我思わなくても我はあったりすること。

本日のアクセスログを見ていて、「ボロメオの結び目(ジャック・ラカン)」へのアクセスが、普段よりもぜんぜん多いことに気づいた。

それは自分でいうのもなんなのだけれども、普段は絶対にありえない数なのだ。(笑)

ボロメオの結び目ネット上で普段ありえないことが起こるとき、それは偶有性が働いていると(私は)考えている。

具体的には、どなたかが、(私の記事に)リンク若しくはトラックバックしてくれている、という可能性が高いということだ。

しかしトラックバック pingを受けた形跡はない。

であれば、(たぶん)リンクされているのだろうと、テクノラティの「Blogs that link here」を見てみた。そしたら アンカテ(Uncategorizable Blog) というブログの、「わかることから書き始めてわからなくなるまで書く」というエントリー内でリンクされていたのだ。(トラックバックしたとたんに Blogs that link here からは消えてしまったけれど……)。

essa さんありがとうございます。

感謝の意も含めて、「わかることから書き始めてわからなくなるまで書く」をちゃんと読ませていただいた。そのテクストの書き出しにある、

ちょっと前に気がついたのだが、ブログを書くコツは「わかることから書き始めてわからなくなるまで書く」ということではないかと思う。

というのは、そのとおりで、それはブログにおける自己言及の楽しさ、もっと簡単にいってしまえば、橋本治のいう『「わからない」という方法』がブログでできるよ、ということだろうと(私は)思う。

つまり、わかることから書き始めて、わからなくなるまで書いて、そのわからないをわかろうとする。

けれども、それは少しはわかったような気はするが、でもわかっちゃいないのよね、ということだろう。

それはなにか、江弘毅のいっている 「街的」ということ 的でもあるだろうし、先に 「私たちは自分の仕事をし、お金をため、ハイウェイを突っ走っているって思うしかないのさ。」で書いた、浅草という欲望の対象のことなんて、本当はよくわかっちゃいないのよね、ということだ。

そして、「Mobiusの1/2切断×2モデル。(法大EC’06第3回講座)」あたりで(今までさんざん)やってきたことなんだろうなと思うのだ――つまり「切断」若しくはキアスムにおける「実行」、若しくは「骰子一擲」。

つまり、反省の次元に対象を送るようなテクスト(ブログ)は、デカルトのコギト――我思う故に我ありに忠実な行為なのだけれど、人間っていうのは、我思わなくても我はあるのであって、その我思わない我が、どうしても表出してしまうことが、

自己言及する主体は、絶対に世界を完全に理解できないように、この世界は巧妙に設計されているのだ。

ということなのだろうと(私は)思う。

しかしそれは、偶有性を孕むことで、また楽しいことなのだとも(私は)思う。