「中心商店街影響じわり 盛岡・郊外大型店出店ラッシュ」という記事。

午前7時起床。浅草はくもり。

中心商店街影響じわり 盛岡・郊外大型店出店ラッシュ」(河北新報:登録制)

盛岡市内の流通戦争が激化している。2006年度に出店した大規模小売店は建設中も含めると11店舗に上り、売り場面積は前年の1.3倍に膨らんだ。中でもイオングループ2号店のイオン盛岡南ショッピングセンター(SC)は脅威で、影響は中心部にもじわじわと広がりだした。危機感を募らせる既存商店街では生き残りに向けた模索も始まっている。(盛岡総局・安野賢吾)

「これ以上、郊外の大型店は必要ない」「最終的に撤退したらどうするのか」。1月31日にあった岩手県中心市街地活性化懇談会。出店ラッシュによる影響を懸念する声は、消費者団体の委員からも上がった。

これに対しては以下のような意見はどうだろう。

どこで格差が広がっていると思いますか? 私は、買い物も便利になって格差は縮まっているようにみえますよ。(三浦展:「ダカーポ」2007.02.21:p150)

ファスト風土と下流社会

しかしこの言葉は、三浦展の皮肉でしかない。地方へ行って驚かされるのは、浅草に棲んでいる私なんかよりもはるかに、アメリカナイズされた(洗練された?)消費生活を皆さんが送られていることだ。

そこには地域間格差も、下流社会もないように見える。しかし三浦は「ファスト風土」と下流社会の根はひとつだと言う。「ファスト風土」とは――私の語彙では「ジャスコ化」とか「郊外化」のことだが、

大型店の出店規制が緩和された近年、地方の郊外農村部のロードサイドに大型店商業施設が急増し、その結果、本来固有の歴史と自然を持っていた地方の風土が、まるでファストフードのように均質になってしまった現象を言う。(同上)

そして、ファスト風土化した社会では自宅から車に乗って、大型店舗に行って帰ってくるライフスタイル(まさに若い頃に夢見たアメリカだよね)が形成されることで、「街的」が機能しない――つまりパトリは店や街路に宿るのに、そこには人がいないのである。J・ジェコブスだってこう言っているじゃないか。

短い言葉で表わすならば「信頼」ということである。街路に対する「信頼」は何年間にもわたって、おびただしい数にのぼる歩道でのちょっとしたつき合いから形成されてくるのである。「信頼」はバーでピールを飲むために足を止めたり、食料品店のおじさんから話しかけられたり、売店の売子に話しかけたり、パン屋で、買物に来た他の人とパンの品定めをしたり、ソーダ・ポップを飲んでいる男の子たちに「ハロー」と挨拶したり、「夕食の用意ができましたよ」と呼ばれるまで通りを通る女の子たちを眺めていたり、腕白小僧たちをさとしたり、金物屋の主人から商売の話を聞いたり、ドラヅグ・ストアのおやじさんから一ドル借りたり、近所の赤ちゃんをほめたりすることから生れてくるのである。その習慣は多種多様である。(J・ジェコブス:『アメリカ大都市の死と生』:p68)

そして、三浦はこう言うわけだ。

ファスト風土的環境で育つ子どもは、他者と直接コミュニケーションせず、自分の殻に閉じこもって消費するだけで、大人にならないばかりか、没社会的な人間、社会に対して無批判な人間になる危険があります。(三浦展:「ダカーポ」2007.02.21:p150)

つまりこれが、下流社会と同根なのだと。

私はパトリは護持すべきだと思う人なので、三浦の意見を大筋で支持できるが、これに対する反対意見もまた根強いことも分かってはいる。それは、地方でも都会と同じように消費の欲求を満たすことができることのどこが悪いのだ、と言うものだ。

消費者としての均質化

簡単に言ってしまえば、消費者として平等であってなにが悪いのか、ということだろう――この国の平等というのは所詮そんなレベルだ。しかしそれは資本の原理(交換の原理)の都合でしかない。

資本からすれば人々はすべて、コンシューマー(消費者)として均質な方がよい、と言っているに過ぎない――共同体の人々が何時のまにかに資本の代弁者になってしまっている。それに対して私は、交換の原理が僕たちを定義したに過ぎないということに気が付けばよいだけである、と言う(というか、そうとしか言えない)。

しかしそれで幸せだと言うのであるなら、(私は)何も言うことはない。ただ、私が浅草に棲んでいるのは消費のためではない。

―― ジャスコがないからである。
―― 街路に対する「信頼」が生きているからである。
―― その方が消費することよりも、ずっと楽しいからである。

J・ジェコブス 

アメリカ大都市の死と生

アメリカ大都市の死と生

J・ジェコブス(著)
黒川紀章(訳)
1977年3月1日
鹿島出版会
2310円(税込