読売巨人軍の機能不全―ファイターズの日本一は野球もようやくポストモダンに追いついたと云うことだろうか。

午前6時40分起床。浅草はくもり。

北海道日本ハムファイターズファンの皆様おめでとうございます。

野球は好きでも嫌いでもないが(その昔は好きだったけれど)、今年テレビ観戦したのはWBCと早実VS駒苫と日本シリーズの3戦からと云う体たらくなわけで、つまり熱心な野球ファンではない。TVで流れる今日の運勢の方が、野球の結果よりも重要なのである。(笑)

東京にはプロ野球球団は二つあって、それはスワローズとジャイアンツだが、どちらにも思い入れはない。ただ私の地元の子供たち向けのイベントでは、子供たちに配られるノベルティにはスワローズのものが多いで(つまりヤクルトには少しはお世話になっているので)、なにかあればスワローズを応援しようかとは思う。けれども、今年はTVでも一戦も見ていないわけだ(勿論ジャイアンツも)。

スワローズは球団名に、(たぶん今年から?)東京と云う地域名を冠したので、東京と云う(曖昧な)パトリ性を打ち出してきてはいるがその浸透は難しいだろう。東京と云うパトリはそもそも曖昧なのであり弱い紐帯でしかない。浅草浅草寺スワローズならはなしは別だが……(笑)。

でもスワローズはぜんぜん良い方であって、プロ野球12球団で、地域性(つまりパトリ性)を帯びていないのは、今や読売巨人軍だけなのだろうが(つまり全国区のつもりなのだろう)――確かにその昔、その軍隊のような名前の球団は全国区だったのだろうけれども――今やそれは見る影もないぐらいに凋落している(全国的な支持を失っている)。

多くのジャイアンツファンを擁した北海道さえ、今やファイターズのものなのだろうし――北海道の方々はクールなので、それが何時までも続くのかと云えばわからないけれども……――、まあジャイアンツのオーナーの頭が古いのだろう(それはそれで悪党的で魅力的なのだけれども――巨人はどうでもいいのだが渡辺オーナーは私は好きだ)。

スポーツはパトリ化すると云っていたのは、東大の松原隆一郎教授だけれども、プロ野球も、ようやくパトリ性が前面に出てきて、(東浩紀の云う意味で)ポストモダン化に追いついてきたのかもしれない。

そしてこの特徴がポスモダン的だと言えるのは、単一の大きな社会的規範が有効性を失い、無数の小さな規範の林立に取って変わられるというその過程が、まさに、フランスの哲学者、ジャン=フランソワ・リオタールが最初に指摘した「大きな物語の凋落」に対応していると思われるからである。一八世紀末より二〇世紀半ばまで、近代国家では、成員をひとつにまとめあげるためのさまざまなシステムが整備され、その働きを前提として社会が運営されてきた。そのシステムはたとえば、思想的には人間や理性の理念として、政治的には国民国家や革命のイデオロギーとして、経済的には生産の優位として現れてきた。「大きな物語」とはそれらのシステムの総称である。(東浩紀:『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会』:p44)

つまり「大きな物語」が凋落した時代は、日本ではそれは同時に「中景」(地域に残る第四象限的紐帯)の喪失の時代であったわけだ。それはつまり、逆説的には「大きな物語」が機能するには、パトリ的な基底(中景)が必要であると云うことなのだけれども、今や(「大きな物語」が凋落した時代に)サッカーにしろ野球にしろ、パトリ性を持たせることは、至上命題のようになっている。

それは裏返せば、「大きな物語」に夢を託せる程の基底(依って立つ大地=足場)としての中景(パトリ)が消えてしまっていることに対する、人々の欲望の、延長された表現型でしかないのだと思う。