平野啓一郎によるブロガーの5分類。(ウェブ人間論)

投稿日:

午前8時起床。浅草はくもり。

ウェブ人間論

ウェブ人間論』は、読み通しての全体の印象はなにか曖昧なのだが、パーツ的には、なぜか気にかかる考え方やフレーズがある。例えば今日紹介する平野啓一郎によるブロガーの5分類もそんなものだ。それを要約すれば以下のようになるだろう。(平野啓一郎:『ウェブ人間論』:p72~73)

平野啓一郎によるブロガーの5分類

  1. リアル社会との間に断絶がなく、ブログも実名で書き、リアリティがネット社会に反映されている
  2. リアル社会の生活の中は十分に発揮できない自己の多様な一面がネット社会に表出している
  3. 日記的なもの
  4. リアル社会で抑圧された語られることのない内心の声、本音が吐露する。ネットの中こそが「本当の自分」だという独白的ブログ
  5. ネットの中に新しい人格をつくってしまう

私によるコミュニケーション分類

この分類の中身について議論するつもりはない――当たらずとも遠からずだろう。同様の分類は私も既に(トポロジカルに)行っている。

基本的には、(日本人なら)インターネットにへその緒が繋がりさえすれば、いかなるコミュニケーションモデルであろうが、ブログは新たなパブリック空間の言説装置として機能する――つまりネット社会はパブリックになりえる、というのが私の仮説である。

デコード

閑話休題。私が平野の分類に注目したのは、対象をデコードするその態度においてである。平野は『ウェブ人間論』を読んでいても、思考の訓練をつんでいるのが分かる――芥川賞作家をつかまえて言うような言葉ではないだろうが――。つまり対象のデコードができるのであり、データ化をおこなっている。そしてそれは梅田望夫よりも細密なのだ。

平野エンコード―細密画

創造性このデコードの差が、創出されるもの――つまり〈梅田/平野〉のエンコードの違いを生み出しているように思える。平野は総じて悲観的であるように読めるが、それはデータを単に集計してエンコードをしているからのように思える。その意味で平野は、ちょっとだけ科学的であり、デカルト的なのである。

梅田のエンコード―略画

一方、梅田望夫は楽観的である(Radical Trust)――それは梅田が(インターネットを形成する)技術を信頼していることで細密画を描かないからだ。梅田の思考方法は略画的に対象を俯瞰するのである。その意味で梅田の「ネット世界」の理解の仕方は、「野生の思考」のようなものであり、「神話思考」であり、直感で多くを語っているに過ぎないかもしれない。

梅田的

しかしそれは梅田が対象をデコードしていない、ということではない。デコードは行っている――それは平野とたいして変わらない。ただデータの組み合わせ方――エンコードの方法が違うのである。――それは本当に些細な違いなのだが、表出してくるものはけっこう大きな違いとなってしまう。

つまりそれは梅田が平野よりも劣っているということではない。ただ違う思考方法(エンコードの方法)を使っている、ということだけである。そして梅田のような思考方法の方が、インターネットはよく見えるのかもしれないな、と(私は)思う。しかしその楽観性はいまだによく理解できていないけれども。(笑)

ウェブ人間論

ウェブ人間論

梅田望夫(著)
平野啓一郎(著)
2006年12月20日
新潮社
680円+税