中沢新一の『三位一体モデル』を読んで感じたこと。

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三位一体モデル

中沢新一の最新作となる『三位一体モデル』を読んだ。

三位一体モデル(中沢新一)

三位一体モデル TRINITY

中沢新一(著)
2007年1月1日
東京糸井重里事務所
1200円+税

あまりのうすっぺらさに驚かされ、文字の大きさに助けられ(笑)、1時間もかからずに読み終えた。

思考の方法としての三位一体モデル

ボロメオの結び目私は中沢新一のファンであり、彼の主張は理解しているつもりであり、今回「三位一体モデル」と名指しされた思考方法は、(中沢新一から影響を受けるかたちで)かなり以前から私自身が活用させていただいてもいる。

このサイトをみていただければ、あらゆるところに右図が溢れている。つまりこれが「三位一体モデル」の位相(トポロジー)であり、それは「ボロメオの結び目」として、多くの方々が理解しているものだ。

その適用は、 例えば、「贈与としてのインターネット―理念モデルとしてのライプニッツ的個(モナド)つまりは田邉元の「種の論理」の確認」「公-共-私の概念―ComPus Forum で恩田守雄教授の講演を聞きながらトポロジーな思考を繰り返していた。」での思考展開のように、とても広い範囲にわたっている。

2年前に、岩井國臣先生とコラボレーションした「地域再生フォーラム」(空知建協)でも、私は「狡兎三窟のトポロジー」として、三位一体の思考方法を講演させていただいた――三位一体モデルという名指しはその頃はまだなかった――。

率直な感想

そういう私からいわせてもらえるなら、この本の内容は物足りなく、ある意味「あぶなさ」を感じた。それはこの「三位一体モデル」を思考の道具として使う場合に知っておくべき前提を端折ってしまっているということだ。

はじめてこの本で中沢新一の思想に触れる方々は、かなりの勘違いをされるのではないだろうか。最低でも、全体として経済(バタイユの普遍経済学)や、ラカンの精神分析としてのボロメオの結び目ぐらいは示しておくべきじゃないだろうか。それは糸井事務所からの発刊だし(失礼……)、その値段から中身の薄さは想定‐内のことにしか過ぎないかもしれないが、それでもあぶない端折り方をするものだなと思う。

三位一体モデル

三位一体モデル

つまりこの本で、「三位一体」のトポロジーとして示されているのは右の図(p13)だけなのだが、それはキリスト教のいう「三位一体」のことである。キリスト教のトポロジーとして父-子-聖霊の関係を示すだけなら、これでも問題はないだろう。しかし、『三つの円を書くと、何でもわかる!「三位一体」の思考モデルは、理解のためのメガネ。』(糸井茂里による前書きの標題:p4)というであるなら、これだけでは誤解を招くだろうな、という想いがぬぐえないのである。

精霊

それはまず、その位置位置関係のまずさにであり、そして聖霊は増殖するものとして表現されていることにだ。

増殖するものとしての「聖霊」が、今では「資本のシステム」(交換の原理)の生み出す価値であり、その勝手な増殖運動が、(かつてはあった)「父」や「子」とのトポロジカルなバランスを崩している、というのが、中沢新一の主張なら(私はそう理解してきたが)、聖霊を増殖するものとしていきなり示したことは正しいのだろうか。

これは、多くの方々に、資本のシステムを聖霊のふるまい=純粋贈与=自然と誤解を与えかねないなのじゃないだろうか――まさかとは思うが、マルクスのように、その先に新しい共同体を考えているのであれば別だが――。

実際、巻末にある対談は冗談としか思えない解釈――例えば「聖霊」に職業人としての自分を置くような――がでてくるのだが、それをわざと中沢新一がしかけたとしても、この本を読んでそういう勘違いをされる方は続出するだろうなと思う――それじゃオームのときと変わらないじゃないか――。

聖霊が増殖するものであることの中沢新一的解釈(というかキリスト教的解釈だろうな)は、今でもちゃんと理解できないではいるのだけれども(まさにトリックなのである)、中沢新一が『愛と経済のロゴス』(p172、173)で示した下の図で、私は私なりに「三位一体」モデルの理解を試みてきた。

普遍経済学と三位一体のトポロジー 

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上が「全体性としての経済」(バタイユの普遍経済学)のトポロジーであり、下がそれに対比されるように書かれた「三位一体」のトポロジーである。ここではまだ、「聖霊」は左下の輪にあることで、「全体としての経済」では「純粋贈与」の位置にあることを示している。

私の理解では、ここでは「聖霊」は増殖するものではなく、「増殖させる力をもつもの」として描かれている。「聖霊」は自らを増殖するのではなく、「贈与」との交わりに「純生産」を増殖させ、「交換」との交わりに「資本」を増殖させる「純粋贈与」なのである。そしてそのことで、自らの存在を保つ。

90度づれている

しかし今回示された「三位一体のモデル」で、彼はこのトポロジーを左に90度回転させしまった。それを「全体としての経済」と対比させれば、いつのまにか「聖霊」は「交換」(資本の原理)の位置にいることになる(トリックだ)。そして「父」は「贈与」に、「子」は「純粋贈与」の位置になる。

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それは「聖霊」を資本の原理の動きとして解釈し、資本の原理に覆われた「今という時代」を表現するのなら間違いではないかもしれない。(しかしそれこそが問題ではなかったのか)。

「聖霊」は資本の原理が行う価値の増殖(つまり利息)のように、自らを勝手に増殖させているようにみえる。

象徴の貧困

ラカンのボロメオの結び目これにラカンの精神分析(ボロメオの結び目)を援用すれば、それ(資本の原理)は今や象徴界の位置にある。父(神)は資本の原理によって象徴界から追い出され、もはや想像界の位置にしか存在できず、子は無意識を彷徨う、欲望ならぬ欲情でしかなくなっている――それをしてスティグレールは「象徴の貧困」といったのだろう――。

それこそが問題であるのなら、「聖霊」の位置は本来の位置(つまり純粋贈与)に戻して考えるべきだと思うし(特にキリスト教が支配的でないこの国では)、「聖霊」はかってに増殖するものではなく、「贈与」や「交換」との交わりから、価値を増殖させるものと解釈した方が、思考のモデルとしては、(この国では)自然であるのように(私は)思う。

愛と経済のロゴス

そういうわけで、この本を読むなら是非、『愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュⅢ』は読んでおくべきだろうなと思う。

愛と経済のロゴス

愛と経済のロゴス―カイエ・ソバージュⅢ

中沢新一(著)
2003年1月10日
講談社
1575円(税込)