方言としてのブログ―江戸語・東京語・標準語。

午前8時起床。浅草は晴れ。午前中、星の降る里ブログ(芦別建協)のメンテナンス。デザインは、とどさんのブログの構築を手伝ったことからのインスピレーションだ。なんとかパトリのブログとして育てていきたいと思う。それは方言のようにである。

本来、標準語と方言は対等の立場にあるべきものなのに、明治以降のの日本では、標準語は優れたもの、方言は劣ったものという誤った価値観を国民に植えつけ、さらに標準語を自由にあやつれる東京の山の手の人間は優れた者、そのことばの使えない地方の人間は劣った者という、まったく意味のない差別観を定着させてしまった。日本の標準語教育の根本的な過ちはここにあったのである。(p:320)

江戸語・東京語・標準語

江戸語・東京語・標準語

水原明人(著)
1994年8月20日
講談社現代新書
660円+税

方言とはパトリ(種)である。江戸時代まで、この国の人々には、国家という概念は薄かった。国とはせいぜい藩のことであり、それは最大規模のパトリでしかない。

と同時に標準語もない。そのため、江戸時代には、武士さえも方言を話したのだが、しかし、武士の政(まつりごと)では標準語は必要とされた。それが文語文なのである。

それは庶民にはあまり必要のないものであったが、方言と標準語(文語文)は、お互いにあるものとして共存してきた。

明治という時代の特徴は、近代化――つまり国家の概念の導入にある。

明治の最初は文語文の復活であった。それは西欧のことばを翻訳するための言葉としてだ。

しかし庶民にまで標準語――つまり国家という概念、を広めようとしたとき、文語文は高い教養が必要であることで、方言は劣ったことばとして排除された。

近代化は脱呪術化である。

とすれば、当時の近代化推進者にとっては、方言も文語文も、呪術のことばでしかなかったのだろう。

今思えば、なんともな、なのではあるが、それは近代化にヒステリックな時代であるがゆえだったのだから仕方がない。標準語が英語やローマ字にならなかただけまだましである。

その継承の中で育った私は、おかげさまで、標準語のようなものや、口語文は読み書きできるようにはなったが、文語文を読めない日本人となた。

だいたい樋口一葉が読めない。もちろんそれ以前の古典も、文語体で書かれたものは、読めない。

文語文はほぼ絶滅したが、それども方言がなんとか生き残っているのは、それが固有な土地の歴史、生活、体臭を持ったものだからだろう。

固有な土地の歴史、生活、体臭を持った方言と、ある一定の広い地域に通用する共通語と、全国共通語をさらに磨き上げた標準語と、さまざまなことばを使い分けることは、我々の言語生活の基本的なあり方である。そしてさらに、標準語も決して一つではないという認識を持たなければならない。

「あれもあり、これもある」その認識が大切である。それは単にことばの問題ではないのではないだろうか?(p225)

故郷に戻れば、私も方言をはなす――すぐに戻るのはなんとも不思議である。方言(パトリ)としてのブログというとき、それはなにも方言で書かなくてもよい。

それは、固有な土地の歴史、生活、体臭を持ったものであることで、方言(パトリ)なのだから。