになり(公共事業の低価格入札はその典型だろう)、それが今と云う時代の問題なのだと(私は)思うわけだし、そのことに対しては、開き直った戦略を考え続けたいと思っている。