北海道深川市長が逮捕されたこと、もしくは贈与の対象を置き換えること。

北海道深川市長を逮捕落札業者指示容疑を認める

北海道深川市が発注した公共工事をめぐる談合事件で、北海道警は6日、落札業者を指示していたとして競売入札妨害容疑で、市長の河野順吉容疑者(68)を逮捕した。「間違いありません」と容疑を認めているという。市役所主導の官製談合に市トップが関与していたことが明らかになった。/調べでは、河野容疑者は6月にあった小学校改築工事の指名競争入札で、当時の建設水道部長広瀬康栄容疑者(59)=競売入札妨害容疑で逮捕=に指示し、旭川市の設備会社が入った共同企業体に落札させた疑い。(引用:Chunichi Web Press ) 

06110100.jpg今この国で起きていることは、魔女狩りの様相を帯びてきたように思う。それはもしかしたら贈与(的共同体性)というシステムの消滅を狙っているのかもしれないが、贈与の原理そのものは、人類のESS(進化的に安定的な戦略)であるがゆえに(つまり無意識的なものだ)、たぶんなくなりはしないだろう。

ただ、贈与の原理がおびえきって機能しない社会をつくってみたところで、三位一体(ボロメオの結び目)はその均衡を失うだけでしかない。つまり全体としての経済はなりたたない。

であれば、われわれは、新たな贈与のシステム(もちつもたれつ、お互いさま、ギブアンドテイク)を構築すべきなのだろうが、それは贈与の原理を組み替えることではない(そんなことはわれわれには無理なことなのだ)。必要なことは、贈与の対象としての純粋贈与の置き換えだろう。

そもそもこの国には、贈与の対象としての純粋贈与がない。純粋贈与とは、われわれからみれば、世話をすればお返しをしてくれるモノにしかみえない(つまり贈与でしかない)。今問題になっている事件は、それ(純粋贈与)を官僚とか政治家(知事や市長も含む)というような、お役所やある特定の人としていたことへの反省であろう。

それらは本来「公」であり、見返りを求めない純粋贈与(種の論理では「類」)でなくてはならないのだが、純粋贈与のないこの国では、いつのまにか贈与(「種」)化してしまう(ESS的にである)。

それが今表面化し問題とされているのは、国の財政事情(つまり今まで純粋贈与としてきたモノたちの原資の縮減)が大きいのはたしかだ(つまり公共投資は増えることはない)。

しかしわれわれが、これからも自らの仕事に誇りをもって、公共のための仕事に従事しようとするなら、ちょっとしたパラダイムシフトが必要だということに気が付くだろう。勿論それは、贈与の対象としての純粋贈与の置き換えでしかない。

つまりわれわれが贈与の対象として純粋贈与の地位に置くべきものは、今は地域社会でしかないだろう(それが贈与の対象に過ぎなくとも)。

では、そうであれば、われわれはなにをすべきかを考えなくてはならないのだが、この思考は、思考停止を余儀なくされてきた建設業界にはかなり難しいかもしれない。

すくなくとも私の一連の思考はそれを考えてきたに過ぎないし、私の「考える技術」は、この閉塞の打破のために考え出したものでしかないのだけれども。