再読―完本 文語文(山本夏彦)。

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何度も読み返す本がある。

山本夏彦の『完本 文語』はそんな本だ。

藤村詩集はあんなに読まれたのに口語自由詩になって以来詩は全く読者を失った、読者を失うと詩は難解になる。純文学も読者を失うと同時に難解になった。だから文語に帰れというのではない。そんなことは出来はしない。出来ることはは何々ぞと私はひとり問うているのである。(山本夏彦:『完本 文語』:p366)

完本 文語

山本夏彦(著)
2003年3月
文春文庫
560円(税込)

※私のもっている『完本 文語』は文庫版ではない。しかし、いつでも持ち歩けるという意味では、文庫の方がよいかもしれないなと思う。

ああ、そうなのか、と(お前のいっていることは難解だといわれ続けている)私はまた教えられる――しかしどうしていいのかはわからない。

口で語って分かるのが言葉である。文字は言葉の影法師だと古人は言った。もう一つリズムのない文は文ではない。朗誦できない詩は詩ではない。語彙の貧困を言うものはあっても、言い回しの滅びたのを惜しむものはない。「そんなにいやなら勝手にお仕」。(p:366)

穴があったら入りたいような気持ちだ。

文字は言葉の影法師であるなら、ブログは勿論、影法師である。

その影法師の集まりがWebではないか。

ましてや私の影法師は、リズムのない文は文ではないのだから、どうしようもない。

「もう一度勉強し直して参ります。」と言うことはできても、8代目桂文楽のように高座から引っ込むこともできない。

なにしろWebは高座しかないのだから。

毎日、懲りずに、恥をさらしているようなものか――バルネラブル。