おばねの漬物ぺそら漬けで朝ごはんを食べた。(山形県尾花沢市)

06102201.JPG午前6時起床。浅草はくもり。写真はぺそら漬けという、山形県は尾花沢のパトリ的漬物で、大山さんからいただいたものだ。今朝はこれでご飯を食べてみた。おばねとは尾花沢のことらしい。

大山さんによると、これはぺちょら漬けとも呼ばれているらしく、ぺちょらとはおおぴらには書けないものであるらしい。私の想像では、子宮的構造の雷門のことかなと思ったりしているが、違うのかもしれない。

06102201 (2).JPGこの漬物の正体は茄子であって、なぜかわざわざ脱色してから漬けてあるので、ちょっと見た目はなんだかわからない。

袋に入っているときから唐辛子の多さが際立っていて、実際に食べてみると、塩っ辛くて、そして辛い。ひときれで、ご飯一杯いけそうな勢いがあり、尾花沢の厳しい風土(夏暑くて冬は豪雪)そのものの表現型(デザイン)であるのだろう。

ご飯はもちろん、酒にも合うだろうなと思う。(年をとってくるとこういうものがたまらなくうまくなってくる)。

尾花沢ラーメンにはこれを具に加えたものがあるらしいのだが、ネット上にはその情報はないに等しく、円環的(アジール的)に閉じているのは悪いことではないのだが、それはつまり外との接続に失敗していることであって、この時代には少々厳しい。

地域再生というのは、閉じと開きのとてつもない速さの繰り返しのようなもので(閉じながら開く、開きながら閉じる)、私はネット上ではいくら開いてもかまわない(つまり情報を発信しすぎることはない)と考えている人なので、尾花沢の皆さんにはもっと情報を発信してほしいなと思うのである。

それは地元の方々にとっては日常であっても、私(つまり他者)にとっては非日常なのだということであり、そういうものに喜びを見つける方々は世の中にたくさん居ることは、浅草に住んでいて嫌というほど知らされているからだ。

情報発信とは、発信者にとっては日常の出来事でよいのだ――たいしたものを書こうとするから書けないのである――。それは、二クラス・ルーマンのコミュニケーション定義

〈情報/伝達〉の差異の理解

つまり、君の日常は僕の非日常なのであって、その差異こそがコミュニケーション(偶有性のある接続)を作り出すということだろう。