Web2.0の純粋贈与仮説。

午前6時40分起床。浅草はくもり。今朝は、昨日書いた「Googleの純粋贈与仮説-普遍経済学的アプローチ。 」を、Web2.0に適応しようとする試みの試みのようなものから一日をはじめてみたい(制限時間は午前8時30分まで)w。

Web2.0は、市場経済的にはバブルにみえるし、技術的にはAjaxと名指しされたものがその代表であって、(それは決して新しいものではないことで)――Web2.0の批判的議論の多くはこのあたりの枝葉論に終始している。

しかし私の興味はそんなところにあるわけもなく、Tim O'reillyが提示してみせた Web2.0 meme の文字通りミーム的な(つまり自己複製子的な)意味にある。その代表が「Radical Trust」(過剰な信頼)であり、それが私の最大の関心事になっている。

コモエスタ坂本氏は、『低度情報化社会』で、こんなふうに(あえて)いっている。

まず、Web2.0は次の3つのポイントだけで出来ている。
(1)ユーザーが参加できる
(2)膨大なデータをみんなで活用できる
(3)中央集権ではなく分散型
以上である。(コモエスタ赤坂:『低度情報化社会』:p155-156)

私はこれを否定はしない――確かにWeb2.0の特徴の一面ではあるが、これだけではWeb2.0の本質を捕らえきれていないだろうと(私は)思う。

無償

私はWeb2.0の特徴をもっと簡単に考えている。それは「Web2.0とは、(われわれユーザーからみれば)便利なものがWeb上で無償で使える」であり、サービスの提供側からみれば、「ユーザーが便利なものをWeb上でユーザーに無償で提供できる」普遍経済学ということだ。

つまりWeb2.0最大のキーワードは無償なのだと(私は)考えている。

つまり無償とは、「贈与」若しくは「純粋贈与」ということなのだが、多くの場合、ユーザーには直接的な見返りを求めていないことで、この無償純粋贈与のようにみえるのである。

「ただより怖いものはない」は、「贈与」に対しての注意勧告であり(お返しを求められる)、「純粋贈与」に関してはそれはない。

無償を支えるもの―収益構造

そんなわけで、私はIT系のスタートアップ企業がWeb2.0的か否かを判断する基準として、提供しているサービスが無償であるかどうかをまずみることにしている。 そしてもうひとつ重要な判断基準があって、それは収益モデル――つまり無償であることを支える、無償とは表裏の関係にあるもの(有償であるもの)である。

これに関しては意外と多様性はなく、多くの場合Google追随型でしかない――つまり広告料収入が主体だということだ。つまりこの〈無償/収益〉の二分コードモデルに Web2.0 が集中しているということは、先に書いた「Googleの純粋贈与仮説-普遍経済学的アプローチ。 」にすべては収斂してしまうということだ。

それはWeb2.0全体が、(外見上は)贈与-交換-純粋贈与という三位一体モデル(バタイユのいう「普遍経済学」)にあるということでもあるのだが、ここでの問題は「贈与」としてのインターネットとはなにものなのか、ということになるだろうし(「Radical Trust」の秘密はここにあるだろう)、この三位一体のモデルはどこまでバランスを保てるのだろうか、ということだろう――どれもが蝶番なのだが、それはインターネットの精神文化があってのことだ、といえないだろうか。

そして、その収益モデルの多くが、Googleモデルによって支えられることで、この世界(Web2.0)が成立しているのだとしたら、Googleは、まさに神の領域(ビッグブラザー)にいることになる。しかしその問題については、またあらためて考えてみたいと思う。