純粋贈与の原理のメモ。
午前6時30分起床。盛岡はくもり。さすがに寒さを感じる朝である。今朝は、前日のエントリー「交換の原理・贈与の原理のメモ」の続きを書こう。
後期旧石器時代の人類の心に発生した「贈与」の思考は、新石器革命による大規模な組織化をへて、一つの巨大な社会原理となったのちに、その極限に浮上してきた「純粋贈与」の思考を発展させて、さまざまな宗教の思考を生み出してきました。(中沢新一:『愛と経済のロゴス』:p72)
そして「交換」は「贈与」を母体としている、とも云うわけだ。
贈与は交換の母体でもあります。交換の原理から贈与が発生することはできませんが、贈与の原理の内部におこる微小な変化をきっかけとして、贈与とは異質な交換の原理が、その中から生まれてくるからです。(中沢新一:『愛と経済のロゴス』:p72)
(非常に乱暴な言い方になるけれど)、今、私たちを支配している「交換の原理」(資本の原理)は、「贈与の原理」を母体として生まれたものだ。そして交換の思考が生まれるためには、贈与の原理の内部におこる微小な変化のきっかっけが必要だったのである。
ではそのきっかけとはなにか、と云えば「純粋贈与」の思考なのであり、それが宗教だったと(私は)思う。 それは近代資本主義の発展には、営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が大きく貢献したのだという、マックス・ヴェーバーの仮説を私は支持している、と云うことでもあるし、ここに日本と西欧の宗教の違いと資本主義の発達の違いをみることができると思う。
■純粋贈与の原理
- 純粋贈与は贈与の循環がおこなわれる円環を飛び出してしまったところにあらわれる。それは、贈り物が贈られその返礼のしなが返されるという、モノの循環のシステムを破壊してしまう。
- 贈与では物質性をもったモノを受け取る。しかし、純粋贈与はモノを受け取ることを否定してしまう。モノの物質性や個体性は、受け渡された瞬間に破壊されることを望むようになる。
- 贈与では、贈り物がなされたことを、いつまでも人は忘れない。そのために贈与には返礼が義務となるのである。ところが純粋贈与では、贈ったことも贈られたことも、いっさいが記憶されることを望んでいない。誰が贈り物をしたのかさえ考えられないようにして、純粋な贈与はおこなわれる。それは自分がおこなった贈与に対して、いっさいの見返りを求めないのである。
- 純粋贈与は目に見えない力によってなされる。その力は物質化されない。現象化されない。最後まで隠れたまま、人間に何かを贈り続けるのである。
(中沢新一:『愛と経済のロゴス』:p63)
コメント
嵐を呼ぶ男
中沢新一さんの新刊が気になります。
「三位一体モデル TRINITY」
momo
>嵐を呼ぶ男さん
今日、錦糸町の本屋で探してみたのですがなかったです。
「青山分校! 神田出張所」
http://www.1101.com/aoyama_campus/trinity_book.html
優先のようですね。
なんかこのやり方は嫌いですわ。
嵐を呼ぶ男
東京の本屋の店頭に無いなら札幌にあるわけ無いですね。
夕方、郊外の大型書店に行きましたが、見当たらないので、
amazonで注文しました。