贈与としてのインターネット仮説。

午前7時起床。浅草はくもり。

06110100.jpg今朝も「Googleの純粋贈与仮説-普遍経済学的アプローチ。」そして「Web2.0の純粋贈与仮説」のつづきのようなものから一日をはじめようと思う。皆さんは飽きているかもしれないが、私は飽きていないのだ。(笑)

三位一体

「普遍経済学」(バタイユ)的なアプローチでは、Web2.0やGoogleが、(表面的には)三位一体の構造を持っているのじゃないのか、というのが今まで考察してきたことだった。

つまり、交換としての広告料収入を主体とした経済活動、純粋贈与としての便利なサービスの無償提供、贈与としてのインターネットのバランスよい結びつきが、今の時代に(偶有的に)生まれているのではないのか、ということだ。それは普遍経済学からみれば理想的な経営モデルだと云ってよいだろう。しかし、ここでわかりづらいのは、「贈与としてのインターネット」であって、これについてぼちぼちと考えていこうと思う。

まずは「贈与の原理」を再確認してみよう。

贈与の原理

  1. 贈り物はモノではない。モノを媒介にして、人と人との間を人格的なにかが移動しているようである。
  2. 相互信頼の気持ちを表現するかのように、お返しは適当な間隔をおいておこなわれなければならない。
  3. モノを媒介にして、不確定で決定不能な価値が動いている。そこに交換価値の思考が入り込んでくるのを、デリケートに排除することによって、贈与ははじめて可能になる。価値をつけられないもの(神仏からいただいたもの、めったに行けない外国のおみやげなどは最高である)、あまりに独特すぎて他と比較でぎないもの(自分の母親が身につけていた指輪を、恋人に贈る場合)などが、贈り物としては最高のジャンルに属する。

つまり、インターネットが(なんらかの)「贈与」の空間であるのなら、上記の原理が働いていなくてはならないのだが、はたしてそうなのだろうか。

ラカンのボロメオの結び目

06110601.jpgここで三位一体の精神分析版である、ラカンのボロメオの結び目を持ちだしてみよう。じつは「贈与-交換-純粋贈与」のモデルは「想像界-象徴界-現実界」と巧妙に対比してある(詳しくは中沢新一:『愛と経済のロゴス』をご参照いただきたい)。

「贈与」は「想像界」の位置にあたる。想像界は鏡像段階(つまり想像の世界)であり、主客未分離の状態であり、臍の緒がつながっている状態である。それを共同体性に置き換えてみれば、プレモダンの贈与を基底とした共同体のことだ。

この想像界-古い共同体の原理という人間の本性的な構図をもって、インターネットは贈与のシステムが働いている、と云うことは可能だろうが、私はそれだけでは不十分だと思うのだ。

純生産

想像界が現実界と交わるとき、そこには「女の悦楽」(他者の悦楽:皆さんが想像するアレである)が生まれる。それは例えば、古い時代の農業において、人間が献身的に自然(純粋贈与)に対しておこなう作業(贈与)から作物(純正生産)生まれる、というようなことなのだが、今の時代の純正生産とはなんだろう。

それは想像界を文字通り想像の世界と解釈すれば、少し前までは私たちの想像の世界でしかありえなかったものが、今はある程度現実化している、ということではないだろうか。

例えばウルトラマンの流星バッジは餓鬼の頃からの憧れだったけれど(私が餓鬼の頃には、家には電話さえなかった)、今や「その機能は携帯電話がいとも簡単に現実化しているという具合にだ。

つまり、(ここでは「インターネット限定」という条件はつくが)私たちの想像 imagination がWeb2.0(Google)と交わるとき、そこに創造が生まれる(純生産)。

とするとWeb2.0の本質は想像(夢)を現実化しようとする技術であり、現実界つまりは人間としての欲望ということではないだろうか。そしてインターネットにアクセスすること自体が贈与なのである――時間というリソースを費やして私たちはなんらかの見返りを得ているではないか――。

と云うことで今朝はここまで。上の考察は、物凄く片手落ちでしかないのは十分承知しているので、続きはぼちぼちと書いていこうと思う。